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真理はあるか?分かれば我々は幸せになるか?

私は真理はあると思って求めていますが。 本当に真理は在るのでしょうか? 在るとすればそれを理解すれば我々は幸せになれるでしょうか? 幸せというか 僕的には目的を実現することができるかどうかですが 宇宙も滅びるとすれば それも無理ですねえ。 真理を知って我々は滅びて雲散霧消するのでしょうか? それとも真理と言えるものは 本当はないのでしょうか? ご意見をお聞かせください。

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回答No.6

真理というものをプラトン的に、どこか天にある永遠の真理とか、魂の不死だとか、永遠の愛とか、「イデア」のように考えているようですが、そんな真理があるのですか? いいかえると私たちは真実から隔てられ、目が曇らされているから、その障壁が取り払われたら、この世界の真実が露わになる、それが真理だということですか? プラトンは「国家」という著作の中で「洞窟の比喩」というたとえ話で「イデア」というものを説明していますが。 つまり、人々は洞窟の底で壁に映っている映像を見て、それが真実の世界と思っているけど、ある時、男が洞窟の上の方から光が射しているのに気が付き、洞窟の壁をよじ登って行ったら、頭の上に穴が開いていて、その穴から頭を出して覗いてみたら、光あふれる緑あふれた素晴らしい自然の光景が広がり、ああ、これが真実の世界だったのか、私たちが洞窟の底にいて、それが真実と思って見ていた壁に映った映像は実はニセモノに過ぎなかった、と気が付いた。 あなたの言い方でいえば真理というものが、この世界とは別なところにあり、私たちはその真理から隔てられている。 だからそのベールを取り払えば、真理が出現する、ということですか? それで真理が出現して、どうなるんですか? あなたの生き方が劇的に変化するとでも思っているんですか? 仏教でいえば「悟り」のように。 だけど哲学でいう真理というのは、それと比べると実に散文的なもので、「思考と存在の一致」というものです。 私の考えていることが、その対象と一致する、私の思考が対象に「的中」する、それが真理。 一致するときが真理と言われ、一致しないときは偽と言われる。 例えば「文・雪は白いという命題が真であるのは、雪が白い時に限る」という場合、「雪は白い」という命題が、現実に雪と照らし合わせて白ければ真、白くなければ偽と言われます。 でも、たいてい私たちはいちいち「雪が白い時に限る」なんて言いません。 単に「雪が白い」と言って、それでそれが真であることを含んでいます。 雪が白くなかったら、「雪が白い」なんてそもそも言いません。 もう1つ例を挙げれば、「そこに山がある」と言いますが、「そこに山があるのは真である」とは言いません。 つまり、「そこに山がある」という言明は、あらかじめそれが真であることを含意しているのです。 そこから英国の哲学者・フランク・ラムジーは「真理の余剰説」ということを唱えました。 いいかえると、私たちが何かを言明するときは、それが真理であることを同時に含んでいるわけです。 だって、間違っていると知っていることを、わざわざいう訳はないんですから。 このように真理というものは、もともと隠れているのです。 「思考と存在の一致」が真理だという考えは古い考え方で、古代ギリシャのアリストテレスが考えたもので、これを真理の「対応理論」と言います。 簡単に言うと、言葉とそれの示す対象が一致することです。 アリストテレスによれば、言葉とその示す対象が一致するためには観察と経験を必要とするものでした。 あらかじめ、言葉と対象が一致することを確かめてから、言葉を発すれば、それが真理であることは当然です。 だけど、あらかじめ言葉と対象が一致することを確かめなくても、真理だと言った哲学者がいました。 デカルト、そしてカントでした。 デカルトの場合、神が世界を、人間を創造したのだから、その神が「生得観念」として人間に理性を付与したのであり、人間の理性的認識は経験に照らし合わせることなく、先天的・ア・プリオリに真理だといいました。 思考とその指示する対象の一致は、神が人間を欺くことはあり得ないのであり、それを保証しているからだ、と。 それに対してカントは神の存在など信じていなかったけど、人間の認識はあらかじめ人間に備わった普遍的な「カテゴリー」によって、外界を認識するんだから、対象は人間の認識に従わなければならず、先天的・ア・プリオリに一致しなければならない、と言いました。 これは、古代ギリシャ以来の真理観に転回をもたらす、カントの認識論上の「コペルニクス的転回」でした。 以上、哲学でいう真理というのは散文的で、つまらないものですから、あなたの考えである「永遠の真理」というのと比べて、気に入らないかもしれません。 ひとつも神秘的ではないし、天にもないし、永遠不滅でもないし、単なる「文」の真理に過ぎないし。 もう一度お聞きしますが、「永遠の真理」というものはあるんですか? そしてそれが分かれば、幸せになれるんですか?

yuniko99
質問者

お礼

先生は哲学に通じてあるのだろうと想像しますが、先生ご指摘の >もう一度お聞きしますが、「永遠の真理」というものはあるんですか? >そしてそれが分かれば、幸せになれるんですか? は 私が質問していることであって 私に聞かれても答えを用意してはいません 先生のお話は勉強になりますが 仕方がないので私の意見を言わせて頂ければ 永遠の真理はあるだろう と思います。そりゃ未来に環境が変われば法則も変わるかもしれませんが 同じ状態であるならば(同じ状態というのもありませんが)同じ法則、理が存在すると思います。 ブラックホールの特異点に働いてる理と、人間の脳に働いてる理は同じものだと思います。 ついでに精神に働いてるりも同じだと思うのです。他人がどう思うのか聞いてみたかったのです。 幸せになれるかどうかは本当にわかりません。未来はもう決まってるとは思いますが 心理が分りかけたせいで、誤解から宗教対無宗教の核戦争が起きて人類が滅びるとか 真理を突き詰めたら(真理を全部認識することはできませんから)やはり人間は滅ぶということが否定しがたい実態だったりとか そこのところは私が皆さんにお聞きしているので分かりません。 どうもありがとうございます。

yuniko99
質問者

補足

ちょっと体調が悪いので また今度お礼を書きますm(_ _)m

その他の回答 (19)

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10005/12514)
回答No.20

再度、「お礼コメント」をありがとうございました。 >真理は、それを求める者の「心的態度の中に輝いてある」のだ、と考える次第です。 >と言う風には僕は思いません。 >真理は人の外にもありますし、中にもあります。いや 在るとすればですが。 ⇒そうかも知れませんですね。「真理は人の外にもある」でしょうね。でも、「輝いてはいない」でしょうね。 外部にある真理は多かれ少なかれ相対的なものでしょう。Aにとって真理であっても、Bにとっては違うかも知れません。大勢にとって真理であっても、全員にとって真理である、とはならないでしょうね。残念ながら、真理には、「絶対的真理」とか「普遍的真理」と言えるものはありませんよね。 ですから、外部にある真理は、少なくとも私にとっては、輝やかないのです。真理と事実とは全然別ものだと思いますが、私にとっては、外部にある真理は事実に近いもののように感じられます。それは、ただ、「ある」だけで、輝いていません。 それに対して、自分で、「金のわらじ」を履いて探しあぐねた結果得た真理は、美しく輝いているように思うのです、そう感じるのです。 以上、主観的な内容で恐縮ですが、再々伸まで。(不一)

yuniko99
質問者

お礼

普遍的真理 と言える様なものはないですか? それは残念です どうもありがとうございます。

  • 177019
  • ベストアンサー率30% (1039/3444)
回答No.19

「真理はあるか?」私はあると思っています。ただそれを理解しただけでは幸せにはなれません。私は仏教徒ですが、やはり真理と修行が必要です。僧侶だけが修行するのでなく我々信徒も同じように修行しなければ、幸せという境涯には到達出来ないと思います。ただそれぞれに幸せの価値観の違いはあります。それを正しく方向に変えて教えて下さるのが僧侶であるのです。私達、信徒はこの混迷した世の中に働く凡夫の一員です。その働く場にあってある人は、自分の会社の業績をもって向上させたい、またサラリーマンならもっと給料を上げて欲しいと誰もが願うのが当然でしょう。この真理と修行が正しいからこそ、徐々にその目的が達成されるのです。貴方がいう地球は滅びるか?滅びません。また生命も永遠です。自分が老いて「死」を迎えたとしても、次の新たな生命として地球のどこかに誕生します。

yuniko99
質問者

お礼

成る程 仏教的解釈ですね。心理はあると思う ですね。 僕もそう思います 僕も修行が必要ですね どうもありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.18

こんばんは。 >「未来永劫に真理は変わらないのでしょうかねえ?」 「真理」の定義次第かと。

yuniko99
質問者

お礼

その様ですねえ。また言葉の問題です。 「真理」という言葉が 実際には何を意味しているか そこから違ってきますね。 「真理」の定義しだいですね その通りですね。 どうもありがとうございます。

noname#210533
noname#210533
回答No.17

では、あなたを幸せにするものを あなたにとっての真実、と倒置して見よう。 その方がシンプルであなたも納得しやすい。 私はとりあえず、遅い昼食を外にピザを食べに 娘と出かけようと思う。 それも真実だと思うよ。 一杯の白ワインも真実に加えようと思う。 食事のメニューを固定したら話にならない。 真実というものも、本日のメニューと同じような 物だと思う。 季節によっても地域によっても、レストランに よってもそれは異なるのだから。 色んな真実を召し上がれ。 長い午後のシエスタを楽しめ。 人生はとてつもなく長く、そして儚いんだもん。

yuniko99
質問者

お礼

いい感じですねえ しかし私の考える真理とは違うような気がします。 ちょっとお洒落な真理ですねえ^^ すみません どうもありがとうございます。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10005/12514)
回答No.16

「お礼コメント」をありがとうございました。 >真理と言うより むしろ真実 と言われてるものかと思います。 >人間が最善を尽くして営為の中に真理と呼べるものはある >真理を求めるなら人間的なものになる と言う事でしょうか? ⇒そうですね。「人間は人間に生まれるのではない。人間になるのだ」と言われます。人間になるとき、人間になろうとするとき、そのときの模索的営為の中にこそ、真理が光るように思うのです。 それともう1つ。 以前のご質問「哲学に正解はあるか」に対してお答えしたこととダブルように思いましたのであえて控えていましたが、やはり地でお答えしたく、以下「哲学的探求対象としての真理」という観点から申しあげます。 真理認識の方式として3つの立場があると聞きます(対応説・整合説・プラグマティズム)。しかし私としては、いずれをとってもピンときません。「はい、これが真理です」というような具合にあるものではないと思うからです。「宝島がある」とか「埋蔵金がある」のとは、全然違うあり方だと思います。 「隠されてある」というニュアンスに似通った臭いがあるかも知れませんが、個人的な用語法でもっと厳密に言えば、「真理とは、あるものではない。それは、考えるものである。求めるものである。感じるものである」ということではないでしょうか。まして「普遍的真理」とされるようなものともなればなおさらです。 それはまさしく、ユートピア(どこにもない場所)です。虹の向こうの虹です。憧憬を抱きながら探し、見つけたと思ったら実はもっと向こう行っているのです。でも、それが大事だと思うんです。憧憬を抱きながら探すことです。そしてそれこそが、人間になろうとする営為にほかならないと思います。 ヒュームは言ったそうです。「美は、それを内包する事物の属性ではない。その属性としてそれが持っているものではない。それを見る者の心の内に存在するのだ」と。この「美」を「真理」と置き換えても同じではないかと思います。真理は、それを求める者の「心的態度の中に輝いてある」のだ、と考える次第です。 また、セネカは言ったそうです。「どこへ行くべきかを知らぬ水夫にとっては、順風などはない」と。真理は、「求める者にはある」のでしょう。「求めない者にはない」のでしょう。その意味で、質問者様の心情に共感し、祝福申しあげます。 以上、再伸まで。

yuniko99
質問者

お礼

真摯に考えてある証拠だと思いますが >真理は、それを求める者の「心的態度の中に輝いてある」のだ、と考える次第です。 と言う風には僕は思いません。 真理は人の外にもありますし、中にもあります。いや 在るとすればですが。 真理は求める者に在る という言葉に共感します。 どうもご親切にありがとうございます。  

noname#207138
noname#207138
回答No.15

こんにちは。 結構解答が付きましたね。 読むのが少し面倒で途中で止めようかと思いました(笑) どなたかが書かれていましたが、洞察が最も大切なものの一つだと思います。 思考は滑り止めみたいなもの。 「知識は勉強によって、知恵は観察によって得られる」と誰かが言っていました。 私もそう思います。 そして、私はなおそれに加えます。 「知識は人生に必ずしも必要ではないが、知恵は必要不可欠である」と。 これは、勉強よりも観察の方が大切だと言う意味です。 よほどのバカで無い限り、観察を忍耐強く続ければ知識に勝る知恵が得られるはずです。 その知恵によって得られた知識を学ぶのは知識を見いだした本人以外の他人からしてみればそれは宝でしょう。 しかし、その宝も知恵がなければ働かない。生かさない。むしろ破壊と死をもたらすだけに終わる事も多いでしょう。 洞察はそれが昇華されれば直感と言えるのではないかと思います。 直感に至った時には洞察であれ思考であれ別の世界と思えるほどの隔たりが生じるので比較しようがないのですが。 我々が普段身近にあるもので最も直感に近いとすればそれは洞察だと思います。 しかし、人は自分を認めたい。何はともあれ自分を良しとしたいのです。 ですから、真理では無い単なる「事実」に真理と大そうな呼び名をつけて喜びますがその実単なる事実です。 昨日オムライスを食べたとかその類いの事実と何ら変わりません。 現在の自分の”考え”の及ぶ範囲で武装したいのだからその辺りが関の山と言う訳です。 しかし真実と事実は違います。 お分かりのようですよね。 人は自分と一致するものを認めたがる傾向がありますから、真理に属さない向かわない人は真理に属する人向かっている人とは合わないでしょう。ある程度のレベルに至るまでは。 真理を知るというのは、真理に至る道を知ると言う事です。 それを知るものは知恵を得ていますから、小卒だろうが博士であろうが同レベルです。 それを知る人は観察と慎重な情報処理、それに必要な忍耐や犠牲の大切さを知っているでしょうし、他人のそれを恥としないでしょう。 しかし聖書にはこうあります。「予言者でも虐げられれば狂う」と。 事実キリストでさえ周囲の人たちの信仰の弱さ、今風に言うとレベルの低さに虐げられるような気になったのでしょうか。 「いつまであなたたちと一緒に居なければならないのか」と嘆いています。 つまり、優れた知恵を備えている人でさえもあまりに愚かな人たちに囲まれると気が変になってしまいそうになる。 そんな時に知恵が十分に働いているはずもありません。 つまり、何にしろ「観察」が必要なのです。 生まれもって読心ができたり、その場に立ちこめる意思を読み取ったりする能力を備えている人は居ます。 でもそんな人たちでもやはり知恵を働かせるためには観察と確認は必要です。 真理は人を幸せにしますが、同時に労苦を与える事も少なくないのかもしれません。 真理を知らなければ、つまり真理に至る道を求めなければ感じる事の無い労苦です。 でも、真理の無い命は死んでいるも同然と考える様になります。 労苦があろうが幸福感が無かろうが、真理は人を幸せにするのです。 ドーパミンが多量に分泌される事が幸せなのではなく、笑顔で楽しく軽やかに過ごす事ができる事が幸せなのではなく、真理と共にあり、知恵を友とし、愛を妻/夫とする事が幸せなのです。 キリストがこういう事を言っています。 「狐には穴があり、鳥にはねぐらがある。しかし私には枕するところも無い。」 これを現代社会で生じている事実だとしたらどうでしょう。 既に幸せの定義が必ずしも世間一般の定義と重ならないんです。 それが心底解っていれば真理は確実にその人を幸せにするでしょう。 要は「信じる度合い」「理解している度合い」です。

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.14

真理は、「まことのことわり」という意味です。 ことわりを学ぶ学問を「理科」といいます。 法則というか、成り立ちというか。宇宙には法則があって、宇宙全体も、地球も宇宙の法則にしたがって動いています。その法則を約束事を、知っていくことです。 真実を、本当のことを追究していくと、真理という海に出ます。この世そのもののことですね。 相田みつをさんの作品や、須永博士さんの詩からも、「人は良くなっていくようになっている」ということが見えてくると思います。 例えば、人とぶつかると、それきりになってしまったり、新たな情が生まれたり。それは、星と星がぶつかりあって、壊れてしまうことや、新たな星が生まれることにも似ています。太陽を中心にして太陽系の惑星が回っているように、人もリーダーを中心にしたほうがうまく、回っていきます。他の惑星や岩石、チリに至るまで、すべてが大切で必要ということです。 宇宙から学ぶ、というか、目に見えないものの中に、本当のことがあります。

yuniko99
質問者

お礼

仰ること分かりますが 私が中学生か高校生なら 成る程と思うでしょうけど 実際に人間は真理をまだ見極めていません。物理学も仮説だらけです 本当に真理があるだろうと思う というのは僕も同じですが 本当にあるかどうかはまだ分からない のでは ないでしょうか? それを知って幸せになれるかどうか?宇宙も終わるという本もあります。 エントロピーが増大し切ってこの世が終わる。そのようなストーリーならば 知らない方が幸せではなでしょうか?? どうもありがとうございます。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.13

"本当に真理は在るのでしょうか?"   ↑ あるかもしれませんが、あっても人間には 解らないと思います。 自然科学における真理だって、科学が進歩すれば ころころと変わります。 これが真理だと信じても、それは思い込みに過ぎない かもしれません。 真理だと確認する方法がありません。 ”在るとすればそれを理解すれば我々は幸せになれるでしょうか?”      ↑ アメリカンプラグマティズムの旗手デューイは 否定していますね。 真理が何か役に立ったことがあっただろうか。 真理などより、悪いことをしていたやつが しなくなった。 そういう身近なことの方が大切だろう、ということです。

yuniko99
質問者

お礼

成る程 一理在りますねえ。 前半はまさにそうです しかしだからこそ質問しているのですが 後半は今のところそうでしょうね しかし私の願うのは真理によって全てを理解しコントロールして永遠への存在を実現することです。 永遠は到達できませんが 目指すことはできます。 どうも大変ありがとございます。

  • Key_A
  • ベストアンサー率9% (55/603)
回答No.12

質問者の言う「真理」の定義は? まさか鋼の錬金術師は関係ないよねw まあ、国語辞典どおりの意味合いと仮定して回答しましょう。 科学の法則なんかは大概、「真理」に該当しますが、それを活かせるか どうかで幸福か不幸かは全く変わります。火を巧く扱えば暖もとれるし 料理もできる。間違うと火事になる。幸不幸は現状をどう活かすかであり、 真理は現状そのものとすれば、真理と幸福には何の関係も無い事になります。 「真実なんて一銭の価値も無い」昔、そんな言葉を聞いた事があるが、 実際そう思いますよ。

yuniko99
質問者

お礼

そうですか 私は もし真意というものがあるならば それを利用して我々が幸せになる可能性があるか そうなる傾向があるか と言う事を質問しました オウム真理教とかの教理とかが邪魔をしますが 真理を知ったら 私の想像では 人間がどのような指向性を持つものなのか 人間は何のために生きているのかが分かるのでは?と思うのです。 「真実なんて一銭の価値も無い」? 真実に値段は付けられません。 どうもありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.11

yuniko99様、こんばんは。 >「真理を知って我々は滅びて雲散霧消するのでしょうか? それとも真理と言えるものは 本当はないのでしょうか?」 なるほど。そうですねえ。 >「わかれば、我々は幸せになるか?」 「自由自在」なら、。

yuniko99
質問者

お礼

自由自在ならそれは幸せかもしれませんねえ 雲散霧消したら・・・真理も在るのか無いのか分からなくなるのでしょうか? それとも未来永劫に真理は変わらないのでしょうかねえ? どうもありがとうございます。

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