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真理はあるか?分かれば我々は幸せになるか?
私は真理はあると思って求めていますが。 本当に真理は在るのでしょうか? 在るとすればそれを理解すれば我々は幸せになれるでしょうか? 幸せというか 僕的には目的を実現することができるかどうかですが 宇宙も滅びるとすれば それも無理ですねえ。 真理を知って我々は滅びて雲散霧消するのでしょうか? それとも真理と言えるものは 本当はないのでしょうか? ご意見をお聞かせください。
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真理というものをプラトン的に、どこか天にある永遠の真理とか、魂の不死だとか、永遠の愛とか、「イデア」のように考えているようですが、そんな真理があるのですか? いいかえると私たちは真実から隔てられ、目が曇らされているから、その障壁が取り払われたら、この世界の真実が露わになる、それが真理だということですか? プラトンは「国家」という著作の中で「洞窟の比喩」というたとえ話で「イデア」というものを説明していますが。 つまり、人々は洞窟の底で壁に映っている映像を見て、それが真実の世界と思っているけど、ある時、男が洞窟の上の方から光が射しているのに気が付き、洞窟の壁をよじ登って行ったら、頭の上に穴が開いていて、その穴から頭を出して覗いてみたら、光あふれる緑あふれた素晴らしい自然の光景が広がり、ああ、これが真実の世界だったのか、私たちが洞窟の底にいて、それが真実と思って見ていた壁に映った映像は実はニセモノに過ぎなかった、と気が付いた。 あなたの言い方でいえば真理というものが、この世界とは別なところにあり、私たちはその真理から隔てられている。 だからそのベールを取り払えば、真理が出現する、ということですか? それで真理が出現して、どうなるんですか? あなたの生き方が劇的に変化するとでも思っているんですか? 仏教でいえば「悟り」のように。 だけど哲学でいう真理というのは、それと比べると実に散文的なもので、「思考と存在の一致」というものです。 私の考えていることが、その対象と一致する、私の思考が対象に「的中」する、それが真理。 一致するときが真理と言われ、一致しないときは偽と言われる。 例えば「文・雪は白いという命題が真であるのは、雪が白い時に限る」という場合、「雪は白い」という命題が、現実に雪と照らし合わせて白ければ真、白くなければ偽と言われます。 でも、たいてい私たちはいちいち「雪が白い時に限る」なんて言いません。 単に「雪が白い」と言って、それでそれが真であることを含んでいます。 雪が白くなかったら、「雪が白い」なんてそもそも言いません。 もう1つ例を挙げれば、「そこに山がある」と言いますが、「そこに山があるのは真である」とは言いません。 つまり、「そこに山がある」という言明は、あらかじめそれが真であることを含意しているのです。 そこから英国の哲学者・フランク・ラムジーは「真理の余剰説」ということを唱えました。 いいかえると、私たちが何かを言明するときは、それが真理であることを同時に含んでいるわけです。 だって、間違っていると知っていることを、わざわざいう訳はないんですから。 このように真理というものは、もともと隠れているのです。 「思考と存在の一致」が真理だという考えは古い考え方で、古代ギリシャのアリストテレスが考えたもので、これを真理の「対応理論」と言います。 簡単に言うと、言葉とそれの示す対象が一致することです。 アリストテレスによれば、言葉とその示す対象が一致するためには観察と経験を必要とするものでした。 あらかじめ、言葉と対象が一致することを確かめてから、言葉を発すれば、それが真理であることは当然です。 だけど、あらかじめ言葉と対象が一致することを確かめなくても、真理だと言った哲学者がいました。 デカルト、そしてカントでした。 デカルトの場合、神が世界を、人間を創造したのだから、その神が「生得観念」として人間に理性を付与したのであり、人間の理性的認識は経験に照らし合わせることなく、先天的・ア・プリオリに真理だといいました。 思考とその指示する対象の一致は、神が人間を欺くことはあり得ないのであり、それを保証しているからだ、と。 それに対してカントは神の存在など信じていなかったけど、人間の認識はあらかじめ人間に備わった普遍的な「カテゴリー」によって、外界を認識するんだから、対象は人間の認識に従わなければならず、先天的・ア・プリオリに一致しなければならない、と言いました。 これは、古代ギリシャ以来の真理観に転回をもたらす、カントの認識論上の「コペルニクス的転回」でした。 以上、哲学でいう真理というのは散文的で、つまらないものですから、あなたの考えである「永遠の真理」というのと比べて、気に入らないかもしれません。 ひとつも神秘的ではないし、天にもないし、永遠不滅でもないし、単なる「文」の真理に過ぎないし。 もう一度お聞きしますが、「永遠の真理」というものはあるんですか? そしてそれが分かれば、幸せになれるんですか?
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- Tefu_Tefu
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こんばんは yuniko99さん 最近、真理を一つ発見しました。 思惟する哲学者は偉い(人間は尊い存在である。)ということです。 =「天上天下唯我独尊」(自分という存在は誰にも変わることのできない人間として、生まれており、この命のまま尊い。)と同じかもしれません。 そう思うと、少しだけ幸せな気持ちになれるようです。(^-^)
お礼
真理の一点、一法則でも 真理と言えるんでしょうねえ 人間は尊い存在でありたいですねえ 殺し合いなどしないでもらいたいです 人間は尊い、自分も尊いと思えれば幸せでしょうね 成る程どうも大変ありがとうございます。
- a_hona
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・実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みのやむことがない。堪え忍ぶことによって、怨みはやむ。これは永遠の真理である。(ウダーナヴァルガ) 例えばこのような句が、真理と私は聞いています。 そして、こういうことが真理なのだと思っています。 それは観察によって明らかになるものだと思いますが、物理を見出すのではなく、人間観における真理もまた、観察によって見いだされるのだと思われます。 真理を見通した人はしあわせになると考えられます。その人は他の人をも真理に近づけるのではないかと考えられます。
お礼
嗚呼 お礼が消えてしまった。 つまり 堪え忍ぶことによって、怨みはやむ。これは永遠の真理である。 これが本当なら アメリカも各国もイスラム国を怨むのではなく 耐え忍んで 話し合いに持ち込まなければならない 僕も実はそう思っています 話はそれましたが 真理というのはその様なものを言ってる訳ではありません もっと100%間違いない 理性や合理の求める因果律、法則です。 ただ >真理を見通した人はしあわせになると考えられます。その人は他の人をも真理に近づけるのではないかと考えられます。 と言うのは頷けます。そうだと良いなと思います。 どうもありがとうございます。
- slowcat9152
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こんばんは。 真理とは、私達が生きている世界のあるがままの姿を、できるだけ正確に理解することだと、僕は思っています。普段、我々は、言葉というものにとらわれすぎていて、目の前で起きている現実を、なかなかそのままの姿で理解することができないのです。何かを観察するときに、過去の記憶や、感情といったものが干渉し、観察それ自体を歪めてしまっているのだと思います。ですから、真理というものを理解するためには、まず、こういった「言葉」の世界を越える必要があるのです。真理というものに到達するためには、まず、「言葉を越えたもの」を受け取ることができるような精神状態に、到達していなければならないのだと思います。 どのようにして、そのような精神状態に到達することができるのでしょうか。この際、「どのようにして」というのは、一定の方法、あるいは習慣があることを、意味しています。真理というのは、生きたものだと思います。習慣に陥るような心は、決して、真理の新鮮さ、強烈さに、付いていくことができないでしょう。それぐらい、真理を理解することというのは、膨大なエネルギーを使うことなのです。 では、真理というものを理解する上で、我々に何一つ打つ手が無いのか、というと、それもまた違うように思います。僕は、J.クリシュナムルティという人の本をよく読むのですが、彼は晩年、「思考」に代わる(彼は、生涯にわたって「思考」というものを否定的に見ていました)人類の道具として、「洞察」というものを挙げていたようです。 この、「洞察」というものがどのようなものか、僕もまだ測りかねているのですが、彼によれば、「洞察」によって人は、瞬時にして物事の全体像を知り、その本質をつかむことができる、とのことです。そして、洞察は過去の記憶を洗い流し、未来にとって本当に必要なものだけを残す、とも述べているようです。 蛇足になるかもしれませんが、「洞察」について、僕が考えていることを書くと、それは、ひとつの物事を最後までやり通す、ということではないかと思っています。誰しも、個人的に抱えている、心理的な問題というものがあるものですが、それに対し自分の全エネルギーを傾け、一点を見つめたまま最後まで問題に向き合っていくと、いずれは、その問題の最終点と思える地点にまで到達します。人が物事を全体的に見れるようになるのは、おそらく、その瞬間以外にはないのではないかと僕は思っています。それにより、クリシュナムルティが言うところの「洞察」が起こり、過去の「傷」はきれいに洗い流され、そして、その目の前には、「言葉を越えた世界」が広がっている、ということなのではないか、と思っています。そして、その世界こそが「真理」そのものなのです。 ご参考になれば。
お礼
成る程 そう言う風に上手く行けばそれに越したことはないですねえ。 思考と洞察はどこが違うのでしょうか?禅の様なものでしょうか?直感でしょうか? 洞察ができる状態に至らねば分からないのでしょうね 確かに真理は言葉では表せないですねえ。僕も存在性思想など考えましたが 言葉の問題でなかなか伝わりません。 真理はあるということですね 幸せにもなれののでしょうね どうもありがとうございます。
- 雪中庵(@psytex)
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「存在=真理」ではない。 意識とは独立した外的な存在は錯覚であり、真理とは そうした現象表面的な有限性を、本質的な無に還元する 過程である。 即ち、原理的な光速性(超弦=量子定常波)を階層現象 表面的に(いい加減に)捉える事によって派生する非 光速性における、自我仮説(時間的流れ=記憶=過去= 超光速)と空間仮説(空間的広がり=予測=未来=光速下) の相補分化としての、「宇宙=心」としての自覚化。 そうして、自己存在の本質に根差した、自我成立のため の必要としての最も深い環境認識における自律的生は、 生きる事自体による最大充足を可能にする。
補足
存在=真理と書いたことはありませんが 考えは分かるように思いますが 何で無に還元しなければならないのか? 真理に近づく認識が深まれば 生きることが充実し幸せになれる と とって良いのでしょうか? どうもありがとうございます。
- Nakay702
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チェスタトンという作家は、「真理は、それが議論の対象になると同時に、独断に一変する」と言ったそうですが、以下の私の回答はまさにその例に洩れず独断そのものです。あらかじめご了承をお願い致します。 哲人オルテガは、「己の見たものを他者の見たものと接合することによって、神の視点(すなわち真理)に肉薄できる」(=パースペクティヴィズム)と言いました。これと同じような内容を、弁証法的唯物論も提言しました。「人間の把握する真理は不可避的に相対的となるが、しかし、我々はその相対的認識を通して限りなく絶対的真理に近づいていく」、と。 おっと、引用ばかりですみません。実は、上述はいずれも「自前の真理」を掴むための前提・基本条件として重要である、と日頃から考えております。具体例で考えてみましょう。余命幾ばくもないガン患者がいます。医師は、正直に告知をすべきか否か悩みます。患者本人の考え方や性質や好み、家族の意向、病期と治療回復の可能性、QOLとの関係…などなど、もろもろ考え合わせて、どうするかを決めます。 結果論的に言って、そこでは告知するも、しないも、苦渋の選択だったに違いありません。真に患者や家族の幸福を考え、願っての決断であってみれば、それこそが「真理」と言えるものではないでしょうか。「うそも方便」とも言います。その場合、言葉は確かに嘘でした。しかし、言葉や行動、配慮や思いやり、苦悩や決断…、そのもろもろを総合した人間的営為の中にこそ、「真理」があるのではないか、と、そう考える次第です。自前の真理は、「人間学的収穫」だと思います。
お礼
そういう見方もできますね それは真理と言うより むしろ真実 と言われてるものかと思います。 人間が最善を尽くして営為の中に真理と呼べるものはある もともと真理は知られてない訳ですから 真理を求めるなら人間的なものになる と言う事でしょうか? どうも大変ありがとうございます。
小悟、大悟などあります。 勉学の世界ですら奥にきりがないのに真理に終着点があるはずがありません。 小悟の段階であれば人格と言いますが、思考傾向的なものは保たれるかもしれません。 でも、大悟を一度でもすればそれは思考傾向に壊滅的な崩壊をもたらします。 よくいう古い自分を脱ぎ捨てて新しい自分に生まれ変わるというものです。 今着ている服がボロボロになり、困っていたところに新品のきれいな服が与えられたら 誰も迷わずに古い服を脱ぎ捨てて新しい服を着るでしょう。 今私たちが「私自身だ」と考えているものはこの服に相当します。 自己欺瞞、痛々しい言い逃れ、止まない過ぎた言葉、etc これらは言ってしまえば単なる癖のようなもので、癖は変わります。 では人格とは、個性とは一体何かとどんどん内に内に観察を深めて行けば行くほど自分と言う形なんか無い 事に気づいて行くと思います。 雲散霧消する自分など始めからなく、存在した事も無い。 しかし、悟りや真理に興味が無い人はボロボロの服を好んで着たいのです。 異臭を放ち、その不潔な服には自分にも害を及ぼす菌やウィルスが沢山ついており、迷惑極まりないから洗ってほしいと 思ってもその人はそのボロを着つづける権利を主張して決して新しい服を着ようとしません。 ここに対立が生じます。 先に書きました様に、もともと存在しないものを必死で守ろうとする行為は結局のところ無に帰すだけです。 始めから最後まで実は無なのですから当然です。 これをもっと社会的な規模で表現すると無とは荒廃です。 荒廃に向けて邁進するのが無の傾向です。 この無は命、つまり秩序、すなわち発展と同居しています。 無には存在など無く、そこに生存している生命体が居るならそれはつまり命であり、秩序であり、すなわち発展だからです。 ところが、意識の重心が無に置かれているか、命に置かれているかで進む方向が自動的に決定し、本人の自覚とは関係なくその結果の方向へと進みます。 居眠り運転で交通量の激しいところを進んでいる状態に酷似しています。 助けようと叫んでもその声は届かない事も多いでしょう。 自分が困るからと退く様要請してもその理由を理解されないので、いぶかしげな目で見られる事もあるでしょう。 悟りが中途半端だとこうしたギャップに苦しみます。 しかしここを経ないと本当に達観と言える悟りには至れないのか、そうでもないのか、私には解りません。 しかし、その中途半端な悟りですらこの世の全てを捨ててでも得たいと思う魅力に溢れています。 存在は実に甘美であり、美しく、正に命と呼ぶにふさわしい愛と呼ぶにふさわしいものです。 しかし、キリストでも、恐らく仏陀でも1日24時間1年365日常にその境地に居る訳では恐らくありません。 少なくとも実際キリストも「いつまであなたたちと共に居る事に我慢し続けなければならないのか」と嘆いていますし、死ぬ直前には深い悲しみに包まれています。 しかし、それでも自らの命の全てを捧げて信仰を持ち続け、真理を守りつづける。 真理にはこういった魅力があります。 私は宇宙と人との関係を知りませんが、宇宙が滅びたとしても人は滅びないと思います。 命とはそういうものだと思います。
お礼
難しくて分かりにくいですが 最後の二行がいいですねえ 私は大悟した訳ではありませんので その境地は分かりませんが 回答者様の言う古いボロ着を着て着替え様としない人が多いのは頷けます。 無と言うのもよく分かりませんし、真理を守り続けるといっても 回答者様も書いておられる様に 真理は分からないのですから 守り様がありません。求道するのみです。 分かったり分からなかったりですが どうも有難うございます。
- titelist1
- ベストアンサー率25% (712/2750)
私も真理はあると思っています。たとえば釈尊の教えの因果と言うのは真理だと思っています。「その結果には原因がある」「その原因のために結果がある」と思っています。このことを若い時に知り多くのことを助けられました。 結果が良くない時にはその原因を知ろうとしました。そしてその原因を摘み取ることで次には良い結果をもたらすことができます。また、良くない結果が次ぎの結果の原因にならないように、手立てを講じておくのです。その甲斐があってか、幸せに暮らしています。 真理にそって物事を考えることは正しいことですが、必ず幸せになれるとは限りません。原因を知ってから知らなければ良かったと思う人もいるでしようが、私は知ることが喜びなのです。生物学や医学や天文学にも興味を持つのはそのためです。そして知りたいことは精神の本質や生物の起源や宇宙の始まりと終りなどです。
お礼
成る程 真理を知ること自体が喜びな訳ですね 求道既に道である と言う事でしょうか。 真理を知って滅びると分かるなら 朝に道を聞かば 夕べに死すとも可也。という訳ですね 筋が通ってますね どうも大変ありがとうございます。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
>真理はあるか?分かれば我々は幸せになるか? 真理はあります。 分かれば我々は幸せになるかどうか、一概に言えません。
補足
真理はあると経験から直感してあるのでしょうか? 幸せになるかどうかはわからない。そうですよね。滅びると分かるのは嫌ですよね。 平気な人もいるでしょうけど。 成る程どうもありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんばんは。 依然としてケイジジョーガクなんですね。 1. 《真理》というのは 《非知なる神》の属性として付与される概念・理念です。 2. 絶対もしくは擬人化して絶対者であるなら 何でも知っているし何でも出来ると想像されて行きます。 3. その真理です。ラプラスの魔とかいう話もあるようですが この場合の真理とは何かと言えば 《――この世の因果関係からまったく自由であるゆえに――その因果関係のすべてを初めから終わりまで 端から端まで知っている》という意味内容になるものと思われます。 4. もう少し現実的に話せば 《おれは あいつに対してどうも馬が合わない。そう言えばあのときあの場で ああいうトラブルがあったなぁ。どうしてうまく行かなかったのだろう?》といったような問題について もし真理の立ち場に立って世界を見渡すなら かんたんに あの発言が間違っていたとか あいつのあの発言をおれが勘違いしてしまったのかとかのように ただちに原因が分かるわけです。 5. それどころか つねに相対する相手に対して その過去の経歴から人となりから何もかも真理の視点に立って分かるなら そのコミュニケーションがうまく行かないわけがないと言ってよいほどではないでしょうか。 6. つまりいわゆる〔シュウキョウ抜きの〕さとりとしては 《真理がすべてにおいてすべてである》状態であり そういう境地に成るとき 真理があたかもわれなる人間と一体である(梵我一如)と言われるものと思われます。 7. 真理はあるか? 神はあるか? と同じ問いですが 有るとも無いとも それが人間に分かるか分からないかは 分からないのではないでしょうか。 8. 主観にあっては おれは分かったと言う人が出て来ます。おれは 神を見たという人が出て来ます。おれは 真理の神を感じると言う人には 言わせておくしかないでしょうね。
お礼
成る程確かに真理が分かったら当面我々を幸せな方向に向けてはくれそうですね しかしあるかないかは分からない。 それもそうかもしれません。 ・・・・どうもありがとうございます。
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お礼
先生は哲学に通じてあるのだろうと想像しますが、先生ご指摘の >もう一度お聞きしますが、「永遠の真理」というものはあるんですか? >そしてそれが分かれば、幸せになれるんですか? は 私が質問していることであって 私に聞かれても答えを用意してはいません 先生のお話は勉強になりますが 仕方がないので私の意見を言わせて頂ければ 永遠の真理はあるだろう と思います。そりゃ未来に環境が変われば法則も変わるかもしれませんが 同じ状態であるならば(同じ状態というのもありませんが)同じ法則、理が存在すると思います。 ブラックホールの特異点に働いてる理と、人間の脳に働いてる理は同じものだと思います。 ついでに精神に働いてるりも同じだと思うのです。他人がどう思うのか聞いてみたかったのです。 幸せになれるかどうかは本当にわかりません。未来はもう決まってるとは思いますが 心理が分りかけたせいで、誤解から宗教対無宗教の核戦争が起きて人類が滅びるとか 真理を突き詰めたら(真理を全部認識することはできませんから)やはり人間は滅ぶということが否定しがたい実態だったりとか そこのところは私が皆さんにお聞きしているので分かりません。 どうもありがとうございます。
補足
ちょっと体調が悪いので また今度お礼を書きますm(_ _)m