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《それが考える( Es denkt. )》とは?
次のサイトに表題の句をふくむニーチェの文章が取り上げられ論じられています。 この非人称の一文に どういう意味があるか? というのが問いです。(この意味はおもには 重要性といった意味です)。 ▼ (ラカンSLV翻訳と注釈2:ニーチェのes) ~~~~~ 財津理の思想研究 ドゥルーズ/ラカン/ハイデガー) http://zaitsu.blog137.fc2.com/blog-entry-23.html ハイデガーの「 es エス」=「それ」を取り上げる前に、ニーチェの「 es エス」=「それ」に関する記述を、『善悪の彼岸』の17節から、私の訳で引用しよう。 「・・・ひとつの思考(Gedanke ゲダンケ)がやって来る のは、その「思考」が欲するときであって、「私」が欲する ときではない。 したがって、「私」という主語は、「思考する」という述語 の条件であると言うことは、事実の歪曲である。 「それ」が思考するのである( Es denkt エス デンクト)」。 だが、・・・結局のところ、「それが思考する」がすでに、言 い過ぎである。なぜなら、この「それ(es エス)」がすでに、 経過についてのひとつの解釈を含むものであり、経過その ものに属するものではないからである。」 フロイトがグロデックの「それ(es エス)」をニーチェ由来のものだと決め付けたことは有名であるが、しかし、ニーチェ自身の叙述では、「それ(es エス)」は、「私」の根底にある積極的なものではないし、「私」に代わるものでもないし、「思考」の経過に属するものでもない。要するに、ニーチェは、思考の主体としての「それ(es エス)」の存在を積極的に主張しているのではない。 ニーチェでは、「思考する」という活動があるだけである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち大した意味はない。ということを確認できれば 質問者は満足です。 異論のある方 ご批判をどうぞ。賛成票の場合もよろしく。 要するに もし《わたしが考える》のではなかったなら それはいわゆるヒラメキである。ただし このヒラメキを得たあとは その意味を考えるのであり そのときの考えるのは ほかならぬわたしである。はずなのだから・そしてそれは 当たり前のことなのだから 大した意味はない。という趣旨です。
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こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ・・・その後精神が崩壊した。 / だから自殺は出来なかったはず。 ☆ ということだとか。 あとで思ったことは 直接の自殺ではなく けっきょく治療をわざと怠ったりして 自死に到るにまかせたのかなと。いえ 分かりません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 同時代人であるフロイトの「das es」は凄まじい。 だがその「後継者」(に勝手に押し上げられた)ユングはニーチェを 非常に高く買って・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この筋には入りたくないところです。必ず茶の木畠に入ってまようはずです。主観だけの考えですが。 ★ なんか時空の問題と混ぜたい方が居るが、・・・ ☆ わたしは分かりませんが マクロの世界でもしっかりとした認識を示すべきだとまでは言えるのではないかと考えました。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 「私」の問題もあるようだが、デカルトのコギトを理系に直すと、 「自我を否定すると自己撞着に陥る」 になっちゃう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは そのまま《わたし》の問題になると理解します。 そもそもコギトは アウグスティヌスの《わたしはあやまつなら(欺かれるなら) わたしはある。 Si fallor, sum. 》から来ています。欺かれたとしたら それは その主体であるわたしが存在するからである。存在しないのに だまされるわけがない。から来ています。 わたしに言わせれば 《自我》と言うから厄介なのです。《わたし》です。せいぜい《わたしなるもの》です。 自家撞着も何も 初めから《わたしはわたしである》という自同律なだけです。ふつうの自己同一性であるに過ぎません。 デカルトが《思考》を特別視したのがいけなくて 人びとがそれに追随したのもいけなかった。 《ゆえに: donc; ergo 》はあとで削除したという説を言う人もいます。問題は 《思考=存在》というまでに拡大したところにあると考えられます。これは 近代人の願望のようなものです。それだけの問題であるはずです。 ★ ただ単に私は「哲学は」堂々巡りしていつもはじめに戻ってくると思う。 ☆ 存在論は つねにそうだと考えます。 《わたしはわたしである》: 1=1 《わたしは あやまちを侵したと知り わたしに立ち還った》 :(1=1)x1=1 《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする〉 : 1x1x1x・・・x1=1 すなわち 1^n=1 わたしは 《一》の限りなくつづく連乗積です。から 堂々巡りしてもかまいません。