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正誤や原理にこだわると真善美がわからなくなる?
正誤や原理にもとづくと、必ず逆説を考える人がでてきたり、アンチ正ででたらめや偽の正など生み出す人もいます。部分的な正もあります。 理想主義的に性善の人ばかりではないので、そうなのかと思ってます。 情報や正論、主張などの真偽などどうすれば、偽を排除して真善美の生活ができるんでしょう? 一つは頭を使うかそれを机上の理論と頭を否定してみるかではなく、心かとは思ってますけど。 自分の周りに偽が多くて省きたいとすると真善美ってどう把握するんでしょう? 心の動きを大事にしたり、気持ちを描いてみるとかでしょうか? 美を感じるのも共感でしょうから。
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>正誤や原理にこだわると真善美がわからなくなる(? ) そんなことはありません。おそらく真善美をひとまとめにして考えているからでしょう。これらはそこそこ守備範囲が違います。そこをわきまえることです。 真 は絶対者(神ではありません)にちかづくことで、勉強すればするほど良く見えてくるものです。いっぱい勉強しなければなりません。科学がこれに一番近い学問です。 善 は社会の中で鍛えられるものです。歴史と小説をたくさん読むことである程度身につきます。 美は 上記2つよりも狭いけれど一番肉体に近いものです。あなたが分からなくなったら、これを参考にするのがいいでしょう。 偽にまどわされることはなくなると思います。 ご参考まで。
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- 雪中庵(@psytex)
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「真善美」とひとくくりにしているが、『真』は「正誤や原理に こだわる」事そのものだ。 後の『善美』は、社会的な価値や個人的な感性といった “評価”が関わって来るので別物だ。 そこに於て、「個人的な感性」における自己チューさと、 「社会的な価値」との間に生じるギャップを埋めるのが、 お金や出世といったアメ(馬車馬の目の前のニンジン)や、 法規や正義といったムチなのである。 意識は、肉体に付属した感覚器官に依存して発生するが ゆえに、当初は自己中心的な傾向を持つ。 それが、物理学的な自我仮説と空間仮説の相補分化や、 環境との物質循環、分業化における自己の生の社会的 拡張といったものの自覚化=『真』による自律的社会行動 (助け合いとしての労働)に於て、社会的必要(善)と精神 的最大充足(美)は一致し得るのだ。
- stmim
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真善美はパーソナルなものです。 何かが絶対的に正しいとは言えません。時代、文化、社会経験の影響を大きく受けます。 pkuobe99さんからすると他の人の真善美がでたらめに見えるかもしれませんが、その人にとってはそれが正しいのでしょう。ご自身からみると周囲が偽に見えるかもしれませんが、それは単に考え方の違いだと思います。 お互いの真善美を尊重しながら、pkuobe99さんご自身が思う真善美を追求するのがよいと思います。
- Key_A
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真善美とは一体何か? その根本を考えましょう。 誰の言葉かは知らないが、真実には一銭の価値もない、というのがあります。真実とは定理と同様、存在しているだけであり、運用する者によって価値を変える。それ自体はプラスでもマイナスでもない。しかし美醜と善悪には、そのものに価値が生じる。 即ち、真善美そのものが破綻していると考えるべきではないか。
- mshr1962
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理想論ではあるけど、はっきりいって無理でしょう。 十人十色、多種多様、蓼食う虫も好き好きと言いますけど 多数派・少数派の違いはあっても、真偽・善悪・美醜といったものは、 地域・時代が変われば逆転することは多いです。 一時的に偽・悪・醜を排除したとしても真・善・美の中から、また偽・悪・醜が出てくるのも 時代の理でしょう。 無理に排除を重ねることで、逆にあなたの方が偽・悪・醜と分類されるかもしれません。 『清濁併せ呑む』『必要悪』という言葉もまた、必要なのだと思います。 許容できる限界点を作るというのはありだと思いますけどね。。。
偽を排除ですか・・・・・ 其処が間違いだと悟る事が出来れば良いだけです・・・・ 全人類が あなたの分身や あなたの家族だと考える事が出来れば 「排除」等の考えには絶対にならない・・・ まずは もっともっと 自身を磨いて下さいね・・・・