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音楽って何のためにあるの?
っていう問いは成り立ちますか? わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 音楽についての哲学ってありますか?
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こんばんは > わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? 以下のような曲を聞くと、運動会で頑張ったのを思い出す方もおられるのではないでしょうか。 音楽は、ひとの活気・活力を高めることもある(特に何かの祭典等には)、と思っております。 Hermann Necke - Csikos Post (Mail Coach) https://www.youtube.com/watch?v=DmBMVc-999U > 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが [ベートーベンと同じ1770生まれの] ヘーゲルは次のように述べていたようです(因に、ロッシーニ愛好家だったそうです)。 「不確定なものへ出てゆくのではなく、自己自身の中で分化し、自己へ帰還する運動としてのみ、メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白の領域に於いて理想性と解放を実現する。この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴衆せるものである。」 引用:ヘーゲルの音楽美学 https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1959/9/1959_9_66/_pdf > 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 以下に、カントの”趣味判断”に関するサイトを紹介致しておりますが、ここでの” ”を”心地よい感覚”としてもじゅうぶん通じるところがあると思われます(ただし、カントは、音楽に関しては、ほとんど言及はしなかったようです)。 Wikipedia ”趣味判断” http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%b6%a3%e5%91%b3%e5%88%a4%e6%96%ad なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。 > 音楽についての哲学ってありますか? 最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。 ・芸術は、イデアを純粋に表象し、個々の争いやエゴを超越するもの。 ・これらから生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 概ねこのようなものだと思います。 余談ですが、ワーグナーを評価しなかったと言われています(ヘーゲルと同様、ロッシーニの大ファンだったそうです)。 ご参考になれば、幸いです。
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- Tastenkasten_
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おまけ(はてなの方にはたくさん貼れないので) 世界にはいろいろな音楽があります。時間がないので、少しだけですが。 音楽アルバム ブルガリアの合唱 https://www.youtube.com/watch?v=tDA7L53tD2s https://www.youtube.com/watch?v=b4kOiEcmr9o&list=PL38F10A629F6F1D32&index=8 ノルウェーのハルダンゲル https://www.youtube.com/watch?v=UCzQBllqoDw&index=21&list=PLhrDubC2sRMAUtqBouE8sQ3tNph_T6H8B インドネシア ガムラン音楽 https://www.youtube.com/watch?v=sZZTfu4jWcI バリ島 ケチャ https://www.youtube.com/watch?v=nAUoa9pmokA ヴォーン・ウィリアムス タリスの主題による幻想曲 https://www.youtube.com/watch?v=jAtx578yaZ8 ヴォーン・ウィリアムス 「富める人とラザロ」の五つの異版https://www.youtube.com/watch?v=rdwxd5YO3dg ヤナーチェク シンフォニエッタ https://www.youtube.com/watch?v=NCXRqgXiARA ボリス・チャイコフスキー セバストポル交響曲 https://www.youtube.com/watch?v=7dyVNi9LKfA
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ブルガリアの合唱 ○ The MAGIC Of Bulgarian Voices Music - Malka Moma Little girl - HD LIVE (Gold collection) ○ The Mystery Of Bulgarian Voices - Dva shopski dueta ☆ 同じスラヴ民族としてロシア(ないしウラル地方ですが)の女性の声をたとえば次のような歌で聞いてきました。 ○ Тонкая Рябина(小さいぐみの木) https://www.youtube.com/watch?v=-Uqcp13nedE ○ Уральская рябинушка (Ой, рябина кудрявая)(ウラルのグミの木 / おい、巻き毛のグミよ) https://www.youtube.com/watch?v=9So70QZOTz0 ☆ 神秘的な声だとも言われているだけあってブルガリアは ロシアよりも透き通った感じがあるようです。そしてその声の特徴を表わすようになのか ロシア民謡よりも抑揚が少ないようにも――限られた例からですが――感じられました。 ★ ノルウェーのハルダンゲル ○ Set of Norwegian Hardanger Fiddle Tunes... ☆ フィドルですか。これをアップした Michael Levy という人は おなじみになりました。古代ギリシャの竪琴などの関係で。 おとなしい感じのメロディーですね。 ★ インドネシア ガムラン音楽 ○ Indonesian gamelan medley from Java, Sunda and Bali ☆ これは ずいぶん静かなガムランですね。と言って ガムランとは何かと聞かれて答えることは出来ないのですが 音楽じたいは 何度も聞いていますし 一般にも知られていますよね。あとになって中ほどで 少しにぎやかになるようです。演奏する人は インドネシア人ではない西洋人とおぼしき人も交じっています。 次にケチャが来ています。 あっ。時間が来ていますので いちど まだ大丈夫か(開いているか)をテストしてみます。
補足
お礼欄からのつづきですが そのお礼欄は 23:55において まだ投稿できました。 ★ バリ島 ケチャ ○ Baraka - Kecak, Monkey Chant - Bali, Indonesia ☆ このケチャのバージョンは おもしろいですね。二組の集団に分かれて 起ち上がったり横になったりの動作も いままでに見なかったような見たようなの感じです。 ★ ヴォーン・ウィリアムス タリスの主題による幻想曲 ○ Vaughan Williams - Tallis Fantasy {One of the best performances ever} ☆ 映画音楽のようにも感じられるのですが これは 民謡なのでしょうか。えらくおごそかな感じがしますね。 ★ ヴォーン・ウィリアムス 「富める人とラザロ」の五つの異版 ○ Ralph Vaughan Williams, Five Variants of 'Dives and Lazarus'.Sir Neville Marriner / ASMF ☆ これも おだやかな感じですね。金持ちとラザロですか。 ★ ヤナーチェク シンフォニエッタ ○ Leos Janacek Sinfonietta WDR-Sinfonieorchester (2007) ☆ これは 素人の聴衆を飽きさせないように ドラムから笛へ移ったりとかの工夫がこらしてある・・・というようなことはないですよね。 ★ ボリス・チャイコフスキー セバストポル交響曲 ○ Boris Tchaikovsky - Symphony No. 3 "Sebastopol" (1980) - Vladimir Fedoseyev ☆ ヰキぺを見ました。《ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーとの縁戚関係は無い》とありました。 これは 一味変わってますね。ドラマの背景に流してもいいような。(って変なことを思い浮かべる)。 20世紀後半の現代音楽としては クラシックっぽい要素もじゅうぶん現われているような。 あぁ でもクラシックと違って 音が宙に浮いているような。足を地につけていないような。 飛行船に乗っているような。潜水艦で進んでいるような。(われながら へんなの)。 投稿が成りますか。
- Tastenkasten_
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お礼有難うございました。 コメントの内容につては了解しました。おそれていたほど食い違いはなかったと思います。細かい点で確認が必要なところは残ったかもしれませんが、おおかたは表現の違いで、見解の大部分は一致していると感じます。肩の荷が下りた気分です。 ダールハウスについて少しだけ補足します。簡単な説明ですが、下のサイトをご覧ください。 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A1%BC%A5%EB%A5%CF%A5%A6%A5%B9 ベンヤミンについて触れたときに、「受容史」ということを書きましたが、現代の音楽学では、上のサイトにあるように、「現在における音楽作品の美的価値と独創性に価値を置いたテクスト読解」が主流であると思います。つまり、その作品が、これまでの歴史の中でどう評価されてきたかではなく、純粋にその作品のみを見て判断します。実をいうと、留学中、ヴィザ取得の資格を確保するために、短期間、楽理科に籍を置いたことがあり、その時の担当教官が、ダールハウスの弟子でした。つまり、孫弟子ということになります(笑)。しかも、作曲の師匠はジョン・ケージにも師事していますので、こちらの方も孫弟子になります。 今晩11時半で締切になるはずです。11時までにもう一度投稿しなかったら、締め切ってください。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 現代の音楽学では、上のサイトにあるように、「現在における音楽作品の美的価値と独創性に価値を置いたテクスト読解」が主流であると思います。つまり、その作品が、これまでの歴史の中でどう評価されてきたかではなく、純粋にその作品のみを見て判断します。 ☆ ということになるのですね。 つまり わたしは むしろ《受容史》という言い方において 《個人の受け取り方》としての判断を連想していて そこに《作品の美的価値と独創性》をどう捉えたかもが入って来ると思っていたところがあります。 テクスト読解としての受容などといったいろんな想像を持ったのでした。 えっ? ダールハウスおよびケージの孫弟子になられるのですか? ということは ずっと ずうっと続いているんですよね。学問全般について そういう師匠と弟子の系譜があると思いますが。わたしは 学部と修士とが違う大学でしたので そして修士の先生が早くに亡くなられたので どっちつかずになりましたし その系譜がちょっと途切れてしまった感じなのです。 ねこさんのおねだりをお請けになるのですか? ここまで たいへんありがとうございました。 おかげで いいスレッドが出来たと思います。みなさんにも たいへんよかったと思います。 宿題もありますし まだまだ なおまだ問い求めて行かねばならないのではあります。 いまになって たのしかったと振り返ることができるようになりました。 あと一時間ちょっとほどでしょうか。 それでは ひとまづ みなさん ありがとうございました。
- Tastenkasten_
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>彼(ハンスリック)は ヤコブ・グリム〔* の言語理論〕に依拠しながら 音体系の形成と個別的な楽想の鋳造に《言語精神》の作用を認識する。音楽は《言語》であり 作曲は《精神能力のある素材における精神の仕事》である。 ダールハウスのサイトを御紹介したのは、あるいは不適切だったか、と思っています。私自身が読む前でした。ここで引用されているくだりは、哲学的な内容のように見えますが――また事実そういう部分もありますが――、「材料としての和声」とか「形式としての和声」というのは、おそらく、音楽の専門家が読んでも、なにを指しているのかすぐにはわからないような表現で、率直に申し上げると、音楽理論の知識を持たない人の手におえる文章ではないと思います。不必要に混乱をもたらす記述です。おそらく、「材料としての和声」は、「和音」に書き換える方が適切だと思います。「形式としての和声」がわかりにくいのは、言語の違いによります。ドイツ語のFormは多義的で、「形式」という特定の訳語に置き換えると、どうしてもぴんと来なくなります。また、「精神能力のある素材」などという表現は、私でさえちょっと理解不能です。何となく想像はつきますが、原典に当たることが必要不可欠と思います。正直言って、音楽の実践家と音楽学者の間にもなかなか埋められない溝があり、こんなことを書かれても何の役にも立たない、と思ってしまう音楽家がほとんどではないかと思います。ですから、 >ここまで言うとすれば 音楽の美は 人間の精神のつくりだすものであると見ているか >音楽の生み出す美しさは 人間のハカラヒとしての創作であると言い切ったのであろうか。 という点は、ハンスリックの言うことの内部にすでに矛盾があり、先の回答に書いたように、ローランサンという人が、ハンスリックは、一方では精神とか感覚と書いておきながら、他方では感覚と音楽のすべての内的関係に反論していて、それは矛盾であると激しく反論しました。 >わたし(=質問者)は 美は――創作におけるハカラヒによる部分もあるはずだが―― ハカラヒを超えていると思う。創作という人為プラスαのアルファの部分が 美という美にあたると思う。 これはおそらく、お話しするのは不可能です。私も、若いころ、この「アルファ」の部分にかなりこだわっていました。しかし、否定できないのは、芸術作品の創造の過程、現場では、「職人的鍛錬」が最も必要とされるという事実です。創造の瞬間に何が起きているかということは、創作家自身にも把握しきれないものがあります。説明するのが無理なため、多くの芸術家が謎めいたことをいうものですから、よけい神秘に包まれてしまいます。簡単な説明をしますと、音楽作品をより美しいものに仕上げようとするとき、ある個所で、Aという音を使うか、あるいはBという音を使った方がもっと美しくなるかという選択は、純粋に技術的、理論的、経験的に判断されることであって、「アルファ」によるものではないといえます。仮に、「アルファ」なるものがあるとしても、それは無意識界のことでしょう。哲学者や思想家がそういう部分を扱いたいのはわかりますが、現実の創作の作業における方法についての具体的な理論を、「アルファ」を含めて記述、構築するというのは不可能です。それは、触れないで置く方がよい領域です。実際に創作に関わる人間にとってもそういうものですから、芸術創造に直接かかわらない人が論じるのはさらに困難です。哲学の分野での音楽美学がある時期をもってあまり行われなくなったのも、そういうところに原因があるのだと思いますし、ハンスリックが行ったような音楽学者の議論というのも、今日から見れば、象牙の塔の感を免れません。 さて、前の方の回答で、モーザーを引用したときに、その中に少しだけ出てきたことについてです。美学は、「醜」なども考察の対象になるという話です。これも古い本ですが、山根銀二の「音楽美入門」なる本があります。この人も学者ですから、私としては引用には慎重になるのですが、次のようなくだりがあります。 ところでこの音楽が美しいというのは、どういう意味で美しいのであろうか。その美しいという意味は、美しくないことの、すなわち醜いということの反対の意味で美しいのであろうか。それにとどまっている美しさも、美一般のなかには確かにある。それを否定することは許されない。しかし音楽が美しいのは、そのような素朴な美しさに限らず、その反対のものとしての醜さをも含めて、いっそう包括的に美しいのではなかろうか。醜いことも美しいことなのである。両者を包括した美の世界がそれである。 (山根銀二著「音楽美入門」岩波新書 2ページ) もう少し引用した方がよいのですが、時間が迫っていますのでここまでにしますが、昔、岡本太郎が、「きれいと美しいはちがう」と言いました。ただ感覚的に心地よいものが「きれい」だとすれば、「なんだこれは、というのが美しい」のだということです。醜悪美、というのもある、と言っていました。現代には、いろいろな音楽があり、目的も異なっています。「音楽は何のためにあるのか」という問いは、モーツァルトやベートーヴェンの時代と比べると、簡単には答えられない時代になっています。BGMという言葉が出てきたのは、私がまだ若いころで、その後、癒しとかヒ-リングなどということも言われるようになってきました。したがって、ただ感覚的に心地よいだけの音楽も氾濫しています。そのレヴェルの音楽は、「真」とはかかわらないのではないか、という疑問も当然あります。真剣に取り組み、自分が本当に表現したいものを追求している者にとっては、音楽を通じて「真実」に迫ることができれば、それに勝ることはありません。ですから、真剣な芸術行為においては、「真」は目的とはなり得ます。 「善」と「美」の問題となると、これは簡単ではありません。これからお話しすることは、ひょっとすると、bragelonneさんが論じたいこととは焦点がずれてしまうかもしれませんが、「美」の創造には、必ずしも「善」は前提にならないということです。先ほどもお話ししたように、創作の現場では、職人的鍛錬が最も必要とされます。「プラス・アルファ」の部分を問題にしたいbragelonneさんとしては不服だと思いますが、極論すると、美しい芸術作品というのは技術だけでもできてしまいます。職人的、技術的鍛錬に要する精神力というのは大変なものですが、その精神と、善たる精神とは、必ずしもいつも一致するわけではありません。確かに、世間一般の人は、美しい作品を作る人は、人間的にも優れた人に違いない、と思っている、またはそうであってほしいと願っています。しかし、たとえばカラヴァッジョのことなどを考えると、無頼漢で人殺しをするような人間が、なぜ美しい絵画を残せたのか、説明は難しいです。もちろん、優れた芸術作品による美的体験が、鑑賞者の感性を磨き、善に導くということは大いに期待できますし、そうあってくれればうれしいと思います。が、「美」が、例外なく「善」から導かれるとは限らないと考えます。 息切れがしてきました。音楽の目的についても、今日では多種多様ですから、定義などできません。前の方の回答で、カタルシスについては共通の認識があったと思います。リラックス効果や、それに付随する医療効果などの実用的な目的も否定できるものではありません。ほかには、感性を磨くため、というと、いささか平凡に響きますが、それも当然あるでしょう。また、変な話ですが、音楽を聴いていると、いつか死んでしまえば、これが聞けなくなってしまう、という恐怖に襲われることがあります。命と同様、美も無常なるものであれば、美的体験を通して、周りのものがそれまでとは違うものに見えるようになることもあるでしょうし、また、生や死に改めて思いをはせ、いかに生きるかを問い直す契機にもなり得ます。ちょっと大げさですが。ですから、目的や効果として「真」や「善」はあるかもしれませんが、創造の現場で起きていることは説明不可能、記述不可能ということで御納得いただければと思います。 ところで、これまでに御紹介した音楽へのご感想を伺ってきて、bragelonneさんは、アポロン的な作品より、ディオニュソス的要素がある曲の方に反応なさっているような気がします。すでに合意しているように、ニーチェの思想から切り離して、一般的な用語として使いますが、芸術には、アポロン的な要素とディオニュソス的要素の両方が必要です。特に、この厳しい芸術の世界で、他人と違う独自の世界観で創作し、かつ生き延びるためにも、ディオニュソス的なものは不可決なものといえるでしょう。
お礼
つづいてのご回答をありがとうございます。 なるほど。ダールハウスの議論は 扱い方がむつかしいということですね。 了解し得たと思います。 一点のみ 軽く触れたいと思うことがあります。 ★ 仮に、「アルファ」なるものがあるとしても、それは無意識界のことでしょう。 ☆ 人知や人為では――まして作為的におこなおうとしても――無理だという意味で このアルファを言いました。 運がついているといった問題ではないかと思っています。 無意識界という表現でおっしゃろうとされたことは たぶん同じことではないかとは思ったのですが。(フロイトにも 違和感を持っておりますので。申し訳ないですが)。 ★ 美学は、「醜」なども考察の対象になるという話です。 ☆ このことにもわたしは違和感がありません。そのとおりだと考えます。絵画で言えば 《醜》なるピカソに《美》を感じるという場合だと思います。 ★ 真剣に取り組み、自分が本当に表現したいものを追求している者にとっては、音楽を通じて「真実」に迫ることができれば、それに勝ることはありません。ですから、真剣な芸術行為においては、「真」は目的とはなり得ます。 ☆ そうですね。次のひとくだりは たすてん先生の受け取られ方と違って来るかも知れませんが わたしなりの解釈で 《真剣 あるいは 真理の問い求め》については 《素朴・単純》であると受け取ったものです。日常性なるケとしてのメロディーでありリズムかつハーモニーであると。そういうふつうの歴史知性であると。 ▽ (フルトヴェングラー:偉大さはすべて単純である) ~~~~~ [・・・]ここで有効な手段はただ一つ すなわち生命と新しさを求め 当然それを過去にも絶えず求めてきた知性が さらに知性的になることだけである。 知性は 少なくとも今日その基盤をなす芸術および芸術家の《理想像》に甘んじることなく あえてその領域に歩み入り その住み家にまで迫らねばならぬ。かち得た歴史的展望を 支配意欲のためにではなく 方向づけのために用いねばならぬ。芸術作品という一度きりの出来事を それが私たちにじかに訴えるものであるだけに 歴史的連関とひとしく 否それ以上に重視せねばならぬ。 知性は 真の偉大さのために畏敬を 愛情を 熱狂的に捧げられる愛情を無条件に再び習得せねばならない。 ヴァーグナーの『パルジファル』に見られるように 傷を癒すものは その傷を与えた槍だけである。今日われわれが世間一般に認めざるをえない一面的な思考 その恐るべき影響に打ち勝つものは 思考それ自体 より高次の より包括的な思考のみである。 真正なる芸術は 素朴さ それも相対的な素朴さの雰囲気でのみ成長することができる。これが知恵の素朴さ ひとえに私たちの文化にふさわしい第二の素朴さであることこそ 今日責任を担うすべての人々にとっての願いであろう。 (葦津丈夫訳 『音と言葉』) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 善 ☆ というときには ★ 極論すると、美しい芸術作品というのは技術だけでもできてしまいます。 ☆ という事態が 生活をよりよくするということとつながっている。ということを 善と言っています。 ★ しかし、たとえばカラヴァッジョのことなどを考えると、無頼漢で人殺しをするような人間が、なぜ美しい絵画を残せたのか、説明は難しいです。 ☆ これが ケなるふつうの生活の歩みを基礎としていることだと見ます。生活を送る――ともに生きる――というリズムでありチカラが 善だという想定です。道徳としての・規範としての善悪は 関係しません。《道徳規範は 愚の骨頂》と昔からここで言い続けて来ています)。 ★ 創造の現場で起きていることは説明不可能、記述不可能ということで御納得いただければと思います。 ☆ 先ほどのカラヴァッジョにしても――その映画を見ましたが―― 《わたしがわたしであるわたしが 日から日へ ただただ うんうんとみづからを推して 生きる》その歩みと律動を おのおのの美学において自己表現する。――こうだと考えています。 ★ 一般的な用語として使いますが、芸術には、アポロン的な要素とディオニュソス的要素の両方が必要です。特に、この厳しい芸術の世界で、他人と違う独自の世界観で創作し、かつ生き延びるためにも、ディオニュソス的なものは不可決なものといえるでしょう。 ☆ それは ディオニュソス型が アポロン型の中に難なく入っているということを意味すると思っています。 ケなる日常性の中の 平日における仕事のあゆみ(基礎)があり 休みの日としての・一週間としてのリズムがある。 この休みとしてのケにすでに 仕事日としてのケからの解放があります。これは アポロン型の中にはいっています。そういう意味でのディオニュソス型です。 あるいは ケから離れるという場合の ケ-カレ。これにしても もし仕事日のケが 型にはまって反復作業が固定化しマンネリが蔓延しているとすれば このケ-カレ(離れ)は 積極的な意味を持つはずです。ただの道草や脱線ではないはずです。そういう創作の方向があり そこから表現されて来る美があるはずです。 これも アポロン型の中におさまっている言うなればディオニュソス傾向です。 言いかえると コスモスは 全世界のことであって それがアポロン性であり その中に当然のごとく混沌なるカオスのチカラはふくまれている。こういう見方をしています。 ハレになれば たぶん仕事型も休日型もいづれものアポロン形式が 増幅されるのだと考えます。つまり ディオニュソス傾向をどこまで行っても アポロンのモーメントはふくむ。ということになります。 このようにご理解いただければさいわいなのですが。
- Tastenkasten_
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こんにちは。 今日はまだ書き込めるようです。新たな質問を出していただくと、必要以上に長引く恐れがありますし、そろそろ次の作品の準備にかからなければならないので、このスレッド内で終わりにさせていただきたいと思います。 取りこぼしていることから先に書きます。 標題音楽と絶対音楽の問題が解決済みであるというフルトヴェングラーの講演は、「音と言葉」115ページ、「アントン・ブルックナー」の章にあります。ねこさんのスレッドに回答していたときに見つけた文でした。「標題音楽」という言葉は使っておらず、「楽劇」となっていますが、言っていることは同じです。 客観的に見て、ヴァーゲナー=ブラームスの対立は、今日ではとっくに解決されています。私たちは、楽劇と絶対音楽とがたがいに他を排除せずとも完全に併存しうることを知っています。にもかかわらず、ヴァーグナー信奉者とブラームス信奉者とはいっこうにあとを絶ちそうにもないのです。(中略)芸術とは愛に似かよい、芸術についても、まさに「愛が大きければ、認識も深まる」という言葉が妥当するのです。しかし、なにゆえ芸術にあっては、ある人への愛が他のひとへの愛を排除せねばならぬのかが、私には納得できません。 (フルトヴェングラー「音と言葉」芦津丈夫訳 白水社) 以上ですが、私は非常に共感しますが、音楽学者や哲学者を「愛」という言葉だけで説得することは難しいのでしょう。また、アドルノが「音楽社会学序説」の「音楽に対する態度の類型」の章において「教養消費者」というカテゴリーに分類する聴衆も、こういうまちがいをしやすいです。いわゆる、今でいうクラシック・オタクという人種です。すでに書いたように、日本のクラシック・オタクに、絶対音楽信奉が流行しているようです。 次に、ねこさんの回答にある、集団と熱狂の問題です。bragelonneさんは、すべてのものごとに哲学的な態度で対されると思いますので、判断のよしあしはひとり自分にかかっている、というお考えなのかもしれません。集団の熱狂は二次的、派生的であり、「聴衆である人びとにすでに気持ちの高鳴ったものが出来上がっていたのではないか」、という御指摘は、ヒットラーとか、あるいは人気ロック・ミュージシャンのコンサートのように、まだ演奏が始まる前から熱狂している場合はわかりますが、それほど単純な問題ではなく、群集心理というものはやはりあります。これは、普段、音楽をCDやラジオ、テレビなどでだけ鑑賞している人には想像しにくいでしょう。しかし、演奏が進むにつれて、聴衆がその熱演に反応し始め、それがほかの聴衆にも伝わって、想像以上の感動に包まれてしまう、という現象は起こります。私の場合は一応プロですので、周りが熱狂していても、この曲や演奏はまずい、と思えば周りに引きずられることはありませんが、作品や演奏のよしあしは、プロの中にも自分で判断できない人がたくさんいますから、一般の聴衆にその能力が十分備わっていないのは当然です。まわりが感動しているから感動する、ということはしばしばおこることであって、演奏会でなくても、例の佐村河内作品ブームなどはそのいい例でしょう。誰かが「魂の旋律」などと言えば、みなそうだと信じてしまいますが、実際には、旋律的特徴の乏しい作品です。スキャンダル発覚前は、狂信的なファンがいて、どんな批判も許されないという、異常な雰囲気にありました。こういう熱狂とか、集団の作用というのは、演奏の側にも起こることです。リハーサルではごく普通の演奏だったものが、本番中、指揮者のひらめきがさえてきて、オーケストラの団員がそれに反応して、いつも以上の熱演に入る、ほかの団員も当然それに巻き込まれる、ということが起きます。聴衆の反応もまた反映します。客の入りが悪ければやる気がなくなりますし、演奏の途中で聴衆の感動が舞台の方に伝わってくれば、それがさらに名演につながる、ということもあります。決して、二次的、派生的なものとはいえませんが、これは、そういう場に身を置いて体感している者でなければ理解は難しいかもしれません。そして、CDなどの媒体に記録された音楽は、半分は商品であり、真の音楽体験は、やはり実演しかありません。 残り時間が少なくてきついのですが、amenhotep2000さんの疑問について。十二音技法については、もう時間が足りないので、ひとことでいうと、オクターヴ内の十二個の音を均等に使うという理論です。古典的な音楽は、「ドレミファソラシド」の音階に基づきますので、七個の音が中心となり、ほかの音は補助的に使われますが、それをやめて、全部の音を同じ頻度で使う、ということです。私に言わせれば、この技法は、真の創作行為とは言えないもので、発明後、それほど長く生き延びたものではありません。部分的な応用としては使い道がありますが、全曲をそれで通すのは、もはや考えられない時代です。 「すでに、オリジナリティーのある旋律というものは過去の人達によって出尽くしたのでしょうか?」という問いは、大変難しい問題です。「美学」ともかかわってくる問題ですが、旋律に限らず、新しい音楽の創造には、創作者一人々々が独自の美学とそれにふさわしい表現様式、技巧を開発する必要があります。大変なエネルギーと年月を要することで、それを達成できる人は、もともと多くはありません。どういう人生を送ってきたかとも関係します。努力しても達成できないかもしれません。さらに現代では、クラシック以外のポップ、ジャズの聴衆の方が多く、また、マイケル・サンデルではありませんが、物ごとの価値が経済的価値で量られることが多いことから、「質」が二の次になる傾向も顕著です。さらに、クラシックの現代音楽では、権威となっている人たちが、現代の音楽はこういうものでなければならぬ、という価値基準を定めています。それにそぐわないものは切り捨てられます。その価値基準は「様式」であって、「オリジナリティー」ではないため、新しいものが出てきにくいという複雑な事情もあります。
お礼
分かりました。このスレッドでまとめつつ 終えたいと考えます。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~ 標題音楽と絶対音楽の問題が解決済みであるというフルトヴェングラーの講演: (趣旨) それぞれへの愛は 他の側における愛を排除することはないはずだ。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ (趣旨) (あ) ただし 《愛》という言葉で説得することには 難しさもある。 (い) 音楽に対する態度が 類型として固定してしまっている場合。すなわち一部としても クラシック・オタク=絶対音楽信奉。ここにも むつかしさがある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 集団と熱狂の問題 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (う) 〔* 実演における臨場感にかかわって とにかく〕群集心理というもの (え) こういう熱狂とか、集団の作用というのは、演奏の側にも起こることです。リハーサルではごく普通の演奏だったものが、本番中、指揮者のひらめきがさえてきて、オーケストラの団員がそれに反応して、いつも以上の熱演に入る、ほかの団員も当然それに巻き込まれる、ということが起きます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ううーん。たぶんわたしには 分からないと思います。そういう経験がないということではなく また醒めているということでもなく その体験は消えると思っているからです。うつろいゆくものであると。 すなわちあるいは 一時的・局地的な現象であると。《二次的・派生的》ではなく 絵画などには見られず音楽に一次的に固有のものだとしても 思い出に変わって行くと思うからです。 ★ amenhotep2000さんの疑問 ~~~~~~~~~~~ (1) 十二音技法について: 部分的な応用としては使い道がありますが、全曲をそれで通すのは、もはや考えられない時代です。 (2) 「すでに、オリジナリティーのある旋律というものは過去の人達によって出尽くしたのでしょうか?」という問いは、大変難しい問題です。「美学」ともかかわってくる問題です ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- amenhotep2000
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bragelonneさん おはようございます。 また、割り込みます。 ひとつ問題を提起したいことは、哲学者と作曲家という視点のみで応答がされてますが、音楽を考えるに当たって、指揮者や演奏家抜きにしては、音楽学の本質は語れないと思われます。 例えば、カラヤンの前にベルリンフィルの常任指揮者だった、フルトヴェングラーは哲学者のシェーラーと交友があり、教養人であり、その指揮した音楽は哲学的と言われます。 ショパンを聴くに、意見は分かれるところですが、ショパン弾きの王道はルービンシュタインと良く言われますが、私はフランス人のルイ・サダが好きです。なぜ、このようなことを書くかというと、ショパンは楽譜にどのように弾くか指示を出していませんが、音楽用語に「ルバート:自由なテンポで」というのがあり、現在の演奏家がショパンを弾いて表現するにあたり、ルバートを多用します。ルイ・サダは音をためる傾向があり、私は斬新な弾きかたなので好きです。 もうひとつ、提起したいことは、ハーモニーが話題になってますが、音楽用語の「ヨナ抜き」 これは、ドレミファソラシの4番目のファと7番目のシを抜いて作曲する方法です。この手法で作曲された曲を聴くと「望郷の念」と言った感傷的な気分に私はなりますが、私に関わらず、多くの人も同じようになるようです。 例えば、スコットランド民謡の「蛍の光」、平原綾香が歌った「ジュピター」、これは、ホルスト作「惑星」の中の、「木星」に日本語の歌詞をつけたもの。「遠き山に日は落ちて」、これは、ドボルザークの「新世界」に日本語の歌詞をつけたもの。 とくに、前に私は回答したことがありますが、ドボルザークの「新世界」とは、当事のヨーロッパにおいて新天地だった、アメリカのことで、ドボルザークはアメリカに行って、黒人霊歌からインスピレーションを受け作曲したそうです。当事のアメリカにおいて奴隷として働いていた、黒人は、音楽に故郷アフリカの望郷の念をこめたと思われ、「ヨナ抜き」手法は、民族を超えて、感情に訴えかけるという不思議な効果があると思われ、哲学的に、意識や無意識との関係などを考察するに興味あるものと思われます。 しかし、是非とも、Tastenkasten先生の、ご意見を聞きたく講義して欲しいですが、私もよく理解してない音楽理論ですが、シェーンベルクは「十二音技法」という自動音楽作曲理論を作り出したそうです。 この理論が元になっているのか分かりませんが、現在ではコンピューターに自作の歌詞を入力すると、自動的に作曲してくれるなどという世の中になってます。 すでに、オリジナリティーのある旋律というものは過去の人達によって出尽くしたのでしょうか? 音楽カテの様になってしまいましたが、音楽も根底に哲学という土台の上に立っていると思います。 Tastenkasten先生の講義とbragelonneさんの見解のお礼を待ちいたしております。
お礼
ぐーてん・もるげん あめんほてぷさん。ご回答をありがとうございます。 《音楽カテ》そのもののことは 残念ながらわたしには 素養がありません。 《「ヨナ抜き」手法》も その言葉が耳に残っている程度ですから しけています。 音の形式的なつながりから 情緒が呼び起こされるか? でしょうか。 ★ ショパン・・・ルービンシュタイン・・・フランス人のルイ・サダ・・・音楽用語に「ルバート:自由なテンポで」・・・ ★ フルトヴェングラー ☆ はこのスレッドにもすでに出て来ていますね。 ★ ドボルザークの「新世界」・・・アメリカ・・・黒人霊歌からインスピレーション・・・ 十二音技法は いまでは下火になっていると聞きましたが さらにくわしいことなど たすてん先生からおそわってください。 ★ すでに、オリジナリティーのある旋律というものは過去の人達によって出尽くしたのでしょうか? ☆ これなどは おもしろそうですね。時代ということもあるかも知れないとは思いますが。 おあとがよろしいようで。
- Tastenkasten_
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> ▽ 古代ギリシャ語の動詞、“aisthanesthai”~“感じる”の原意に立ち帰り“感覚学”について論じる方が当を得ている。 > ☆ をみとめ受け容れつつも なお《ラチオ(比率・理性)》の側面をも いっしょに伴なって欲しいとは単純に願うのですが。 序章の冒頭からの引用なので、十分ではなかったと思いますが、「ラチオ」の部分は、実践的音楽美学では、作曲理論そのもの、音楽の法則、規則の方に吸収されるとお考えください。つまり、哲学的考察は二次的であり、現場で役に立つかどうかが優先となります。音楽家が現在「美学」という言葉で話す内容は、絵画に例えると、たとえばバロック絵画なら、女性の美を表現するために、首の長さを実際より長く書いて誇張するとか、キュビズムやピカソで、違う方向から見た像を一つの画面に複合して、従来の方法とは違う形で対象の真実を捉えようとするとかのように、美としての芸術作品の表現目的と、具体的な技術の理論化、体系化を関連づけて、総合することです。ですから、哲学とはもはや、ほとんど切り離された分野と言っていいのかもしれません。完全な切断ではありませんが。 >でもですね 先生。ヘーゲルの議論に出て来ていますよ。 2.形式論のことですね。内在的音楽特有美論が妥当だと思いますが、ヘーゲル自身は、どう言っているのでしょうか。ただ羅列しただけなのですか。実は、先ほどの回答に書き忘れたのですが、形式論のハンスリックに反論したローランサンという人は、ヘゲリアーナー(ヘーゲル信奉者)だったそうです。ヘーゲルの原文を全部読む時間はもう残っていませんので、これはbragelonneさんへの宿題とします。 先ほど書いた、「音楽は何のために必要か」という個所は、エンゲルという学者の章だったのですが、ダメなことがわかりました。音楽の役割を、人間の美に関する教育の目的としたいために、ほかの芸術分野の位置を恣意的に貶めようとしたらしいので、論外です。ハンスリック以降の美学の流れとしては、形式的美学→内容的美学→折衷的美学→悲観的美学→生理学的美学などがあるようです。これは多すぎますし、現代については、ハイデッガー、ベンヤミン、アドルノを紹介済みですので、あとはダールハウスの著作を読んでいただくことにして、音楽の哲学についてはひとまず終わりにします。明日、可能ならば、取りこぼしていること、補足等を追加します。音楽の目的とか、真善美については、私の個人的な考えを手短に述べるだけにします。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「ラチオ」の部分は、実践的音楽美学では、作曲理論そのもの、音楽の法則、規則の方に吸収されるとお考えください。つまり、哲学的考察は二次的であり、現場で役に立つかどうかが優先となります。 ☆ むつかしいと感じました。つまり やはり真善美の問題になるかと思われます。 かんたんには述べられません。 ひとつ言えることは 技術の問題にたずさわっていても 思想は生活態度としてあるわけですから その点で・またその範囲で じゅうぶんに哲学とかかわっている。と思われることです。 ヘーゲル。そうですね。原典に拠るべきですね。 けっきょく音楽は外して来ましたね わたくしは。美術なら多少は首を突っ込んだとしてもです。 ダールハウスも残しています。 ありがとうございました。ここまでとしてもお疲れ様でした。
- Tastenkasten_
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最初に、amenhotep2000さんの、ワーグナーと哲学、ヘーゲルの件ですが、ヘーゲルがワーグナーのオペラを見た可能性はゼロです。オペラ以外の作品を含めても、ヘーゲルの死後ですので、名前も知らなかったと思います。むしろ気になるのはベートーヴェンで、一般的には、ヘーゲルはベートーヴェンを知らなかったとされていますが、先ほどリンクを張ったダールハウスの著作には、聞いていたのではないかと疑われています。 ワーグナーと哲学者の関係ですが、ワーグナーが最も影響を受けたのはフォイエルバッハです。ワーグナーは、カントにしろそのほかの哲学者にしろ、概念学としての哲学、原理論的基礎には全く興味がありませんでした。ショーペンハウアーは、直接の知り合いでもありましたが、作品に直接影響を与えたかどうかについては議論されています。作品中に、ショーペンハウアーに類似する思想は現れますが、お互いの思想にもともと類似点があったとも思われ、ワーグナー自身が後でそれに気が付いて、改めてショーペンハウアーを読む、ということもあったようです。晩年には、毎日のように読んでいたという記録もあります。ただし、ショーペンハウアーの悲観的世界観には同調せず、また、「意志と表象としての世界」第4巻の禁欲的な思想については、冷たい態度だったといいます。ニーチェについて、確かワーグナーは、ニーチェを自分のためにうまく利用した、というような話がすでに出ていたと思いますが、ワーグナーの人柄を考えると、ショーペンハウアーやニーチェの思想とは、もともと相容れないところがあると思われます。さらに、ワーグナーは、自分自身を思索する芸術家だと思っており、同時代の哲学者に劣るところはないと思い込んでいました。そのため、哲学の専門的論究への興味を持たなかったようです。ワーグナーのこんな言葉が残っています。「最高の哲学とは、哲学を全く持たないことだ。」(笑) >もっとも素朴なとんちんかんをお聞きします。 >1. 一定の長さを持ち或る高さで定まった音が 次々とつらなっていく。長さと高さは いろいろ自由に選ばれる。これがメロディー。 これはあっています。ただし、「長さ」を自由に選ぶということがリズムの変化です。リズムの変化がなく、音高だけの変化でもメロディーは作れますが、普通は、異なった長さの音の組み合わせでリズムの変化を付け加え、特定の性格を持つメロディーにします。 >2. たとえばこの連なりのまとまったものが 繰り返されると そこにリズムが出来る。 いえ、1.で申し上げたように、音一つ一つの長さの変化がリズムです。連なりのまとまったものが繰り返されると、フレーズ(楽節)の反復となり、すでに楽曲構成、形式に関わる要素となります。 >3. 一つの音が異時にあるいは同時に別の音と調和することがある。これが ハーモニー。 ああ、難しい(笑)。ハーモニーは、同時に鳴らして調和する音の組み合わせをいいます。「和音」のことです。「ドミソ」の和音でしたら、「ド」、「ミ」、「ソ」の三つの音が同時に鳴って調和することです。調和の度合いによってハーモニーの性格、緊張度が違い、「協和音」「不協和音」などという区別があります。ちなみに、「不協和音」というのは、多くの人が誤解しているような、「耳障りな汚い音」という意味ではありません。ハーモニーの一つです。「不協和音」の方が緊張度が高いので、古典的な作曲では、不協和音が協和音に進行、解決するという力学によって音楽が進められていきます。 >4. メロディーは つうじょうリズムとハーモニーを伴なって みづからを表現する。 ここが面倒なところなのですが、ヘーゲルがここで言っているのは、音楽全体ではなくて、メロディーという要素だけを切り出して言っているので、表現が難しいんですよ。リズムはすでにメロディーの中にあります。メロディーとハーモニーの関係は、すでに書いたような気がするのですが、メロディーを書くときには、あらかじめその部分にどのようなハーモニーをあてがうかを設定してから書かないといけないということです。ですから、1.の「音の長さと高さはいろいろ自由に選ばれる」というのは本当は誤りで、その部分に鳴るべきハーモニーに属する音を中心に選ばなくてはなりません。もし、「ドミソ」のハーモニーが鳴る場所であれば、「レファラ」というメロディーを書いてはいけないわけです。「ドミソ」以外の音も使えますが、使うための規則があります。例えば、「ドレミ」というメロディーは書けます。理由は、「ドミソ」というハーモニーに含まれない「レ」の音が、ハーモニーに含まれる「ド」と「ミ」の間に挟まれていて、経過的に現れるだけだからです。お分かりになりましたでしょうか。 >5. この三者の関係が 《 in deren wesentlichen und in sich selbst nothwendigen Verhältnissen 》のことではないでしょうか? この部分は、わかりにくくなるため、わざと省略しました。哲学者の良くない面です。観念的過ぎて、かえってこんがらかります。「deren」は「Bewegungen」を指しているのだと思いますので、三者の関係ではなく、4分の4拍子などの、決まった拍子の中でのリズムの割り振りのことです。 コメントにお答えしているうちに、時間が遅くなってしまいました。書き落としていることがありますが、締切りの四週間というのは、厳密に時間で測られるのでしょうか。もしそうなら、明日の夜11時半まで時間がありますよね。それとも、今晩で終わりですか? ここまで急いで送ります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 メロディー等の理論 ありがとうございました。 ワーグナーは まだ情報を得ていませんので あしからずご了承ください。 そう言えば もう一日あると勘違いしていたかも知れません。 質問の第二弾を挙げましょうか。締めくくりのひと言などとしてでも。
- amenhotep2000
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bragelonneさん こんばんは。 ちょっと、割り込みます。 先に回答したように、私は、友人の音大生から学生時代に使った「音楽史」の本(講義中のメモや重要なところに線が引いてある良本)で、音楽の、お勉強をしてます。 今回、回答するテーマは「オペラ」 本によると、歴史的には16世紀の終わりごろのルネッサンス期にギリシア悲劇の再興のために、フェレンツェなどの都市で始まったそうです。 さて、オペラで注目するのは、19世紀の音楽家。 ヴェルディ(1813~1901)イタリア ワーグナー(1813~1883)ドイツ ビゼー(1838~1875)フランス 特に、ワーグナーは、それまでのオペラの概念を打ち破り、「オペラとは演劇と文学と音楽が融合したもの」として、台本(オペラではリブレットという)は自分自身で書き、神話、伝説、中世的題材、超自然要素、そして「自己犠牲」のテーマ(宗教的意味合いを持つこともある。)を取り入れたそうです。 その他、劇と音楽は切れ目なくするべきと考えたそうですが、音楽カテでないので省略します。 哲学的に見ると、ギリシア悲劇の復活という点は、西洋にギリシア哲学の思想を音楽を通じて伝達した役割を考察します。 また、ワーグナーのオペラをヘーゲルが観た可能性を調べたら、ヘーゲルは1770年~1831年であり、若い頃のワーグナー作品を観たか微妙です。しかし、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルと続くドイツ観念論哲学というものは、ワーグナーに大きな影響を与え、物質より精神に重きをおいたかもしれません。 ちなみにこの頃は、ロマン主義の時代で、自国の民謡などを取り入れた、国民音楽が盛んに作られ、例えば、上述のビゼーの「アルルの女」の中の「ファランドール」という曲はbragelonneさんも you yube で聴いたら、どこかで聴いたことがあると思いますが、フランス民謡を使っているそうです。 またオペラではないですが、交響詩「わが祖国」を作曲したスメタナ(1824~1884)も同時代でいかに国民性が重視されたかを私は考察します。 ちなみに私はオペラは高いので観たことがありません。しかし、西洋では、市民の支援で数千円で観れるそうです。日本で数万円するのは、招いた、楽団や演劇する人達の、宿泊費などすべてをまかなわないといけないためだそうです。 オペラを天井桟敷で観てみたいものです。天井桟敷というと1944年作の「天井桟敷の人々」を思い出します。私が学生の頃は白黒映画ばかり扱う小さな映画館がありましたが、つぶれました。 ということで、今回は映画「ニューシネマパラダイス」を添付しますので、音楽と共にお楽しみください。 https://www.youtube.com/watch?v=9RYmWNWmKT4 私は異国情緒に浸るため、ロシアのボロディン(1833~1887)の「韃靼人の踊り」を聴きます。 と言ったら、ボロディン反応を思い出してしまった。化学の、お勉強せねば。 哲学は、すべての分野の学問に精通しないと、大成しないと思ってます。 Tastenkasten先生のご意見も含め、お礼をお待ちいたしております。
お礼
直前のNo.44で ハンスリックの議論をめぐる問題――形式主義――の後半を残したまま こちらに先に来ました。 こんばんは。ご回答をありがとうございます。 でも No.39で あれほどオペラは苦手だと言って来たのに。 いいんですけれど。 ワーグナーは何かと話題に出て来て どうなんでしょう。どうなんですか あめんほてぷ氏は。 ビゼーのアルルの女 これは かなしいと同時に何だかすっきり解決もするような内容でしたか? うろ覚えで言っています。 ★ 映画「ニューシネマパラダイス」 ☆ 予告編 きちんと見ましたが イタリア映画ぁーって感じですね。しかも シチリアですし。 ★ 哲学は、すべての分野の学問に精通しないと、大成しないと思ってます。 ☆ えらいことを言わはる。 スメタナ・国民性というのは 民族音楽といった主題になるのですか? ボロディンに反応し得ずじまいになっちゃった。
- Tastenkasten_
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モーザーからの引用です。 *************** 哲学は、もしカントの三つの“批判”を基礎とするならば、“純粋理性”の哲学もしくは認識論、“実践理性”の哲学もしくは倫理学(道徳学)、“判断力”の哲学――すなわち(その第一部が)美学――からなっている。しかし、現代の芸術見解によれば、昔の古典的観念論のように“美学”なるものを“芸術美論”でもって説明して足るとは、もはやとうてい考えられない。なぜならば、それでは“美”が学問的努力の対象もしくは究極目標としてあまりにも一面的に強調され、そして他のすべての質(たとえば特徴や醜など)が、始めからいちじるしく軽視されると思われるし、あるいはまた、“美”に、その本来の言葉のもつ意味の本質的なものを奪いさる幅のある内容が加えられる結果になる、という憂いもあるから。それ故に、古代ギリシャ語の動詞、“aisthanesthai”~“感じる”の原意に立ち帰り“感覚学”について論じる方が当を得ている。美学は最も広義では感性心理学であり、狭義の芸術美学としては、芸術効果の学であり、また、その前提としては、芸術創作と芸術受容の本質、ならびに――効果の本来の出発点として――芸術作品の法則性の学である。 (ハンス・ヨアヒム・モーザー著、橋本清司訳「音楽美学」、音楽之友社、5ページ) **************** こうした事情から、音楽美学は、哲学よりも音楽学の領域に移ることになりました。また、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアーと見てくると、音楽は、文学や美術に比較して、専門知識がないと哲学者の手には負えない部分があると思います。ですから、ニ十世紀の哲学者が多少音楽について何か書いているとしても、それは、あまり音楽の実践には影響しないでしょう。まあ、アドルノは、いろいろ問題があるとしても、全部無視するわけにはいかないものだとは思いますが、偏狭、難解、悪文、などのせいで、なかなか読む気にはなれないところがあります。今回、全部で6冊、アドルノの著作を借りているのですが、ほとんど見ていません。「マーラー」などは、必ずしも悪くはない印象がありました。また、先日書いた、フランスの室内楽についての偏見が含まれている講演集、「音楽社会学序説」(平凡社)も、部分的には面白いところがあります。第一章、「音楽に対する態度の類型」は、なかなか面白い考察です。御紹介したいのですが、時間が足りませんし、この部分は、要約しても面白くありませんので、できましたら、図書館などでお借りになってお読みください。 話を元に戻して、ハンスリックですが、こちらは、ネット上にわかりやすい説明がありましたので、そちらを読んでいただく方が早いです。 ハンスリックの音楽美論 http://kenichinakatsu.blog.fc2.com/blog-entry-115.html もう一つ、現代ドイツの有名な音楽学者、カール・ダールハウスの『古典的・ロマン的音楽美学』でも紹介されています。 http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/honyaku/musikaesthetik/aesthetik_51.html 上の訳者は、この本の全訳をアップしてくれていますので、古典からロマンまでの音楽美学は、こちらでひと通り把握できます。音楽の専門的なことも含みますので、全部は読み切れないかもしれません。私も昨日見つけたばかりで、未読ですが、非常に興味があります。 http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/honyaku/musikaesthetik/aesthetik_index.html ハンスリックは、音楽に、音楽以外の要素を持ち込むことを否定したわけですが、音楽の内容よりも形式美を強調したということで、「形式的美学」の方に分類されます。そのあと、当然ながら、ハンスリックへの批判が出てきます。こちらの方は、「内容的美学」になります。引き続きパウル・モースの著作によりますが、まずローランサンという人が、ハンスリックが、一方では精神とか感覚と書いておきながら、他方では感覚と音楽のすべての内的関係に反論するのは矛盾であるとして、激しく反論したようです。とはいっても、学問上の対決で、人間関係としては友人であったらしく、誕生日をハンスリックやブラームスと共に過ごしたとも書いてあります。その後も、ハンスリックに対する反論が次々と出てきて、音楽と詩の関係について論じる人が増えたような印象です(もう、読み切れなくなっていますので、漠然とした印象ですが)。ハンスリックの主張を覆すためには、オペラなど、テキストや文学的内容を持った音楽を正当化する必要があったでしょう。そして今、読んでいる途中で、音楽は何のために必要か、という言葉が突然目に留まりました。あとで少し読んでみます。 まだ補足したいことはありますが、今晩もう一度回答が出せればと思っています。
お礼
ハンスリックの絶対音楽などについて 承前ですね。 まづ ★ ハンス・ヨアヒム・モーザー著、橋本清司訳「音楽美学」 ▽ 美学は最も広義では感性心理学であり、狭義の芸術美学としては、芸術効果の学であり、また、その前提としては、芸術創作と芸術受容の本質、ならびに――効果の本来の出発点として――芸術作品の法則性の学である。 ☆ どうなんでしょう。はっきり言えば不服なのですが それでも確かにこの ▽ 古代ギリシャ語の動詞、“aisthanesthai”~“感じる”の原意に立ち帰り“感覚学”について論じる方が当を得ている。 ☆ をみとめ受け容れつつも なお《ラチオ(比率・理性)》の側面をも いっしょに伴なって欲しいとは単純に願うのですが。 つまり 感性および理性ともどもをたずさえて歩む日常のケなるリズムとチカラ これが感性のほうへ片寄らないかと・したがって一面的にならないかとおそれます。ケ-カレですね。率直なところ哲学の未練としては ケ(日常性)なる美学を推し出したいですね。 ★ アドルノ。・・・フランスの室内楽についての偏見が含まれている講演集、「音楽社会学序説」(平凡社)も、部分的には面白いところがあります。 ☆ これは借りて来ていませんので あとになりますが あたってみたいと考えます。 音楽社会学は マックス・ヱーバーを読んだときにほんとうは挑戦しておかねばならなかったものです。尻込みしたと言いますか ヱーバー学者たち(日本人の)も とんとその方面には疎かったわけで 右へ倣えをしました。 あるいは アウグスティヌスにも大部の音楽論があります。ひととおり最後まで目をとおしましたが こればっかりは――と言っても詩の韻律のごとき議論でもありましたが それでも―― 歯がたちませんでした。 さて ★ ハンスリックの音楽美論 ☆ この解説は コピペが出来ないのですね。 後期ロマン主義において 感情表現を主体とする前期からの音楽表現を引き継ぎながら さらに劇化しそして標題化したところ 音楽の純粋性を問うて 形式主義的音楽論が出たのだと。19世紀の半ばのこと。 《自律的音楽美学》とまで言ってるんですね。 音楽自体の特性が現われる器楽が 最も純粋で絶対的な音楽であると。 《響きつつ動く形式》 これが 音楽の内容であると。 しかも 《自然から――自然において見られるようなリズムを別として――かけ離れた音そのもの》であり その結合である。 《音楽の形式美とは 無対象的である》。ただしその形式美たる音の発案そのものが 個性的であり作品をかたちづくって行く。 この立ち場から 標題の示す詩的内容や感情や情景を描き出そうとするワーグナーやリストやベルリオーズの音楽〔観〕と対峙した。 以上は Kenichi Nakatsu 氏の解説によります。 でもですね 先生。ヘーゲルの議論に出て来ていますよ。 ▲ (回答No.12補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~ § 4 音楽的表現手段の内容との関係 (と) 音楽美学の三つの理論 1. 表出説: 音楽は自然の凡ての現象及び人間の凡ての感情を描写すべきであると考える立場。 1-a.観念論: 表出説のうち 更に思想、観念を描写し得るとするもの 2. 形式論: 音楽美はあらゆる観念や感情と交渉なく、単に数的関係に成立つとする。即ち音楽の本質はその形式に在るとする。 3. 内在的音楽特有美論: 両者の中間に位置する立場であり、音楽的形式に基づく特殊感情を内容 とする。 Lehre von der immanenten spezifisch musikalischen Schönheit ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (3)の見解が 妥当なのではないでしょうか。 ★ 現代ドイツの有名な音楽学者、カール・ダールハウスの『古典的・ロマン的音楽美学』でも紹介 ▽ ハンスリックと音楽の形式概念 ★ 古典からロマンまでの音楽美学は、こちらでひと通り把握できます。 ▽ カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』 Carl DAHLHAUS, Klassisch-romantische Musikästhetik, Laaber 1989. ☆ うわぁ。便利ですね。 ★ ・・・ハンスリックの主張を覆すためには、オペラなど、テキストや文学的内容を持った音楽を正当化する必要があったでしょう。そして今、読んでいる途中で、音楽は何のために必要か、という言葉が突然目に留まりました。あとで少し読んでみます。 ☆ これは 微妙で最大の課題であるかともわたしには思えます。 すなわち 《内在的音楽特有美論》に立つとしても その美がどのように現われるのか。そして この美は 何のためにあるのか。なる問いが持たれて来るでしょうから。 ひとつ前のカール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』全体とその中のハンスリックの記事をも一たん後回しにしまして 休憩とします。
補足
▽ ハンスリックと音楽の形式概念 in カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』 第5部 「精神的な素材における精神の仕事」 ☆ この一節を成す議論は 要約することがなかなかむつかしいように思われます。 ハンスリックとその批判の相手であるロマン派という構図だけではなく カントやあるいはヘーゲルなどなど幾人かの論客を登場させて その歴史的な系譜や互いの間の類似性や相違性について丹念にたどっているように見られます。 しかも ハンスリックにとっての論敵の一人であるたとえばフ-ゴ・リ-マンの立論を捉えてみれば それが何よりも《感情の表現、「感覚の〔――あるいは 心の――〕自発的な絞りだし」》を重んじているとしても ハンスリックにあってもその主張する《鳴り響き運動させられた形式》は じつは《精神の表現》であると言うとき どちらもその大きく《自己表現》の結果として音楽美はもたらされるということになっている。 精神と感覚とは違うかも知れないが いづれについてもその《絞り出し》であるかに思われる。 この対立(?)をめぐって いろんな人の議論が紹介されている。それらの微妙な違いということについてはけっきょく全部を引用することになるかに思われる。というむつかしさがあると考えます。 要約は 断念して キモとなる議論を取り上げます。 ▲(ハンスリック) 音から形成された形式は[・・・]内側から形態化する精神である。 ▽(ダールハウス) ハンスリックにとって 形式は精神の表現であるのみならず 精神そのものである。 ▽ 彼(ハンスリック)は ヤコブ・グリム〔* の言語理論〕に依拠しながら 音体系の形成と個別的な楽想の鋳造に《言語精神》の作用を認識する。音楽は《言語》であり 作曲は《精神能力のある素材における精神の仕事》である。 ☆ ここまで言うとすれば 音楽の美は 人間の精神のつくりだすものであると見ているか。 音楽の生み出す美しさは 人間のハカラヒとしての創作であると言い切ったのであろうか。 わたし(=質問者)は 美は――創作におけるハカラヒによる部分もあるはずだが―― ハカラヒを超えていると思う。創作という人為プラスαのアルファの部分が 美という美にあたると思う。 ハンスリックが《形式》と言うときそれは 単なる《形式》とも また違うようである。《精神そのもの》だというからには。 むしろロマン派の音楽観とさほど違わないとも言えるように思われる。《感情や心の絞り出し》と《精神の表現》とは さほど違わないのではないだろうか。 ★ カール・ダールハウス『古典的・ロマン的音楽美学』 ☆ の全体については 宿題とすることとします。
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こんばんは。 そろそろ締切が近いですね。とりあえず、頂いたコメントへの再回答から。 >ロラン・バルトです。 >人に対して音楽が持つ意味は 一般にそれとして認められる音楽評論〔の説く内容〕とは別だということでしょうか。 「聞かれる音楽と演奏される音楽は全く別の芸術」というのは、単純に、聴衆が聴く音楽と、演奏家にとっての音楽、という意味だと思います。バルトは自分でピアノを弾きましたので、その感覚で、弾いているときと聞いているときとでは、音楽との関係が違うと気づいたのではないでしょうか。ところで、ここでおっしゃる「音楽評論」というのが、どういうものを指しているかが問題ですね。長い音楽評論の歴史の中である程度評価が定まった評論ならわかりますが、新聞や音楽雑誌に出る、音楽評論家なる人たちによる評論ならば、あまり問題になりません。彼らは、自分ではほとんど楽器も弾けず、作曲もできず、ただ学問的に音楽を研究して得た知識で判断します。内容のひどいものはたくさんありますよ。最近でしたら、最悪の例は、佐村河内の「広島交響曲」をNHKのドキュメンタリーで分析して見せた音楽学者です。一般大衆向けの番組でああいう分析を入れるNHKの演出もひどいですが、専門知識のない人が見たら、すごいことをやっているのだと思うに違いないでしょう。しかし、中身は空っぽですね。十字架音型なるものを探し出して、「平和」と関連付けるなど、曲を持ち上げるために強引にやっているのではないかと思うことばかりだったんですよ。ついでに言うと、あの番組がブームの火付け役になったと言われていますが、私はあれを見た時点で、こいつは耳が聞こえるのではないか、と疑ったのです。曲はそれ以前にネットでちょっと聞いて、いくら日本人が、障害を乗り越えたという感動物語に弱いセンチメンタルな人種だからと言って、これを評価するということはないだろう、とあきれていたのが事実です。あの時は、評論家だけではなく、演奏家や作曲家にも絶賛していた人がたくさんいました。音楽評論って難しいんですよ。本当にわかっている人はごくわずかですから。ですから、「一般にそれとして認められる音楽評論」などというものは、果たしてあるのだろうか、という疑問が常にあって、そのとばっちりを受けた形で、過去の著名な評論家の書いたものにもあまり手が伸びない、という事情があります。今回いろいろ調べて、見るべきものはあるのだということはわかりましたが、音楽の現場で仕事をしているものにとって、あまり実際の仕事に直接かかわってくるものではないので、どうしても疎遠になりますね。 >作者と読者がいる。けれども 作者も 作者であるとともに読者でもある。 もちろんそういう面がないわけではありません。自分の書いたものを客観的に聴衆として聞いてみる、ということが有効な場合もあります。しかし、ここでバルトが言っていることは、たぶん、作品が作者の手を離れて鑑賞者に渡った時、作者自身が考えている内容とは違う内容が付与される、ということでしょう。 ベンヤミンの個所は、ちょっと混乱しているようです。大和言葉や西行に引き付けようとされて、つまずかれているように思います。ベンヤミンはたぶん、「嘆き」の瞬間に発せられる声を、意味を持たない音響体としてとらえ、それが音楽に移行する、という考えなのではないでしょうか。そのあとのところもちょっと飛躍ですね。もう一度引用しますけれど、次の箇所です。「散漫な受容者が行う複雑さの削減は、彼が手を付けることができるものを自らの上に整理し、彼自身の経験的存在――観照的な聞き方において消される傾向にある経験的存在――への関連とともに編み直す。まさにこの理由によって、われわれは、ある意味で生産者、つまり、芸術作品の中に反映される、われわれ自身の生の現実の生産者である」。これは、ある意味、先ほどのバルトが言った、聞かれる音楽と演奏される音楽の違いにも通ずることなのですよ。具体的な例――私自身の――を挙げると、こんなことがありました。留学したとき、最初の渡航時には、身の回りのものしか持参できませんでした。作曲をしているものは、普段音楽を聴くとき、楽譜を見ながら聞く習慣がついています。専門知識のあるものにとっては、そういう聞き方の方が、ただ聞くだけの時には聞き逃しやすい細かなことにまで気づくので、大事なのです。しかし、渡航直後の私は、楽譜がほとんどない生活を強いられ、ラジオで音楽を聴くときも、じっと集中して聞くしかありませんでした。ところが、そういう聞き方をしていると、それまで複雑な音楽の構造を楽譜の助けですべて聞きとっていたときには気が付かなかったことに注意が向くようになりました。つまり、ある種のリライト(re-write)です。複雑なものを、散漫な聞き方を通して、無意識のうちに把握可能なレヴェルにリライトする。それによって、自分自身の生の現実を、芸術作品の中に反映することができる。そんな意味だと思います。ですから、「人生そのものが 芸術行為である」ということ自体はその通りだと思いますし、何ら反論はありませんが、ベンヤミンのこの部分に関しては、そこまで言っているものではないでしょう。 ヘーゲルの要約を再度出していただいているのですが、昨日、メロディーの個所を思い切りわかりやすく書き直しました。高柳茂の論文中の訳では理解が難しいと思います。もっと新しい、こなれた訳の「美学講義」は出ていないのでしょうか。私が誤解したきっかけになったのは、「メロディーは音の自由な展開なのであるから、一方拍子、リズム及びハーモニーとは独立している」という個所です。「独立」という言葉を見て、「それはないだろう」と思ってしまいました。この箇所は、原典ではこうなっています。 Die Melodie in ihrer freien Entfaltung der Töne schwebt zwar einer Seits unabhängig über Zeit, Rhythmus und Harmonie, doch hat sie anderer Seits keine andere Mittel zu ihrer Verwirklichung als eben die rhythmisch taktmäßige[n] Bewegungen der Töne in deren wesentlichen und in sich selbst nothwendigen Verhältnissen. 「schwebt(浮遊している、漂う)」という動詞、「zwar(ではあるが)」、および「einer Seits(一方では)」という断り書きが「unabhängig(依存しない)」という言葉の前に出ているので、もっと正確に訳さなければダメです。抄訳ですが、「メロディーは、時間、リズム、ハーモニーには拘束されないという一面があるとはいえ、その成立のためには、まさにその、音の拍節的な運動以外の手段がないという面を持っており、その両者の間で揺れている」という内容です。ですから、ヘーゲルの音楽美学については、残念ながら、この論文だけでは正しく理解できないと考えますので、もし良い翻訳があるのなら、後日お読みになってください。 パウル・モースの著書では、ヘーゲルの良い点を挙げたあと、やはり少しいき過ぎの面もあるとしています。そのあとに、ショーペンハウアーの章が結構長くあるのですが、冒頭で、ヘーゲルの音楽美学を凌駕している、と評価されています。ショーペンハウアーは、音楽をかなり高いところに位置づけているはずですから、内容的にもいいところがたくさんあるのだと思いますが、そろそろ時間切れです。「意志と表象の世界」にあるのだと思いますので、御確認ください。私は、この本の翻訳をどこにしまったのかわからず、参照できない状態です。ただし、ショーペンハウアーも、自身少しフルートを吹いたりしたとはいえ、音楽の専門知識があったわけではなく、かなり思い違いをしているところもあるそうです。 パウル・モースの論文は、ハンス・ヨアヒム・モーザーの「音楽美学」の参考文献を見て、ネットで見つけたものなのですが、出版年が1902年という古いものでした。ですから、「現代ドイツの音楽美学」という書名とはいえ、扱っているのは19世紀までです。ニーチェの章がありませんが、まだ一般的ではなかったのか、あるいは、ワーグナー一人を賛美したものに過ぎないので、音楽全般を扱う哲学・思想ではないということではずされているのか、その点は不明です。ショーペンハウアーで、この本の第一部が終わり、「現代」に入るのですが、その最初に出てくるのが、ブラームスと同盟関係にあり、標題音楽を否定して絶対音楽を称揚したハンスリックです。ここからは、もう哲学者によるものではなく、音楽学者によるものがほとんどになります。その点について、モーザーが書いていることを、少し長くなりますが、引用します(次の回答番号)。
お礼
こんばんは。かなり遠くへ来たもんだという感覚が持てるかどうか あるいは峠にさしかかったのかも知れません。と感じています。 ご回答をありがとうございます。 ★ 「音楽評論」・・・長い音楽評論の歴史の中である程度評価が定まった評論ならわかりますが、 ☆ です。教科書に書かれるような定説のことです。 ★ ・・・私はあれを見た時点で、こいつは耳が聞こえるのではないか、と疑ったのです。・・・ ☆ そうでしたか。そうだったんですね。 そして ★ ですから、「一般にそれとして認められる音楽評論」などというものは、果たしてあるのだろうか、という疑問が常にあって、そのとばっちりを受けた形で、過去の著名な評論家の書いたものにもあまり手が伸びない、という事情があります。 ☆ という事情にも注意すべし ですね。 ★ しかし、ここでバルトが言っていることは、たぶん、作品が作者の手を離れて鑑賞者に渡った時、作者自身が考えている内容とは違う内容が付与される、ということでしょう。 ☆ ええ。そして ちらっと言ったかとも思うのですが つまり 読者もその読みによって或る種の仕方で作者にもなるといったような。 ★ ベンヤミンはたぶん、「嘆き」の瞬間に発せられる声を、意味を持たない音響体としてとらえ、それが音楽に移行する、という考えなのではないでしょうか。 ☆ じつは この《嘆き》をどう捉えるかで悩みました。《嘆き》とはっきり言うのなら 《意味を持つ》わけですから。 ですから 意味以前ととって 《あはれ》という自己表出だけの段階と見たわけです。 でも ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 複雑なものを、散漫な聞き方を通して、無意識のうちに把握可能なレヴェルにリライトする。それによって、自分自身の生の現実を、芸術作品の中に反映することができる。そんな意味だと思います。 ですから、「人生そのものが 芸術行為である」ということ自体はその通りだと思いますし、何ら反論はありませんが、ベンヤミンのこの部分に関しては、そこまで言っているものではないでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうでしたか。おそらく そうでしょうね。 つまりそういう意味合いをも言おうとはしていたと記憶しているんです。先ほどの 読者がその自分に固有の見方によっておこなう作品の読みをとおして あたかもあらたな作品を生むというほどのことが起きる。リライトですね。 人生観にまで広げたのは 拡散しすぎだったかと考えます。 ヘーゲルですが: △ Die Melodie in ihrer freien Entfaltung der Töne schwebt zwar einer Seits unabhängig über Zeit, Rhythmus und Harmonie, doch hat sie anderer Seits keine andere Mittel zu ihrer Verwirklichung als eben die rhythmisch taktmäßige[n] Bewegungen der Töne in deren wesentlichen und in sich selbst nothwendigen Verhältnissen. ☆ もっとも素朴なとんちんかんをお聞きします。わが身の感覚に恃む読者=聴者になりますので。 1. 一定の長さを持ち或る高さで定まった音が 次々とつらなっていく。長さと高さは いろいろ自由に選ばれる。これがメロディー。 2. たとえばこの連なりのまとまったものが 繰り返されると そこにリズムが出来る。 3. 一つの音が異時にあるいは同時に別の音と調和することがある。これが ハーモニー。 4. メロディーは つうじょうリズムとハーモニーを伴なって みづからを表現する。 5. この三者の関係が 《 in deren wesentlichen und in sich selbst nothwendigen Verhältnissen 》のことではないでしょうか? 6. ▲(ち) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ハーモニーそのもの〔* およびリズム〕とのこうした密接な関連によって併しメロディーは自らの自由を失いはしない。そうではなく唯気紛れに進行したり、奇妙な変化をするところの主観性に生じる恣意から自由になるのであり、正にこのことによってその真の自主性を維持するのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ショーペンハウアー:意志と表象としての世界 ☆ について もう一度あたってみます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ パウル・モースの論文・・・出版年が1902年・・・。 ショーペンハウアーで、この本の第一部が終わり、「現代」に入るのですが、その最初に出てくるのが、ブラームスと同盟関係にあり、標題音楽を否定して絶対音楽を称揚したハンスリックです。ここからは、もう哲学者によるものではなく、音楽学者によるものがほとんどになります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 何やら おもしろそうです。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ Hermann Necke - Csikos Post (Mail Coach)のような曲を聞くと、運動会で頑張ったのを思い出す方もおられるのではないでしょうか。 音楽は、ひとの活気・活力を高めることもある(特に何かの祭典等には)、と思っております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええ。それで にわか仕込みですが ハレとケとの音楽というふうに理論づけたわけです。 ふつうの生活のリズム 日常性なるケのあゆみ( basis )の音楽とそして ハレなるときのリズムをつくる音楽と。 心としては やすらかな歩みとしての基礎とそして楽しさにも悲しさにも高鳴る調子を交えた状態と。 ★ [ベートーベンと同じ1770生まれの] ヘーゲルは次のように述べていたようです(因に、ロッシーニ愛好家だったそうです)。 ☆ ヘーゲルは 嫌われているほどには 大したことないわけではなく けっこういいことを言っていると思います。 ▲ 自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること) freies Beisichsein (引用文献 p.73 ) ☆ ですか。さとりだとか解脱だとかと ブディストなら言いたくなりそうな境地でしょうか。 ▲ 「不確定なものへ出てゆくのではなく、 ☆ おそらく一般に人びとは 知識を外から・また他人から得るという感覚があって 絵を見ても音楽を聞いても 一たんとしてでも外に出て行くというふうに思っているかも知れません。んにゃ! と言ったわけですね。 ▲ 自己自身の中で分化し、 ☆ 《分化》というのは ただちにはなじみませんね。それまでまだ知らなかったおのれの一面を見た・知ったというようなかたちで《部分》を言っているのでしょうか。(分かりませんが)。 ▲ 自己へ帰還する運動としてのみ、 ☆ もともと自然本性として われがわれであって しかも世の中の良きにつけ悪しきにつけのコネやシガラミをとおして やはり外に出かけてしまいがちですから(またそのようなマジハリにおいて 互いの共通感覚というのは 必然ですしヒトの社会性として大切なものでもあると考えられますが) わが固有の時においては われに還る。最初に引いた《自由でやすらかな われへの到来 freies Beisichsein 》ですよね。 ▲ メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。 ☆ 《メロディー》が挙げられています。リズムもハーモニーをもふくむものとしてでしょうね。 それにしても 曲がそのまま《主観性の自由な拠自在性を表現すべき》ものとして捉えられているのですね。 その調べが 初めに触れました《日から日への生活においてそのつとめを果たして行く地道なあゆみ( basis )》に沿っているなら そうなりますね。 ▲ そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白の領域に於いて理想性と解放を実現する。 ☆ 《理想性》は いわゆる真善美でしょうね。 《解放》は すでに見て来た自己還帰・自己到来のことでしょうね。 《直接的表白》というのは 何でしょう? 音の調べが われらが心に直(ぢか)に入り込んで来るということでしょうか。いや 分かりません。 ▲ この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取( Vernehmen cf. p.73 )せるものである。」 ☆ 引用を直させてもらいましたが 《たましいの高い領界》ですか。 真善美だとすれば 《高い》でしょうね。ふつうの自然本性なるワレとすれば 高い低いは 必ずしも関係ないかも知れません。地べたの上でもよいはずです。でも たましいは 天翔けるのでしょうか どうでしょうか。 《解放》であると《同時にハーモニー的必然に服している》とは どういうことか? われがわれであるやすらかな状態は ハーモニーが特に合っているということなのだろうか。 記憶という行為能力は おぼえるというハタラキよりも精神ぜんたいの秩序作用にかかわると見るのですが そういった秩序≒ハーモニーの問題として捉えられたということでしょうか。 おぼえるときにも 知識や情報の整序にかかわるのだと。しかも われは意識していないのに 記憶が勝手にはたらいている。この記憶なる領域は ハーモニーと相性がよいということかなぁ。 ▲ 高柳茂:ヘーゲルの音楽美学 ☆ は あとであらためて読むことにします。 次は カントですね。 ▼ (Wikipedia ”趣味判断”) これは人間が物事の情緒を味わう際の判断であり、ここで判断される基準というのは自身にとっての趣味であるかという事である。 ☆ 《情緒》でしたら 音楽にもとうぜんかかわりますね。 ▼ そしてこの趣味判断では美醜を判断する際には快苦を基準として判断されるという事であり ☆ やっぱし快不快ですか。仕方ないですかね。情緒としては。 自分でも《心地よさ》と言っていますし。 つまり この快適さというのは 入り口でのことを言うのでしょうね。そのあと《自己到来》が よい音楽ならば 来るはずですから。 ★ なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。 ☆ 《味 schmecken 》から来ていると思ったら そのシュメッケンは 臭う( riechen; stinken )から来ているとか。いえ 独和を引いただけですが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 音楽についての哲学ってありますか? 最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。回答No.1でのやり取りで ニーチェと一緒くたにしてしまいました。 ただし 《(思想家には散々だったようですが)》なのですか。 つまり ショーペンハウアーの《音楽哲学》を 芸術家たちはほめたたえるほどであった。そして 思想家たちは散々な評価をくだした。のでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ・芸術は、イデアを純粋に表象し、個々の争いやエゴを超越するもの。 ・これらから生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 概ねこのようなものだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということですか。 《われがわれであるとき ほぼ生まれつきの自然本性に還っている》と思うのですが そのとき潜在的なエゴを持っていてもよいとわたしは思います。 あるいはもっと言えば 間違った推論を批判するときエゴをむき出しにして 論陣を張ってもよいと思います。人間の意志や心を踏みにじる内容の議論に対しては 言論の戦争をおこなってよいと思っています。その怒りを きよらかなおそれのもとに 対話に代えて批判するそのチカラを 芸術作品はあたえてくれることがある。こう考えます。 それではそのとき ○ これら(個々の争いやエゴ)から生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 ☆ と言えるか? つまりおそらくわれに還るのは 芸術作品がきっかけになるということではないかと考えます。 還るべきわれは もともとあるわけですから芸術作品の中に概念やイメージとして――あるいはつまり《表象すべきイデアとして》―― かたちづくられているといった恰好なのではない。と思われます。 イデアは関係ないと思います。つまり プラトンのとしてはです。 そんな先入観を突き抜けて われはわれに還る。のだと見たいのですが。きっかけを音楽等はあたえてくれる。 ちょっと荒削りでしたでしょうか。 ショーペンハウアーは ★ 余談ですが、ワーグナーを評価しなかったと言われています(ヘーゲルと同様、ロッシーニの大ファンだったそうです)。 ☆ ということですね。 ワーグナーは 話題として引っ張りだこですね。
補足
▲ 高柳茂:ヘーゲルの音楽美学 ☆ のレジュメです。 § まえがき (あ) 音楽美学:カント; ヘーゲル (い) 音楽観:ショーペンハウアー; ニーチェ § 1 へーゲル美学の構成と音楽の位置づけ (う) 芸術・宗教・哲学:《絶対精神》を内容としている。 (え) 芸術:直観を道具とする:美は 理念の感性的現われ 宗教:観念 〃 哲学:思惟 〃 (お) 芸術様式の分類・歴史的発展 a: 東洋的(象徴的):建築;精神的意味が限定的 ・精神を暗示する外的な容器に留る外はない b: ギリシヤ的(古典的):彫刻;精神を個的形態に適合させたもの ・有機体の身体の中に精神が現われている形態を表現するが、 尚心情の主観的内面性は未だ持たない。 c: キリスト教的(ロマン的)芸術様式:絵画・音楽・詩(劇をふくむ); 精神の直接的存在の有限性から精神自身への高揚の過程 ・彫刻迄がもつ空間の次元 Raumdimensionen が否定されて絵画が成立し、 更に絵画のもつ空間性そのもの Räumlichkeit selbst が否定されて 音楽が成立する。 このような完全な主観性への没入が音楽の基本的性格を形成する。 可視性が消え 聴覚 Gehör のみが素材として残る。 (か) カントの様式観 ・ 美は 美的理念 ästhetische Ideen の表現 Ausdruck ・ 表現:言葉 Wort ・身振り Geberdung ・語調 Ton から成る ・ よって 言葉の芸術:修辞術・詩 造形芸術:彫塑 Plastik(彫刻・建築術)・絵画 感情の戯れ Spiel der Empfindungen:音楽・色彩芸術 Farbenkunst (き) ヘーゲルの《聴覚 Gehör をとおしての完全な主観性への没入》としての音楽観 従って音楽表現には全く没客観的な内的なもの das gannze objektlose Innere 、 抽象的な主観性そのものが適わしい。 「音楽の主要課題は対象性そのものではなく、反対に最も内的な自己が 自らの主観性及び観念的な魂に従って自身の内部で運動する様式を再現(鳴) wiederklingen させることである」 従って音楽は心情の芸術 Kunst des Gemüts § 2 音楽の一般的性格 (く) 数量的関係に依存したり、又規則正しさや均斉 Regelmässigkeit und Symmetrie の形式を所有している. ハーモニーの規則や、拍子、リズムの繰り返しとか、又音のより大規模な展開の法則 (け) 音楽の把握様式 主観的内面性 subjektive Innerlichkeit の領域で内容が生命を得ることが音楽の機能である (こ) 音を「主観的内面性をもつ音」 Töne der subjektiven Innerlichkeit にまで形成し、それに生気を与 える beseelen ものが音楽である 心清は悟性的考察に走ったり、或は自意識を離れ離れの直感に分解せずに感情の緊密さ及び解明不能な深さの中で生き続けなければならない。この深い内容に欠けると、心情に何ら触れるところのないハーモ二―やメロディーの悟性的考察に陥るか、又は単なる音の佳さ Wohllaut を喜ぶ境地に堕する運命にあることが注意される § 3 音楽的な表現手段の特殊な性質 (さ) 音は 相対的な独立性を持つ 諸音及びその結合の確定性は 定量 Quantum、即ち数関係に存することとなる。 そしてこの点から言えば、生命ある有機的統一が音楽の基礎を構成するのではなく、相等性、不等性等の一般に量的なものの中で支配的である悟性形式 Verstandesform こそ音楽の基礎を構成するものなのである。 (し) へーゲルは「従って楽音について確定的に語られることは、数的関係とそれを表示する記譜法についての叙述があるだけである」と断言している。 (す) カントも似たようなことを述べている。 「音の場合では、同時的あるいは継時的な音の結合が存する限り、同一時間の中の空気の振動数の割合に基くのであるから、数学的に一定の規則へもたらされることが出来る。 ……また趣味が、あらゆる人の判断への権利をそれによって予め敢えて言明しうるところのものはただこの数学的形式なのである。しかし音楽の惹き起す魅力と心情の動揺に数学がいささかも関与しないことはたしかであって、数学は印象の比例の不可欠な制約 Conditio sine qua non であるに過ぎない」 (せ) 音楽における芸術的表現はいかに可能か 第一にへーゲルは単なる時聞的持続及び運動を扱う。即ち速度、拍子、リズム Zeitmass, Takt, Rhythmus を具体的に分析する。 次には現実の音に具体化されたもの、ハーモニーの理論を考察し、 最後にメロディーについて論じている。 (そ) へーゲルは云う。「最後の領域は前のものがその中で統一され、そしてこの同一性の中で音の真に自由な展開と結合の為の真の基礎が始めて与えられるのであるが、その領域とはメロディーである」。 (た) 又「ハーモニーは音の世界の必然性の法則を構成はするが、尚拍子やリズムと同様に本来の音楽ではなく、自由な魂が従うところの法則的な基礎、土台即ち実体的な土台に過ぎないところの本質的な関係のみを把える」 (ち) 又メロディーは「音の自由な展開なのであるから、一方拍子、リズム及びハ…モニーとは独立している。併し他方メロディーは自己を実現するためには、本質的でしかも自身で必然的な関係にある音のリズム的、合拍子的運動以外の手段をもち合せない。 メロディーの運動は従ってその現存のためのこの手段の中に閉じ込められてしまい、この本性上必然的な手段の合法則性に反対して存在し得ないのである。 ハーモニーそのものとのこうした密接な関連によって併しメロディーは自らの自由を失いはしない。そうではなく唯気紛れに進行したり、奇妙な変化をするところの主観性に生じる恣意から自由になるのであり、正にこのことによってその真の自主性を維持するのである。」 (つ) 従ってへーゲルによれぽ音楽に於ける芸術的表現ぱ、空想の自由に没入することと、かのハーモニー的 関係のもつ必然性との闘争の中に成立するのである。 (て) 彼はメロディーについて次のように結んでいる. 「不確定なものへ出てゆくのではなく、自己自身の中で分化し、自己へ還帰するところの運動としてのみ、メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自存在(自己のもとに安らって在ること〉 freies Beisichsein に適わしいものである. そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白を実現し、又直接的に内面的であるところの表白の領域に於て理想性と解放を実現する,この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取 Vernehmen させるものである.」 § 4 音楽的表現手段の内容との関係 (と) 音楽美学の三つの理論 1. 表出説: 音楽は自然の凡ての現象及び人間の凡ての感情を描写すべきであると考える立場。 1-a.観念論: 表出説のうち 更に思想、観念を描写し得るとするもの 2. 形式論: 音楽美はあらゆる観念や感情と交渉なく、単に数的関係に成立つとする。即ち音楽 の本質はその形式に在るとする。 3. 内在的音楽特有美論: 両者の中間に位置する立場であり、音楽的形式に基づく特殊感情を内容 とする。 Lehre von der immanenten spezifisch musikalischen Schönheit