- ベストアンサー
音楽って何のためにあるの?
っていう問いは成り立ちますか? わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 音楽についての哲学ってありますか?
- みんなの回答 (52)
- 専門家の回答
みんなが選んだベストアンサー
こんばんは > わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? 以下のような曲を聞くと、運動会で頑張ったのを思い出す方もおられるのではないでしょうか。 音楽は、ひとの活気・活力を高めることもある(特に何かの祭典等には)、と思っております。 Hermann Necke - Csikos Post (Mail Coach) https://www.youtube.com/watch?v=DmBMVc-999U > 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが [ベートーベンと同じ1770生まれの] ヘーゲルは次のように述べていたようです(因に、ロッシーニ愛好家だったそうです)。 「不確定なものへ出てゆくのではなく、自己自身の中で分化し、自己へ帰還する運動としてのみ、メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白の領域に於いて理想性と解放を実現する。この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴衆せるものである。」 引用:ヘーゲルの音楽美学 https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1959/9/1959_9_66/_pdf > 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 以下に、カントの”趣味判断”に関するサイトを紹介致しておりますが、ここでの” ”を”心地よい感覚”としてもじゅうぶん通じるところがあると思われます(ただし、カントは、音楽に関しては、ほとんど言及はしなかったようです)。 Wikipedia ”趣味判断” http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%b6%a3%e5%91%b3%e5%88%a4%e6%96%ad なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。 > 音楽についての哲学ってありますか? 最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。 ・芸術は、イデアを純粋に表象し、個々の争いやエゴを超越するもの。 ・これらから生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 概ねこのようなものだと思います。 余談ですが、ワーグナーを評価しなかったと言われています(ヘーゲルと同様、ロッシーニの大ファンだったそうです)。 ご参考になれば、幸いです。
その他の回答 (51)
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
> ハイデガーが嫌ったところの: >★ Igor Stravinsky, Symphony of Psalms - Muti 読み違いですよ。ハイデッガーは、ストラヴィンスキーのこの二つの曲は好きだったのです。ヴェーベルンにはなじめませんでした。bragelonneさんはすんなり聴けたのですか? ほとんどのクラシックファンは敬遠します。私といえどもめったに聞きません(笑)。
お礼
ええ。抵抗はなかったですが。 ご回答をありがとうございます。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
ちょっと補足です。 ヘーゲルの音楽美学は、かなり良いものではないかと思います。メロディーについての記述を、完全な誤りと書いてしまいましたが、これは誤解でした。レジュメだけを読んだのもまずかったのですが、高柳茂の論文中の翻訳もものすごくわかりにくいです。気になったので、ヘーゲルの原文に当たりました。そうしたら、すっと理解できました。bragelonneさんの「勝手な解釈」は、全然勝手ではなく、ヘーゲルが言っていることそのものです。わかりやすく言い直すと、つまりこういうことです。 メロディーは、音高の変化だけでは書くことができません。特徴ある、メロディーらしいメロディーを書くには、当然リズムの変化をその中に作らなければいけません。また、メロディーの各部分で同時に鳴るハーモニーをあらかじめ設定せずに、ただメロディー単体として美しいものを勝手に書いてしまうと、メロディー以外の伴奏、つまりハーモニーを付け加えることができなくなります。ですから、メロディーを発想する場合は、常にハーモニーを構成する音を中心に動かなければなりません。つまり、メロディーを成立させるためにはリズムが必要不可欠であり、またハーモニーにも制約されるのは当たり前のことですが、しかし、それによってメロディーは自由を失うことはありません。むしろ、リズムを効果的に使い、ハーモニーに正しく準拠することによって、たまたまの思いつきとか、ただその時の気分だけで音を動かすとか、奇妙な変化をつけるとかの、自己中心的なやり方から自由になることができます。そして、それによってメロディーは、真の独立を得ることができるわけです。 できるだけわかりやすく噛み砕きました。こういうことなら、ヘーゲルの原典にもっと早く当たっていればよかったと思います。「美学講義」の音楽の項は結構長いので、短期間に読み解くことはできません。 パウル・モースの「啓蒙主義時代からポストモダンまでの音楽美学の歴史」でも、ヘーゲル自身は、自分に音楽の専門知識がなく、一番肝心なところが理解できない、と謙遜してはいるが、音楽的判断は的確で、理解も深く、なまじ個々の要素について専門的知識を有している人より、ことの本質を明確に把握できる精神的広さがある、と指摘しています。パウル・モース自身は音楽学者ですから、専門家から見てもかなりの程度納得がいく内容とみていいのでしょう。おそらく、ヘーゲルで一つの山が来て、それに続くショーペンハウアーとニーチェで、哲学の分野での音楽美学はひとまず終わりではないでしょうか。それ以後は、観念論哲学の音楽美学は時代にそぐわないものになり、音楽学という専門分野における、実践的な(実技内容も含む)音楽美学にとってかわられるようになるのだと思います。 とりあえず、今日はここまでで、あとは、閑話休題。 たしか、鳥のさえずりのことをコメントのどこかに書いていらっしゃったように思います。音楽の起源の説の一つに、動物の鳴き声というのがありました。ある本では、ダーウィンは「鳥の鳴き声」としていると書いてありました。この点、若干疑問はあります。鳥の声は、動物の鳴き声の中で一番音楽的なので、すぐに思いつきやすいと思うのですが、狩猟民族ならば、狩の対象となる動物もまねたと思うのです。しかし、鳥の鳴き声は、作曲家も昔から模倣していました。例はたくさんあるのですが、フランスの現代の作曲家、オリヴィエ・メシアンが無類の鳥好きで、鳥の鳴き声をもとにした作品をたくさん書いています。日本に来日したときも、軽井沢で、鳥の鳴き声を書き取ったと言います。「鳥のカタログ」というピアノ曲集があるのですが、あまりにも長い曲なので、ここでは、「異国の鳥たち」という曲を紹介します(前半と後半に分かれています。リズムは、インドのリズムを使っています)。 https://www.youtube.com/watch?v=ht5qqE_e1UE https://www.youtube.com/watch?v=wMG07mv4Jyw セザール・フランクは、フランスの作曲家と言っても、ドイツ・オーストリアの堅固な構成をめざした人ですので、ドビュッシー、サティーなどとは正反対の美学にあります。ヴァイオリン・ソナタと並んで有名なのが、交響曲ニ短調、御存知かもしれませんが。 https://www.youtube.com/watch?v=1sqmhOIw9vw 私が好きなのは、オルガン曲の「前奏曲、フーガと変奏曲」 https://www.youtube.com/watch?v=eOd1RvwqTps 「鬼神」という曲もあります。 https://www.youtube.com/watch?v=XTH32EmZCDU&index=13&list=PL0l9BpHxaLk4yg_VHikkMWrgPBP5nf_PF ほかに代表的なのは、「ピアノ五重奏曲」と「弦楽四重奏曲」です。 https://www.youtube.com/watch?v=DytrryKqgbw https://www.youtube.com/watch?v=byS-H7dM48I まだ、ピアノ曲などがありますが、多くなりすぎるので、この辺で。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ヘーゲルのおこなった議論について高柳茂も小論の中で言ってますね。 ◆ (No.16補足欄) ~~~~~~~~~~~~~ (せ) 音楽における芸術的表現はいかに可能か 第一にへーゲルは単なる時聞的持続及び運動を扱う。即ち速度、拍子、リズム Zeitmass, Takt, Rhythmus を具体的に分析する。 次には現実の音に具体化されたもの、ハーモニーの理論を考察し、 最後にメロディーについて論じている。 (そ) へーゲルは云う。「最後の領域は前のものがその中で統一され、そしてこの同一性の中で音の真に自由な展開と結合の為の真の基礎が始めて与えられるのであるが、その領域とはメロディーである」。 (た) 又「ハーモニーは音の世界の必然性の法則を構成はするが、尚拍子やリズムと同様に本来の音楽ではなく、自由な魂が従うところの法則的な基礎、土台即ち実体的な土台に過ぎないところの本質的な関係のみを把える」 (ち) 又メロディーは「音の自由な展開なのであるから、一方拍子、リズム及びハ…モニーとは独立している。併し他方メロディーは自己を実現するためには、本質的でしかも自身で必然的な関係にある音のリズム的、合拍子的運動以外の手段をもち合せない。 メロディーの運動は従ってその現存のためのこの手段の中に閉じ込められてしまい、この本性上必然的な手段の合法則性に反対して存在し得ないのである。 ハーモニーそのものとのこうした密接な関連によって併しメロディーは自らの自由を失いはしない。そうではなく唯気紛れに進行したり、奇妙な変化をするところの主観性に生じる恣意から自由になるのであり、正にこのことによってその真の自主性を維持するのである。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そうしてそのあと: ★ おそらく、ヘーゲルで一つの山が来て、それに続くショーペンハウアーとニーチェで、哲学の分野での音楽美学はひとまず終わりではないでしょうか。それ以後は、観念論哲学の音楽美学は時代にそぐわないものになり、音楽学という専門分野における、実践的な(実技内容も含む)音楽美学にとってかわられるようになるのだと思います。 メシアン: ★ Messiaen - Oiseaux Exotiques - Aimard, Boulez Part 1 = フランスの現代の作曲家、オリヴィエ・メシアンが無類の鳥好きで、鳥の鳴き声をもとにした作品をたくさん書いています。 ☆ これは おもしろいですね。単純にあそべます。理屈抜きなところがいいと思います。 ★ Messiaen - Oiseaux Exotiques - Aimard, Boulez Part 2 ☆ パート1にくらべると 音がつながっています。その分 より少なくおもしろいです。 セザール・フランク: ★ César Franck Symphony D Minor Orchestre National de France, Leonard Bernstein = ヴァイオリン・ソナタと並んで有名な・・・交響曲ニ短調 ☆ なかなか このバスはどこ行きなのかという分からなさが消えて行かなかったのですが いや これは このヴァイオリン〔や笛〕の透き通った一本の筋を成す音が ずっと引っ張って行くのだと受け取りました。 この曲は 言わば無味無臭なのでしょうか。何にもイメージも連想も呼び起こされません。透明な音の流れ。でしょうか。 フランクの曲を四曲のこして 一たん締めます。
補足
お礼欄からのつづきです。 セザール・フランクのつづきです。 ★ Cesar Franck, Prelude Fugue et Variation op.18 played by Olena Yuryeva = 私が好きなのは、オルガン曲の「前奏曲、フーガと変奏曲」 ☆ バロックが好きですから パイプ・オルガンの音も好きですが フランクは やさしい人間だったのでしょうか。おとなしい人だったのかなぁと思わせますね。 いいんですが・どこから見てもよいのですが この野郎おー! って怒ったことはなかったのでしょうか。 ★ フランク 「ジン(魔人)」 - クリュイタンス / ベルギー国立 ☆ オルガン曲もこの《鬼神》も聞いたことがなかったです。 わたしは みづから求めて聞いたり買い求めたりすることは稀れですが いまではBSのクラシック倶楽部を毎日聞きますし(録画にて) かつては FMでやはり毎日聞いていましたから 聞いた数は必ずしも少ないわけではないと思います。でも フランクについては バイオリン・ソナタのほかは 聞き逃したのか それとも 一般にあまり取り上げられないのかのどちらかだと思われます。 この音の響きは 魔人とか鬼神といった標題とは別ですね。快適かつ心地よいです。 《交響詩 poèmes symphoniques 》とありますが ふつうの交響曲ですよね。 《 Les Djinns 》と言うんですね。ジンなら知っています。アラブ人が砂漠にいて 幻聴のごとく音が聞こえたりするときの状態だと思います。でも 迷いとか 彷徨いとか あるいは幻想といった雰囲気にまでは曲調は行っていないように感じました。 フランクっていい曲 つくりますね。 あっ あと アンドレ・クリュイタンスという人を讃えたものなのですね。でも 《ジン》ですか 題名が。 ★ Cesar Franck - Piano Quintet in F minor, Op.34 ☆ この曲は わたしにとって感じとして何だか特徴がないですね。わかった もうちょっと大きな声で言ってくれと返すような感じですね。 ★ César Franck - Quatuor à Cordes ☆ 《カトリック信徒のブラームス( le "Brahms catholique" )》という書き込みがありました。いかんせん ブラームスとは何ぞやが分かっていないと来ています。とほほ。 やさしい かつ よわい。でも よわさは いわゆる弱点ではないですね。誇るならわたしの弱さを誇ろうとも言います。 でも この歳にして血気盛んなぢぢいとしては じれったい。感じですね。 だいたいこういう曲ではないかと思った――途中の――ところで感想を書いています。あと 残した部分は 一つづつ少しづつ あとで聞こうと思っています。 ★ セザール・フランクは、フランスの作曲家と言っても、ドイツ・オーストリアの堅固な構成をめざした人ですので、ドビュッシー、サティーなどとは正反対の美学にあります。 ☆ この命題につきましては バルトの言葉を借りるなら わが身の感覚としての読者(聴者)はまだ反応を起こしません。 《堅固な構成》が――先日 シューマンのピアノ五重奏曲にちなんで触れてもらったかとも記憶し 何となくそうかなとも思いますが でも――まだよく分かりません。構成は 鳥の曲やケージの曲のほかは みな同じように成り立っているように感じるだけですから。 ▲ (フランク:弦楽四重奏曲への説明) Monumental quatuor que César Auguste Franck compose après l'écoute intégrale des quatuors de Beethoven paraît-il. On sent peut être un peu l'influence du 14è cependant. ☆ ベートーヴェンの影響があると言ってるんでしょうか。そのベートーヴェンとの比較も わたしにはままなりませんから。とほほ。(トホホの連弾)。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
続きです。 ヴァルター・ベンヤミンも、音楽についてはほとんど言及していませんが、残されたわずかな記述に、興味深い文化理論的認識があるのではないかということが、ごく近年になって指摘されているようです。トビアス・ローベルト・クラインという人が編集した、「ヴァルター・ベンヤミンにおける響きと音楽」という論文集が、2013年になって出版されました。以下は、その本の紹介記事からです。 現代イタリアの哲学者、エリオ・マタッシ(Elio Matassi, 1945-2013)と、ドイツの文芸学者、文化科学者のジークリート・ヴァイゲル(Sigrid Weigel, 1950- )が、ベンヤミンの「バロック悲劇の発展史」における音楽の役割と取り組みましたが、それによると、「自然の音」→「嘆き」→「音楽」の三段階の発展の最終段階として叙述する限りにおいて、音楽は「嘆き」から生まれた、とされます。ベンヤミンによれば、悲劇は音楽(特にオペラ)に吸収され、最終的には、音楽だけが、人間に救済と希望を与えます。ここでの音楽についての思考は、言語学の一側面(ドイツ語では、Seitenstrang=側索、という解剖用語が使われています)で、ベンヤミンは、具体的な例を挙げてはいませんが、彼の、「嘆き」における言葉と音楽の関係という思想は、特にユニークであると紹介されています。ベンヤミンは、「嘆き」を、その響きの要素をによって定義し、意味論的な内容は二次的であるとします。であれば、「嘆き」は、自然と音楽に近い位置に置かれます。 ベンヤミンはまた、オーストリアの作家、カール・クラウスによる、時には歌いながらの、しかし常に情熱的に演じられるオッフェンバックのオペレッタの朗読を聴いて、特にその響きの要素に興味を持ちました。「この朗読における言葉と詩の響き(音)は、テキストの意味的把握より優位にあり、音楽的性質に解放される」。 カール・クラウス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9_(%E4%BD%9C%E5%AE%B6) クラウスの朗読 オッフェンバックのオペレッタ「パリの生活」から、マテッラが手紙を読む場面 https://www.youtube.com/watch?v=alN8vRWPTXA あるいは、ベンヤミンは、オペラを見に行ったときの文章に、「戦争と平和」のナターシャ同様、舞台で起きていることはおろか、演目が何であったかにさえ触れず、遅刻した人、絨毯、クローク、休憩の回数や長さなど、周りのことばかり書いているらしく、これを、ペンシルヴァニア大学で哲学を教えているアドリアン・ドーブは、「解釈学的戦略としての遅刻」と定義しました。その結果、本来の芸術上の公演同様、周囲を取り巻くもろもろのものがそれほど本質的である、という、オペラハウスの人工的、芸術的地理が成立します。これは、ジョン・ケージの美学とそう遠くはない、と注釈がついていました(笑)。 さらに、アドルノの詳細に分析するような音楽の聞き方と違って、ベンヤミンは、散漫な聞き方に否定的ではありませんでした。「散漫な受容者が行う複雑さの削減は、彼が手を付けることができるものを自らの上に整理し、彼自身の経験的存在――観照的な聞き方において消される傾向にある経験的存在――への関連とともに編み直す。まさにこの理由によって、われわれは、ある意味で生産者、つまり、芸術作品の中に反映される、われわれ自身の生の現実の生産者である」、と、この部分の著者は書いています。 ベンヤミンとアドルノの間にも論争があったようです。ベンヤミンは、アドルノのワーグナー論を批判したらしいのですが、その際ベンヤミンは、アドルノよりも、作品の受容史に重きを置いたそうです。 こうしてみると、ベンヤミンの言っていることは確かに面白いと思います。散漫な聞き方、というのは、ちょっと誤解を招きやすいかもしれませんが、それが生産的な聞き方につながるというのは、ある意味当たっています。音楽の専門家には違和感があるかもしれませんが、いつも専門知識を持って分析的に聞いていると、本質的なことを把握しそこないます。私はこのことをかなり昔から感じているので、音楽家にも、時にはそういう聞き方をしてもらいたいと思っています。作品の受容史を重視する、というのも納得がいきます。この勝負は、音楽の専門知識があったアドルノより、ベンヤミンの方に分があるようです。 ロラン・バルトがピアノを弾いていた話はすでにしましたが、音楽についても書いているようですね。スティーヴン・ヒースが英訳、編集した、「Image music text」というのがありました。聞かれる音楽と演奏される音楽は全く別の芸術であり、それぞれが別の歴史、社会性、美学、エロティシズムを有する、と始まる、「Musica Practica」という章が目に留まりました。書籍全部が出ていたのですが、出版年が1977年で、著作権違法ではないかと思うので、リンクは張りません。みすず書房の「ロラン・バルト著作集」の目録を見ると、ところどころに音楽関係の文章があるようですが、上の書物に収録されているエッセイは見当たりません。 第9巻 演劇としての楽譜―作曲家ブソッティの手書きエクリチュール 第10巻 音楽分析と知的作業―現代音楽の公開研究会に参加して ピアノ 思い出―わたしにとってのピアノの魅力とは あと、Graham Allen著の「Roland Barthes」に、「音楽と写真」という章があります。 https://books.google.co.jp/books?id=o4Sg_gx3soIC&pg=PA114&lpg=PA114&dq=roland+barthes+musik&source=bl&ots=xXbHypzcSj&sig=KVqWJx6gNO9VaEvR9RYH4tYyND4&hl=ja&sa=X&ei=U4_lVILFJYjq8gXN94DgDA&ved=0CEQQ6AEwBTgK#v=onepage&q=roland%20barthes%20musik&f=false 音楽からちょっと離れますが、ジャック・デリダは、ドイツでのインタヴューで、ベンヤミンに親近感を感じると語っています。大学という場所になじめなかった点でも共通しているそうです。アドルノはあまり読んでいないと言っていますが、その音楽哲学には非常に興味を持ったそうで、理由は、アドルノがその中で、「動物哲学」を展開しているからだと言います。これは、カントが人間と動物の類似性を嫌悪したことを批判したものだそうで、デリダはそれに共感したらしいんですね。ただ、フランスの哲学者は、ベンヤミンをよく読んでいるそうです。ドイツ哲学は、フランスでは、本国ドイツとは全然違う読まれ方をしているようで、戦後ドイツでタブーだったハイデッガーやニーチェも、事情が違うフランスでは読み続けられていたと答えています。デリダ自身が音楽についてどのようなことを書いているかは知りません。音楽界にも影響を与えたという説明は見かけますが、著作権の関係で、ネットではこれ以上調査できませんので、現代の哲学者については、ここで終わります。 ほかに、人智学の創始者、ルドルフ・シュタイナーの言葉が見つかりましたので、引用しておきます。 ハーモニーとメロディーは、この低次の世界を、崇高で素晴らしい存在の予感で貫きます。ハーモニーとメロディーは、人間の最奥の本質をゆさぶり、この世が与えることができない純粋な喜びと崇高な精神性の振動で人間の最奥の本質を震わせます。絵画はアストラル体(魂体)に語りかけます。音の世界は人間の最も内面に語りかけます。秘儀に参入していない人間には、人間の故郷である神界はまず音楽の中で与えられるのです。 「音楽の本質と人間の音体験」(西川隆範訳)より もう一度、パウル・モースの著作に当たります。そのあと、実用音楽美学の方に少し触れようと思います。
お礼
続いてのご回答をありがとうございます。 ★ ヴァルター・ベンヤミン ・ 「自然の音」→「嘆き」→「音楽」の三段階の発展 ・ ベンヤミンは、「嘆き」を、その響きの要素によって定義し、意味論的な内容は二次的であるとします。であれば、「嘆き」は、自然と音楽に近い位置に置かれます。 ☆ 何でもかでも日本に引きつけているのではないかと疑られてしまうでしょうが これは 取りも直さず《もののあはれを知る》といった発想と同じではないでしょうか。 もののあはれを捉える対象は 音に限られないでしょうし そのあはれを知って思ったり表現したりする分野が これも音に限られることもないはずです。そうなのですが 音楽が最終の第三段階として見出されてもおかしくない。と考えます。 ふつうは その知ったあはれは 《うた(詩)》として自己表現するのが 日本人の場合なのでしょうけれど。しかも ウタは 音楽に直結して行きます。 と解釈したのですが いかがでしょう。(解釈というより いっぺんにピンと来たものです)。 ★ 「解釈学的戦略としての遅刻」と定義〔されるベンヤミンのオペラ鑑賞記〕。その〔見方が成り立つとすれば その〕結果、本来の芸術上の公演同様、周囲を取り巻くもろもろのものがそれほど本質的である、という、オペラハウスの人工的、芸術的地理が成立します。これは、ジョン・ケージの美学とそう遠くはない、と注釈がついていました(笑)。 ☆ なるほど。外への視点 外からの視野を 作品の中に入れる。視点のズラシでしょうか。あるいは 二重の視点。 あたかもそのズラシによる外部の取り込みのような契機を想い起こさせる《朗読》だったのでしょうか ベンヤミンにとって。つまり: ★ Jacques Offenbach / Karl Kraus, Metella liest einen Brief aus "Pariser Leben" 1930 ~~~~ ベンヤミンはまた、オーストリアの作家、カール・クラウスによる、時には歌いながらの、しかし常に情熱的に演じられるオッフェンバックのオペレッタの朗読を聴いて、特にその響きの要素に興味を持ちました。「この朗読における言葉と詩の響き(音)は、テキストの意味的把握より優位にあり、音楽的性質に解放される」。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 順序をぎゃくにしました。《朗読》だけからは この外へと視点をズラスことは思いつきませんでした。 さらにベンヤミンの目がはたらいたようです。: ★ 「散漫な受容者が行う複雑さの削減は、彼が手を付けることができるものを自らの上に整理し、彼自身の経験的存在――観照的な聞き方において消される傾向にある経験的存在――への関連とともに編み直す。まさにこの理由によって、われわれは、ある意味で生産者、つまり、芸術作品の中に反映される、われわれ自身の生の現実の生産者である」 ☆ いつも 西行に登場ねがって話をすすめるのですが こころなき身にも あはれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の ゆふぐれ つねに頭を丸めて親や家を捨てて来たという思いがただよっていたのでしょうね。そういう《こころなき身》。 目の前の光景として飛び立つシギも その沢のあたりも 日の暮れてゆく風景も そして秋という季節をも そのときの西行は視野をズラシて見ておって 視像としては《削減》してしまっているのでしょうね。 そうすると わが人生にとっても秋という季節を迎えているとか したがってやがて朽ちざるを得ないものなのだとかの思いとともに 《いま実際に身の回りのことであって手をつけることのできるものごと》が はっきりとわが事として生きたかたちで捉えられ しかもあたかもそれらを芸術としてのごとく つむぐのだという状態になった自分を意識する。 まだ音楽にはみちびかれずではあるのですが われに還ったとは言えるように思います。 ★ つまり、芸術作品の中に反映される、われわれ自身の生の現実の生産者である ☆ と言えるのではないか。人生そのものが 芸術行為である。 ★ 作品の受容史を重視する、というのも納得がいきます。この勝負は、音楽の専門知識があったアドルノより、ベンヤミンの方に分があるようです。 ☆ へと つなげようとしているのですが ちょっと飛躍があったでしょうか。 一たん休みましょうか。 補足欄は バルトからです。
補足
お礼欄からつづきます。 ロラン・バルトです。 ★ 聞かれる音楽と演奏される音楽は全く別の芸術であり、それぞれが別の歴史、社会性、美学、エロティシズムを有する、と始まる、「Musica Practica」という章が目に留まりました。 ☆ そうですね。それゆえ どういう結論がみちびかれるのか。が気に成りますね。 人に対して音楽が持つ意味は 一般にそれとして認められる音楽評論〔の説く内容〕とは別だということでしょうか。 もしそうなら それは 絵画でも同じことであるように思います。 極端な例で言うとすれば 作曲者や演奏者がそれぞれ自己表現して伝えようとする音楽の内容と その同じ作曲者なり演奏者なりが本人の創作や演奏をどう受け取るかの内容とは 別だと言っているのでしょうか? もしそうなら つねに後者としての個人ないしワタシの受け留め方が すでに積極的な行動となっているのだと。 作者と読者がいる。けれども 作者も 作者であるとともに読者でもある。読者は おのれの身と心だけで――という意味は 既成の評論内容にわづらわされずに――作品を受け留めたときに あたかも作者にさえ成ったのであり 行動していることになる。 ★ ジャック・デリダ ☆ は 読むことを試みるたびに むつかしい。読み切ったということがありません。という感想を持ちますが 今回のエピソードをいくつかうかがっても 同じですね。 ★ ルドルフ・シュタイナー ☆ 時代が違うという感じを持ちますが むろん現代風に《掬い取る》ことは出来ると思います。 あるいは 言いかえると これこそ真善美の理論にかかわって行きます。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
こんばんは。 >《標題音楽》うんぬんの問題 ここではないような気がします。また探して見ます。 ニーチェがシューマンに対抗して「マンフレッド瞑想曲」なるものを書いたという事情については、「ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト」(フランソワ・ヌーデルマン著、橘明美訳、太田出版)に詳しく書かれていますよ。面白い本です。今回のために購入しました。図書館で借りようと思ったのですが、予約が十五件も入っていたので、あきらめて買いました。ただ、彼らの音楽哲学を紹介するのが目的の本ではないので、ここでの回答には直接反映できません。 >あっ。セレナーデなのですか。と言って だからどうという別の結論が出るわけではありませんが。でも 恋人にささげる曲だと思うと 対話編の人物たちを讃えているのでしょうか。 バーンスタインの「セレナード」に関して、以前、音楽カテの質問で書いたので、ひょっとして御覧になっているかと思ったのですが、御覧になっていないようなので、補足します。 「セレナード」という語は、「恋人にささげる曲」という意味が一番一般化してしまっていると思いますが、もとの意味は、「屋外で夜演奏される娯楽的な音楽」です。中世では、吟遊詩人が、宣伝のために歌って歩いた歌で、「恋人にささげる曲」という意味で使われるようになるのは18世紀です。それと、モーツァルトに「セレナード」という曲がたくさんありますが、この時代には、「セレナード」は、「交響曲」や「ソナタ」と同様、音楽の形式を表す用語になっていて、もとの意味はほとんどなくなっています。定義は、5楽章以上の曲からなる組曲です。もちろん、言葉の意味が完全になくなったわけではなく、基本的には楽しい雰囲気のものが多くて、悲しみの表現や、重厚な表現にふさわしいタイトルではありません。バーンスタインの作品のタイトルも、そういう意味でご理解ください。 さて、パウル・モースの著書を読み続けるつもりでいたのですが、ドイツのレクラム文庫に、「啓蒙主義時代からポストモダンまでの美学の歴史」という本があり、その本自体には音楽の話はないのですが、そこに取り上げられている人たちに音楽論はないのだろうかと思って、ネットで検索してみました。 まず、ハイデッガーについては、Helmuth Vetterの「Grundriss Heidegger: Ein Handbuch zu Leben und Werk」というのがありました。それによると、ハイデッガーにおいては、詩と絵画は、哲学の詳細な取り組みの対象になりますが、音楽がその対象となるのはわずかでした。特定の作曲家の好みはあったようです。ハイデッガーが音楽の領域に入るときに、ギリシャ人やリズムの問題が重要であったことは不思議ではない、とありましたが、その前の部分を読んでいないので、つながりは不明です。1951年、ヘルダーリンが翻訳したソフォクレスの「アンティゴネ」によるカール・オルフの作品がミュンヘンで上演されたとき、居合わせた人の証言によれば、ハイデッガーは舞台の上へ行き、オルフの手を握って興奮しながら、「古代の悲劇を再びよみがえらせてくれて感謝します! 私の名前はハイデッガーです」と言ったそうです。その際、指揮をしたゲオルク・ショルティとも会いましたが、特に強い印象を受けたのは、クレオン役を歌った、ヘルマン・ウーデという歌手でした。 カール・オルフ「アンティゴネ」 https://www.youtube.com/watch?v=8YCsg4sU6_k 1956年の講義の途中で、モーツァルトの生誕200年の日が来たときは、自分にはモーツァルトについて語る資格がないとして、「旅の馬車の中や、食後の散歩のとき、眠れない夜などに、アイデアが一番よく流れ出る」で始まる、モーツァルト自身の言葉を引用し、そのあとでさらに、ドイツ・バロックの神秘主義的宗教詩人、アンゲルス・シレジウスのことば、「自らが望むように神のもとに静かに居る心に、神は喜んで触れ、それが神のリュートの演奏である」を引き、「神のリュートの演奏、これがモーツァルトである」とだけ述べた、とあります。 1962年に、「メロス」という音楽誌の刊行者、ハインリヒ・シュトロ-ベルが、「ストラヴィンスキーの音楽を知っていますか。好きですか」というアンケートを取った時、ハイデッガーは、「詩篇交響曲」と、メロドラマ「ペルセフォーヌ」を挙げました。この二曲は、異なる方法で古代の伝承を現代にもたらした、言葉の最高の意味での音楽であり、ミューズからの贈り物である、というのが、ハイデッガーの感想です。 ストラヴィンスキー「詩篇交響曲」 https://www.youtube.com/watch?v=DqWZGUO_eoc ストラヴィンスキー「ペルセフォーヌ」 https://www.youtube.com/watch?v=gdZ2fKUKKsE それ以外の現代音楽には興味を抱けなかったようです。1959年、ハイデッガーの70歳の誕生日に、ベルリンの芸術アカデミーが、アントン・ヴェーベルンの作品集のカセットテープを贈りましたが、理解できず、代わりにモンテヴェルディとモーツァルトから始めることを提案しました。自分にとっては、「音楽と言語」の問題が重要だから、ということでした。これは、ドイツ人に顕著な傾向だと思います。ヴェーベルンの音楽は、下のようなものです。 弦楽四重奏曲 https://www.youtube.com/watch?v=fQmXU-XMCIs モーツァルトは御存じでしょうから、モンテヴェルディの代表作の一つ、「夕べのミサ」を御紹介しておきます(私の好きな作品です)。 https://www.youtube.com/watch?v=S99FCAFNgaA ハイデッガーについては、このぐらいしか情報がありません。 字数が足りないので、次の回答番号に続きます。
お礼
こんばんは。きょうもわたしは 張り切ってまいります。 ご回答をありがとうございます。 ★ 「ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト」(フランソワ・ヌーデルマン著、橘明美訳、太田出版) ☆ この本の題名はどこかで見た覚えがあるのですが 思い出しません。話題に挙げられているということですね。 ★ 「セレナード」という語は、「恋人にささげる曲」という意味が一番一般化してしまっていると思いますが、もとの意味は、「屋外で夜演奏される娯楽的な音楽」です。・・・定義は、5楽章以上の曲からなる組曲です。・・・ ☆ あぁ やっちゃった。ややこしそうですね。 ハイデガー: ★ Opera Antigonae von Carl Orff ☆ ついに オペラですね。わたしは正直言って苦手なんです。歌で劇を進行させる あるいは 出来事が演じられる劇の中に歌が入る。これが 何ともふつうには思われないのです。歌で会話をするわけでしょう。 もっとも劇は絵に現われていませんし 歌詞もよく分からないのですが。 歌舞伎や能だと思えばよいのでしょうか。アンティゴネーも その筋を知って見にゆくというかたちでしょうか。 ★ ハイデッガーは舞台の上へ行き、オルフの手を握って興奮しながら、「古代の悲劇を再びよみがえらせてくれて感謝します! 私の名前はハイデッガーです」と言ったそうです。 ☆ 古典古代によほど思い入れがあったのでしょうか。或る種の総合芸術として捉えてのことでしょうか。 ハイデガーと ★ アンゲルス・シレジウスとモーツァルト ☆ どうなんでしょうか。やっぱり 小論文ほどによってでも説明してもらいたい気持ちになります。 ハイデガーが嫌ったところの: ★ Igor Stravinsky, Symphony of Psalms - Muti ☆ 詩編の側から見て その詩に音がつけられたと思うと いいなぁと思いますね。 ★ Fritz Wunderlich & Doris Schade "Perséphone" Strawinsky ☆ ペルセポネーは さほどのドラマがあるようにはあまり思いません。冥界の王だとか 春を告げる女神とか それとして捉えおさえておくといった意味がありましょうか。 これもハイデガーが嫌ったところの: ★ Anton Webern: String Quartet, Op. 28 (1938) ☆ これ いいですよね。軽やかで。わたしは すんなりと聞けます。 代わりに――《自分にとっては、「音楽と言語」の問題が重要だから、ということでした。これは、ドイツ人に顕著な傾向だと思います。》という理由での――お薦めの・そしてたすてん先生のお好みの: ★ Monteverdi - Vespers, "Vespro della Beata Vergine" | John Eliot Gardiner, Palace of Versailles ☆ いわゆる宗教音楽でよいのでしょうか? マリアのことだとしたら 教会音楽ですよね。お好きなんですか? モンテヴェルディのこの曲がお好きだということでしょうか。 教会組織は嫌いですが 夕べの祈りですとか夕べの鐘とか――山のお寺の鐘が鳴るですとか――には おもむきがあるように感じます。 かなり長いんですけれど すごいですね。歌の歌い方や曲の内容については すんなり受け留めることのできるものというほかには 特には 分からないですし反応も特にはない感じになります。 ハイデガーについては こうしてエピソード集といったかたちになるでしょうか。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
回答番号37の中に、脱落がありました。バーンスタインの「セレナード」の動画の直後の文章は、「セレナード」に関する説明ではなく、その次の、アンドリーセンの「De Staat」についてのものです。ワードのあちこちに資料を集めてあるのですが、まとめた時に、次にアンドリーセンの曲を紹介します、と書くのを忘れました。以後、気を付けます。
お礼
うけたまわりました。No.37で反映出来ました。
補足
No.36の補足欄に 《標題音楽》うんぬんの問題についてのフルトヴェングラーの見解とおぼしきものを掲げました。どうぞご覧になってください。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
今日は、もう時間が中途半端になってしまいましたので、ちょっと休憩です。その前に、ショーペンハウアーのご指摘の点について。 >(え) これを見てもわかるとおり つねづね言われてきたことだが 言葉とは理性の言語であり 音楽とは感情と情熱の言語だといってよいものなのである。 >《感情や情熱》を捉えこれを――認識を経て――表現するのは 理性であり意志であると考えられますが どうなんでしょう。 「作品として仕上げる」段階では当然そうですね。ここではたぶん、そこまでは考慮していなくて、音楽ならば、理性の言語である言葉では表現できない感情や情熱を直接表現できる、という意味でしょう。たとえば、ある人が激怒している状態をいくら巧みに文学的に描写しても、大音響の激しい音楽による表現には及ばない、ということは大いにあり得ます。音楽の方が、その人の内面の状態が直接伝わるということはあるでしょう。そんな意味だと思うのですが。日本の若い女性演奏家の中に、時々、インタビューなどで口数の少ない人がいて、音楽で表現する方がいいので、しゃべるのは苦手、などと言っていますが、音楽で伝えられることを言葉にするのは難しいです。「音楽の哲学」が、あまりうまくいかなくても不思議ではありません。 ここで、ジョン・ケージについてちょっとだけ書きます。例の4分33秒は、このスレッドでもすでに出ていますが、昨年、教えて!gooのトップページに、この曲を聴きたいと思うか、というアンケートが、サイト側から出ました。この質問はナンセンスです。また、単なる「ご愛嬌」というわけでもありません。当時、欧米では前衛の嵐が吹き荒れて、とにかく古い価値観を否定して、どんどん新しいものを発明する、ということが、強迫観念みたいになっていました。それまで音楽には使用しなかったようなものも使うようになり、楽譜も、図形楽譜など、音符で音を特定せずに、グラフィックを見て演奏者が勝手に弾くとか、いろいろなことがありました。そういう流れの中で、当然、「音楽」の定義に疑問符をつけたのが、ケージだと言っていいでしょう。ケージは、「偶然性」、「不確定性」という考え方を導入します。音の高さやリズム、あるいは楽器の選択まで厳密に設定せず、その場その場の状況に応じて自然発生的に成立する音楽です。その不確定性の思想をもっとも端的に示したのが「4分33秒」です。この作品は、初演の折に、「無音の音楽」であることがプログラムなどであらかじめ説明されていたわけではありません。聴衆は知らなかったのです。それで、最初はみなじっと静かに待っていましたが、いつまでたっても演奏が始まらないため、だんだんざわざわし始め、しまいには怒号が飛びました。演奏(?)終了後、ケージが出てきて、今みなさんは、何も聞かなかったでしょうか、と問いかけます。最初は、静かな中に、周りの人のかすかな息の音とか、椅子の軋みとかが聞こえたはずで、だんだん話し声が聞こえるようになった、そういう、生活の中の音、環境の音を聞くべきだ、とかいうような内容だったと思います。ある意味、哲学的な意味の濃い作品です。ただ、あらかじめそうだと知っていたのでは、この作品の意味がいきません。ですから、これは、初演一回限り有効な作品ではないかと考えます。この時代の芸術運動に、「ハプニング」とか「フルクサス」というものがあります。ケージもそういう流れの中にいますので、「4分33秒」も、「ハプニング」の要素が濃厚と言っていいでしょう。また、ケージは、東洋思想にも強い影響を受けていたので、彼の不確定性や無音の音楽という発想も、それと無関係ではありません。「4分33秒」の無音も、日本音楽の「間」の緊張と関係があります。そして、ケージの思想は、ヨーロッパの音楽観を大きく揺さぶることになります。 ハプニング http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0 フルクサス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%B9 ケージの代表作の一つに、「プリペアード・ピアノのためのソナタとインタリュード」という曲があります。これも、インドの哲学者、アナンダ=クマーラスワーミーの著書に影響されて、ヒンドゥー古来の概念としてのさまざまな不変の感情を表現したものです。ピアノの弦の間に、ねじやボルトなどの異物を挟んで、音を変調させたもので、不思議な、未来的な響きの曲です。曲の構造はむしろ単純で、ある意味、サティーにも通ずるところがあるかもしれません。 https://www.youtube.com/watch?v=3w7GeJCLpJc https://www.youtube.com/watch?v=6DwgXCwAjT0 https://www.youtube.com/watch?v=r0VIhAUuGnA https://www.youtube.com/watch?v=3f_HcETXrB8 「龍安寺」という作品もあります。演奏によって、全然違う曲になります。 演奏例1 https://www.youtube.com/watch?v=TNP3kuu9xvw 演奏例2 https://www.youtube.com/watch?v=9J3WpovGDtc 演奏例3 https://www.youtube.com/watch?v=WUVCIDzYYm4 演奏例4 https://www.youtube.com/watch?v=OMnSGawCWOc ケージは、しかし、音楽性はあった人で、オーケストラのための「The Seasons」などは、ごく普通に聞けます。 https://www.youtube.com/playlist?list=PLK0awoIlXvaS00Jj0XxDmvEaanI0z0Kd7 ほかにいくつか、哲学に関係する曲を紹介します。大指揮者で、ミュージカル「ウェストサイド・ストーリ」の作曲者として有名なレナード・バーンスタインに、ヴァイオリン独奏、弦楽合奏、打楽器とハープのための「セレナード」という作品があります。これは、プラトンの「対話篇」に出てくる人物を描写した曲です。 I. Phaedrus; Pausanias II. Aristophanes III. Eryximachus IV. Agathon V. Socrates; Alcibiades https://www.youtube.com/watch?v=uQYZf2U-AGI 音楽と政治の関係についての議論のために書かれた曲だそうです。多くの作曲家が、社会的制約と無関係な態度をとる、それに反論する、というのですが、そのあとは意外に穏やかな主張で、楽器の選択や素材の使い方は、社会的事情や財源に左右される、しかし、音高、音の長さ、リズムなどは制約されない、とかいうのですが、プラトンの文章の断片を使っているとのこと。その際、前の回答で紹介しましたが、プラトンが、害になるという理由で特定の旋法を禁じたことは馬鹿げている、とし、そのような音楽上の改革が、国家の法を変えることはできなかったという矛盾も、この作品を書いた理由の一つだというのですが・・・ ルイ・アンドリーセン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%B3 De Staat https://www.youtube.com/watch?v=oaATmagbYsw この作品には、当然異論があります。ちょっと長いので、後日、別の場所で御紹介します。 本日はここまでです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ・・・日本の若い女性演奏家の中に、時々、インタビューなどで口数の少ない人がいて、音楽で表現する方がいいので、しゃべるのは苦手、などと言っていますが、音楽で伝えられることを言葉にするのは難しいです。「音楽の哲学」が、あまりうまくいかなくても不思議ではありません。 ☆ そうなんですか。つまり 《音楽で伝えられること》があるんですね。 たぶんそれは 必ず人びとに伝わるとまでは言っていなくて 演奏者本人としては ともかく音楽で伝えたという確信がある。こういったことなのでしょうかね。 わたしにはまだそこまで行っていませんが そういう心の通い合いがあるのであれば 音楽は《感情や気持ちの言語》ということになるのであろうと考えられます。 ★ (ジョン・ケージ:「4分33秒」) これは、初演一回限り有効な作品ではないかと考えます。 ☆ なるほど。そういう意味は持ち得ますね。そして実験という意味合いをも超えて 演奏以外から聞こえる音を聞くということとした。――ううーん。やっぱり でもわたしは 音の演奏を聞きたい。とは思いますね。 でも 次のケージの作品は 《ピアノの弦の間に、ねじやボルトなどの異物を挟んで、音を変調させたもので》あっても ふつうの作品としての曲にも感じられます。 ★ John Cage - Sonatas and interludes for prepared piano 1/4 (1946-1948):曲の構造はむしろ単純で、ある意味、サティーにも通ずるところがあるかもしれません。 ☆ となるんでしょうか。 ★ 「4分33秒」の無音も、日本音楽の「間」の緊張と関係があります。 ☆ とおっしゃったんですが そしてこの「プリペアード・ピアノのためのソナタとインタリュード」(2/4、 3/4、 & 4/4 )について感じたことですが 音が消えたり小さくなったりするところは 日本人にとっての一般的な《間》とまだどこか わたしは違うように感じました。日本の音楽にとっての《間》がそれとしてあるとすれば また話が別でしょうが。 少し勇み足になるかも分からないのですが 次のような考察があります。《間》は 魂振り・魂鎮めと関係しているという見方です。 ▲ (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~ 鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。 たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。 〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。 その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。 間はただのうつろなる時間と空間ではない。 実は生命の蓄積される折り目なのだ。 (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 末尾の一文は 少々誇張されているかとは思います。 ★ (1)John Cage, Ryoanji ~~~~~~ Ensemble musikFabrik Bruce Collings (trombone) Dirk Rothbrust (percussion) Carl Rosman (clarinet) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これはパーカッションが何とも《しょぼい》感じをいだかせますが――正直そんな感じですが―― でも よく聞いていると トロンボーンの音がそしてそれよりさらにクラリネットの音が 何かを感じさせまた考えさせるように聞こえます。 あっ そしてパーカッションは 演奏している姿を見るから しょぼいのであって 音だけを聞いていると クラリネットの響きを際立たせているようにも聞こえます。 ★(2) John Cage's "Ryoanji" for hichiriki, two ryuteki and percussion (1985). ☆ 篳篥か龍笛かがですが ちょっとさ迷っているような調子を帯びていると感じるのですが これもありでしょうか。 ★(3) John Cage: Ryoanji (SICPP 2011) ~~~~ sicppbot's channel Anne Goldberg, oboe Jeffrey Kolega, percussion ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 音が弱いんでしょうか あまりよく聞こえませんね。意図的になのでしょうか。 ★(4) John Cage - Ryoanji ~~~ Tim Feeney Liz Tonne, voice ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 単調性を味わえと言っているような。 ★ ~~~~~~~~~~~~ John Cage - The Seasons, Movement 1 - Winter John Cage - The Seasons, Movement 2 - Spring John Cage - The Seasons, Movement 3 - Summer John Cage - The Seasons, Movement 4 - Fall ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 音が意図的に小さいんでしょうか。第四楽章の初めが少し違って 音も出ていました。 ゆえに考えさせられるのですが 自分で考えよと言っているようにさえ聞こえますが でも全部みな同じような調子だとも思ってしまいます。 ★ レナード・バーンスタイン ☆ からあとを 明日にまわしたいと思います。
補足
お礼欄を承けて バーンスタインのところから続けます。 ★ Leonard Bernstein - Serenade (Gluzman - OSRTVE - Kalmar) ~~~ プラトンの「対話篇」に出てくる人物を描写した曲です。 I.Phaedrus; Pausanias II.Aristophanes III.Eryximachus IV.Agathon V.Socrates; Alcibiades ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 対話編も忘れてしまってますね 残念ながら。 《人物描写》というのは めづらしいのではないでしょうか。たいていは 出来事や自然の風景や感情ないし心理の動きなどを感じさせ思わせるものかと思います。 キャラクターがどうであるかを示そうとしているんでしょうか。 ううーん。音による感覚言語の読み取りは まだわたしにはなじんでいないと思います。言いかえると 一般に時間差をともなっての読み取りとして なじんで来たように思います。あとで効いて来る。(そのつながりが 分かるわけではないのですが)。その曲を聞いた時点では 《言語》として〔意識して〕は受け取っていないように思います。言語ではないものとして受け取っているように思います。 バイオリンの奏でるこのメロディーは 総じて快適でした。 あっ。セレナーデなのですか。と言って だからどうという別の結論が出るわけではありませんが。でも 恋人にささげる曲だと思うと 対話編の人物たちを讃えているのでしょうか。 ★ ルイ・アンドリーセン ~~~~~~~~~~~ Louis Andriessen - De Staat / RTÉ Concert Orchestra / Reinbert de Leeuw 音楽と政治の関係についての議論のために書かれた曲だそうです。 多くの作曲家が、社会的制約と無関係な態度をとる、それに反論する、というのですが、そのあとは意外に穏やかな主張で、楽器の選択や素材の使い方は、社会的事情や財源に左右される、しかし、音高、音の長さ、リズムなどは制約されない、とかいうのですが、プラトンの文章の断片を使っているとのこと。 その際、前の回答で紹介しましたが、プラトンが、害になるという理由で特定の旋法を禁じたことは馬鹿げている、とし、そのような音楽上の改革が、国家の法を変えることはできなかったという矛盾も、この作品を書いた理由の一つだというのですが・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ぜんぶを引用してしまいましたが ううーん 分かったような分からないような。 出だしの音の性格は 快適ではないですね。そして あとでやや変わって行きますね。歌が入って来たりピアノが聞こえたり笛があとを追って来たように聞こえたり。 これは 人びとが議論をしている光景なのでしょうか。そんな単純なこともないでしょうね。 ううーん。素人だから勝手なことを恥づかしげもなく言うわけですが どこかにちらっとバッハを入れておいて欲しかった。という思いが残ります。 プラトンの政策については 音楽にかぎらず やはり表現の自由を推し出したいと思います。プライバシーや名誉棄損の問題あるいは子どもに対する措置はあるかと思いますが 人びとが自由に取捨選択して 要らないものは捨てて行けばよいと考えます。(しかも その選択があとで間違っていたということに成らないとも限らない。いろいろであってよいと思います)。 ★ この作品には、当然異論があります。ちょっと長いので、後日、別の場所で御紹介します。 ☆ ということなんですね。留意してまいります。行方が気になると言えばなりますね。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
こんにちは。 今日は、午前中留守にして、午後の途中からの作業になりましたので、あまり量は書けません。それと、音楽の哲学について、少し調べていました。パウル・モースという人による、「現代ドイツの音楽美学」という大変優れた書物を先日インターネットで見つけたので、それを少しでも読んでおきたいと思っていたのですが、何しろドイツ語で、翻訳は出たことがないようなので、要点だけを訳すのにも時間を取られました。 その前に、取りこぼしているコメントについて。 >《心地よい》が 特殊だとしたら 一般的な言葉は 何がいいのでしょうかねぇ。 「心地よい」という言葉だけが誤解のもとになったのではないようです。以前から、音楽はBGMとして、横着な聞き方しかしていらっしゃらないようなことをおっしゃっていたので、ただ単に耳あたりの良いもの、という意味でしかおっしゃっていないのではないかと思いこんだのです。しかし、お話ししているうちに、そういうことでもないということがわかりましたので、今後は大丈夫です。あえて別の言葉を選ぶとしたら、意味としては同じですが、「快適」の方がよいかもしれません。でも、どちらでもよいです。 スクリャービンを御紹介したときのコメントにこうありました。 >でも 標題音楽って あまり評判がよくないのでは? 器楽による絶対音楽の方が、価値が高いとするのは、ハンスリックという音楽学者です。ワーグナーとブラームスの対立という図式が描かれていた当時、ブラームス陣営にいた人です。今、場所が見つからないのですが、フルトヴェングラーの「音と言葉」のどこかに、絶対音楽と標題音楽の問題は、今日では解決済みである、と書いてあったように記憶しています。にもかかわらず、最近の日本のクラシックファンの中に、絶対音楽信奉が結構広まっているらしいことを、昨年ねこさんから聞きました。奇怪なことだと思います。しかし、絶対音楽と標題音楽を論じている時間がありませんので、今は保留します。 さて、パウル・モースの「現代ドイツの音楽美学」ですが、カントから始まって、現代まで扱った本です。460ページもありますので、今回読めるのはほんの少しです。 まずカントですが、カントの音楽哲学は、まだ創成期のもので、不完全かつ未熟なものです。ごく一部ですが、要約します。 カントは、色、音、それ自体ではなく、絵画作品、音楽作品が趣味判断の本来の対象となる、としました。そして、すべての美しい芸術の本質は形式にあると。また、音楽における感覚的なものと精神的なものを区別して、精神的なものに正当性を与えようと試みましたが、達成できませんでした。カントの音楽理解には、かなり限界があったようです。音楽が心を、詩よりもより多様かつ内的に動かすことは容認しました。しかし、「文化」が心に高度の精神的意味を与えるものであり、その精神的意味により生ずる認識を増加させるものであるということに従って判断すると、音楽的着想は、概念や特定の思考を含まず、ゆえに音楽は、詩のように、熟考すべきことをあとに残さないので、下位に位置づけられる、と述べています。音楽は、「文化」というよりは「楽しみ」であるとし、結論として、 感覚の美的遊戯の芸術としての音楽は、「快適さ」を考察する限りは芸術の中で最高位に置かれるが、「精神的意味」に即して言えば、色彩芸術と並んで最も下位に置かれる。両者ともに、ただ感覚のみによる戯れであり、したがって、美的な芸術よりも快適な芸術の方に数えられる。音楽を聴くことの最終目的は、精神的なものでは全然なく、純粋に肉体的なものである。 と述べています。ほかに、数のことやフォルムについていろいろ書いているらしいのですが、矛盾がいろいろあって、破たんしているようです。また、音楽について「厚かましい」、「都会性に欠ける」、などとも書いているようです。あまり音楽になじんだ人ではなかったのではないでしょうか。カントに関する章の最後に、「カント哲学と対決したヨハン・ゴットフリート・ヘルダーは、音楽に関するカントの明らかな誤りを指摘し、偏見や誇張を見抜いたが、一方で、価値ある、発展の可能性を秘めた芽や発端を見落とした」、とありました。 次に、シェリングですが、この人は全然ダメなようです。音楽は、 ●現実離れした奇妙なもの。 ●可視的宇宙のリズムとハーモニーを聞きとっただけのもの。 ●抽象的観念論のもとに、響きに対する感覚が音楽であることをやめないのであれば、それを放棄する、とまで言い切った。 ●理想の音楽美を、超感覚的天界に求めた。宇宙における第一、かつ純粋なフォルムは、リズム、ハーモニー、メロディーである。 ●オペラはギリシャ劇のカリカチュアである。 ●当時の音楽の趣味を堕落したものと断じた。ハイドンの音楽に喜ぶ聴衆がそのよい証拠である。 などなど。なお、カントにしてもシェリングにしても、フォルムという言葉を、現在のように、楽曲の時間的構成を意味するものとして使っていないように思います。フォルムという言葉と一緒に、メロディー、リズム、ハーモニーという言葉しか出てこないところを見ると、時間的構成の形式ではなく、音楽の成り立ち方、横方向ではなく、むしろ縦方向の構造のような気がします。ですから、この二人の音楽哲学を扱うときは、フォルムという語は、現在の観念には当てはまらないので、あまり考察の対象とはできないように思います。 今の二人のあとに、今回初めて聞く名前がありました。デンマークの物理学者、化学者、ハンス・クリスティアン・エルステッドという人で、カントの信奉者だったそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%89 この人の音楽論は、前の二人から比べると、大きな飛躍です。「音がもたらす楽しみの原因について」という、対話形式の著作があるのですが、エルステッドの具体的観念論は、シェリングの抽象的観念論への効果的反証となり、ヘーゲルやショーペンハウアーへの架け橋となりました。少し要約します。 ●音楽の楽しみは、理性と感覚の両方に基づいているが、その原因を自覚していない。 ●音楽美の性質とその作用の原因についての自覚的認識が欠けているにもかかわらず、音楽を聴くときの楽しみは理性的なものである。なぜなら、音と、それ同志の関係は、隠れた理性を含んでおり、無意識のうちに我々の魂にしみこむからである。 ●アシンメトリーも一つの理念の表現だが、理性的というよりは恣意的な特徴である。 ●数学者の人生の時間は、モーツァルトの交響曲の美を算定するには足りないだろう。なぜならそれは、これまでわれわれの意識に上った数学よりもっと深い数学に基づいているからだ。 和音などについて、かなり専門的な説明があるので、音楽理論をしっかり学んだ人のようです。結論は、 ●ミューズの芸術が贈る楽しみは、ただの空想ではなく、現実的なものである。それは、自然の中に堅固な基礎を持つ、つまり、表面的な感覚の櫓の中ではなく、われわれの内的本質の中に、堅固な基礎を持つ。音楽は、単なる印象の強さや衝動の充足によってだけではなく、われわれの理性的本質との完全なる一致によっても、楽しみをもたらすのである。 となっています。エルステッドは、音楽美と感性の絶対的つながりを強調しました。音楽哲学・美学にとっては、大きな進歩といえるでしょう。ただし、感性的、感覚的作用を前面に押し出し、観念論的超克については、短く示唆しているだけである、と注釈があります。 このあとヘーゲルがくるのですが、すでに紹介されているようですし、ちょっと中断しなければいけない時間になったので、またあとにします。ヘーゲルは、自分に音楽の素養がないことを自覚しており、それを残念がったようです。しかし、カントやシェリングなどと比べると、音楽への理解はあったようで、バッハ、モーツァルト、ロッシーニの作品について言及しています。ただ残念なことに、同時代人であったベートーヴェンの音楽を知らなかったようで、ヘーゲルの音楽哲学にとって、惜しまれることと言われています。 今晩、もう一度回答するかもしれませんが、閑話休題にして、ヘーゲルや現代の音楽美学については、日を改めて書くつもりです。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 音楽の哲学について、少し調べていました。パウル・モースという人による、「現代ドイツの音楽美学」:カントから始まって、現代まで扱った本。 ☆ ありがとうございます。 《心地よい》なる言葉について: ★ 今後は大丈夫です。あえて別の言葉を選ぶとしたら、意味としては同じですが、「快適」の方がよいかもしれません。でも、どちらでもよいです。 ☆ 了解しました。(やまとことばのほうもあるといいですが)。 ★ フルトヴェングラーの「音と言葉」のどこかに、絶対音楽と標題音楽の問題は、今日では解決済みである、と書いてあったように記憶しています。にもかかわらず、最近の日本のクラシックファンの中に、絶対音楽信奉が結構広まっているらしいことを、昨年ねこさんから聞きました。奇怪なことだと思います。 ☆ この点も 了解しました。小耳にはさんだことというに過ぎませんでした。 カントの音楽論: ★ 音楽における感覚的なものと精神的なものを区別して、精神的なものに正当性を与えようと試みましたが、達成できませんでした ☆ このことの意味は 大きいように感じられます。単純に言って 感覚と精神とを分けることが それほど簡単なことではないように思われます。知覚から入ったことの精髄が 精神において記憶されまたとうとばれ 用いられるというように捉えられます。 ★ ・・・音楽的着想は、概念や特定の思考を含まず、ゆえに音楽は、詩のように、熟考すべきことをあとに残さないので、下位に位置づけられる、と述べています。 ☆ そういう場合もあるかも知れませんが もし《概念》を残さなかったとしても 《着想〔にまつわる詩想や志操〕》をめぐってのナゾを残すはずです。これが やがて概念化することは大いにあり得ると考えます。 《美的な芸術よりも快適な芸術の方に数えられる》のところは もう引用しません。ひどい見方だと思います。 シェリング: ● 理想の音楽美を、超感覚的天界に求めた。 ☆ この一点は 時代の違いを感じさせるように思いました。 両者を一緒にして: ★ ・・・フォルムという言葉と一緒に、メロディー、リズム、ハーモニーという言葉しか出てこないところを見ると、時間的構成の形式ではなく、音楽の成り立ち方、横方向ではなく、むしろ縦方向の構造のような気がします。 ☆ 《時間的構成》もあるのですね。いえ 当然 ありましたね。 ハンス・クリスティアン・エルステッド: ★ ・・・エルステッドの具体的観念論は、シェリングの抽象的観念論への効果的反証となり、ヘーゲルやショーペンハウアーへの架け橋となりました。 ☆ 転轍機という言葉を思い浮かべましたが 適切かどうかは分かりません。 ● 音楽の楽しみは、理性と感覚の両方に基づいているが、その原因を自覚していない。 ☆ 理性と感覚。やっと来ました。 ● ・・・音楽は、単なる印象の強さや衝動の充足によってだけではなく、われわれの理性的本質との完全なる一致によっても、楽しみをもたらすのである。 ☆ 誇張があるかも分かりませんが ですから 音楽を単純に《ディオニュソス》の側に持って行けばよいとも思えませんでした。 ヘーゲルについての次のようなまとめは わたしなんかには 分かりやすいなぁという感じがします。: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ヘーゲルは、自分に音楽の素養がないことを自覚しており、それを残念がったようです。しかし、カントやシェリングなどと比べると、音楽への理解はあったようで、バッハ、モーツァルト、ロッシーニの作品について言及しています。ただ残念なことに、同時代人であったベートーヴェンの音楽を知らなかったようで、ヘーゲルの音楽哲学にとって、惜しまれることと言われています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただし 《絶対精神》を押し出されると やはり時代が違うというように感じられます。 ★ 現代の音楽美学 ☆ どんな感じになるのかと楽しみです。
補足
《標題音楽》うんぬんの問題: ★ フルトヴェングラーの「音と言葉」のどこかに、絶対音楽と標題音楽の問題は、今日では解決済みである、と書いてあったように記憶しています。 ☆ 直截に書かれたところではないのですが 同じ意味合いのくだりを見つけましたので 掲げます。 ▲ (フルトヴェングラー:「音と言葉」) ~~~~~ 『第九シンフォニー』の最終楽章にあっても ベートーヴェンにとっての問題は個々の言葉ではなくして むしろ詩の全体的な意味であった。 「歓喜のメロディー」はまず言葉なしに書かれ 言葉はあとからそれに付せられたにすぎない。しかし楽章全体は なによりもまずシンフォニーの巨大な構成にとっての最後の一環である。それは純音楽的な連鎖形式をとり 他の部分と同じく(たとえば先行する第三楽章のアダージョ)変奏形式の楽章となっている。 これは ベートーヴェンがとりわけ最後の時期に好んで用いた形式であったのだ。詩の各部分がもたらす感動にもかかわらず この楽章で生起する一切の事象は 純音楽的に基礎づけられている。 バス歌手のレチダティーヴォですらも 先行するコントラバスの器楽的なレチタティーヴォを通して 反復する上昇という音楽的法則のもとに有機体的全体のうちに取り入れられている。 ベートーヴェンがここで語る音楽を シラーの詩のかなり抽象的な言葉によって その概略だけでも説明できるなどと考える人がいるであろうか。 ここには 音楽が自己の法則に従って何を達成しうるかが きわめて的確に示されている。音楽は 言葉を用いる場合にも およそ詩人の言葉の世界とは隔絶する世界を打ち開くのである。 (葦津丈夫訳:「音と言葉」 in 『音と言葉』 1978 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
もう一つだけ。 > ☆ あぁ そこまでのエラーでしたか。たしか勝手な解釈として《メロディーがハーモニーやリズムをふくむかたちなのかな》と書いた記憶があるのですが。 それなら、bragelonneさんの勝手な解釈の方が正しくて、ヘーゲルが間違っている、ということになります(笑)。 おやすみなさい。
お礼
あぁ ありました。 ☆☆(No.12お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~ ▲ メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。 ☆ 《メロディー》が挙げられています。リズムもハーモニーをもふくむものとしてでしょうね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ お褒めいただき うれしいです。 ご回答をありがとうございます。
補足
ショーペンハウアーの音楽論が 見つかりました。 《メロディー主役》説のようです。そして プラトンとアリストテレスの《模倣》の問題に触れています。 ▲(ショーペンハウアー:音楽について) ~~~~~~ (あ) ・・・現実界における意志の模像が 一連の人間の行為にあたるものである。しかし 旋律はそれよりさらにもっと多くを語っている。 (い) 旋律は意志が隠し持つもっとも秘やかな歴史をも物語り 意志のいかなるきざしをも 努力をも その動きをもなにひとつのがさず描き出す。 (う) 感情というあの広範囲でただネガティヴなだけの(*1)概念に理性がつつみ切れず 理性の抽象作業のなかにはそれ以上はもういれられないといったいっさいをくまなく描き出すのは旋律にほかならない。 *1 ネガティヴな: 感情はまだ概念になっていないと 言葉も 与えられ得ず 言葉に表わし得ないというふうに《ネガ ティヴな》かたちで捉えざるを得ないことを言うらしい。 (え) これを見てもわかるとおり つねづね言われてきたことだが 言葉とは理性の言語であり 音楽とは感情と情熱の言語だといってよいものなのである。 (お) すでにプラトンは音楽を説明して 魂の感動を模倣するところの旋律の運動 (『法律』 Vol.7 ) と述べているし (か) またアリストテレスも 韻律(リズム)と旋律(メロディー)は音であるにすぎないのに どうして心の状態に似ているのであろうか。 (『問題集』 Vol.19 ) と言っている(*2)。 *2 プラトンらからの引用文について:原書から文字通りには 引用されていないとのこと。 (西尾幹二訳:『意志と表象としての世界』 vol.3 § 52 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 引用のための便宜として (あ)(い)などの記号をつけました。 音楽の創作に 理性が与からないと言うのは ちょっとおかしい。でしょうね。 つまり (え)ですが 《感情や情熱》を捉えこれを――認識を経て――表現するのは 理性であり意志であると考えられますが どうなんでしょう。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
前の回答にお礼をいただいたようなので、一点だけ追加して寝ます。 >《心地よい》というのは 《娯楽》とはちょっと違うんですけれど。バッハが心地よいのは やはり日常性としてけっきょく24時間持続するわけだからです。 >じっさいに音が成り続けているというのではなく その下地が 持続します。やはり《ケ(褻)》のチカラでありリズムだと思います。だから 心地よいのです。 ああ、ちょっと誤解があるかもしれませんね。「心地よい」といわれると、どうしてもリラクゼーションとかヒーリングということを連想してしまいます。bragelonneさんが「ケ」と感じる心地よいリズムというのは、アポロン的とかいうこととは全然関係がないのではないでしょうか。テンポやリズムが一定しているためではないですか。それなら、それは、バロック音楽の様式の特徴なので。
お礼
ううーん。まづは ご回答をありがとうございます。 ★ テンポやリズムが一定しているためではないですか。それなら、それは、バロック音楽の様式の特徴なので。 ☆ バロックは聞きますね。曲と作曲家とが一致しませんが ブックステフーデとか 違和感がなく聞かれます。 でも 《心地よい》というのは たとえばサティにも当てはまります。 ごくふつうで言わば中立的な言葉だと思って用いたのですが けっこう特殊なのでしょうか。 ★ bragelonneさんが「ケ」と感じる心地よいリズムというのは、アポロン的とかいうこととは全然関係がないのではないでしょうか。 ☆ ええ。そのことは おっしゃる通りです。 そもそも二つの型に分けることで 曲や音楽を判定しようとは思っていませんから。 《心地よい》が 特殊だとしたら 一般的な言葉は 何がいいのでしょうかねぇ。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
今日は一日こちらの回答にかかりきりでした。そろそろ時間が無くなってきたので、新しい回答は明日にします。 >(ニーチェ:この人を見よ) ~~~~~~~~~~ >ドイツ人というのは偉大さというもののいかなる概念をも理解する能力を持たない。 このところ、ドイツ人の欠点にちょっと興味がありまして、ニーチェがこんなことを言っているのなら、大したものじゃないか、とつい思ってしまいました。シューマンについては、ショパンも、自分の作品についてのシューマンの批評を読んで、かなり馬鹿にしていたようです。批評といっても、ショパンを悪く言ったものではなく、逆にほめているのですが、書いている文章がばかばかしいと思ったようです。シューマンの「音楽と音楽家」は、岩波文庫にもありますが、あまり読む気になれないんですよね。本当は読まなければいけないんですけれど。 >もしそれなら デュオニュソスは ただの脇役だとなりますが。 というより、多くの人は安全な場所にいたがりますので、あえて暴れようという人が少ないだけでしょう。この数十年、芸術界は停滞しておりまして、権威が認める価値基準に従った、面白くないものばかりになっています。これは、ニ十世紀の中ごろに前衛の嵐が吹き荒れ、短期間にあまりに多くのディオニュソスが出てしまったので、やることがなくなってしまった、という事情があります。 いや、それよりも、bragelonneさんのニーチェへの反感が強すぎるせいか、アポロン的、ディオニュソス的、という用語を使ってお話しすること自体が無理な気もします。私は別にニーチェ教ではありませんので、ニーチェには詳しくもなく、擁護するつもりもないんですが、この用語は、もうすでに哲学の分野を出て、一般的に、あるいは通俗的に、「整ったもの、古典的なもの」と、「型破りなもの、デモーニッシュなもの、自由なもの、本能的なもの」の比喩みたいになっていると思います。ですから、アポロンにはこういう事情もあった、と、神話の記述を文献的に細かく指摘されても、哲学のなかだけの話ならそういう話になるのも仕方がありませんが、私のような一音楽家にとっては煩雑な議論になります。いっそのこと、この用語を使うのをやめましょうか。どっちみち、私にはニーチェの用語にはなじんでいません。むしろ、今ふと思い起こすのは、大学で、よく師匠からダイモンといわれたことですかね。この用語もやっかいなのかもしれませんが、その声を聴けということだったかもわかりません。頭で考えるだけではなくて。それと、カタルシスがなければいけない、などという話もありましたね。この用語も注意が必要なようです。日本語版のウィキペディアには、「悲劇が観客の心に怖れ(ポボス)と憐れみ(エレオス)の感情を呼び起こすことで精神を浄化する効果」とあり、私が時々参照する「哲学・論理学用語辞典」にも、「同情し、ともに悲しみ泣く」となっているのですが、ドイツ語版に飛ぶと、どうもこれは誤訳らしいんです。今回は訳す時間がありませんので、時間があるときに御覧ください。そういえば、模倣、ミメーシスの感染についても、ドイツ語版ウィキには説明がありました。アリストテレスではなく、プラトンの方のようです。日本語版には何も書いてありませんでした。音楽を聴く意味として、どうなんでしょうかね。bragelonneさんの音楽の聴き方を伺っていると、音楽を聴くに際してカタルシスを求める、という聞き方は考えられないのでしょうか。音楽をやる側にとっては、聴衆にカタルシスを与えられるかどうかというのは、結構重要な目標になると思いますが。 >五島みどりは むしろその気持ちとしてわが超絶技巧を見てくださいと言っているのではないでしょうか。 これは思い込みがあるのではありませんか。超絶技巧というのは、彼女が天才少女としてデビューしたころの話で、最近の演奏は、技巧を前に出したものでは全然ありませんよ。 >★ 作曲に関して言えば、バッハの音楽なども技巧の極致ですから。 >☆ それは知りませんでした。演奏の結果は 違って聞こえます。これは どう考えればよいのでしょう。 作曲上の技巧は、残念ながら、作曲を勉強した人でないと、聞くだけではほとんどわからないでしょう。ただ、バッハの死後、もっと簡素で喜悦と娯楽性に満ちたロココ様式の時代が来て、バッハの音楽は、一般のひとにも、複雑すぎて難解なものと聞こえるようになりました。バッハの音楽は時代遅れになり、忘れられたのです。しかし、単に技巧に走ったものではなく、内容のあるものだったので、結果的には復活しました。音楽家は、バッハの音楽は一生勉強するのです。bragelonneさんがおっしゃっているような聞き方ということではなく、もっと実用的にです。バッハ自身、クラヴィア作品の多くは、教育目的で書いています。作曲技法の習得のためにも勉強しますし、ピアニストは、バッハを弾くことで、指の独立を鍛錬できます。 >天の邪鬼としてのぶらげろクンとしましては 違いを探そうと。 >ありました。モンゴル人は 声が澄んでいます。 Youtubeには、日本の民謡のいい録音がなかったんですよ。澄んだ声の歌手はたくさんいますよ。CDを買ってください(笑)。 >三つ目の曲は 女性が歌っていますが ミンネゼンガーに女性がいたということではないですよね。 いないでしょうね、少なくとも、ドイツ語版ウィキの有名な吟遊詩人の名前の一覧には、女性名はありません。ただ、現代の古楽アンサンブルでは、当時の歌を女性が歌うことは普通です。 今日はここまでです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ このところ、ドイツ人の欠点にちょっと興味がありまして、ニーチェがこんなことを言っているのなら、大したものじゃないか、とつい思ってしまいました。 ☆ これは 必ずしもわたしにはまだ分かりません。 たとえば とにもかくにも観念論哲学をそれとして打ち建てたのは 偉業であると思ったりします。わたし自身は あまり親しんでは来なかったのですが。 ★ ニ十世紀の中ごろに前衛の嵐が吹き荒れ、短期間にあまりに多くのディオニュソスが出てしまったので、やることがなくなってしまった、という事情があります。 ☆ なるほど。わたしは ピカソですら 特殊なデュオニュソスではないかと疑っています。 アポロン的とデュオニュソス的と: ★ この用語は、もうすでに哲学の分野を出て、一般的に、あるいは通俗的に、「整ったもの、古典的なもの」と、「型破りなもの、デモーニッシュなもの、自由なもの、本能的なもの」の比喩みたいになっていると思います。 ☆ ええ。そのことを にゃん_にゃんこさんからも指摘されました。当座の受け答えとして受け容れるという一面とそして 長い目で見てわたしがそのジョウシキを変えてやる――ふつうのしかるべきコモンセンスに戻す――という一面との両方を持つことにしたいと思います。 あるいは結局 その二項対立そのものはありうべき視点だと思いますから アポロンとデュオニュソスとにそれを当てるのが 困るとわたしは思っているだけになります。 でもシルシとして用いてお話くださっても構いません。といま 決めたいと思います。 ★ bragelonneさんの音楽の聴き方を伺っていると、音楽を聴くに際してカタルシスを求める、という聞き方は考えられないのでしょうか。音楽をやる側にとっては、聴衆にカタルシスを与えられるかどうかというのは、結構重要な目標になると思いますが。 ☆ いえいえ。カタルシスをとおして――あるいはつまりわたしは 《和解》というような言葉で捉えているのですが それを得て―― 《われがわれに還る》と思っています。 または 順序はぎゃくになることもあるかと思います。 何かをきっかけとして ふとわれに還る。そうしてそのときには 世間とわたしは和解していると知る。和解することが出来ると知る。しかも じつにわたしは わたし自身と和解することが出来た。と知る。 こういう効果を 音楽にもその他の芸術にも 求めているのだと考えます。理屈をつければです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >五島みどりは むしろその気持ちとしてわが超絶技巧を見てくださいと言っているのではないでしょうか。 これは思い込みがあるのではありませんか。超絶技巧というのは、彼女が天才少女としてデビューしたころの話で、最近の演奏は、技巧を前に出したものでは全然ありませんよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。わたしがそう思ったのは たしかレーガンが大統領のときに出席した演奏を聞いてでした。 でも 文句はありませんし その達成にはおどろくほどです。否定などあり得ません。そして わたし自身はその心に あれ ほかに何か欲しいなと思うといった状態です。 でも今は違って来ているのですね。分かりました。反省します。(最近のことを知らずに言い放ってしまって)。 ★ 作曲上の技巧は、残念ながら、作曲を勉強した人でないと、聞くだけではほとんどわからないでしょう。 ☆ あぁ。では それほど不思議ではないということですね。技巧を凝らした曲が 芸術性のほうで聞きやすく親しめるということが。 ★ 音楽家は、バッハの音楽は一生勉強するのです。bragelonne さんがおっしゃっているような聞き方ということではなく、もっと実用的にです。 ☆ ううーん。そういう知らない世界があるのですね。 ★ Youtubeには、日本の民謡のいい録音がなかったんですよ。澄んだ声の歌手はたくさんいますよ。 ☆ そうですか。ま これは愛嬌でしたが。 あっ でも中国の歌手と言えば・女性歌手と言えば ソプラノと言うのでしょうか・ちょっと違うでしょうか ふつうの声の質とは違った透明さを持った歌い方をするように思われます。金切り声の手前でうまく尖らないかたちにまとめたような声ですね。これは 日本人にはいないでしょうと思います。 多様性であってよいわけですが。 ★ ただ、現代の古楽アンサンブルでは、当時の歌を女性が歌うことは普通です。 ☆ なるほど。すでに《普通》になっているのですね。たぶんそれは 民主的であって喜ばしいことと思います。 きょうは一日ありがとうございました。 さらに探究は伸びそうですね。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ Hermann Necke - Csikos Post (Mail Coach)のような曲を聞くと、運動会で頑張ったのを思い出す方もおられるのではないでしょうか。 音楽は、ひとの活気・活力を高めることもある(特に何かの祭典等には)、と思っております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええ。それで にわか仕込みですが ハレとケとの音楽というふうに理論づけたわけです。 ふつうの生活のリズム 日常性なるケのあゆみ( basis )の音楽とそして ハレなるときのリズムをつくる音楽と。 心としては やすらかな歩みとしての基礎とそして楽しさにも悲しさにも高鳴る調子を交えた状態と。 ★ [ベートーベンと同じ1770生まれの] ヘーゲルは次のように述べていたようです(因に、ロッシーニ愛好家だったそうです)。 ☆ ヘーゲルは 嫌われているほどには 大したことないわけではなく けっこういいことを言っていると思います。 ▲ 自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること) freies Beisichsein (引用文献 p.73 ) ☆ ですか。さとりだとか解脱だとかと ブディストなら言いたくなりそうな境地でしょうか。 ▲ 「不確定なものへ出てゆくのではなく、 ☆ おそらく一般に人びとは 知識を外から・また他人から得るという感覚があって 絵を見ても音楽を聞いても 一たんとしてでも外に出て行くというふうに思っているかも知れません。んにゃ! と言ったわけですね。 ▲ 自己自身の中で分化し、 ☆ 《分化》というのは ただちにはなじみませんね。それまでまだ知らなかったおのれの一面を見た・知ったというようなかたちで《部分》を言っているのでしょうか。(分かりませんが)。 ▲ 自己へ帰還する運動としてのみ、 ☆ もともと自然本性として われがわれであって しかも世の中の良きにつけ悪しきにつけのコネやシガラミをとおして やはり外に出かけてしまいがちですから(またそのようなマジハリにおいて 互いの共通感覚というのは 必然ですしヒトの社会性として大切なものでもあると考えられますが) わが固有の時においては われに還る。最初に引いた《自由でやすらかな われへの到来 freies Beisichsein 》ですよね。 ▲ メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。 ☆ 《メロディー》が挙げられています。リズムもハーモニーをもふくむものとしてでしょうね。 それにしても 曲がそのまま《主観性の自由な拠自在性を表現すべき》ものとして捉えられているのですね。 その調べが 初めに触れました《日から日への生活においてそのつとめを果たして行く地道なあゆみ( basis )》に沿っているなら そうなりますね。 ▲ そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白の領域に於いて理想性と解放を実現する。 ☆ 《理想性》は いわゆる真善美でしょうね。 《解放》は すでに見て来た自己還帰・自己到来のことでしょうね。 《直接的表白》というのは 何でしょう? 音の調べが われらが心に直(ぢか)に入り込んで来るということでしょうか。いや 分かりません。 ▲ この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取( Vernehmen cf. p.73 )せるものである。」 ☆ 引用を直させてもらいましたが 《たましいの高い領界》ですか。 真善美だとすれば 《高い》でしょうね。ふつうの自然本性なるワレとすれば 高い低いは 必ずしも関係ないかも知れません。地べたの上でもよいはずです。でも たましいは 天翔けるのでしょうか どうでしょうか。 《解放》であると《同時にハーモニー的必然に服している》とは どういうことか? われがわれであるやすらかな状態は ハーモニーが特に合っているということなのだろうか。 記憶という行為能力は おぼえるというハタラキよりも精神ぜんたいの秩序作用にかかわると見るのですが そういった秩序≒ハーモニーの問題として捉えられたということでしょうか。 おぼえるときにも 知識や情報の整序にかかわるのだと。しかも われは意識していないのに 記憶が勝手にはたらいている。この記憶なる領域は ハーモニーと相性がよいということかなぁ。 ▲ 高柳茂:ヘーゲルの音楽美学 ☆ は あとであらためて読むことにします。 次は カントですね。 ▼ (Wikipedia ”趣味判断”) これは人間が物事の情緒を味わう際の判断であり、ここで判断される基準というのは自身にとっての趣味であるかという事である。 ☆ 《情緒》でしたら 音楽にもとうぜんかかわりますね。 ▼ そしてこの趣味判断では美醜を判断する際には快苦を基準として判断されるという事であり ☆ やっぱし快不快ですか。仕方ないですかね。情緒としては。 自分でも《心地よさ》と言っていますし。 つまり この快適さというのは 入り口でのことを言うのでしょうね。そのあと《自己到来》が よい音楽ならば 来るはずですから。 ★ なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。 ☆ 《味 schmecken 》から来ていると思ったら そのシュメッケンは 臭う( riechen; stinken )から来ているとか。いえ 独和を引いただけですが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 音楽についての哲学ってありますか? 最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。回答No.1でのやり取りで ニーチェと一緒くたにしてしまいました。 ただし 《(思想家には散々だったようですが)》なのですか。 つまり ショーペンハウアーの《音楽哲学》を 芸術家たちはほめたたえるほどであった。そして 思想家たちは散々な評価をくだした。のでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ・芸術は、イデアを純粋に表象し、個々の争いやエゴを超越するもの。 ・これらから生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 概ねこのようなものだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということですか。 《われがわれであるとき ほぼ生まれつきの自然本性に還っている》と思うのですが そのとき潜在的なエゴを持っていてもよいとわたしは思います。 あるいはもっと言えば 間違った推論を批判するときエゴをむき出しにして 論陣を張ってもよいと思います。人間の意志や心を踏みにじる内容の議論に対しては 言論の戦争をおこなってよいと思っています。その怒りを きよらかなおそれのもとに 対話に代えて批判するそのチカラを 芸術作品はあたえてくれることがある。こう考えます。 それではそのとき ○ これら(個々の争いやエゴ)から生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 ☆ と言えるか? つまりおそらくわれに還るのは 芸術作品がきっかけになるということではないかと考えます。 還るべきわれは もともとあるわけですから芸術作品の中に概念やイメージとして――あるいはつまり《表象すべきイデアとして》―― かたちづくられているといった恰好なのではない。と思われます。 イデアは関係ないと思います。つまり プラトンのとしてはです。 そんな先入観を突き抜けて われはわれに還る。のだと見たいのですが。きっかけを音楽等はあたえてくれる。 ちょっと荒削りでしたでしょうか。 ショーペンハウアーは ★ 余談ですが、ワーグナーを評価しなかったと言われています(ヘーゲルと同様、ロッシーニの大ファンだったそうです)。 ☆ ということですね。 ワーグナーは 話題として引っ張りだこですね。
補足
▲ 高柳茂:ヘーゲルの音楽美学 ☆ のレジュメです。 § まえがき (あ) 音楽美学:カント; ヘーゲル (い) 音楽観:ショーペンハウアー; ニーチェ § 1 へーゲル美学の構成と音楽の位置づけ (う) 芸術・宗教・哲学:《絶対精神》を内容としている。 (え) 芸術:直観を道具とする:美は 理念の感性的現われ 宗教:観念 〃 哲学:思惟 〃 (お) 芸術様式の分類・歴史的発展 a: 東洋的(象徴的):建築;精神的意味が限定的 ・精神を暗示する外的な容器に留る外はない b: ギリシヤ的(古典的):彫刻;精神を個的形態に適合させたもの ・有機体の身体の中に精神が現われている形態を表現するが、 尚心情の主観的内面性は未だ持たない。 c: キリスト教的(ロマン的)芸術様式:絵画・音楽・詩(劇をふくむ); 精神の直接的存在の有限性から精神自身への高揚の過程 ・彫刻迄がもつ空間の次元 Raumdimensionen が否定されて絵画が成立し、 更に絵画のもつ空間性そのもの Räumlichkeit selbst が否定されて 音楽が成立する。 このような完全な主観性への没入が音楽の基本的性格を形成する。 可視性が消え 聴覚 Gehör のみが素材として残る。 (か) カントの様式観 ・ 美は 美的理念 ästhetische Ideen の表現 Ausdruck ・ 表現:言葉 Wort ・身振り Geberdung ・語調 Ton から成る ・ よって 言葉の芸術:修辞術・詩 造形芸術:彫塑 Plastik(彫刻・建築術)・絵画 感情の戯れ Spiel der Empfindungen:音楽・色彩芸術 Farbenkunst (き) ヘーゲルの《聴覚 Gehör をとおしての完全な主観性への没入》としての音楽観 従って音楽表現には全く没客観的な内的なもの das gannze objektlose Innere 、 抽象的な主観性そのものが適わしい。 「音楽の主要課題は対象性そのものではなく、反対に最も内的な自己が 自らの主観性及び観念的な魂に従って自身の内部で運動する様式を再現(鳴) wiederklingen させることである」 従って音楽は心情の芸術 Kunst des Gemüts § 2 音楽の一般的性格 (く) 数量的関係に依存したり、又規則正しさや均斉 Regelmässigkeit und Symmetrie の形式を所有している. ハーモニーの規則や、拍子、リズムの繰り返しとか、又音のより大規模な展開の法則 (け) 音楽の把握様式 主観的内面性 subjektive Innerlichkeit の領域で内容が生命を得ることが音楽の機能である (こ) 音を「主観的内面性をもつ音」 Töne der subjektiven Innerlichkeit にまで形成し、それに生気を与 える beseelen ものが音楽である 心清は悟性的考察に走ったり、或は自意識を離れ離れの直感に分解せずに感情の緊密さ及び解明不能な深さの中で生き続けなければならない。この深い内容に欠けると、心情に何ら触れるところのないハーモ二―やメロディーの悟性的考察に陥るか、又は単なる音の佳さ Wohllaut を喜ぶ境地に堕する運命にあることが注意される § 3 音楽的な表現手段の特殊な性質 (さ) 音は 相対的な独立性を持つ 諸音及びその結合の確定性は 定量 Quantum、即ち数関係に存することとなる。 そしてこの点から言えば、生命ある有機的統一が音楽の基礎を構成するのではなく、相等性、不等性等の一般に量的なものの中で支配的である悟性形式 Verstandesform こそ音楽の基礎を構成するものなのである。 (し) へーゲルは「従って楽音について確定的に語られることは、数的関係とそれを表示する記譜法についての叙述があるだけである」と断言している。 (す) カントも似たようなことを述べている。 「音の場合では、同時的あるいは継時的な音の結合が存する限り、同一時間の中の空気の振動数の割合に基くのであるから、数学的に一定の規則へもたらされることが出来る。 ……また趣味が、あらゆる人の判断への権利をそれによって予め敢えて言明しうるところのものはただこの数学的形式なのである。しかし音楽の惹き起す魅力と心情の動揺に数学がいささかも関与しないことはたしかであって、数学は印象の比例の不可欠な制約 Conditio sine qua non であるに過ぎない」 (せ) 音楽における芸術的表現はいかに可能か 第一にへーゲルは単なる時聞的持続及び運動を扱う。即ち速度、拍子、リズム Zeitmass, Takt, Rhythmus を具体的に分析する。 次には現実の音に具体化されたもの、ハーモニーの理論を考察し、 最後にメロディーについて論じている。 (そ) へーゲルは云う。「最後の領域は前のものがその中で統一され、そしてこの同一性の中で音の真に自由な展開と結合の為の真の基礎が始めて与えられるのであるが、その領域とはメロディーである」。 (た) 又「ハーモニーは音の世界の必然性の法則を構成はするが、尚拍子やリズムと同様に本来の音楽ではなく、自由な魂が従うところの法則的な基礎、土台即ち実体的な土台に過ぎないところの本質的な関係のみを把える」 (ち) 又メロディーは「音の自由な展開なのであるから、一方拍子、リズム及びハ…モニーとは独立している。併し他方メロディーは自己を実現するためには、本質的でしかも自身で必然的な関係にある音のリズム的、合拍子的運動以外の手段をもち合せない。 メロディーの運動は従ってその現存のためのこの手段の中に閉じ込められてしまい、この本性上必然的な手段の合法則性に反対して存在し得ないのである。 ハーモニーそのものとのこうした密接な関連によって併しメロディーは自らの自由を失いはしない。そうではなく唯気紛れに進行したり、奇妙な変化をするところの主観性に生じる恣意から自由になるのであり、正にこのことによってその真の自主性を維持するのである。」 (つ) 従ってへーゲルによれぽ音楽に於ける芸術的表現ぱ、空想の自由に没入することと、かのハーモニー的 関係のもつ必然性との闘争の中に成立するのである。 (て) 彼はメロディーについて次のように結んでいる. 「不確定なものへ出てゆくのではなく、自己自身の中で分化し、自己へ還帰するところの運動としてのみ、メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自存在(自己のもとに安らって在ること〉 freies Beisichsein に適わしいものである. そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白を実現し、又直接的に内面的であるところの表白の領域に於て理想性と解放を実現する,この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取 Vernehmen させるものである.」 § 4 音楽的表現手段の内容との関係 (と) 音楽美学の三つの理論 1. 表出説: 音楽は自然の凡ての現象及び人間の凡ての感情を描写すべきであると考える立場。 1-a.観念論: 表出説のうち 更に思想、観念を描写し得るとするもの 2. 形式論: 音楽美はあらゆる観念や感情と交渉なく、単に数的関係に成立つとする。即ち音楽 の本質はその形式に在るとする。 3. 内在的音楽特有美論: 両者の中間に位置する立場であり、音楽的形式に基づく特殊感情を内容 とする。 Lehre von der immanenten spezifisch musikalischen Schönheit