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江戸時代に京都に大名がいなかった理由

徳川幕府は天皇・公家と大名が手を組むのを恐れたためかなあ、と漠然と思っていたのですが、実際のところはどうなのでしょうか。なにか特別な理由があったのでしょうか。

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  • honnori
  • ベストアンサー率32% (72/220)
回答No.4

 純粋に藩がなかった都道府県は東京都と静岡県と山梨県ぐらい。これらは、#3のmatubokkuriさんが説明してくれたように、  「幕府も自分の領地があります。直轄領といいます。 首都の江戸はもちろん、墓のある日光、佐渡の金山、大阪城のある大阪、朝廷のある京都、伊勢神宮のあたりなど、・・・徳川幕府の領地で、自分の部下(旗本、1万石以下)を京都所司代として治めさせました。」 と言うことです。 http://www.nipponhyojun.co.jp/search/syakai/6_11edo1/shakai_edo_2_2.html を見るとわかりますが、京都府にはかなりの大名がいました。また、京都所司代は、会津藩がつとめていたので、厳密に言うと大名はいたことになります。  ともあれ、天皇のお膝元であり、重要の産業も古くからあり、皇室や西国を監視するための京都所司代があるため、幕府にとってもっとも監視を強めなくてはならない要所の一つであり、譜代大名でも自由に住まわすことはさせず、まして外様大名には住むことができない地だったようです。

saku94
質問者

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ご回答どうもありがとうございます。 教えていただいたURLで見てびっくりしました。まったく知りませんでした。 他にもわかりやすく説明してある記事がありましたので参考にさせていただきます。

その他の回答 (5)

  • bazarakm
  • ベストアンサー率46% (65/141)
回答No.6

1)徳川幕府は天皇・公家と大名が手を組むのを恐れたためかなあ 回答  この時代すでに武家政治が確立していて天皇公家が手を組んで再度政権を狙うのは不可能になっていました   徳川家康は豊臣秀吉を京都や大阪の民衆が慕うことを嫌って幕府の直轄地に指定したのです 一般の大名を置くと民主の経済力に持ち上げられ再度豊臣の家臣から浪人になったものが集結する事を警戒しました 徳川家譜代の大名や旗本を派遣して豊臣再興を図る   武士、浪人達を監視することが大きな目的でした

saku94
質問者

お礼

ご回答どうもありがとうございます。 公家諸法度を見てもかなり朝廷というものを抑え込んでいる感じもしますし、家康としても幕末の尊皇倒幕の運動をこの時点で見越していたとはとても信じられません。ご回答にあるように秀吉人気を懸念して、というのが個人的にもすっきりするような気がします。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.5

質問は 1:京都(=山城の国)に大名の本拠地(城)あるいは、大名領国があったか? 2:京都(=いわゆる、京)に大名の屋敷などがあったか となります。 1に関しては、淀藩があります。10万石ほどですので、かなり譜代大名としては有力になります。 ※ 幕末にこの藩が(徳川家にとって)裏切ったのが鳥羽伏見の戦いの決着をつけたと言われております。 2に関しては・・・参考URLにあるように、実は江戸時代を通じて、薩摩藩の京都屋敷は存在しました。 ※ 京都は繊維産業を中心に産業の中心だったので、各藩の仕入れ部隊として京都屋敷はあったようです。

参考URL:
http://homepage2.nifty.com/airman/satsuma/satsuma02.html
saku94
質問者

お礼

ご回答どうもありがとうございます。 質問の書き方が悪かったのですが、1の意で質問したつもりでした。 しかし、江戸時代を通じて薩摩藩邸があるとは思ってもみませんでした。 参考URLのサイトは大変興味深く拝見しました。どうもありがとうございます。

noname#7099
noname#7099
回答No.3

 幕府も自分の領地があります。直轄領といいます。 首都の江戸はもちろん、墓のある日光、佐渡の金山、大阪城のある大阪、朝廷のある京都、伊勢神宮のあたりなど、「おいしい、人(他の大名)に任せては危ない」ところは徳川幕府の領地で、自分の部下(旗本、1万石以下)を京都所司代として治めさせました。いわば、雇われママなら出来が悪ければ交代させられますので。徳川幕府は天皇・公家と大名が手を組むのを恐れたためもあるでしょうね。  江戸幕府は、重要な場所は直轄地とし、譜代などの関が原以前の恩顧の大名は石高を低いけど幕府の要職につけ、外様大名は石高は高いものの要職にはつけず、江戸から遠い地域(つまり、攻めてくるのに時間がかかる)に配置しました。  これを機会に歴史に親しまれるのもいいですよ。

saku94
質問者

お礼

ご回答どうもありがとうございます。 わたしにとっては「雇われママ」という比喩はものすごくわかりやすかったです。

  • jackrian
  • ベストアンサー率23% (22/92)
回答No.2

 #1の方の回答に継ぎ足しです。 朝廷は過去様々な政争の道具にされてきた経緯がありますのでうっかり外様大名達を朝廷の傍に置けば必ず幕府に仇名す輩が現れると思ったのでしょう で、幕府は京都所司代と言う朝廷と朝廷に近づこうとする者を監視する部署を作りましたが、幕府の力が弱まった幕末ではその危惧が現実になってしまいました。

saku94
質問者

お礼

ご回答どうもありがとうございます。 中学生のころは、幕末はどうして志士はみんな京都に集まっているのか不思議で仕方がありませんでした。そのころから漠然と大名はいないのだろうと思っていました(^^;

  • baku0707
  • ベストアンサー率16% (2/12)
回答No.1

おもしろいと思ったのでちょっと書き込みます。 専門知識があるわけではないので、知っている方がいたら書き込んでください。私σ(^-^)も知りたいです。 普通に考えると 大名を置くということは領地と領民、つまり石高=その土地で生産される米を与えるということですよね。京都は天皇領ですから領地を与えることが、建前上天皇の臣下である征夷大将軍にはできない、ということではないかと思うのですが。 ご存じの方教えてください。 すいません、役に立たなくて。

saku94
質問者

お礼

回答どうもありがとうございます。 以前に日本史辞典のようなもので「京都には諸藩の出先機関のようなものはあったが、所司代を置いて公家たちの監視をさせた」といった要旨の文章を読んだことがあり、「征夷大将軍」という権威を上回る「天皇」の存在を持ち出されるのがイヤだったのかなあ、と単純に思っていたわけですが、これは幕末の尊皇倒幕の顛末を知る現代人の見方ではないのかとふと思いまして、開府の当初から意図したことならばよほどの慧眼だ、と思って質問した次第です。 土地=米という図式は、お恥ずかしながらまったく念頭にありませんでした。素直に考えればそうですね。

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