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若者の哲学離れは良い事なのか?否か?

最近の若者は思想がないようです。 哲学とか言うとなんか気持ちの悪い話の様に思う人が多いようです 我々の頃は倫理社会という教科で哲学の話も勉強しましたが 今は現代社会にほんの一部紹介されてる程度で 根本から人生や世界を考える姿勢は見られません。 情報だけは溢れるように在る様で PCどころかタブレットやスマホで 色んな情報が手に入ります。 このような状態では 政治がまた戦争もやると言えば それに反論する思想はないかもしれません。 公明党まで自民党の路線に反対できません。 もう哲学は不要なのでしょうか? 理想などいらないのでしょうか?

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  • a_hona
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回答No.10

そう言えば選挙権を18歳に引き下げるという話、ありますね。それが可能な程教育が浸透しているかは疑問です。 時代の要請、確かにあるでしょう。多様性を認めるだけでは片付かない問題が山積しています。かといって、統一見解に頼るというのもはばかられます。人はそれぞれに見出したものに価値を置きたいものですし、個人を大切にしたいというのが風潮でもあります。 世界に通用する、そう言うスローガンこそ怪しげで、本物はローカルだろうがグローバルだろうが、関係ないと思います。 ところで、先日、ハッキング集団アノニマスが、イシスに宣戦布告をしたようで、あー、こんなことも起こるのかと思った次第です。善悪観念の入れ替わりの時代に来ており、何が善しとされるのかが不透明な時代です。命を大事にしよう、そんな事を言いながらも世界の格差は是正されません。本当は、たった一つの自分の命と、数十億の他人の命とを天秤にかけるような不当な感情にさらされているのです。平等とは聞こえがいいだけで、それを叶えられるのは聖人ぐらいなのです。 人間性の育たない教育プログラムは、はっきり言って糞です。人道的な事をもっと考えられるようにしてあげなければなりません。一人一人が社会を、世界を形作っているのです。どの様な世界が人間に相応しいのか、突き詰めなくてもある程度のヴィジョンを描けなければ良い世界はやって来ないでしょう。 世界を良くするのは明晰な頭脳ではなく、こころなのであるということを理解せねばなりません。 生活と人生は異なるものであり、人生を考えるならば、思索は必要でしょう。しかし、思索がこころを育てるのかと言えば、それにはハイと答えることはできないと思います。何によってこころが育つのか、それは人によって異なるであろうからです。例えば、ある年齢を越えたら大人になれるかと言えばそうではありません。何をしたからこころが育つのかというのは、定まってはおらず、ただ、こころを育む人と、こころを蔑ろにする事態があるのです。育む人は何をきっかけにしても善良になるであろうし、そうでない人は何をきっかけににしてもひねくれてしまいます。自らこころを起こし、負のスパイラルから抜け出さない限り。

yuniko99
質問者

お礼

成る程。 気合が入ってますねえ。 確かにと思うことが多いです。 どうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (17)

回答No.18

yuniko99さん こんばんは。 理想主義のyuniko99さんに対し、哲学が大いに栄えた、古代ギリシアの歴史と日本の現状という視点で、現実的な回答をしようと思います。 古代ギリシアのアテネにおいて、yuniko99さんのようなソクラテスがいた時代は、アテネがスパルタとの戦いのペロポネソス戦争に敗れ、従来の価値規範(ノモス)が通用しなくなった頃でした。 ですから、アテネの若者は、年寄りの道徳規範など、何も役に立たないとして、弁論術に長けたソフィストとして、言いたい放題の主張をした。自己の弁論術を磨くことで、アテネにおいて政治家などの重要な地位を得ることができた。、ソクラテスも若い頃は、そのソフィストの一人であった。 何か今の日本に似てませんか?右肩上がりの経済成長は頭打ちとなり、年功序列による出世、老後は年金で優雅に暮らそうなどということは、少なくとも中年の私たちの世代は、もはや夢物語で、さらにグローバル化という競争社会が押し寄せ、めまぐるしく移り行く世界情勢を考えながら、物事を考えないと、新しいヒット商品を産んでも、すぐに日本国内の会社でなく、世界中の会社によって淘汰される時代です。協調性がうまい日本において、いきなり個性重視などと高らかに唱って、世界標準にあわせようとする。 このような現実の中、yuniko99さんは、私たちより、さらに若い人達に何が真実と説きますか? ソクラテス、プラトン、アリストテレスの功績を簡単に言うと、「道徳」とか「絶対善」を哲学的に考察したことです。まさにyuniko99さんは、理想主義者として、これを自己に問いかけながら、この哲学カテに投稿していると思います。私は、現在の、迷える日本において哲学的な、このような作業は必要と考えてます。 しかし、もう少し、ギリシアの歴史を進めて見ましょう。ギリシアはその後、アレキサンダー大王によって統合されヘレニズム時代を向かえました。 しかし、紀元前323年にアレキサンダー大王がなくなると、また統一国家が乱れ、社会は不安な状態となった。ギリシアの人々はソクラテスのいた時代のような、静かに思索する時間もないほど現実問題に迫られ、個人としていかに生きるべきか悩んでいた。 その時に出来た哲学が、ストア派とエピクロス派。 特徴としては、哲学を「実生活」に適用できるように、道徳に重きをおいた、ソクラテスの時代と違って「感情」や「意志」に重きを置いた。 ストア派は「節制」を重視し、自然法則に沿った、感情を抑制し、心を動かさない生活を説き、エピクロス派は単に欲望を満足させるだけでない「快楽」を重視し、精神的に平静な満足した生活を説いた。 温故知新が大切と私は思いますが、yuniko99さんは、現在の日本は、古代ギリシア時代における、どの時間にいて、何が大切と思いますか? IT mediaの哲学カテに投稿、回答する時間がないほど時間に追われ、経済的等の現実問題に直面し、哲学などを考えるなどという余裕もない人が、ちまたにあふれていると思いますよ。 私はこの、IT mediaの哲学カテにおいて、大いに議論し、今後の日本社会が世界の人達が、ひともく置くような社会にするために哲学をすることは必要と思っており、この点では、yuniko99さんのような理想主義です。 まあ、この投稿と回答はデジタル化され保存されると思いますから、我々の子孫が、先祖にも、まともな人がいて国を憂えていた人がいたんだなぁ。と思わせるようにしましょう。

yuniko99
質問者

お礼

アメンホテップ2000さんは随分考えてあるようですねえ 私は政治や世相については言いたいことを言ってるだけで 哲学的裏付けで言ってるわけではありません。言論の自由です。 私の哲学は原論だけ在って、具体策が今思い浮かぶはずがないというのが正直です。 具体策は僕の性質進化論、存在性思想という原論を知って 具体的にはそれぞれの場面で判断してもらうしかありません。 存在するものはエネルギーに個性を与える「存在性」という性質を無数に持っていると その無数の性質で存在をせめぎ合っていると しかし生命と精神の進化の仕方は全く違うので 生死の世界に弱肉強食的な過剰競争を持ち込むのは程ほどにすべきだと思っています。 生物は生命を守り、人間は精神をを守るために生命を守っているのです。 人間の主体は精神です。精神は脳の性質と環境の相互作用です。 私はいま国を憂えています。情報はあっても哲学がない 根性はあっても求道がない。 若い人たちが少しでも人間とは何で、精神とは何で、真理はあるのかないのかを 考えてくれればいいがと思っています。 アメンホテップ2000さんが仰る通り、未来の人に役に立てるようなものを継承しておきましょう。 どうも大変ありがとうございます。

回答No.17

 こんにちは。  ★ 最近の若者は思想がないようです。  ☆ 《思想》って 生きることですよ。生活態度です。    生活している人なら 例外なく誰にでもあります。よ。  ★ 哲学とか言うとなんか気持ちの悪い話の様に思う人が多いようです  ☆ そんなことは どうでもよろしい。  《最近の若者》は 誰かに《思想がないようです》と言われても 平気の平左ぢゃないですか。  それ以上に・それよりもより悪く 他人の言うことをあなたは気にするのですか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  我々の頃は倫理社会という教科で哲学の話も勉強しましたが  今は現代社会にほんの一部紹介されてる程度で  根本から人生や世界を考える姿勢は見られません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういうことは 《根本から人生や世界を考える姿勢》を人びとに見せているという実績を持ってからにしてください。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  情報だけは溢れるように在る様で PCどころかタブレットやスマホで  色んな情報が手に入ります。  このような状態では 政治がまた戦争もやると言えば  それに反論する思想はないかもしれません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 他人の目の上のおが屑のことは 放っておいて ご自分の目の上の梁をどうにかすべきでしょうね。    ★ 公明党まで自民党の路線に反対できません。  ☆ だから どうなのかのご議論をどうぞ。  ★ もう哲学は不要なのでしょうか?  ☆ すでに生きている人なら 哲学を持っています。何の心配も要りません。  やがて社会がどんでん返しを迎えるようになったら 地から湧き出て来ます。草莽の志士が出ますから。  ★ 理想などいらないのでしょうか?  ☆ もし理想を持っているのなら それを理論立ててみなに明らかにしてください。そちらが先決です。  何を悠長なことを言ったりやったりしているのですか。よっぽどひまなのですね。

  • kurinal
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回答No.16

こんばんは、Ano.9です。 >「武勇伝ですか。 存在こそが目的。存在こそが価値。存在こそが意味の根拠。存在こそが正義の根拠です。 その個性あるエネルギーが存在存続する為に 存在性をより多く持つことです。 そうしないと生きていけません。 しかし生命と人間は進化の仕方が全く違います。 人間が動物の真似をするのは大概にしておく事です。 生物は生命を守るために生き、生命の体を持つ人間の主体は精神ですから 人間は精神を守るために生きているのです。 精神のない人間では困ります。」 なるほど。 「人間とは何か」について、もう少し詳しく、ご説明いただければ。 >「人間は組織と意識でエントロピーを減少させ、永遠の未来に向かう存在を実現しなければ 40億年の生命の魂に対して申し訳が立たない。 ブラックホールの深みと宇宙の彼方の果の世界が 人間を誘ってくれることでしょう。」 そうなんですか。 「人間なんて、自滅する」てのも見ましたが。 >「年寄りのヒガミと言うのは・・・私のことですか?(^^ゞ」 「お題」ですので。

yuniko99
質問者

お礼

人間とは何か よく人間は道具を使うとか言葉を使うとか直立歩行するとか 色々言われますが 人間の主体は精神であって その精神を実現するために人間の体が在り、人間の道具が在り 人間の作った車や家 そして環境さえも人間化されているのです。 つまり人間とは人間精神を守るために体や道具や服や家や道路や田畑を活用し人間化したもの 道具や服や車や家や道路やビルや田畑や檜や杉を植えた森も 人間の一部とも言えるのです エントロピーの話は 仰る様に自滅するという説もありますし 私もそうならないとは言えませんが 様々な引力に拠ってエントロピーは減少するはずです。引力がなければ全てがバラバラに消し飛んで エントロピーはMAXになることでしょう。 引力があるから循環して物質などを組織しているのです。 その様な組織化と意識によるコントロールでエントロピーは減少し 永久機関が実現し エネルギー吸収型リサイクル宇宙船ができるのです。 それが在れば、宇宙で独立して生きて存在して行く事も出来るのです。 どうも大変ありがとうございます。

noname#207785
noname#207785
回答No.15

そもそも哲学離れなどしているでしょうか? ぼくはむしろ哲学が昔より好かれていると感じます。 現に自己啓発ブームです。 昔はただただ大企業に入るのがいい。 いい車に乗るのがいい。 持ち家がいい。 金を稼ぐのがいい。 という非常にわかりやすい価値観でした。 ところが不景気になり、努力してもうまくいかない、働いても希望がない、大企業も潰れ安定がない。 となることにより、いい思想を求める傾向は増えたように感じます。 実際、ぼくが働いてた図書館でも、自己啓発書はかなり多かったです。 自己啓発なんてのは、まさに「しあわせとは?成功とは?いい生き方とは?」を問うている人生哲学です。 あなたがおっしゃる哲学とはソクラテスなどの古代の哲学者のことをおっしゃっているのではないでしょうか。 たしかにそこからは離れています。 でも、それは哲学から離れたわけじゃない。 それに昔の哲学書はわかりにくい。 言葉遣いも今とは違うし、同じ日本語でも意味がわかりません。 よく年寄りが「古典を読め」とか「わかりにくいからこそ頭を使える」とか言いますが、ぼくは賛成できません。 わかりやすさって大事だし、難しいことをわかりやすく伝えるほうが頭使うんです。 それに年寄りが若者にやいやい言うのは歴史の流れです。 「オレは苦労して哲学を勉強したのに」というやっかみにさえ聞こえる。 そういう意味であなたのおっしゃる哲学者離れ(哲学離れではない)は、今の若者が進化した証だと思っています。 哲学離れなんて起こっていない。 単に哲学の伝わり方が変わっただけです。

yuniko99
質問者

お礼

成る程 これはいい。 まずい青汁は嫌だというわけですね^^ 僕もまずい脱脂粉乳は飲みたくなかったですよ。10人中9人は嫌いだった。 しかしそれが敗戦の味だったことに今頃気付かされます。 確かに過去の哲学者の文献を読んで訳の分からない造語で「存在者と存在」とか言われても 分かりませんわね。 アニメやSFの方が哲学的だったりします。 そういう意味では若者も今のメディアで考えているのでしょうね まあ自己啓発を若者が呼んでるかどうかわかりませんが 35歳まで若者とすれば 人生のメリハリを付けようと努力しているでしょうね。 しかし それなのに社会はなかなか良くならない。個人の力ではなかなか 哲学というのは徹底的に考えることです。真理を希求することです。 私の知ってる最近の思想系というのは・・・エヴァンゲリオンとかマトリックスとか 小説やゲームにも哲学はありますねえ。 ソクラテスは良い事言ってます。アリストテレスも孔子も仏陀もイエスも それらが古いと捨てるなら、ルソー、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ゲーテ 宮沢賢治、ダーウィンまとめて捨てるなら。惜しいと思いますがねえ。 どうもありがとうございます。

回答No.14

フランスでは高校で哲学が必修科目です。 それに日本の学校は先生が講壇の上から一方的に話すだけで、生徒はそれを聞くだけで、討論する機会はほとんどないけど、英米の高校でも大学でも、先生を囲んで、時には円陣を組み、盛んに意見を出し合って議論しています。 だから誰でも、自分の独自の見解を持っていて、それを表明するのが当然のようにみなされていて、自分の意見を、見解を持っていないと、周囲からバカにされます。 つまり、個人の自発性とか自主性を重んじる社会なのがよく分かります。 日本の場合は「和が大事」で、周囲の人間より独自であることよりも、同じであることが求められているように思います。 こういう風土では、到底哲学なんて持てるわけがありません。 日本は周りの人の顔を窺い「空気を読んで」、自分の意見をコロコロ変える国民性だから、自分独自の見解などなくて、中身は「空っぽ」、道徳も基準がない。 その点、西欧人は自分の中に確固とした基準なり、独自の見解があるから、他人がどうあれ、自分が正しいと思ったら、他人の迷惑なんか構わず、自分の信念を貫く、そういう西欧人は日本人から見ると実に身勝手に見えるけど、西欧には個人の身勝手を許容する精神風土があって、むしろそれを尊重します。 日本人の母親は決まって子供に「何をしてもいいけど、周りに迷惑を掛けないようにしなさい」と言います。 それって、道徳でも何でもない、要するに周りによって自分の行為とか道徳をそれに合わせなさいと言っています。 個人の自主性とか自発性を重んじない社会なんです。 あるいは個人の自発性・自主性を疑っていて、信じていない社会なのです。 やっぱり、個人の中に神だとか、そのような宗教的背景がないからなのか、と思います。 日本人にはそのような神だとか、道徳の中心がない。 付和雷同とか、聖徳太子の「和を以て尊し」とか、事大主義とか、「出る杭は打たれる」とか、「人の足を引っ張る」とか、「衆寡敵さず」とか、日本人はみんなと同じであることが尊重され、独自であることが尊重されない風土。 稲作民族と狩猟民族の違いだと言われたこともあります。 稲を耕すためにはみんなで共同しなければならないのに反し、狩猟の場合は自分の技量が大切で、われ勝ちに獲物を追いかける。 西欧の文法では主語が欠かせないのに反し、日本語文法では主語がない。 だから西欧人は自我とか主体が確固としてあると思われ、日本では中心が「空っぽ」だから、自我とか主体は無と思われている。 西田幾多郎が「無の場所」とか「絶対矛盾的自己同一」と言ったのも、その日本的な考え方に由来する。 日本人には「中心」がない、「無」。 周りだけあって、つまり述語だけあって、主語がない。 ロラン・バルトは「記号の帝国」で、東京という都市には「中心がない」と言いました。 西欧の都市には中心に広場とマーケットと市役所と教会があり、時計塔がありますが、東京の場合、中心の皇居は深い森に覆われ、中身が見えない、隠されている、中心が空っぽに見える。 東京という都市は日本人の「心性」と同じ構造になっている。 日本の都市は、西欧のような都市ではなく、村が拡大したもの、大きな村に過ぎない。 西欧の昔の古い都市は城壁で囲まれていて、農村とは切り離されていますが、日本の場合、都市が城壁で囲まれていることはなく、農村と地続き、都市と農村の境目が分からない。 フランスのパリにしても、オーストリアのウィーンにしても、古い時代には城壁で囲まれている城塞都市だった。 その後城壁を壊して道路にしたから、パリにしても、ウィーンにしても環状道路というものができている、それは昔の城壁の名残り。 日本ではお盆だとかお正月になると、みんな田舎に帰ります、都市は「空っぽ」になり、閑散とします。 要するに田舎者が都会に集まっているだけ、東京は大きな田舎です。 日本人の心は江戸時代と変わらず「村落共同体」にあります。 「村落共同体」の「掟」は、「周りに迷惑を掛けない」、「周りの空気を読んで合わせる」ことです。 そんな社会で、どうして個人が尊重されたり、自主性が尊重されたり、哲学が必要とされたりするでしょうか? 周りの反対を無視してまで、自分の信念を貫くような人間が育つでしょうか? 私はひじょうに懐疑的です。 戦後の60年代から70年代を過ごした学生は思想があると言われているけど、それも流行に乗っただけで、当時は、私もマルクス主義にかぶれましたが、別に哲学・思想があったわけではありません。 周りがみんな、それをやっていたから、流行に取り残されまいとやっていただけで、若者に哲学・思想離れがあるのは今に始まったものではないと思います。 今の時代が哲学・思想の流行がないというだけです。 日本人は昔の今もぜんぜん変わっていません。 江戸時代と同じ「村落共同体」の「村人」、「農民」。

yuniko99
質問者

お礼

私も学生をやめて社会にドロップアウトした時に 「みんなと同じようにしないと・・・」と諭されました。 中学でもみんなと違ったので 高校ではみんなの仲間になろうと 部活に入りました。 しかしやっぱりダメで。生徒会でも一人気を吐いたのですが 笛吹けど踊らずです。 日本人は我慢が凄いです。言いたい事があっても我慢、不正があっても我慢 パワハラやセクハラも我慢しないと大人じゃない、協調性がないと言われる。 しまえには「お前責任を取って腹を切れ」と言われたら 切らなければならない国でした。 自殺を強要する国です。 町内会の組長を決めるのでも、誰もなりたくないから 誰も手を上げない 30分間 ジーーーーっと沈黙に耐え 我慢できなくなった人が手を挙げる 我慢大会です。批判も名指しではしない。遠まわしに真綿で首を絞めるように 嫌味を言ったり無視したり、意地の悪さときたら世界でも珍しいくらいです 嫁いびりの伝統もありますし 忍の一字。雉も鳴かずば撃たれまい 見ざる言わざる聞かざる。どっちがいい?と聞かれたら「どっちでもいいです」 自分の好みさえ言えない。 そういう暗黙の懲戒があって 世間話は揶揄に満ち 菊池小平さんは死んでもラッパを離しませんでした と美談になる。 哲学をすると孤独ですねえ。哲学をする友達はいません。 たまに哲学をする人と議論してもまるで考えが違うので議論にならない 今の若者はラインとかゲームに嵌ってますねえ 取り敢えずつながっていたい、返事が来なかったら「無視された」と言う。 私も親が哲学科は絶対にダメだ 金は出さん!という事で 教育学部に行ったのですが 全然馴染めませんでした。 みんな快活に話すかと思っていたら 受験の燃え粕のような顔をして 「校内暴力で採用試験には武道が有利らしい」と言うんで皆で少林寺拳法を始めた 僕はついて行けなかったなあ・・・ それでドロップアウトして12000円のアパートに住んで哲学を始めました。 教師もテキストも学友もいない たった一人の哲学マニア 我流のみ・・・ まあ日本にはいませんねえ 役に立つのかどうかもわかりません どうも大変ありがとうございます。

回答No.13

古来、多くの人が地上を歩きそれなりの哲学を大事にしてきましたが、人間って頼りないというか弱さでしょうか。どんな素晴らしい哲学でも生死にまで貫くことは難しかったですね。 殆どの人はどんなに素晴らしい哲学の洗礼を受けても、もっと大事なものが別にあったようですね。 当初からそんなものを蹴飛ばしていた権力者や、その志望者=斎藤道三=(https://www.blwisdom.com/strategy/series/rekishi4/item/9921.html)。 別の生き方を選択していった人=小西行長=(https://www.blwisdom.com/strategy/series/rekishi4/item/9990-04.html?mid=w497h90100000493369) 人にとって哲学とは飾りか、趣味か。いい分か。 どこまでそれで生きていけるか。 近年の青年たちの哲学に対する態度や位置も、昔や我々(私は78)とはあまり変わらない。 もっと透徹して人生を見つめている。 今の若者がどうという意味はあまりない。 特攻や戦争中の軍国主義的青年が哲学を持っていたか?大事にしていたか。 それは怪しいものである。つまり彼らに本然本拠での冷静な自己があったとは必ずしも言いえないであろう。

yuniko99
質問者

お礼

特攻に行くのに哲学したら・・・どうなるんですかねえ 生きるべきか死すべきか・・・死すべき。 何に命を懸けるのか・・・お国の勝利と家族の無事のため 自分の将来は 敵を殺すために死ぬ 哲学になりませんねえ いや成っているか。余りに明瞭です。 しかし 死んではその先何もできない。家族とも世界とも自分ともお別れ 悲惨です。 哲学というのは人生観、世界観を考えること 広義には何でも考えることだと思います。 子供のように何故?何故?と考えていけば 何時かは誰も教えてくれない核心に迫ります それからが問題です。生活もあるし幸せもあるし恋もあるかもしれません。 己の直感を信じてそれを貫き通してことを成せばそれもよし 考え考え 考え抜いて 石橋を叩き壊すのもまた良しです。^^ どうもありがとうございます。

回答No.12

>最近の若者は思想がないようです。 子供の頃、70年代の大学紛争から赤軍派の自滅、 反動としての三無主義の蔓延を見て来た私にとって、 感慨深いコメントです。 戦後、(生きるためだとはいえ)自分たちで国を立て直す 実感のあった時代から、次第に政治=国のかじ取りが ブラックボックス化して、自分たちの手から離れていく 焦り=社会への不満が社会人の労働運動や学生の大学紛争 として噴出したのです。 その結果、公権力に鎮圧され、思想的な事はタブーな 雰囲気となり、三無主義や投票率の低下といった参政意識 の無さにつながったのです。 哲学=自分の感じている環境認識であり、社会思想=自分 がどのように生きるかの指針である。 そうしたかじ取りを他人に任せるという事は、他律的に 生かされる歯車となるという事だ。 確かに自然界には、遺伝的に分業化し反射的に社会行動を とるアリ型の進化と、認識により多様な行動をとり分業化 するヒト型進化の、両方とも存続しており、一概に優劣は 語れない。 しかし、人は意識できないもので幸福感を感じる事はない。 人の生きる真の目的である「精神的充足量の人生を通算し た最大化」において、どちらを選択するかは自明だ。 お金や出世といった“馬車馬の目の前のニンジン”によって 他律的に生かされる歯車人間において、認識によって生じ た宇宙は希薄化し、喜びの中に消滅していく。

yuniko99
質問者

お礼

ちょっと詩的でもありますねえ。 成る程、成る程。アリは哲学はしないのでしょうねえ 人間は意識出来るもので幸福を感じる。 存在すれば良いんじゃないでしょうか?存在できれば嬉しい 存在できないと悲しい。 存在の充実 存続の確信。何でこんなに可愛いのかよ 孫という名の宝もの♪ 存続を脅かされると深爪しただけで辛い。風邪引いただけで大変。 つつが無く 活き活きと 元気で明るく在れたらいいなと 苦しく暗い時代を耐え忍ぶのでしょう。 人生に恥は多いが 真理を目指す精神は尊い。 どうもありがとうございます。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.11

"最近の若者は思想がないようです"   ↑ かつて、大学に行く人は一握りで、エリート でしたからね。 50%以上が大学に入る今では、エリート 意識など無いでしょう。 それに、資本主義だ社会主義だ、というイデオロギー 論争にも決着がついたし。 つまり、思想を必要としない時代なのでしょう。 ”根本から人生や世界を考える姿勢は見られません。”      ↑ それをやろうとした社会主義があの様ですから。 社会主義が生んだのは、貧困と独裁と、自国民の 大量虐殺でした。 白けるのは当然でしょう。 そんな大それたことよりも、自分の身の回りを 少しでもよくすることに集中しよう、という傾向になるのは 仕方がないことだと思います。 ”このような状態では 政治がまた戦争もやると言えば それに反論する思想はないかもしれません。”       ↑ 哲学が盛んな時の方が、戦争やっていたんじゃないですか。 ”公明党まで自民党の路線に反対できません。”      ↑ 公明党は信者を増やしたいだけです。 だから韓国への布教に熱心なのです。 お得意さんだから韓国よりなのです。 あそこには哲学なんてありませんよ。 信者を増やして金儲けしたい、というかつてのカトリックと 同じ路線があるだけです。 ”もう哲学は不要なのでしょうか? 理想などいらないのでしょうか?”     ↑ 理想を打ち立てて、それに向かって進もう、という 哲学は不要です。 害悪ばかりが目立つからです。 人間は天国を創ろうとしては、地獄を創って来たのです。 哲学や思想というのは、人間の為に存在するのです。 それを、理想云々とやると、まるで哲学や思想の為に 人間が存在するかのように錯覚してしまうのです。 社会主義がその例です。 現実の人間に哲学や思想を合わせようとしないで、 哲学や思想に人間を合わせようとする。 だから、悲劇になり、地獄になってしまうのです。

yuniko99
質問者

お礼

人権というのも思想ではないでしょうか? 人権が啓蒙されなかったら 酷い世の中になっていたのではないでしょうか 民主主義と言うのも一つの思想では? 大雑把な考えですが 社会をより良くしたようにも思えますが 社会主義が良くないと言われますが 日本は社会主義的な制作を多く取り込んだから いい国だったのではないでしょうか。グローバルスタンダードが来てからはスったりです。 資本主義にしても極端はいけないと言う 中庸を行く必要があるのではないでしょうか どうもありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.9

yuniko99様、こんばんは。 >「我々の頃は倫理社会という教科で哲学の話も勉強しましたが 今は現代社会にほんの一部紹介されてる程度で 根本から人生や世界を考える姿勢は見られません。」 是非とも、そうした武勇伝を、お聞かせ願えますか? >「政治がまた戦争もやると言えば それに反論する思想はないかもしれません。 公明党まで自民党の路線に反対できません。」 ほほう。 最近の、動向を拝見していると、 yuniko99様が「戦争もやる」と仰っているのでは? >「もう哲学は不要なのでしょうか? 理想などいらないのでしょうか?」 問題は「年寄りのヒガミだ」と仰るのですか?

yuniko99
質問者

お礼

武勇伝ですか。 存在こそが目的。存在こそが価値。存在こそが意味の根拠。存在こそが正義の根拠です。 その個性あるエネルギーが存在存続する為に 存在性をより多く持つことです。 そうしないと生きていけません。 しかし生命と人間は進化の仕方が全く違います。 人間が動物の真似をするのは大概にしておく事です。 生物は生命を守るために生き、生命の体を持つ人間の主体は精神ですから 人間は精神を守るために生きているのです。 精神のない人間では困ります。 人間は組織と意識でエントロピーを減少させ、永遠の未来に向かう存在を実現しなければ 40億年の生命の魂に対して申し訳が立たない。 ブラックホールの深みと宇宙の彼方の果の世界が 人間を誘ってくれることでしょう。 年寄りのヒガミと言うのは・・・私のことですか?(^^ゞ どうもありがとうございます。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.8

>貴方はあまり哲学とは関係のない人のようですね 私にとって信仰や哲学は人生をより良く生きてゆくためのものなのです。哲学することは本当のことを知る楽しみです。信仰である仏教も本当の釈尊の教えを知りたいのです。本当のことは素直に受け入れることができるからです。

yuniko99
質問者

お礼

私も本当の釈尊の教えは知りません。世界的に見ると知らない人が圧倒的に多いでしょう 哲学と信仰をバランスよくやるといいですよ。どちらか一つだけでは危ない 信仰を哲学してみるのもいいかもしれません。しかしこっそりやるほうがいいかも。 哲学したものを信仰できたら大したものです。しかし下手すればバカになってしまいます。 貴方に知恵の恵みがあります様に ありがとうございます。

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