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音楽って何のためにあるの?
っていう問いは成り立ちますか? わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 音楽についての哲学ってありますか?
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こんばんは > わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? 以下のような曲を聞くと、運動会で頑張ったのを思い出す方もおられるのではないでしょうか。 音楽は、ひとの活気・活力を高めることもある(特に何かの祭典等には)、と思っております。 Hermann Necke - Csikos Post (Mail Coach) https://www.youtube.com/watch?v=DmBMVc-999U > 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが [ベートーベンと同じ1770生まれの] ヘーゲルは次のように述べていたようです(因に、ロッシーニ愛好家だったそうです)。 「不確定なものへ出てゆくのではなく、自己自身の中で分化し、自己へ帰還する運動としてのみ、メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白の領域に於いて理想性と解放を実現する。この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴衆せるものである。」 引用:ヘーゲルの音楽美学 https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1959/9/1959_9_66/_pdf > 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 以下に、カントの”趣味判断”に関するサイトを紹介致しておりますが、ここでの” ”を”心地よい感覚”としてもじゅうぶん通じるところがあると思われます(ただし、カントは、音楽に関しては、ほとんど言及はしなかったようです)。 Wikipedia ”趣味判断” http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%b6%a3%e5%91%b3%e5%88%a4%e6%96%ad なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。 > 音楽についての哲学ってありますか? 最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。 ・芸術は、イデアを純粋に表象し、個々の争いやエゴを超越するもの。 ・これらから生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 概ねこのようなものだと思います。 余談ですが、ワーグナーを評価しなかったと言われています(ヘーゲルと同様、ロッシーニの大ファンだったそうです)。 ご参考になれば、幸いです。
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- NemurinekoNya
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こんばんは。 ☆ わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? ◇モーツアルトを聞かせると、 牛の乳の品質がよくなる ニワトリが卵をたくさん産む という話はありますね。 たとえば、↓ http://onjyuku.com/top_message02.html plapotaさんの「バカの飲み薬」の味もよくなるという話もあります。そして、実際に、酒蔵がお酒に音楽を聞かせております。 たとえば、 http://shop.sake-hokusetsu.com/?pid=25710252 http://shop.sake-hokusetsu.com/?tid=2&mode=f29 私の飼っていたインコは、音楽を聞きますと、決まって音楽に合わせて歌いだしておりました♪ ☆音楽についての哲学ってありますか? ◇ショーペンハウエルやニーチェが音楽について語っていると思います。 哲学ではないですが、ワーグナーも♪ ニーチェの『悲劇の誕生』は、ワーグナー賛美の書ですし♪ ということで、 楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』 第一幕への前奏曲 https://www.youtube.com/watch?v=OCacAIE_Phw この曲をはじめて聞いたとき、私は「何だこの曲は!!」と強い衝撃を受けた♪ 当時の私の耳には、不協和音に聞こえたんですよ。 そして、 聞き終えたとき、何だかわからない強い精神的な高揚感を感じていた。かなり興奮していた。 ナチスもこの曲を結構利用していたと記憶しております。 この曲でドイツ人の民族意識をかなり煽っていた。 この曲には、何だかわからない、ドイツ人を興奮させ、思考力を麻痺させるような、そんな魔力があるように思います。 ドイツ人がこの曲を聞くと、ネムネコ以上に酔っ払ってしまうに違いない、と思います。 おそらく、 この曲はドイツ人にとってのマタタビなのではなかろうか♪ ウソか本当かよく分かりませんが、 映画『地獄の黙示録』で、ヘリコプターからベトコンに向けて機銃掃射するときにワルキューレの騎行を大音響で流しておりましたが、 ベトコン兵士の恐怖心を煽るためにこの曲を実際に流していた、なんて話もまことしやかに語られておるようであります。 真偽のほどは定かではありませんが…。 ということで、 Die Walküre Ride of the Valkyries (Richard Wagner) https://www.youtube.com/watch?v=Pi3e8uNOSvo 今は亡きクラウス・テンシュテットとロンドンフィルのライブですが、 この演奏は名演奏ですよ♪
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 屈折 すきとおった陸に刺さる 麦わらの管が折れる うるおいの月面から酸素が漏れる 理性が突き抜けて ひかりが屈する 網膜がながめる 快 明 楽 屈折が屈折であるとき 宇宙に衣を着せる 夢が夢である日 * * * 《わたし》のための目的はないのですか? みんな集団の感性としてでありそこから集団心理にからまるというような恰好ですよね。 まづ ◇ 牛・ニワトリ・酒蔵・インコ ☆ は 人間にとっての目的があってその派生として応用しているということですよね? または人間のとっては何もなくて 人間以外のもののためにある。ってことはないですよね。 ◇ おそらく、 / この〔ワーグナーの〕曲はドイツ人にとってのマタタビなのではなかろうか♪ ◇ ベトコン兵士の恐怖心を煽るためにこの〔ワルキューレの騎行〕曲を実際に流していた ☆ 集団心理ですよね。ベトコンを攻撃する米兵らをも感覚をとおして心理を高ぶらせる。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ ということで、 楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』 第一幕への前奏曲 この曲をはじめて聞いたとき、私は「何だこの曲は!!」と強い衝撃を受けた♪ 当時の私の耳には、不協和音に聞こえたんですよ。 そして、 聞き終えたとき、何だかわからない強い精神的な高揚感を感じていた。かなり興奮していた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そして煮詰めた話として よかったのですか? うつくしい音楽だということですか。 それなら わたしの場合と同じですが。つまりこのワーグナーの曲がではなく わたしにとっての音楽一般〔の中の心地よいもの〕がです。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 音楽についての哲学ってありますか? ◇ ショーペンハウエルやニーチェが音楽について語っていると思います。 哲学ではないですが、ワーグナーも♪ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ にわかには賛同しかねますね。 哲学なら 読んで分かるというものだと思うのですが あとは その上で音楽とは何かの問いに返ると思います。 つまり 作品と音楽評論とは別であって 作品じたいの問題に帰ると思います。 絵画は 作品と言えば描かれたものだけですが 音楽は 譜面とそしてその演奏との二つに分かれていましょうか。一般には 作曲家の仕事を踏まえた上での演奏という作品だと思います。そこに帰る。 ということは 心地よい感覚の問題ではないか。と思っての問いです。 ショーペンハウエルもニーチェも わたしの先入見としては残念ながら魅力的ではありません。誰かにこの偏見をくつがえすべく説得していただかなければなりません。 ワルキューレは オーディンだのヲーダンだのと言っていたとき聞きました。かなり惹き入れられましたが けっきょく死の側の女神に過ぎませんからねぇ。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ Hermann Necke - Csikos Post (Mail Coach)のような曲を聞くと、運動会で頑張ったのを思い出す方もおられるのではないでしょうか。 音楽は、ひとの活気・活力を高めることもある(特に何かの祭典等には)、と思っております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええ。それで にわか仕込みですが ハレとケとの音楽というふうに理論づけたわけです。 ふつうの生活のリズム 日常性なるケのあゆみ( basis )の音楽とそして ハレなるときのリズムをつくる音楽と。 心としては やすらかな歩みとしての基礎とそして楽しさにも悲しさにも高鳴る調子を交えた状態と。 ★ [ベートーベンと同じ1770生まれの] ヘーゲルは次のように述べていたようです(因に、ロッシーニ愛好家だったそうです)。 ☆ ヘーゲルは 嫌われているほどには 大したことないわけではなく けっこういいことを言っていると思います。 ▲ 自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること) freies Beisichsein (引用文献 p.73 ) ☆ ですか。さとりだとか解脱だとかと ブディストなら言いたくなりそうな境地でしょうか。 ▲ 「不確定なものへ出てゆくのではなく、 ☆ おそらく一般に人びとは 知識を外から・また他人から得るという感覚があって 絵を見ても音楽を聞いても 一たんとしてでも外に出て行くというふうに思っているかも知れません。んにゃ! と言ったわけですね。 ▲ 自己自身の中で分化し、 ☆ 《分化》というのは ただちにはなじみませんね。それまでまだ知らなかったおのれの一面を見た・知ったというようなかたちで《部分》を言っているのでしょうか。(分かりませんが)。 ▲ 自己へ帰還する運動としてのみ、 ☆ もともと自然本性として われがわれであって しかも世の中の良きにつけ悪しきにつけのコネやシガラミをとおして やはり外に出かけてしまいがちですから(またそのようなマジハリにおいて 互いの共通感覚というのは 必然ですしヒトの社会性として大切なものでもあると考えられますが) わが固有の時においては われに還る。最初に引いた《自由でやすらかな われへの到来 freies Beisichsein 》ですよね。 ▲ メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。 ☆ 《メロディー》が挙げられています。リズムもハーモニーをもふくむものとしてでしょうね。 それにしても 曲がそのまま《主観性の自由な拠自在性を表現すべき》ものとして捉えられているのですね。 その調べが 初めに触れました《日から日への生活においてそのつとめを果たして行く地道なあゆみ( basis )》に沿っているなら そうなりますね。 ▲ そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白の領域に於いて理想性と解放を実現する。 ☆ 《理想性》は いわゆる真善美でしょうね。 《解放》は すでに見て来た自己還帰・自己到来のことでしょうね。 《直接的表白》というのは 何でしょう? 音の調べが われらが心に直(ぢか)に入り込んで来るということでしょうか。いや 分かりません。 ▲ この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取( Vernehmen cf. p.73 )せるものである。」 ☆ 引用を直させてもらいましたが 《たましいの高い領界》ですか。 真善美だとすれば 《高い》でしょうね。ふつうの自然本性なるワレとすれば 高い低いは 必ずしも関係ないかも知れません。地べたの上でもよいはずです。でも たましいは 天翔けるのでしょうか どうでしょうか。 《解放》であると《同時にハーモニー的必然に服している》とは どういうことか? われがわれであるやすらかな状態は ハーモニーが特に合っているということなのだろうか。 記憶という行為能力は おぼえるというハタラキよりも精神ぜんたいの秩序作用にかかわると見るのですが そういった秩序≒ハーモニーの問題として捉えられたということでしょうか。 おぼえるときにも 知識や情報の整序にかかわるのだと。しかも われは意識していないのに 記憶が勝手にはたらいている。この記憶なる領域は ハーモニーと相性がよいということかなぁ。 ▲ 高柳茂:ヘーゲルの音楽美学 ☆ は あとであらためて読むことにします。 次は カントですね。 ▼ (Wikipedia ”趣味判断”) これは人間が物事の情緒を味わう際の判断であり、ここで判断される基準というのは自身にとっての趣味であるかという事である。 ☆ 《情緒》でしたら 音楽にもとうぜんかかわりますね。 ▼ そしてこの趣味判断では美醜を判断する際には快苦を基準として判断されるという事であり ☆ やっぱし快不快ですか。仕方ないですかね。情緒としては。 自分でも《心地よさ》と言っていますし。 つまり この快適さというのは 入り口でのことを言うのでしょうね。そのあと《自己到来》が よい音楽ならば 来るはずですから。 ★ なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。 ☆ 《味 schmecken 》から来ていると思ったら そのシュメッケンは 臭う( riechen; stinken )から来ているとか。いえ 独和を引いただけですが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 音楽についての哲学ってありますか? 最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。回答No.1でのやり取りで ニーチェと一緒くたにしてしまいました。 ただし 《(思想家には散々だったようですが)》なのですか。 つまり ショーペンハウアーの《音楽哲学》を 芸術家たちはほめたたえるほどであった。そして 思想家たちは散々な評価をくだした。のでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ・芸術は、イデアを純粋に表象し、個々の争いやエゴを超越するもの。 ・これらから生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 概ねこのようなものだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということですか。 《われがわれであるとき ほぼ生まれつきの自然本性に還っている》と思うのですが そのとき潜在的なエゴを持っていてもよいとわたしは思います。 あるいはもっと言えば 間違った推論を批判するときエゴをむき出しにして 論陣を張ってもよいと思います。人間の意志や心を踏みにじる内容の議論に対しては 言論の戦争をおこなってよいと思っています。その怒りを きよらかなおそれのもとに 対話に代えて批判するそのチカラを 芸術作品はあたえてくれることがある。こう考えます。 それではそのとき ○ これら(個々の争いやエゴ)から生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 ☆ と言えるか? つまりおそらくわれに還るのは 芸術作品がきっかけになるということではないかと考えます。 還るべきわれは もともとあるわけですから芸術作品の中に概念やイメージとして――あるいはつまり《表象すべきイデアとして》―― かたちづくられているといった恰好なのではない。と思われます。 イデアは関係ないと思います。つまり プラトンのとしてはです。 そんな先入観を突き抜けて われはわれに還る。のだと見たいのですが。きっかけを音楽等はあたえてくれる。 ちょっと荒削りでしたでしょうか。 ショーペンハウアーは ★ 余談ですが、ワーグナーを評価しなかったと言われています(ヘーゲルと同様、ロッシーニの大ファンだったそうです)。 ☆ ということですね。 ワーグナーは 話題として引っ張りだこですね。
補足
▲ 高柳茂:ヘーゲルの音楽美学 ☆ のレジュメです。 § まえがき (あ) 音楽美学:カント; ヘーゲル (い) 音楽観:ショーペンハウアー; ニーチェ § 1 へーゲル美学の構成と音楽の位置づけ (う) 芸術・宗教・哲学:《絶対精神》を内容としている。 (え) 芸術:直観を道具とする:美は 理念の感性的現われ 宗教:観念 〃 哲学:思惟 〃 (お) 芸術様式の分類・歴史的発展 a: 東洋的(象徴的):建築;精神的意味が限定的 ・精神を暗示する外的な容器に留る外はない b: ギリシヤ的(古典的):彫刻;精神を個的形態に適合させたもの ・有機体の身体の中に精神が現われている形態を表現するが、 尚心情の主観的内面性は未だ持たない。 c: キリスト教的(ロマン的)芸術様式:絵画・音楽・詩(劇をふくむ); 精神の直接的存在の有限性から精神自身への高揚の過程 ・彫刻迄がもつ空間の次元 Raumdimensionen が否定されて絵画が成立し、 更に絵画のもつ空間性そのもの Räumlichkeit selbst が否定されて 音楽が成立する。 このような完全な主観性への没入が音楽の基本的性格を形成する。 可視性が消え 聴覚 Gehör のみが素材として残る。 (か) カントの様式観 ・ 美は 美的理念 ästhetische Ideen の表現 Ausdruck ・ 表現:言葉 Wort ・身振り Geberdung ・語調 Ton から成る ・ よって 言葉の芸術:修辞術・詩 造形芸術:彫塑 Plastik(彫刻・建築術)・絵画 感情の戯れ Spiel der Empfindungen:音楽・色彩芸術 Farbenkunst (き) ヘーゲルの《聴覚 Gehör をとおしての完全な主観性への没入》としての音楽観 従って音楽表現には全く没客観的な内的なもの das gannze objektlose Innere 、 抽象的な主観性そのものが適わしい。 「音楽の主要課題は対象性そのものではなく、反対に最も内的な自己が 自らの主観性及び観念的な魂に従って自身の内部で運動する様式を再現(鳴) wiederklingen させることである」 従って音楽は心情の芸術 Kunst des Gemüts § 2 音楽の一般的性格 (く) 数量的関係に依存したり、又規則正しさや均斉 Regelmässigkeit und Symmetrie の形式を所有している. ハーモニーの規則や、拍子、リズムの繰り返しとか、又音のより大規模な展開の法則 (け) 音楽の把握様式 主観的内面性 subjektive Innerlichkeit の領域で内容が生命を得ることが音楽の機能である (こ) 音を「主観的内面性をもつ音」 Töne der subjektiven Innerlichkeit にまで形成し、それに生気を与 える beseelen ものが音楽である 心清は悟性的考察に走ったり、或は自意識を離れ離れの直感に分解せずに感情の緊密さ及び解明不能な深さの中で生き続けなければならない。この深い内容に欠けると、心情に何ら触れるところのないハーモ二―やメロディーの悟性的考察に陥るか、又は単なる音の佳さ Wohllaut を喜ぶ境地に堕する運命にあることが注意される § 3 音楽的な表現手段の特殊な性質 (さ) 音は 相対的な独立性を持つ 諸音及びその結合の確定性は 定量 Quantum、即ち数関係に存することとなる。 そしてこの点から言えば、生命ある有機的統一が音楽の基礎を構成するのではなく、相等性、不等性等の一般に量的なものの中で支配的である悟性形式 Verstandesform こそ音楽の基礎を構成するものなのである。 (し) へーゲルは「従って楽音について確定的に語られることは、数的関係とそれを表示する記譜法についての叙述があるだけである」と断言している。 (す) カントも似たようなことを述べている。 「音の場合では、同時的あるいは継時的な音の結合が存する限り、同一時間の中の空気の振動数の割合に基くのであるから、数学的に一定の規則へもたらされることが出来る。 ……また趣味が、あらゆる人の判断への権利をそれによって予め敢えて言明しうるところのものはただこの数学的形式なのである。しかし音楽の惹き起す魅力と心情の動揺に数学がいささかも関与しないことはたしかであって、数学は印象の比例の不可欠な制約 Conditio sine qua non であるに過ぎない」 (せ) 音楽における芸術的表現はいかに可能か 第一にへーゲルは単なる時聞的持続及び運動を扱う。即ち速度、拍子、リズム Zeitmass, Takt, Rhythmus を具体的に分析する。 次には現実の音に具体化されたもの、ハーモニーの理論を考察し、 最後にメロディーについて論じている。 (そ) へーゲルは云う。「最後の領域は前のものがその中で統一され、そしてこの同一性の中で音の真に自由な展開と結合の為の真の基礎が始めて与えられるのであるが、その領域とはメロディーである」。 (た) 又「ハーモニーは音の世界の必然性の法則を構成はするが、尚拍子やリズムと同様に本来の音楽ではなく、自由な魂が従うところの法則的な基礎、土台即ち実体的な土台に過ぎないところの本質的な関係のみを把える」 (ち) 又メロディーは「音の自由な展開なのであるから、一方拍子、リズム及びハ…モニーとは独立している。併し他方メロディーは自己を実現するためには、本質的でしかも自身で必然的な関係にある音のリズム的、合拍子的運動以外の手段をもち合せない。 メロディーの運動は従ってその現存のためのこの手段の中に閉じ込められてしまい、この本性上必然的な手段の合法則性に反対して存在し得ないのである。 ハーモニーそのものとのこうした密接な関連によって併しメロディーは自らの自由を失いはしない。そうではなく唯気紛れに進行したり、奇妙な変化をするところの主観性に生じる恣意から自由になるのであり、正にこのことによってその真の自主性を維持するのである。」 (つ) 従ってへーゲルによれぽ音楽に於ける芸術的表現ぱ、空想の自由に没入することと、かのハーモニー的 関係のもつ必然性との闘争の中に成立するのである。 (て) 彼はメロディーについて次のように結んでいる. 「不確定なものへ出てゆくのではなく、自己自身の中で分化し、自己へ還帰するところの運動としてのみ、メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自存在(自己のもとに安らって在ること〉 freies Beisichsein に適わしいものである. そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白を実現し、又直接的に内面的であるところの表白の領域に於て理想性と解放を実現する,この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取 Vernehmen させるものである.」 § 4 音楽的表現手段の内容との関係 (と) 音楽美学の三つの理論 1. 表出説: 音楽は自然の凡ての現象及び人間の凡ての感情を描写すべきであると考える立場。 1-a.観念論: 表出説のうち 更に思想、観念を描写し得るとするもの 2. 形式論: 音楽美はあらゆる観念や感情と交渉なく、単に数的関係に成立つとする。即ち音楽 の本質はその形式に在るとする。 3. 内在的音楽特有美論: 両者の中間に位置する立場であり、音楽的形式に基づく特殊感情を内容 とする。 Lehre von der immanenten spezifisch musikalischen Schönheit