- ベストアンサー
音楽って何のためにあるの?
っていう問いは成り立ちますか? わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 音楽についての哲学ってありますか?
- みんなの回答 (52)
- 専門家の回答
みんなが選んだベストアンサー
こんばんは > わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? 以下のような曲を聞くと、運動会で頑張ったのを思い出す方もおられるのではないでしょうか。 音楽は、ひとの活気・活力を高めることもある(特に何かの祭典等には)、と思っております。 Hermann Necke - Csikos Post (Mail Coach) https://www.youtube.com/watch?v=DmBMVc-999U > 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが [ベートーベンと同じ1770生まれの] ヘーゲルは次のように述べていたようです(因に、ロッシーニ愛好家だったそうです)。 「不確定なものへ出てゆくのではなく、自己自身の中で分化し、自己へ帰還する運動としてのみ、メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白の領域に於いて理想性と解放を実現する。この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴衆せるものである。」 引用:ヘーゲルの音楽美学 https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1959/9/1959_9_66/_pdf > 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 以下に、カントの”趣味判断”に関するサイトを紹介致しておりますが、ここでの” ”を”心地よい感覚”としてもじゅうぶん通じるところがあると思われます(ただし、カントは、音楽に関しては、ほとんど言及はしなかったようです)。 Wikipedia ”趣味判断” http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%b6%a3%e5%91%b3%e5%88%a4%e6%96%ad なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。 > 音楽についての哲学ってありますか? 最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。 ・芸術は、イデアを純粋に表象し、個々の争いやエゴを超越するもの。 ・これらから生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 概ねこのようなものだと思います。 余談ですが、ワーグナーを評価しなかったと言われています(ヘーゲルと同様、ロッシーニの大ファンだったそうです)。 ご参考になれば、幸いです。
その他の回答 (51)
- amenhotep2000
- ベストアンサー率31% (72/227)
bragelonneさん おはようございます。 補足として音楽について興味ある話があるので回答します。 明治時代に、日本に来た外国人がどのように日本の音楽を聴いたか書きます。 「日本人の日常は人目に付きにくいところまで芸術的に洗練されているが、音楽は、まことに理解し難く、船頭の「奇妙な歌」や建築労働者の「不気味な歌」は頭を抱えるほどで、外国人の立場から言うと、この国民は、音楽に対する耳を持っていないらしい。彼らの音楽は最も粗雑のように思われる」 東京大学 生物学教授 モース 「日本語で歌を歌って聞かせてくださったが、私たちが厳密に音楽と呼ぶものとは、およそ違って、ほとんど一本調子だった。」 「琴の音は、私には、なんだかピアノの調律をしているようだった。」 「美しくはないが、人の心を惹きつける野生的な響きがある。」 クララ・ホイットニー 「もし、ミュージックという美しい言葉を東洋人が楽器をギーギー鳴らしたり、声をキーキー張り上げることまで意味するするほど低下させて用いなければならぬとするならば、日本には神話時代から音楽が存在したと考えてよい。」 東京大学 比較言語学 チェンバレン 「我々の間の種々の音楽は音色が良く、快感を与える、しかし日本の音楽は単調な響きで、やかましく鳴りひびき、ただ戦慄を与えるばかりである。」 ルイス・フロイス 「日本の音楽は自然のものも作ったものもいやらしく、15分聴くことは相当な苦痛である。」 宣教師 ロレンソ・メシア 以上 「三つの君が代 内藤孝敏(著)」より抜粋。 明治時代にフェノロサなど日本文化を評価する外国人がいましたが、音楽にたいする評価は上述のように散々です。しかし、著者が悪い評価の資料ばかりを集めて、日本音楽を心地いいと思った外国人もいたかもしれません。 しかし、当事の日本人の西洋かぶれした人の中には「日本には文化はありません。日本文化はこれから始まるのです。」などと鹿鳴館で踊っていたと思われる、お馬鹿日本人もいます。 クールでかっこいい日本文化をけなすとは許せん! bragelonneさんの考察をお礼にてお願いします。 bragelonne哲学は音楽についてはまだ未完成のようで、お勉強をしないとbragelonneバルティック哲学は下記の動画になるであろう(笑)。 https://www.youtube.com/watch?v=8AdPXeLgcO8&list=RD8AdPXeLgcO8#t=0
お礼
日本海海戦のとき ロシア艦隊は 太平洋を大回りにまわって津軽海峡からウラヂオストックに寄港するという可能性も考えられていた。つまり 秋山がそうでかれは 対馬海峡には来ないと言い張っていたらしい。 お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 明治時代にフェノロサなど日本文化を評価する外国人がいましたが、音楽にたいする評価は上述のように散々です。しかし、著者が悪い評価の資料ばかりを集めて、日本音楽を心地いいと思った外国人もいたかもしれません。 しかし、当事の日本人の西洋かぶれした人の中には「日本には文化はありません。日本文化はこれから始まるのです。」などと鹿鳴館で踊っていたと思われる、お馬鹿日本人もいます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。かなり散々な批評ですね。これほどだとは知りませんでした。 ひとつには――あっ 専門的には分かりません―― 尺八や法螺貝の笛がかなでる音は そのひと吹きでひとつの世界を垣間見させてくれます。音楽とは そういうものだと思います。その世界が 《わたし》なのだと思います。 そういうことを西洋人は 感じなかったか? あるいは かれらには 虫の音は 雑音にしか聞こえないと言います。自然というものが分かっていない。なじんでいない。のではないかと考えられます。 《人の心を惹きつける野生的な響き》ときちんと整えられた構成物としての音楽との両方が 大事であり必要であると帰結されるようです。ね。 あなた 専門家なのでは?
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
こんばんは。 >「言葉がなくても 互いに理解しあえますかね。ちょっと次の《メタ・音楽》もそうですが 具体的には分かりづらいようにも思いますが。」 「この曲(こそ)が!」ってのが、あるんですねえ。 それがあれば、いいんですよ。 私も、思い入れのある「音楽」が、幾つか、あります。 (アウシュビッツのモーツァルトじゃないですけど)
お礼
★ 「この曲(こそ)が!」ってのが、あるんですねえ。 / それがあれば、いいんですよ。 ☆ 《それがあれば》 何がいいんですか? コミュニケーションが取れて理解しあえるようになる《とっておきの曲》があるんですか? ★ 思い入れのある「音楽」 ☆ と言葉無しで意志疎通が出来る音楽とは ちがうのではないかと。 以心伝心といったことでしょうか? ご回答をありがとうございます。
- nyan_nyanko
- ベストアンサー率54% (27/50)
こんばんは > ☆ セザール・フランクでしょうか。 ドゥビュッシは 水面のきらきらしたイメージを感じさせる印象がつよいですが フランクはバイオリン・ソナタを聞くと どこか中世の街にポンと自分がおかれた感じがします。 異世界ですね。人びとは見えているような・いないような感じで そのあとも物語はそこから進まないのですが そこにいる自分を感じます。初めて聞いたときから 強烈です。 これは、nyankoの場合ですが、“白の次代”のユトリロに描かれているような風景がうかびます・・・です。そして、そこにいる”このわたくし”。なんだか”懐かしい”という気持ちでいっぱいになります。 美しい、だけど、冷たさのようなものではなく、叙情的にバイオリンが歌い上げていくのが印象的で、小生の最も好きなバイオリンソナタの1曲です。 また、”フランキスト”という、ひとたちがいますが、 ・演奏(オルガン奏者でした)に熱中しすぎたあまり、司祭の説教の終わりに気付かずにいることがしばしばあった ・教え子達にも、威丈高に振る舞うことはなかった ・音楽に対して、極めて真摯であった これらのように、フランクのそのひととなり、が支持者が途絶えないのかもしれません。 なお、フランクが受けた影響に関しましては、以下に詳しく書かれていますので、省略させていただきたく存じます。 フランクの音楽スタイル http://www.fugue.us/Franck_Style.html > 第三か第四か最後の楽章では これでもかこれでもかという音の調べのまとめ上げに努めている姿が意識されて 音が背景にかえってしりぞいて行く気配になります。 あ~、そうですね。曲(響き、メロディー等)の美しさ、当然これもありますが、特有の余韻が残るのが特徴だと思います。 > 昔 小さな小説を書いていたとき あとで気づくとこれほどいわゆる《推敲》をしたのかというほどに――二十回ほどの――書き直しをしていました。どうしても言葉が合わないのです。(言葉もそうですが むしろ 一文づつの終え方でした。何々した 何々であった・・・というようには どうしても表わし得なかった)。 そういう格闘を想い起こさせられました。という自分の物指しでの経験の話ですが。 小説もご執筆されていたのでしょうか。 そして、そこに、ご自分の経験等が回想されると・・・ > 相手のワーグナーは では 大人であったか。何だか世の中をうまく渡るヒトトナリだったとか。《俳優》であり《舞台》であったとか。 時のバイエルン国王、ルートヴィヒ2世を手玉に取るほどの人物でしたから、「世間をうまくわたる」のには卓越した能力があったと思っています。 音楽理論や、演劇知識なしにも、じゅうぶん、ワーグナーは楽しめるとnyankoは思っております。 ニーチェはいわゆる“癇癪持ち”だったかと思います。しかも執拗に対象を攻撃していく、という。 > ★ 「生への盲目的意志」を否定して〔* 諦念ではありつつも おのれの意志自由にもとづくところの・人間の意志行為としての〕「諦念」に至るという ☆ ことでしょうか。 そうなると、考えています。 まず、「生への盲目的意志」の意志ですが、 ・理性的なものではない。 ・「何かをしようとしている自由意志」ということではなく、「無目的に人をかりたてるような意志」。 ・「原因をもたない意志」。いわば「原意志」とでもいうべきもの。 このような意味合いが強いと考えています。 このため、この意志を否定することは、理性的なもの(判断をともなったもの)となりますから、おのれの自由意志、かと考えています。 > ▼ アポロン型とディオニソス型 ☆ については いまでは 例によってべらんめえになりますが クソくらえだと言いたいです。 反批判を俟ちます。 確かに、ニーチェのように、両者を厳密には区切れないと考えられます。 ですが、”ディオニュソス的なもの”、を、”音楽等の芸術において激動的なもの”として説明する言葉として用いるのには、あまり、不愉快感はございませんでした。 なお、少し検索してみましたが、ほとんど一般語彙として“アポロ的”なる言葉が用いられているようでした。まずは、この現実は認める必要がある、とも考えております。 ・ディオニュソス的 「ニーチェが「悲劇の誕生」で説いた芸術衝動の一つで、陶酔的、創造的、激情的などの特徴をもつさま」 goo辞書 から引用 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/149625/m0u/ ・アポロ的 「ニーチェが「悲劇の誕生」で説いた芸術衝動の一つで、主知的傾向をもち、静的で秩序や調和ある統一を目ざすさま。アポロン的」 goo辞書 から引用 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/6126/m0u/ なお、ニーチェを好きになれない(厳密には”ニーチェ主義者”を好きになれない)理由は、少なくとも、小生におきましては別のところにございます(後述しております)。 > ニーチェという人間は――人間であるということを除けば――その思想を相手にする側のほうがおかしいと。 以下の理由から、なぜこのようにニーチェを賞賛するのかが(特に日本人)、分からない、ところがあります。 これが、小生が、ニーチェアンを好きになれない理由であります。 1. ニーチェは反キリスト・イエスだったのか? まず、翻訳家(作家)の木原武一さんは次のように述べていました。 「はじめてニーチェを読んだのは高校生のころであるが、それ以来、私は、ニーチェをキリスト教や宗教への信仰を否定する哲学者だとばかり思い込んでいた。キリスト教を否定するのであるから、当然、その教祖も槍玉に挙げられてしかるべきであろう。ところが、出版された著作のほか、ノート類に記された断想などをすべて調べても、イエス・キリストを批判する言葉はひとつも発見することができなかったのである。 今回の再読で、目から鱗が落ちるような思いでたどったのが、『アンチクリスト』の次の一文である。 「私はキリスト教の本当の歴史を語ることにしよう。そもそも『キリスト教』という言葉がひとつの誤解である。要するに、キリスト教徒はただひとりしかいなかった。そして、彼は十字架につけられて死んだのである」」 ソース: ニーチェ再発見 木原武一 『人生を考えるヒント─ニーチェの言葉から─』 http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/603524.html ドイツ文学に精通されている木原さんであるため、読み飛ばしなどのミスはないだろうし、それなりに慎重に述べているとの推察から、誤読とは、思えないのです。 つまり、反宗教であったことは事実である、だけれども、半イエス・キリスト、とは考えにくいというところがあります。 従いまして、「ニーチェ主義者は、揃って”反キリスト”と主張すること」、これに疑問を持っています。 2. 日本人に反キリスト主張をする意味がどこにあるのか? そもそも、日本では、キリスト教が根付いたことはないはずです。なのに、ニーチェの論に従って、無神論を叫ぶのは滑稽に思えることがあります(ニーチェの頃は機械文明で機械に支配されているという危機感がありました。ですが一方、[組織としての]キリスト教は何も答えてくれない、という一種の絶望感が、そこにありました)。 もし、ニーチェに従い、戦後の惨状を目の前にして、「(この是非はともかく)天皇は死んだ」と言えられる[た]のか? です。 これは、他にも「マスコミは死んだ」もしくは「ア◯ケーは死んだ」でもいいです・・・ 3. ニーチェの理想に賛同できるのか? さらにまた、以下のような「君主道徳(Master morality)」をニーチェは理想として掲げていますが、本当にこれを”よし”とするのか? です。もちろん、民主主義も否定されます。弱きものが見下される状況を本当に認められるのか? これが甚だ疑問であります(もちろん、これはナチスに利用されました)。 君主-奴隷道徳 http://ja.wikipedia.org/wiki/%e5%90%9b%e4%b8%bb-%e5%a5%b4%e9%9a%b7%e9%81%93%e5%be%b3 ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ユトリロの《白の時代》 ☆ グーグルの画像には たくさんの作品が並んでいました。素直な感じを受けました。 話は違いますが Maurice Utrillo をなぜ ユトリロと読むのか。ユトリィヨに成るのではないかと。学生のときから思っていて 果たさずに来た問いです。 顫音(せんおん)のトリル trill は 仏語で trille : トリーユ。あっ trillion (一兆)は トリリヨンでした。ふたつの読みに分かれるのですね。失礼しました。 フランク: ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・そして、そこにいる”このわたくし”。なんだか”懐かしい”という気持ちでいっぱいになります。 美しい、だけど、冷たさのようなものではなく、叙情的にバイオリンが歌い上げていくのが印象的で、小生の最も好きなバイオリンソナタの1曲です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうでしたか。それは よかったと思います。自分だけでなくて。 ▼ (フランクの音楽スタイル) ~~~~~~~ § フランクはフランス音楽の作曲家か ・・・しかし、それでも彼を典型的なフランス音楽の作曲家と捉 えるのは、不正確な見方と言っていい。その音楽には、むしろ、ドイツ=オーストリー系の精密な構造を持った、「野暮ったい」ものが勝っていた。彼は当時の フランスにおいては、あらゆる意味で異端の存在だったことを忘れてはならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういったことも問題になるのですね。 フランス人をつくったフランク族も ゲルマンではないかと思ってしまうのですが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ まず、「生への盲目的意志」の意志ですが、 ・理性的なものではない。 ・「何かをしようとしている自由意志」ということではなく、「無目的に人をかりたてるような意志」。 ・「原因をもたない意志」。いわば「原意志」とでもいうべきもの。 このような意味合いが強いと考えています。 このため、この意志を否定することは、理性的なもの(判断をともなったもの)となりますから、おのれの自由意志、かと考えています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。《生命・生命力》のようなのでしょうか。ショーペンハウアーについては これからです。 ★ なお、少し検索してみましたが、ほとんど一般語彙として“アポロ的”なる言葉が用いられているようでした。まずは、この現実は認める必要がある、とも考えております。 ☆ 留意しました。 ★ 従いまして、「ニーチェ主義者は、揃って〔* ニーチェが〕”反キリスト”と主張すること」、これに疑問を持っています。 ☆ オシエとしての聖書あるいはキリスト信徒のことを ボロクソに落としめていますが キリスト・イエスのことをたたえている文もあったかと思います。形式だけを言えば 支離滅裂となります。 イエスのことを 言ってみれば慕っているところもあったのかも知れません。それを上手に表現することが出来なかったと見ることも 好意的になれば 出来るかも知れません。でも たぶん 讃えることをせずに 反対の極に寄って行ったように思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 2. 日本人に反キリスト主張をする意味がどこにあるのか? そもそも、日本では、キリスト教が根付いたことはないはずです。なのに、ニーチェの論に従って、無神論を叫ぶのは滑稽に思えることがあります・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですね。 ★ 3. ニーチェの理想に賛同できるのか? ▼ (ヰキぺ:君主-奴隷道徳) ~~~~~~~~~~ 最も基本的な道徳形態は「君主道徳(貴族道徳)」と「奴隷道徳」の二種類がある。 君主道徳では行為が「良」と「悪」に分けられるのに対し、「奴隷道徳」では行為が「善」と「悪」に分けられる。 君主道徳の主な特徴は自己肯定、傲慢、主動であるのに対し、奴隷道徳は自己否定、謙遜、慈悲である。 ある人の道徳がどの道徳になるのかはその人の身分と地位で決まるのではなく、その人が行動する時の気持ちで決まる。ある独裁者の道徳は奴隷道徳である可能性もある。なぜなら、その独裁者は恨みと報復によって行動しているかもしれないからである。ニーチェは君主道徳を勧めると同時に奴隷道徳の中の精神力を学ぶ価値もあると主張した。 ニーチェの「道徳」は普段われわれの言う道徳と違い、全く新しい世界観であり、独特の文化である。すべての規則、慣例はこの二種類の道徳の闘争で作られた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 対立する二項のかたちは 分かりやすいようで あやまって大事な要素をそぎ落としてしまうことも出て来るかと思います。 1. 《自己否定》するのは あんがい――考えてみれば――自己肯定を目指してのことであり得ます。あるいはつまり 初めに自己をとうとぶゆえに あやまちうる自己について否定するかたちから入ることがあり得ます。 2. わたしがわたしであるという自己到来は 自己肯定ですが それがつねに《傲慢》であるとは限りません。《主動》というのは 自然本性をとうとぶ自己肯定としての自己了解のあとに 行動を起こす場合の問題だと思います。 自己肯定と主動とは それらを捉える段階が違うはずです。(基本としてはです。行動するときの主動についても自己肯定をする場合はありますが)。 3. 《主動も従属動》も 《謙遜も傲慢》も《慈悲も冷酷》も 基本は《われに還る》問題にあると見られます。相手との関係におけるこちらの振る舞いとして。傲慢は われを見失っている場合があるので特殊かも知れませんが 冷酷は相手との関係で 互いにわれがわれであるために 情況判断をも交えて必然的に取る態度であり得るように考えます。 4. 人が人とマジハリを持つとき その眼差しが相手を見下ろす場合があります。社会的なチカラ関係において この上からのマナザシを受け留めなければならないという判断を持つとき けれどもそこには《反抗か従属か》の二者択一があるのではなく そうではなく《ゆづる または ゆづりあひ》という道もあります。 5. ゆづりあひの道には 《恨みと報復》は出て来ません。われがわれであるための《精神力》は 君主か奴隷かの双対における選択には関係しません。 6. ゆづりあえず こちらだけがゆづった場合にも 相手に対して このあほんだら よく目を明けて情況を見てみておのれの心をも知り しっかりと精神のチカラを保ったらどうなんだと心内を無言で伝えてやればよいはずです。時を俟てばよいはずです。 ニーチェのこの主張によるなら ★ もちろん、民主主義も否定されます。弱きものが見下される状況を本当に認められるのか? これが甚だ疑問であります(もちろん、これはナチスに利用されました)。
- nyan_nyanko
- ベストアンサー率54% (27/50)
こんばんは レジュメとしてまとめていただきまして、どうもありがとうございました。 厚くお礼申しあげます。 > ☆ ヘーゲルは 嫌われているほどには 大したことないわけではなく けっこういいことを言っていると思います。 総じて、いいことを言っていると思います。 不評を買ってしまうのは、以下の理由でしょうか。特にポストモダニストからの批判が強かったように記憶しております。 ・とにかく、わかりにく。 ・理性に重きをおき過ぎる。 ・顕著な進歩主義者(進歩史観者)である。 ・個人よりも国家や社会の方が価値がある、という社会観がある。 ・”絶対”や”神”という言葉を使い、これらが誤解を招く。 > ▲ 自己自身の中で分化し、 ☆ 《分化》というのは ただちにはなじみませんね。それまでまだ知らなかったおのれの一面を見た・知ったというようなかたちで《部分》を言っているのでしょうか。(分かりませんが)。 nyakoと致しましては、ヘーゲル特有の運動的な要素(弁証法による歴史観等です)が絡んできており、自己の中に、”再び、成長”する、といったように考えました。 > ▲ メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。 ☆ 《メロディー》が挙げられています。リズムもハーモニーをもふくむものとしてでしょうね。 ヘーゲルは、メロディーを音楽の最重要要素としているようでした。 リズムもハーモニーも当然含みますが、「その中でも、”[ヘーゲルにとって重要な] メロディー”は・・・」と理解致しました。 p.72 からの引用部分: 「ハーモニーは音の世界の必然性の法則を構成はするが、尚拍子やリズムと同様に本来の音楽ではなく、自由な魂が従うところの法則的な基礎、”土台即ち実体的な土台に過ぎない”ところの本質的な関係のみをメロディーのみに把える。」とメロディーのみに「本来の音楽」eigentiche Musik という称号を与えている。」 > 《直接的表白》というのは 何でしょう? 音の調べが われらが心に直(ぢか)に入り込んで来るということでしょうか。いや 分かりません。 《直接的表白》でございますが、”そのまま純粋に感受する”といったように考えておりました。 > ▲ この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取( Vernehmen cf. p.73 )せるものである。」 ☆ 引用を直させてもらいましたが 《たましいの高い領界》ですか。 はい、ヘーゲルの弁証法的運動なるものかと解しております。 (引用の訂正の件、どうもありがとうございました。) > 真善美だとすれば 《高い》でしょうね。ふつうの自然本性なるワレとすれば 高い低いは 必ずしも関係ないかも知れません。地べたの上でもよいはずです。でも たましいは 天翔けるのでしょうか どうでしょうか。 これも、ヘーゲルと特有の”弁証法的に導かれるより高次の”、のようなものかと思われます。 > 《解放》であると《同時にハーモニー的必然に服している》とは どういうことか? われがわれであるやすらかな状態は ハーモニーが特に合っているということなのだろうか。 記憶という行為能力は おぼえるというハタラキよりも精神ぜんたいの秩序作用にかかわると見るのですが そういった秩序≒ハーモニーの問題として捉えられたということでしょうか。 《同時にハーモニー的必然に服している》を、”音楽の土台となる部分にも必然的に従っている”、と解釈致しました。 そこまで深く、少なくともご質問者様より深くは、捉えてはいないように思えるのですが・・・ > ★ なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。 ☆ 《味 schmecken 》から来ていると思ったら そのシュメッケンは 臭う( riechen; stinken )から来ているとか。いえ 独和を引いただけですが。 手元に、独和(独英)大辞典があれば、語源から調べられるのですが・・・ それが出来ず、誠に申し訳ございません。 ただ、Hobby(一般的に用いられる”趣味”)というよりも、”[ひとにアプリオリに備わっている]感じ取る能力”といったニュアンスも含むという意味で、この語彙を挙げさせていただきました。 > ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 音楽についての哲学ってありますか? 最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。回答No.1でのやり取りで ニーチェと一緒くたにしてしまいました。 哲学界に関してですが、当時はヘーゲルが主流でしたので、ショペンハウエルはあまり注目を浴びなかったようです。 なお、ニーチェですが、アポロ的なものよりも、ディオニュソス的(ペシミズム的)な方に価値を置いていたようです。 おそらく、これが、ショペンハウエルの”一切皆苦”的な思想と重なり、独自の理論を形成したのだと考えています。 以下の引用が、ここら辺の状況を説明していると思われました。 「ニーチェは人間の世界には「悲劇という生の充実」があると見た。「悲しみ」と「生の充実」とは必ずしも対立していないと知ったのだ。ニーチェはその理由を考え、悲劇の構造と特質を分析し、そこにアポロン型とディオニソス型が絡まっていることを発見する。 アポロンは理性の神である。予告する。ディオニソスはバッカスのことで、酒に酔う情念の神だ。何かを解放する力をもっている。アポロンは秩序をかたちづくり、ディオニソスはそれを打ち破るエネルギーである。ニーチェは発問した。この対比の構造こそは悲劇にひそむ「生」を漲らせているのではないか。」 廃人 http://moramai.tumblr.com/post/20111536533/1844 > 《われがわれであるとき ほぼ生まれつきの自然本性に還っている》と思うのですが そのとき潜在的なエゴを持っていてもよいとわたしは思います。 あるいはもっと言えば 間違った推論を批判するときエゴをむき出しにして 論陣を張ってもよいと思います。人間の意志や心を踏みにじる内容の議論に対しては 言論の戦争をおこなってよいと思っています。その怒りを きよらかなおそれのもとに 対話に代えて批判するそのチカラを 芸術作品はあたえてくれることがある。こう考えます。 まず、”エゴ”、これを持つのが自然ですし、決して”エゴ”自体を否定してはいけないと考えています。 おそらく、”エゴを追求する各個人間の闘争をきたし(戦争等です)、また際限のない欲望は空虚を生む(充たされないという思いからさらに欲望を喚起するの繰り返し)”という考えが、ショペンハウエルにあったのかと思われます。 > それではそのとき ○ これら(個々の争いやエゴ)から生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 ☆ と言えるか? つまりおそらくわれに還るのは 芸術作品がきっかけになるということではないかと考えます。 還るべきわれは もともとあるわけですから芸術作品の中に概念やイメージとして――あるいはつまり《表象すべきイデアとして》―― かたちづくられているといった恰好なのではない。と思われます。 おそらく、音楽ですと、それを聴いている、鑑賞している、その間(さらには、余韻として残っている心境)という”一時的なもの”かと思われます。 ”われに還る”というところまでは・・・ ”われに還る”というまでの根拠は薄いように思いました。 > ちょっと荒削りでしたでしょうか。 いえいえ、nyankoとしましては、少しばかり冷や汗をかきながら、綴っている次第でございます。 ショペンハウエルについて、例えば、主著「意志と表象としての世界」について、nyankoが明解に説明できれば、もっとご質問者様には実り多いものになったかとも考えています。 > ☆ ということですね。 ワーグナーは 話題として引っ張りだこですね。 ワーグナーの楽劇(歌劇)の秀逸さも、もちろんありますが、その後、ワーグナーに影響を受けたフランクやドビュッシーの作品のすばらしさからも、ワーグナーの有能さを再認識するのかもしれません。 次に、ショペンハウエルから影響を受けた例を挙げさせていただきます。 マイスタージンガーからなのですが、登場人物のザックスとエファを、自分とマティルデ・ヴェーゼンドンクを反映したようです。ザックスがエファへの思慕を絶って「諦念」の境地へと向かっていく場面です(ザックスは諦め、後は、若く権威に反抗しがちなヴァルターに譲ることとなります)。ここで、「生への盲目的意志」を否定して「諦念」に至るという点において、ショペンハウエルの影響があるとされているようです。 それにしましても、質問者様をはじめ、回答者の皆様もよく音楽を聴いておられるのですね。 ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ヘーゲルの弁証法は それはそれとしまして ★ ワーグナーの楽劇(歌劇)の秀逸さも、もちろんありますが、その後、ワーグナーに影響を受けたフランクやドビュッシーの作品のすばらしさからも、ワーグナーの有能さを再認識するのかもしれません。 ☆ セザール・フランクでしょうか。 ドゥビュッシは 水面のきらきらしたイメージを感じさせる印象がつよいですが フランクはバイオリン・ソナタを聞くと どこか中世の街にポンと自分がおかれた感じがします。 異世界ですね。人びとは見えているような・いないような感じで そのあとも物語はそこから進まないのですが そこにいる自分を感じます。初めて聞いたときから 強烈です。 第三か第四か最後の楽章では これでもかこれでもかという音の調べのまとめ上げに努めている姿が意識されて 音が背景にかえってしりぞいて行く気配になります。 昔 小さな小説を書いていたとき あとで気づくとこれほどいわゆる《推敲》をしたのかというほどに――二十回ほどの――書き直しをしていました。どうしても言葉が合わないのです。(言葉もそうですが むしろ 一文づつの終え方でした。何々した 何々であった・・・というようには どうしても表わし得なかった)。 そういう格闘を想い起こさせられました。という自分の物指しでの経験の話ですが。 ワーグナーは どういうわけかわたしは 先入見が皆無で聞くことが出来ます。出来ています。ですから 《ワーグナー問題》というものに ほんとうはピンと来ていません。 フルトヴェングラー:『音と言葉』 芦津丈夫訳 1978 白水社 という本を借りて来てそこにある 「ヴァーグナー問題――ニーチェ風随想」 を読みました。これは たすてん先生からおそわった文献です。 話を端折りますが すべてをほんとうに端折ってしまうなら ファンの方には申し訳ありませんが けっきょくニーチェは 大人ではなかった・大人になっていなかったとわたしは結論づけました。 相手のワーグナーは では 大人であったか。何だか世の中をうまく渡るヒトトナリだったとか。《俳優》であり《舞台》であったとか。わたしはその実態がよく分からないのですが それはそうだとしても ニーチェはダメであると重ねて思いました。 ワーグナーに対して 引っつき過ぎであったところから憎悪に満ちた離れ方をするという。離れて見てみると あんがい――《俳優》だとか〔ひとが〕《舞台》であるとかという――的を射た捉え方が出来たようにも見られていましたが ▼ 廃人 なるサイトから引用しておられるところについて考えてみても けっきょくニーチェは 二項対立をこしらえて こっちはどうだ あっちはこうだといじくっているだけだと思います。 アポロンだって 竪琴の名手です。詩歌や音楽など芸術の神でもありました。ディオニュソスは酩酊の中の歌舞音響だと言えないこともない。 太陽の神だからと言って 四角四面だと決めつけることもありません。音楽や詩歌が ひとの気持ちや心を解き放つものと解き放たない規矩だけのものとに分かれると言いたいのでしょうか? ディオニュソスなどは 解き放ち過ぎでしょう。混沌がいいと言っても 混沌すぎます。素面である時がないほどでは ダメでしょう。 それに アポローンは 一説によれば エジプトから来たとも言います。つまり ギリシャにとっては余所者です。それでも デルフォイの神殿におさまりました。それまでの地霊による占いなどは インチキだったから それに取って代わったのだと思われます。 よそ者のつらさ・かなしさをも 知っています。 アポロ―ンの中に アマテラス公民性とスサノヲ市民性とが同居しています。 ▼ アポロン型とディオニソス型 ☆ については いまでは 例によってべらんめえになりますが クソくらえだと言いたいです。 ニーチェという人間は――人間であるということを除けば――その思想を相手にする側のほうがおかしいと。 反批判を俟ちます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 次に、ショペンハウエルから影響を受けた例を挙げさせていただきます。 マイスタージンガーからなのですが、登場人物のザックスとエファを、自分とマティルデ・ヴェーゼンドンクを反映したようです。ザックスがエファへの思慕を絶って「諦念」の境地へと向かっていく場面です(ザックスは諦め、後は、若く権威に反抗しがちなヴァルターに譲ることとなります)。ここで、「生への盲目的意志」を否定して「諦念」に至るという点において、ショペンハウエルの影響があるとされているようです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。留意しました。 ショーペンハウアーにつきましては 追い追いつめて行くつもりでいます。 ★ 「生への盲目的意志」を否定して〔* 諦念ではありつつも おのれの意志自由にもとづくところの・人間の意志行為としての〕「諦念」に至るという ☆ ことでしょうか。 復唱せずに済ましているところがありますが このように受け留めました。
#17です。 >えっ? わたしは演歌は嫌いですよ。 すいません。「たんなる演歌好きと変わりませんな」は、あなたではなく、自分に言った言葉です。 >音楽にそれほどは明るくないのですね。わたしとドッコイドッコイですかね。 あえて音楽とは言いませんが、邦楽で詳しいのは1960~70年代の四畳半フォークの時代です。だから歌詞付きの邦楽なんですよ(^^;)。 >でも 理系は 音楽好きが多い気がします。プレーヤーなどにお金をかけていました わたしの友達など。 自分の経験ではオーディオマニアというのは、音楽好きというより「良い音好き」か「機材好き」という印象を持ちます。もちろんそれはそれで、音楽を好きになる重要なステップとは思いますが。 知りあいに、1970~80年当時のNHKの録音スタジオで使われていたような、日本のリファレンス機を持ってる奴がいました(←家が金持ちだった)。確かに恐ろしく良い音でした・・・。 >絵は どうですか? 漫画もしくは動く漫画ならわかるんですけどねぇ~(^^;)。けっきょく吹き出しの文章(歌詞)付きか、音付き(歌詞もしくは会話)でないと絵もわからないわけです。 けっきょく、たんなる演歌好きと変わりませんなぁ~、・・・という事になるみたいです(^^;)。
お礼
なあんだ ゲイジュツは ダメなほうぢゃん。 わたしは もうちょっとマシかも知れません。クラシック よく――BGM として――聞きます。 ご回答をありがとうございます。 絵も パッとしないんですか? わたしの好きな曲を紹介しておきますよ。みんなからは 異端扱いなのですが。 Erik Satie https://www.youtube.com/watch?v=dtLHiou7anE
#14です。 >☆ らしいのですが ピンと来るまでやり取りをつづけることになりましょうか。 自分もピンと来ないので、無理っす。 >☆ 絵から 音のしらべが聞こえて来る・・・のかな。 ・・・全く。 歌詞付きの邦楽ならまだしもですが。 ・・・たんなる演歌好きと変わりませんな・・・(^^;)。
お礼
えっ? わたしは演歌は嫌いですよ。 ご回答をありがとうございます。 音楽にそれほどは明るくないのですね。わたしとドッコイドッコイですかね。 でも 理系は 音楽好きが多い気がします。プレーヤーなどにお金をかけていました わたしの友達など。 絵は どうですか? ぜんぜんピンと来ないのではなく 程度が小さいというのが いま受けている評価の状態です。
- amenhotep2000
- ベストアンサー率31% (72/227)
bragelonne さん おはようございます。 4時に起きて朝活中です。 今回は現代音楽の有名なジョン・ケージの「4分33秒」を添付します。 https://www.youtube.com/watch?v=JTEFKFiXSx4 baragelonneさんの感想をお願いいたします。観客のざわめきが音楽だそうです。 聖書のヤコブの手紙3章に「舌を制御する」ということが書かれてます。 「御覧なさい、どんな小さな火でも、大きな森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界です。」私たちの体の器官の一つで全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」 「沈黙は金なり」か? bragelonneさんも私も、我が強く、自分の意見を投稿や回答をしてますが、注意したほうがいいかも。 では、お礼お待ちしております。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ▼ 1(ヤコブの手紙/ 03章 13節) ~~~~~~ 13: あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。 14: しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これでは まるで《律法》です。 ▲ すべてはゆるされています。しかし すべてが益になるのではありません。 ☆ と受け留めていてよいと考えます。何で人の口に轡をはめなければならないのか ヤコブよ。 ▼ (ヤコブの手紙/ 03章 09節ー11節) ~~~~ 9: わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。 10: 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。 11: 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 自由意志は それだけの自由度を持ちます。こんなふうに禁忌やベカラズ集風に言われても はい そうですかと答えるよりほかなくなります。 ジョン・ケージは知っていました。テレビでもやりますから。 まぁ ご愛嬌ではないのですか。 しゃれた見方がありますか?
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
B様、こんばんは。 使っています。 「非言語コミュニケーション」として、 また「メタ・音楽」としても。 つまり「ツール」ですか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ コミュニケーションとしてのツール ☆ だとすれば 確かに ★ 使っています。 ☆ ということになるかと思います。そういう効能なのですね。 言葉がなくても 互いに理解しあえますかね。ちょっと次の《メタ・音楽》もそうですが 具体的には分かりづらいようにも思いますが。
昔々ですが、中公新書あたりで「美術評論概説」みたいなのを読んだおぼえがあります(たぶん若気の至りです(^^;))。 そこで絵画に関して、現代抽象絵画の傑作として(←現代といっても、1970年代(^^;)ですが)、「面と線のコンポジット」なる作品に関しての解説がありました。 それは本当に、「ある色に塗られた地に、地とはコントラスト鮮やかな色で、描きなぐったような少し傾いたでっかい太い線の十字」の絵でした。 解説曰く、「ここに至って絵画は、音楽と同程度の抽象性を獲得した」とありました。 ネコさんの言うように音楽には、人を感動させる強烈な抽象性(超越性)があるのかも知れませんね。
お礼
ううむ。まづは ご回答をありがとうございます。 何だか禅問答みたいですね。 確かに絵画から空間性を取り去ったものが 音楽なのだとか。 そういう意味ですよね。 ★ 解説曰く、「ここに至って絵画は、音楽と同程度の抽象性を獲得した」とありました。 ☆ 絵から 音のしらべが聞こえて来る・・・のかな。 ★ ネコさんの言うように音楽には、人を感動させる強烈な抽象性(超越性)があるのかも知れませんね。 ☆ らしいのですが ピンと来るまでやり取りをつづけることになりましょうか。
- kohichiro
- ベストアンサー率21% (306/1447)
ブラジュロンヌさん、がらっと質問の傾向が変わりましたねw。未知への冒険ですね。 音楽と哲学との関係ですかー。どのようなきっかけからこの質問を思いつかれたのか?考えるだけでわくわくします。 論語において音楽はきわめて高い位置を占めています。孔子は音曲(と詩)を好みました。良い音楽には敏感に反応して繰り返しうたったとされています。 思い邪まなし というのが彼の音楽の理想だったようです。 詩に興り 礼に立ち 楽に成る 音楽を聴くことによって人は人間の教養を完成させる、 つまり学問の最高峰に音楽を置いていたということです。 真善美をひとつに具現しているのが音楽だということでしょうかね。 モーツアルトなどをきいていると(そのはじめから終わりにいたる作品の建築物的構造を眺めていると、これぞ完璧な真であり美だ、この純粋な快感は善以外の何者でもない、と思うに至ります。 のだめにも音楽哲学が披露されていましたね。巴里篇だったか「音楽の本質は世界の調和への探究にある」と言っていたと思います。ハーモニーを目指すところに音楽の完璧な平和的構造がある、と思います。 もっとも、ワグナーとか、変なのもありましたが。 私はワグナーも、ジャズも好きです。今日聞いた「マイ・フーリッシュ・ハート」エディー・ヒギンズ クアルテットにスコットハミルトンのテナーサックス、しびれましたw。
お礼
★ 未知への冒険ですね。 ☆ ですね。 ご回答をありがとうございます。 もっとも素朴な音楽論とは何か? これが知りたかったのでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 思い邪まなし というのが彼の音楽の理想だったようです。 詩に興り 礼に立ち 楽に成る 音楽を聴くことによって人は人間の教養を完成させる、 つまり学問の最高峰に音楽を置いていたということです。 真善美をひとつに具現しているのが音楽だということでしょうかね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。孔子にしても そういう感じなのですか。人やその人となりの全体としても 対応しているように感じます。 ★ モーツアルトなどをきいていると(そのはじめから終わりにいたる作品の建築物的構造を眺めていると、これぞ完璧な真であり美だ、この純粋な快感は善以外の何者でもない、と思うに至ります。 ☆ そうなんですね。そういった〔わたしにとっては〕複雑な感覚が必ずしも分からなくて それでも何とか基礎のようなところで何がしかをおさえておくことが出来たなら・・・というねらいです。 ★ ・・・「音楽の本質は世界の調和への探究にある」と言っていたと思います。ハーモニーを目指すところに音楽の完璧な平和的構造がある、と思います。 ☆ そうですか。これも そういうふうなのですね。 (No.12の補足欄では ヘーゲルの音楽美学の解説を読んだのですが ヘーゲルに言わせれば ハーモニーを容れてメロディーが最終のかたちになるのだとか。それほど違いがあるとも思えませんが。含むのですから)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ もっとも、ワグナーとか、変なのもありましたが。 私はワグナーも、ジャズも好きです。今日聞いた「マイ・フーリッシュ・ハート」エディー・ヒギンズ クアルテットにスコットハミルトンのテナーサックス、しびれましたw。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ みなさん ミュージック・ライフは ゆたかでいらっしゃる。わたしは BGM派なのです。 ワーグナーは 何かと話題にのぼりますね。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ Hermann Necke - Csikos Post (Mail Coach)のような曲を聞くと、運動会で頑張ったのを思い出す方もおられるのではないでしょうか。 音楽は、ひとの活気・活力を高めることもある(特に何かの祭典等には)、と思っております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええ。それで にわか仕込みですが ハレとケとの音楽というふうに理論づけたわけです。 ふつうの生活のリズム 日常性なるケのあゆみ( basis )の音楽とそして ハレなるときのリズムをつくる音楽と。 心としては やすらかな歩みとしての基礎とそして楽しさにも悲しさにも高鳴る調子を交えた状態と。 ★ [ベートーベンと同じ1770生まれの] ヘーゲルは次のように述べていたようです(因に、ロッシーニ愛好家だったそうです)。 ☆ ヘーゲルは 嫌われているほどには 大したことないわけではなく けっこういいことを言っていると思います。 ▲ 自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること) freies Beisichsein (引用文献 p.73 ) ☆ ですか。さとりだとか解脱だとかと ブディストなら言いたくなりそうな境地でしょうか。 ▲ 「不確定なものへ出てゆくのではなく、 ☆ おそらく一般に人びとは 知識を外から・また他人から得るという感覚があって 絵を見ても音楽を聞いても 一たんとしてでも外に出て行くというふうに思っているかも知れません。んにゃ! と言ったわけですね。 ▲ 自己自身の中で分化し、 ☆ 《分化》というのは ただちにはなじみませんね。それまでまだ知らなかったおのれの一面を見た・知ったというようなかたちで《部分》を言っているのでしょうか。(分かりませんが)。 ▲ 自己へ帰還する運動としてのみ、 ☆ もともと自然本性として われがわれであって しかも世の中の良きにつけ悪しきにつけのコネやシガラミをとおして やはり外に出かけてしまいがちですから(またそのようなマジハリにおいて 互いの共通感覚というのは 必然ですしヒトの社会性として大切なものでもあると考えられますが) わが固有の時においては われに還る。最初に引いた《自由でやすらかな われへの到来 freies Beisichsein 》ですよね。 ▲ メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。 ☆ 《メロディー》が挙げられています。リズムもハーモニーをもふくむものとしてでしょうね。 それにしても 曲がそのまま《主観性の自由な拠自在性を表現すべき》ものとして捉えられているのですね。 その調べが 初めに触れました《日から日への生活においてそのつとめを果たして行く地道なあゆみ( basis )》に沿っているなら そうなりますね。 ▲ そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白の領域に於いて理想性と解放を実現する。 ☆ 《理想性》は いわゆる真善美でしょうね。 《解放》は すでに見て来た自己還帰・自己到来のことでしょうね。 《直接的表白》というのは 何でしょう? 音の調べが われらが心に直(ぢか)に入り込んで来るということでしょうか。いや 分かりません。 ▲ この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取( Vernehmen cf. p.73 )せるものである。」 ☆ 引用を直させてもらいましたが 《たましいの高い領界》ですか。 真善美だとすれば 《高い》でしょうね。ふつうの自然本性なるワレとすれば 高い低いは 必ずしも関係ないかも知れません。地べたの上でもよいはずです。でも たましいは 天翔けるのでしょうか どうでしょうか。 《解放》であると《同時にハーモニー的必然に服している》とは どういうことか? われがわれであるやすらかな状態は ハーモニーが特に合っているということなのだろうか。 記憶という行為能力は おぼえるというハタラキよりも精神ぜんたいの秩序作用にかかわると見るのですが そういった秩序≒ハーモニーの問題として捉えられたということでしょうか。 おぼえるときにも 知識や情報の整序にかかわるのだと。しかも われは意識していないのに 記憶が勝手にはたらいている。この記憶なる領域は ハーモニーと相性がよいということかなぁ。 ▲ 高柳茂:ヘーゲルの音楽美学 ☆ は あとであらためて読むことにします。 次は カントですね。 ▼ (Wikipedia ”趣味判断”) これは人間が物事の情緒を味わう際の判断であり、ここで判断される基準というのは自身にとっての趣味であるかという事である。 ☆ 《情緒》でしたら 音楽にもとうぜんかかわりますね。 ▼ そしてこの趣味判断では美醜を判断する際には快苦を基準として判断されるという事であり ☆ やっぱし快不快ですか。仕方ないですかね。情緒としては。 自分でも《心地よさ》と言っていますし。 つまり この快適さというのは 入り口でのことを言うのでしょうね。そのあと《自己到来》が よい音楽ならば 来るはずですから。 ★ なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。 ☆ 《味 schmecken 》から来ていると思ったら そのシュメッケンは 臭う( riechen; stinken )から来ているとか。いえ 独和を引いただけですが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 音楽についての哲学ってありますか? 最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。回答No.1でのやり取りで ニーチェと一緒くたにしてしまいました。 ただし 《(思想家には散々だったようですが)》なのですか。 つまり ショーペンハウアーの《音楽哲学》を 芸術家たちはほめたたえるほどであった。そして 思想家たちは散々な評価をくだした。のでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ・芸術は、イデアを純粋に表象し、個々の争いやエゴを超越するもの。 ・これらから生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 概ねこのようなものだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということですか。 《われがわれであるとき ほぼ生まれつきの自然本性に還っている》と思うのですが そのとき潜在的なエゴを持っていてもよいとわたしは思います。 あるいはもっと言えば 間違った推論を批判するときエゴをむき出しにして 論陣を張ってもよいと思います。人間の意志や心を踏みにじる内容の議論に対しては 言論の戦争をおこなってよいと思っています。その怒りを きよらかなおそれのもとに 対話に代えて批判するそのチカラを 芸術作品はあたえてくれることがある。こう考えます。 それではそのとき ○ これら(個々の争いやエゴ)から生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 ☆ と言えるか? つまりおそらくわれに還るのは 芸術作品がきっかけになるということではないかと考えます。 還るべきわれは もともとあるわけですから芸術作品の中に概念やイメージとして――あるいはつまり《表象すべきイデアとして》―― かたちづくられているといった恰好なのではない。と思われます。 イデアは関係ないと思います。つまり プラトンのとしてはです。 そんな先入観を突き抜けて われはわれに還る。のだと見たいのですが。きっかけを音楽等はあたえてくれる。 ちょっと荒削りでしたでしょうか。 ショーペンハウアーは ★ 余談ですが、ワーグナーを評価しなかったと言われています(ヘーゲルと同様、ロッシーニの大ファンだったそうです)。 ☆ ということですね。 ワーグナーは 話題として引っ張りだこですね。
補足
▲ 高柳茂:ヘーゲルの音楽美学 ☆ のレジュメです。 § まえがき (あ) 音楽美学:カント; ヘーゲル (い) 音楽観:ショーペンハウアー; ニーチェ § 1 へーゲル美学の構成と音楽の位置づけ (う) 芸術・宗教・哲学:《絶対精神》を内容としている。 (え) 芸術:直観を道具とする:美は 理念の感性的現われ 宗教:観念 〃 哲学:思惟 〃 (お) 芸術様式の分類・歴史的発展 a: 東洋的(象徴的):建築;精神的意味が限定的 ・精神を暗示する外的な容器に留る外はない b: ギリシヤ的(古典的):彫刻;精神を個的形態に適合させたもの ・有機体の身体の中に精神が現われている形態を表現するが、 尚心情の主観的内面性は未だ持たない。 c: キリスト教的(ロマン的)芸術様式:絵画・音楽・詩(劇をふくむ); 精神の直接的存在の有限性から精神自身への高揚の過程 ・彫刻迄がもつ空間の次元 Raumdimensionen が否定されて絵画が成立し、 更に絵画のもつ空間性そのもの Räumlichkeit selbst が否定されて 音楽が成立する。 このような完全な主観性への没入が音楽の基本的性格を形成する。 可視性が消え 聴覚 Gehör のみが素材として残る。 (か) カントの様式観 ・ 美は 美的理念 ästhetische Ideen の表現 Ausdruck ・ 表現:言葉 Wort ・身振り Geberdung ・語調 Ton から成る ・ よって 言葉の芸術:修辞術・詩 造形芸術:彫塑 Plastik(彫刻・建築術)・絵画 感情の戯れ Spiel der Empfindungen:音楽・色彩芸術 Farbenkunst (き) ヘーゲルの《聴覚 Gehör をとおしての完全な主観性への没入》としての音楽観 従って音楽表現には全く没客観的な内的なもの das gannze objektlose Innere 、 抽象的な主観性そのものが適わしい。 「音楽の主要課題は対象性そのものではなく、反対に最も内的な自己が 自らの主観性及び観念的な魂に従って自身の内部で運動する様式を再現(鳴) wiederklingen させることである」 従って音楽は心情の芸術 Kunst des Gemüts § 2 音楽の一般的性格 (く) 数量的関係に依存したり、又規則正しさや均斉 Regelmässigkeit und Symmetrie の形式を所有している. ハーモニーの規則や、拍子、リズムの繰り返しとか、又音のより大規模な展開の法則 (け) 音楽の把握様式 主観的内面性 subjektive Innerlichkeit の領域で内容が生命を得ることが音楽の機能である (こ) 音を「主観的内面性をもつ音」 Töne der subjektiven Innerlichkeit にまで形成し、それに生気を与 える beseelen ものが音楽である 心清は悟性的考察に走ったり、或は自意識を離れ離れの直感に分解せずに感情の緊密さ及び解明不能な深さの中で生き続けなければならない。この深い内容に欠けると、心情に何ら触れるところのないハーモ二―やメロディーの悟性的考察に陥るか、又は単なる音の佳さ Wohllaut を喜ぶ境地に堕する運命にあることが注意される § 3 音楽的な表現手段の特殊な性質 (さ) 音は 相対的な独立性を持つ 諸音及びその結合の確定性は 定量 Quantum、即ち数関係に存することとなる。 そしてこの点から言えば、生命ある有機的統一が音楽の基礎を構成するのではなく、相等性、不等性等の一般に量的なものの中で支配的である悟性形式 Verstandesform こそ音楽の基礎を構成するものなのである。 (し) へーゲルは「従って楽音について確定的に語られることは、数的関係とそれを表示する記譜法についての叙述があるだけである」と断言している。 (す) カントも似たようなことを述べている。 「音の場合では、同時的あるいは継時的な音の結合が存する限り、同一時間の中の空気の振動数の割合に基くのであるから、数学的に一定の規則へもたらされることが出来る。 ……また趣味が、あらゆる人の判断への権利をそれによって予め敢えて言明しうるところのものはただこの数学的形式なのである。しかし音楽の惹き起す魅力と心情の動揺に数学がいささかも関与しないことはたしかであって、数学は印象の比例の不可欠な制約 Conditio sine qua non であるに過ぎない」 (せ) 音楽における芸術的表現はいかに可能か 第一にへーゲルは単なる時聞的持続及び運動を扱う。即ち速度、拍子、リズム Zeitmass, Takt, Rhythmus を具体的に分析する。 次には現実の音に具体化されたもの、ハーモニーの理論を考察し、 最後にメロディーについて論じている。 (そ) へーゲルは云う。「最後の領域は前のものがその中で統一され、そしてこの同一性の中で音の真に自由な展開と結合の為の真の基礎が始めて与えられるのであるが、その領域とはメロディーである」。 (た) 又「ハーモニーは音の世界の必然性の法則を構成はするが、尚拍子やリズムと同様に本来の音楽ではなく、自由な魂が従うところの法則的な基礎、土台即ち実体的な土台に過ぎないところの本質的な関係のみを把える」 (ち) 又メロディーは「音の自由な展開なのであるから、一方拍子、リズム及びハ…モニーとは独立している。併し他方メロディーは自己を実現するためには、本質的でしかも自身で必然的な関係にある音のリズム的、合拍子的運動以外の手段をもち合せない。 メロディーの運動は従ってその現存のためのこの手段の中に閉じ込められてしまい、この本性上必然的な手段の合法則性に反対して存在し得ないのである。 ハーモニーそのものとのこうした密接な関連によって併しメロディーは自らの自由を失いはしない。そうではなく唯気紛れに進行したり、奇妙な変化をするところの主観性に生じる恣意から自由になるのであり、正にこのことによってその真の自主性を維持するのである。」 (つ) 従ってへーゲルによれぽ音楽に於ける芸術的表現ぱ、空想の自由に没入することと、かのハーモニー的 関係のもつ必然性との闘争の中に成立するのである。 (て) 彼はメロディーについて次のように結んでいる. 「不確定なものへ出てゆくのではなく、自己自身の中で分化し、自己へ還帰するところの運動としてのみ、メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自存在(自己のもとに安らって在ること〉 freies Beisichsein に適わしいものである. そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白を実現し、又直接的に内面的であるところの表白の領域に於て理想性と解放を実現する,この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取 Vernehmen させるものである.」 § 4 音楽的表現手段の内容との関係 (と) 音楽美学の三つの理論 1. 表出説: 音楽は自然の凡ての現象及び人間の凡ての感情を描写すべきであると考える立場。 1-a.観念論: 表出説のうち 更に思想、観念を描写し得るとするもの 2. 形式論: 音楽美はあらゆる観念や感情と交渉なく、単に数的関係に成立つとする。即ち音楽 の本質はその形式に在るとする。 3. 内在的音楽特有美論: 両者の中間に位置する立場であり、音楽的形式に基づく特殊感情を内容 とする。 Lehre von der immanenten spezifisch musikalischen Schönheit