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大いなる正午の質問の補足

~~~~~~~~~~~~~ 「ニセ賢者もいる。聖職者、この世に疲れたもの、女や奴隷の根性を持った者。――おお、連中は昔から、 どんなにひどい仕打ちを自分欲にしてきたことか! しかも、連中が自分欲にしてきた仕打ちこそが、徳であるとされ、徳と呼ばれているのだ! そして、じつにもっともな話だが、この世に疲れた臆病者や十字蜘蛛が自分に望んだ生き方こそ、―― 「自分をなくす」というスタイルだった! だがそういう連中にも、昼間がやってくる。変化が、裁きの剣が、大いなる正午がやってくるのだ。 そのとき多くのことがあきらかになるはずだ! そして、「私」をすこやかで聖なるものだと言い、「自分欲」を至福なものと言う者が、 予言者のように、じっさい、自分の知っていることをしゃべるのだ。「ほら、やってきたぞ。近づいてきたぞ。大いなる正午が!」 ツァラトゥストラはこう言った。 ツァラトゥストラ(下) ニーチェ 丘沢静也 訳 光文社 第3部 3つの悪について ~~~~~~~~~~~~~~~ どうでもいい話だとは思いますが、 「自分をなくす」と訳されているところが 私が質問した ドイツ語の selbstlos は英語だと selfless でよろしいですか? なわけですが、 読むとわかりますが、 ツァラトゥストラは「自分をなくす」生き方を批判しています。 それで大いなる正午がやってくるとかいっているわけですが、 正午についてはいろいろ議論があるようですね。 ニーチェを信じているといった人の名前を ニーチェというかツァラトゥストラが批判している箇所があったのが 面白かったので質問してみました。 はたから見れば何のことがわからないかもしれませんが。 質問でもないので、これはしばらくしたら削除します。

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回答No.1

ニイチェのいう正午というのは時間のことではなく、思想の頂点、というメタファーでしょ? だから正午が存在するか、存在しないかを議論するのは無意味。 ニイチェはスイスの保養地のシルス・マーリアで、山の峰々を散策しているときに突然、永遠回帰の思想の啓示を受け、それで「人間と時間のはるかかなた6千フィート!」と叫んで、思想の頂点に立ったと思って、それを正午の思想と言ったのです。 ニイチェは古典文献学を当時の古典文献学の泰斗リッチェルから学び、優秀だったので、若干25歳にしてスイスのバーゼル大学の教授に推薦されて、スイスに赴き古典文献学を教えました。 古典文献学は古代ギリシャの文学・哲学を解釈するのが主たる役目でしたので、ニイチェは古代ギリシャの文献に詳しく、そこから古代ギリシャの時間の考え、時間は循環して元に戻ってくる、今が永遠に繰り返す、という思想を学び、そこから「永遠回帰」の思想を唱えたのです。 そしてヨーロッパの思想は古代ギリシャ以来、存在論とか、存在の思想で、無というのは無かったので、それが入ってきたのは19世紀の仏教がヨーロッパに紹介されるようになって以降です。 ニイチェはその仏教の無の思想と、古代ギリシャの今が永遠に繰り返すという思想を組み合わせて、「無が永遠に繰り返す」という「永遠回帰」の思想を作り上げたのです。 人生というのは、もともと何の意味もないのに、キリスト教は神が存在するのだから、人生は意味があると言って誤魔化してきました。 つまり神の存在が人生の意味を与えてくれる、神が人生の意味の源泉だったのです。 ニイチェはキリスト教を「ニヒリズムの宗教」だと言って、攻撃しました。 なぜならば、人生に意味なんてないのに、意味があるというのは「ニヒリズム」だからです。 「ニヒリズム」というのは虚無主義とは違います、むしろその逆で、意味がないのに意味があると言って人生の真実から目を背けさせ、「隠ぺい」すること、それが「ニヒリズム」です。 ニイチェはキリスト教の「ニヒリズム」を「消極的ニヒリズム」と言い、自分の「ニヒリズム」を「積極的ニヒリズム」と言って区別します。 ニイチェは言います、人生に意味を求めるのは病人である。 人生は無意味であり、無だ、と。 その無が永遠に繰り返すだけだ、それが人生の本当の姿だ、と。 だから私たちは人生が無だということを恐れず、むしろ積極的に人生が無意味だということを肯定しなければならない。 それがニイチェのいう「永遠回帰」の思想です。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 哲学カテゴリーでの正午の話題が 今回、大いなる正午を調べるきっかけになりました。 そうしたら、以前に粘着してきた人物を 思い出すことになりました。 その人物が ニーチェの永遠回帰を信じているというのであれば、 まあ、大いなる正午が来るといいね。 といってあげようかと思いました、まる。

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noname#210533
noname#210533
回答No.2

そして、じつにもっともな話だが、この世に疲れた臆病者や十字蜘蛛が自分に望んだ生き方こそ、―― 「自分をなくす」というスタイルだった! だがそういう連中にも、昼間がやってくる。変化が、裁きの剣が、大いなる正午がやってくるのだ。 ・・・この切り口の視点に出くわす度に、私は少し狼狽するのです。 見透かされている気がする、だが半分だ、全てではない、と。 自分が後生大事に抱えていたものに、ついつい縋りつき、自分自身は大した存在ではない、 そして、それで良いのだ、という人生観は50,60,70と加齢を重ねることで、 陥りやすい一般的な「症例」なのかも知れません。 うう、辛いなあ。 若くなくなってくると、若いということについて自分なりの考えをきちんと持たないと ただでさえ流される速度がとんでもないレベルに加速しているのが高齢者の世界です。 自分というつつましい個人の、有限の命がやがて尽きること自体には恐怖を 感じなくなってきます。 痛いのや怖いのは嫌ですがね。寂しいのも哀しいのも嫌だな。 それでも、人間は必ず死ぬから、私はこれで良いのだ、と つつましい人生で得たものを、伴侶や家族を、思い出を、 慈しんで生きているから、それで良いのだ、と。 ついつい思ってしまうところに、時折この視線が突き刺さるのです。 若いころのように、偽善者呼ばわりや自虐の罠には自らを 投じたりはしませんが。 でもねえ。 確かに、まだ何十年かは生きられるのに、「自分がなくなってないか?」 という問いは。 判ってるのよ、実は、心の底では、何もしようとしてないし、 始めようともしていないじゃない、という自問自答。 忙しい毎日の、夜の酒の泉にそれを毎晩沈めて、それを 疲れを癒すささやかな儀式だと、思い込んでいる、私は。 空耳かな? 時折、その視線の後で、地球から登る、月と、太陽と、 それから真黒なアレと、そして木星と。 あの音楽が聴こえることがあるんです。 やっぱ、若い人を見習って、しがみついてるものから 手を離して、頑張ってトライして、自分を律して 積み上げていかなきゃ・・・駄目だよねえ? 自分を、持ってるつもりで、無くしてるよねえ? 自問自答です。。。回答でさえありませんね。 では、そろそろ帰ります。 今日もおうちに。 自分の視線を、背中に感じながら。 せめて、背筋を伸ばして帰ろう。 下を向かないで。

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