- ベストアンサー
音楽って何のためにあるの?
っていう問いは成り立ちますか? わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? あるいは理屈を言えば 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 音楽についての哲学ってありますか?
- みんなの回答 (52)
- 専門家の回答
みんなが選んだベストアンサー
こんばんは > わたしが音楽を聞くのは 心地よいからですが ほかに目的や効能などがありますか? 以下のような曲を聞くと、運動会で頑張ったのを思い出す方もおられるのではないでしょうか。 音楽は、ひとの活気・活力を高めることもある(特に何かの祭典等には)、と思っております。 Hermann Necke - Csikos Post (Mail Coach) https://www.youtube.com/watch?v=DmBMVc-999U > 音楽も絵画美術などとともに芸術として いわゆる真善美の体験にかかわる――それによって わたしは我れに還る――ものだと考えるのですが [ベートーベンと同じ1770生まれの] ヘーゲルは次のように述べていたようです(因に、ロッシーニ愛好家だったそうです)。 「不確定なものへ出てゆくのではなく、自己自身の中で分化し、自己へ帰還する運動としてのみ、メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白の領域に於いて理想性と解放を実現する。この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴衆せるものである。」 引用:ヘーゲルの音楽美学 https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1959/9/1959_9_66/_pdf > 美としては 心地よい感覚の問題だと言ってはいけませんか? 以下に、カントの”趣味判断”に関するサイトを紹介致しておりますが、ここでの” ”を”心地よい感覚”としてもじゅうぶん通じるところがあると思われます(ただし、カントは、音楽に関しては、ほとんど言及はしなかったようです)。 Wikipedia ”趣味判断” http://ja.wikipedia.org/wiki/%e8%b6%a3%e5%91%b3%e5%88%a4%e6%96%ad なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。 > 音楽についての哲学ってありますか? 最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。 ・芸術は、イデアを純粋に表象し、個々の争いやエゴを超越するもの。 ・これらから生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 概ねこのようなものだと思います。 余談ですが、ワーグナーを評価しなかったと言われています(ヘーゲルと同様、ロッシーニの大ファンだったそうです)。 ご参考になれば、幸いです。
その他の回答 (51)
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
せわしないですが、また少し書きます。 哲学者による音楽論は、何となく信用できない印象があるのですが、内容をまだ把握していません。これから確認します。ただ、一点だけ指摘させていただきますと、ヘーゲルのfreies Beisichseinについて、サトリとか解脱などとおっしゃっていますが、これは誤解ですね。bragelonneさんは、そちらの方はお詳しいのではないのですか。ヘーゲルの「自由(Freiheit)」の定義は、「Beisichsein, Unabhängigkeit von Anderem」ですよね。「他者からの独立、自己のもとにいること」、「bei sich sein」をくっつけて書いて名詞化しているので、「拠自在性」などというものものしい訳語を当てるからおかしくなるのです。「自分がいるところにいる」というくらいの意味だと思いますよ。ただ、これをメロディーに関して言っているのが問題で、日本とかアフリカなどの、非西洋の音楽ならともかく、西洋のクラシック音楽に関して言えば、メロディーがハーモニーやリズムから完全に独立して自由である、というのは、音楽理論から言っても、完全な誤りです。やはり、音楽を専門的に学んでいない人の限界でしょう。その点はまたあとで触れます。音楽について一番たくさん書いているのはアドルノだと御紹介したのですが、ところどころ拾い読みしていると、感心しません。フランクフルト学派ということで、ヘーゲルの弁証法を引き継いでいるのでしょうが、その伝統に合わないものは全部否定されているようで、愉快ではありません。文章も難解です。アドルノは、音楽の勉強をした人で、作曲もしていたので、多少は期待していたのですが、やっぱり駄目でした。ラヴェルやドビュッシーなどの、フランスの室内楽作品について、ドイツやオーストリアの室内楽の伝統である弁証法的精神が欠けているので、確然とした室内楽の概念には含まれないことを主張する、という偏狭さにはあきれました。そのあとにわざわざ、「そのことで国粋主義者の嫌疑を蒙ることは望まない」と、あらかじめ防護壁を築いています。この発言は、1960年頃の講義です。あとでまた触れることになると思いますが、ハンス・ヨアヒム・モーザーという音楽学者は、それより前に書かれた「音楽美学」で、「実用音楽美学の多くの失敗と誤謬は、ある民族、時代、芸術作品群、個々の名作に認められた原則と尺度を、本質的に違った制約の下に成立した他の多くの場合に写しもちいることによって起こるのであって、それらには、それぞれに適した独自な法則が見出されるべきであろう」と述べているので、いささか時代錯誤の感があります。アドルノは、後期ロマン派の音楽も、ジャズやポピュラー音楽も認めませんでした。「新音楽の哲学」は、シェーンベルクの援護射撃のような本ですが、いくらシェーンベルクの音楽を「主知主義ではない」と擁護しても、聴衆と歴史は正直です。現在最も演奏されるシェーンベルクの作品は、初期の作品、まさに後期ロマン主義的な作品である「浄夜」であり、これに続くのも、「グレの歌」や「ペレアスとメリザンド」などの後期ロマン主義的な作品です。どうも、哲学者が音楽について語ることは、今一つなのではないかという気がして仕方がないのですが、ヘーゲルもショーペンハウアーも、ロッシーニが好きだったと聞くと、結局、娯楽的な聞き方しかしていなかったのだろうかと疑ってしまいます。ニーチェにしても、あれだけワーグナー論を書き、ディオニュソス的と書きながら、ピアノでショパンのマズルカを弾いて涙し、好きなオペラは実は「カルメン」だった。サルトルも若いころからピアノを弾き続けていましたが、ほとんどショパンばかり、ときどきドビュッシー、ロラン・バルトは、シューマンなどのロマン派のピアノ曲を弾いていたらしいです。哲学者の中で、完全に音楽のプロだったのは、ジャン・ジャック・ルソーだけではないでしょうか。オペラなどの本格的な作品もたくさんありますし、音楽理論書は、音楽理論史のなかでも意味を失っていないようです。ニーチェも、ピアノの腕はプロ並みだったそうです。作品もまともですよ。アドルノよりニーチェの方が、音楽家としてははるかに上ではなかったかと思います。お聞きになりますか? ルソー 歌劇「村の占い師」 (1752) https://www.youtube.com/watch?v=uEucVoQ1fsU ニーチェ作品集(「もっと見る」をクリックすると、曲名が全部表示されます) https://www.youtube.com/watch?v=rBO1B3Wf4mk アドルノ作品集 https://www.youtube.com/playlist?list=PLtT9IVyzi6c9fuyUmf_uHfAI7ap-IsJRh
お礼
ご回答をありがとうございます。 ヘーゲルによる音楽の効能にかんする定義の中で Beisichsein について: ★ 「自分がいるところにいる」というくらいの意味だと思いますよ。 ☆ ええ。それゆえ 《われに還る》つまり《わたしがわたしである》というところまで 解釈を――勝手に――伸ばしています。《サトリとか解脱》は キャッチコピーのようなものとしてです。 ★ 西洋のクラシック音楽に関して言えば、メロディーがハーモニーやリズムから完全に独立して自由である、というのは、音楽理論から言っても、完全な誤りです。 ☆ あぁ そこまでのエラーでしたか。たしか勝手な解釈として《メロディーがハーモニーやリズムをふくむかたちなのかな》と書いた記憶があるのですが。 アドルノは ★ ラヴェルやドビュッシーなどの、フランスの室内楽作品について、ドイツやオーストリアの室内楽の伝統である弁証法的精神が欠けているので、確然とした室内楽の概念には含まれないことを主張する、という偏狭さにはあきれました。 ☆ そうでしたか。その論理の硬さ――生硬さでしょうか――がちょっと目立つように感じていました。 ★ そのあとにわざわざ、「そのことで国粋主義者の嫌疑を蒙ることは望まない」と、あらかじめ防護壁を築いています。この発言は、1960年頃の講義です。 ☆ なるほど。けっこう狭いですね。名の通った人の割りには。 ★ ヘーゲルもショーペンハウアーも、ロッシーニが好きだったと聞くと、結局、娯楽的な聞き方しかしていなかったのだろうかと疑ってしまいます。 ☆ そこまでも行き着いていましたか。 《心地よい》というのは 《娯楽》とはちょっと違うんですけれど。バッハが心地よいのは やはり日常性としてけっきょく24時間持続するわけだからです。 じっさいに音が成り続けているというのではなく その下地が 持続します。やはり《ケ(褻)》のチカラでありリズムだと思います。だから 心地よいのです。 ▲ (No.12補足欄 § 2 (け)) 主観的内面性 subjektive Innerlichkeit の領域で内容が生命を得ることが音楽の機能である ☆ このヘーゲルについては わたしは《われに還る》問題として・そしてそれが 日から日へのあゆみだという点で 納得しました。 ★ 哲学者の中で、完全に音楽のプロだったのは、ジャン・ジャック・ルソーだけではないでしょうか。 ☆ ♪むすんでひらいて♪ をつくったとかと聞きますが。 ★ J. J. Rousseau - Le Devin du village (1752) ☆ あぁ そこまでだとは 知りませんでした。引けを取るようなものではないと感じます。楽譜の写しで生計を立てていたとかも聞きますが そんな作曲の勉強をどこでしたんでしょう。 長いので途中で聞くのを端折りました。 ★ ニーチェ作品集 ☆ シューマンの《マンフレッド序曲》に対抗して書いたのは 《マンフレッド瞑想曲》だそうですが これはまだ ようつべには 上げてないみたいです。 ★ Friedrich Nietzsche - Έργα ☆ これも長いので聞くのを端折りましたが ところどころ調子はづれであるように聞こえました。しかし ずいぶん曲は多いですね。 ★ Theodor W. Adorno - Works for String Quartett Op. 2 Movement 1 ☆ リストの一番上からえらんだものですが 変わった感じがあります。 複雑怪奇な心理劇を演じている現代人の中には こういうのが好きな人もいるかも知れないと思いました。 シェーンベルクとか 復唱も出来ずじまいのものもありますが こんなところでしょうか。 でも いろいろ・さまざまだということは 案外おもしろそうに感じました。多様性の妙でしょうか。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
日本の音楽についても書く予定でいたのですが、それは、ねこさんが、東北の民謡と沖縄の民謡に差があるとお書きになっていたと記憶していたからです。ところが、このスレッド内をいくら探してもありませんでした。これは私の思い違いで、gooのねこさんの方のスレッドにありました。「日本だって、東北の民謡と九州・沖縄の民謡では、明らかに違いがあるのに」と。しかし、日本の音楽の起源にもちょっとだけ触れておきます。南北日本の民謡については、類似点も言われています。それは、大陸からの文化が、まず中央に伝わり、それから南北に伝播していったという見方があり、南端と北端に、日本古来の文化の痕跡があるのではないかという考え方があるからです。旋律の細かい装飾(メリスマ)や裏声の使い方などに共通点があると言われています。アイヌ語と沖縄方言にも共通の部分があるという説もありましたが、最近ではどうなのでしょうか。音楽の方では、民族音楽の研究家などが、そういう見解を出していたと思います。その際、裏声には、神を呼ぶ力があったとされており、さらには、能楽で使う能管の「ヒシギ」と呼ばれる高い音などもそういう意味があるのではないかという説があります。「ヒシギ」は、能の始まりとか、一つの部分の終わりに締めくくりとして使われる旋律の型です。Youtubeには、あまりいい音源が見つからないのですが、「江差追分」と「とぅばらーま」を引用します。装飾的な旋律の歌い方に共通性を感じるでしょうか。また、この追分に酷似するのが、モンゴルの民謡です。最近の研究では、縄文時代にすでに外からの文化が日本に入ってきていたとされているようなので、日本の一番古い音楽のルーツはこの辺にあるのかもしれません。 江差追分 https://www.youtube.com/watch?v=yrWFal8NLgI 八重山民謡「とぅばらーま」 https://www.youtube.com/watch?v=8yugWVTFnsY モンゴル民謡 オルティン・ドー https://www.youtube.com/watch?v=FEp-mkim1s8 日本の音楽の中には、宗教的な意味がある音というのも指摘されておりまして、能管や尺八でいう「ユリ」という形、隣り合った音の間で「ドーーレドレドレ」と揺らす旋律的装飾は、「霊振り」の意味があると言われています。「踏歌」というのは、魂を地に封じ込めることらしく、歌舞伎の中の舞踊でも、能楽の舞でも、足踏みをする箇所があるのは、その名残でしょうか。先ほどの裏声の例も含めて、音楽の原初的な形として、そういった呪術的な意味もあるのでしょう。 さて、日本の音曲の多くは声楽曲であると言われます。したがって、文学的な内容を伴うもので、中には、音楽はあくまでも従属的と言わざるを得ないものもあります。また、浄瑠璃のように、語り物の性格が強く、音高が必ずしも定まらないものもあります。朗読、もしくは朗誦、語りと音楽の中間のような性格のものがありますね。例えば平曲ですが、初めてこれを聴いたときは、同じ音の間を行ったり来たりするだけで、さすがに音楽的感興は得られませんでした。なかなか聞く機会はないと思いますので、Youtubeから引用します。 平家琵琶(平曲)那須与一 https://www.youtube.com/watch?v=FqoXsZY1uDo これが盲僧琵琶になるともっとにぎやかになるんですよ。 盲僧琵琶 山鹿良之 「羅生門」 https://www.youtube.com/watch?v=NZ0tEKcpWeI 永田法順 - 釈文 https://www.youtube.com/watch?v=goTTAsvqHQQ 肥後琵琶 山鹿良之 菊地くずれ五段 https://www.youtube.com/watch?v=99ewyGkkDLM しかし、現代になりますと、琵琶の語り物も音楽的にダイナミック、ドラマティックになり、聞きごたえのあるものになります。薩摩琵琶の鶴田錦史による「壇の浦」が有名で、私が若いころから聞いているものです。源平の合戦を描写する琵琶が素晴らしく、無常を歌う旋律も洗練されています。 https://www.youtube.com/watch?v=_CtRwZTPy8U 日本最古の音楽である雅楽については、今回は省略します。ゆたかな旋律の例として、もう一つ、声明の例を引きます。 https://www.youtube.com/watch?v=pSAH4BF_ca0&t=9m30s 能の謡は、声明や平曲から発達したと言われています。 このように、琵琶や三味線を持って、歌や語り物を演じて歩いた人々がいたと思いますが、テキストを持った音楽は、純粋な器楽とは違う、もっと具体的な役割があったと思います。西洋でも、吟遊詩人というのがいましたが、恋愛詩を歌うだけではなく、騎士を讃えるとか、道徳を説いて回るとか、商品の宣伝をするなどの役割もありました。現在、「夜想曲」と訳されることが多い「セレナード」も、中世の吟遊詩人が宣伝のために歌った歌です。吟遊詩人といえばまず浮かぶ名前が、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ。政治的な詩も書いた人です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%87 https://www.youtube.com/watch?v=E0iYcAXOTbs オスヴァルト・フォン・ヴォルケンシュタインという人もいます。結構、わいせつな内容の詩もあると聞きますが、フォーゲルヴァイデと比較すると、より大衆的な内容なのでしょう。Youtubeにたくさん例が出ているのですが、まず、アラビアを旅する、という内容らしき歌。 https://www.youtube.com/watch?v=wgpwXnuzlvY 次の音源は、ウィーンのエバーハルト・クンマーという人が、Drehleier(ハーディ・ガーディ)を演奏しながら歌っている例です。この人は、ウィーンの市などで歌うこともあって、一度話をしたことがあります。 https://www.youtube.com/watch?v=HWo3kPp8IJo&t=3m3s もう一人、私が好きな音楽があります。「ザルツブルクの僧」と名乗った吟遊詩人のものです。 Das Nachthorn https://www.youtube.com/watch?v=dpikfaa6ORA Das Taghorn https://www.youtube.com/watch?v=TkevaZGJvJg Ich klag dir traut gesell https://www.youtube.com/watch?v=PsbBRUL73uA このザルツブルクの僧の歌を聴いた後の印象が、日本の催馬楽などを聴いた後の清浄感と通ずるところがあって、とても気に入っています。吟遊詩人は、ドイツ語圏ではMinnesängerですが、フランスではTroubadoursですね。フランスの例を一つだけ(13世紀)。 https://www.youtube.com/watch?v=3BShDv-Fr30&list=PL3A308F938F0C0921&index=1 またここで一度切ります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 江差追分 八重山民謡「とぅばらーま」 モンゴル民謡 オルティン・ドー ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 似てますね。そこで 天の邪鬼としてのぶらげろクンとしましては 違いを探そうと。 ありました。モンゴル人は 声が澄んでいます。透明なふうに仕上げようとしたフシがあります。八重山の女性も きれいな声なんですが 高いゆえにきれいなのであって 必ずしも澄んだイメージにしようとはしていないのではないかと思います。どうなんでしょうか。 ★ 能管や尺八でいう「ユリ」という形、隣り合った音の間で「ドーーレドレドレ」と揺らす旋律的装飾は、「霊振り」の意味があると言われています。 ☆ 出て来ましたね。《たまふり》。 ★ 平家琵琶(平曲)那須与一: 例えば平曲ですが、初めてこれを聴いたときは、同じ音の間を行ったり来たりするだけで、さすがに音楽的感興は得られませんでした。 ☆ 実演としてはめづらしいですね。ひとに聞かせると言うのに どうしてこんなに《たいら》な謡いになるのか。不思議です。開き直っているわけでもないでしょうのに。 ★ これが盲僧琵琶になるともっとにぎやかになるんですよ。:盲僧琵琶 山鹿良之 「羅生門」 ☆ 琵琶の音はまだ少ないようですが 語りが演技として形作られた。 ★ 永田法順 - 釈文 ☆ 語りも琵琶も 講談や演奏のごとく成った。 ★ 肥後琵琶 山鹿良之 菊地くずれ五段 ☆ これはまだ琵琶が 語りの息継ぎの合間に弾かれるのみではあります。 ★ しかし、現代になりますと、琵琶の語り物も音楽的にダイナミック、ドラマティックになり、聞きごたえのあるものになります。: 薩摩琵琶 // 壇の浦 ☆ まさに現代的だと思いました。演出が凝っている。 ★ ゆたかな旋律の例として、声明: 真言法響会十周年記念声明公演 曼荼羅の響音 平安を現代に繋ぐ遺伝子、雅楽・天台・真言の響き ☆ 高い低いとひとつの音を伸ばすといった感じでしょうか。 ★ 吟遊詩人といえばまず浮かぶ名前が、ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ。: ☆ もう1200年ごろの歌が 何故か聞き慣れたような感じを持たせます。 ★ Oswald von Wolkenstein - Durch Barbarei, Arabia: フォーゲルヴァイデと比較すると、より大衆的な内容なのでしょう。 ★ Eberhard Kummer sings Oswald von Wolkenstein : この人は、ウィーンの市などで歌うこともあって、一度話をしたことがあります。 ▲ (ヰキぺ:ハーディー・ガーディー) ~~~~ 各言語での名称 英 Hurdy gurdy 独 Drehleier 仏 vielle(-à roue) 伊 ghironda, lira tedesca ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ Minnesänger : Mönch von Salzburg - Das nachthorn / Das Taghorn / Ich klag dir traut gesell: このザルツブルクの僧の歌を聴いた後の印象が、日本の催馬楽などを聴いた後の清浄感と通ずるところがあって、とても気に入っています。 ☆ 割り合い弱く歌っている印象ですが こんなもんでしょうか。軽く でしょうか。 三つ目の曲は 女性が歌っていますが ミンネゼンガーに女性がいたということではないですよね。 ★ Gace Brulé, 13th c. France: Biaus est estez : 吟遊詩人は、ドイツ語圏では Minnesänger ですが、フランスでは Troubadours ですね。 ☆ 南は ラングドックと言って ラングドイユの北とは言葉が違うのだ。中世にはその南の言葉で歌うトルヴァドゥールという吟遊詩人がいたのだと 何故か フランス語一年生の学期の初めに聞かされました。いまでも覚えています。歌は 聞かせてくれませんでした。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
ちょっと短い補足をします。 昨夜、偶然「ニーチェ入門」(竹田青嗣著、ちくま新書)をひっくり返して拾い読みをしていましたら、「アポロン的」、「ディノニュソス的」の二つの概念を図示したところがありました(37~38ページ)。 アポロン的 夢幻 形象化 個別化 秩序化 英知的 理性的 造形芸術(彫刻・絵画・詩) 節度 コスモス ディオニュソス的 陶酔 一体化 狂騒 情動的 感性的 音楽 過剰 カオス これは、実はショーペンハウアーの「意志」と「表象」の変奏だと書いてあるのですが、その辺のことはわかりません。ただ、「現代的な言い方をすれば、アポロン神は混沌に形を与える力を、ディオニュソス神は、秩序化され形式化された世界にもう一度根源的なカオスを賦活するような力を司ると考えればいい」と書かれていたのを読んで、芸術が活気を保つためには、ディオニュソス的なものに時々カツを入れてもらう必要があるのではないかと思いました。ニーチェは、それまで、ギリシャ芸術がアポロン的な側面で理解されることが多かったのに対して、それを、アポロン的なものとディオニュソス的なもののダイナミックな絡み合いとして解釈したようですね。こういう絡み合いは、今日までの長い芸術史を振り返れば、常にその繰り返しともいえますから、私には(ニーチェはお嫌いでしょうけれど)ある程度納得のいく見方です。 この本には、このあと、アイスキュロスの「プロメテウス」について書かれています。火を支配するという行為を、能動的な罪として是認し、「アポロン的な英知と理性としての人間像を超える要素がある」とニーチェは説いているらしい。それで思い出したのは、ロシアの作曲家、スクリャービンです。スクリャービンは、ワーグナーやリストの影響を受け、やがて神秘主義哲学に魅かれていきます。宗教と哲学の混合である神智学や、ニーチェの超人思想にも影響を受けました。したがって、スクリャービンにとって理想の音楽は、聞く者を日常から離脱高揚させ、忘我陶酔を通じて至高の叡智へと導くものとなります。交響曲第4番「法悦の詩」が特に有名ですが、この「法悦」が、宗教的なものではなく性的なものではないかという見方があり、非難されることもありました。その次の交響曲第5番は、「プロメテウス――火の詩」と題されています。芸術的体験と宗教的体験は一致し、音楽的感性で神人一体の境地に導くことで、人類の救済を願っていた。太陽と合一することで、法悦のうちに宇宙と合体するという理念です(色光ピアノというものを使って、色彩の演出もあります)。この解説だけで、bragelonneさんは身構えてしまうでしょうか。まあ、先入観なしに聞いてみてください。 スクリャービン 交響曲第4番「法悦の詩」 https://www.youtube.com/watch?v=HAnVrdQ3qFk 同 交響曲第5番「プロメテ――火の詩」 https://www.youtube.com/watch?v=7f3B-8DKxMc またのちほど。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。ニーチェは まだまだ顔を出しますね。 ★ アポロン的: 夢幻・・・造形芸術(彫刻・絵画・詩) ☆ であるなら そこにすでに《混沌》やら《感性》やらはじゅうぶんふくまれている。と思います。そこは 竹田はあいまいですね。《コスモス・秩序》の中にじゅうぶん《お休みやアソビ》は含まれているはずです。 ★ ニーチェは、それまで、ギリシャ芸術がアポロン的な側面で理解されることが多かったのに対して、それを、アポロン的なものとディオニュソス的なもののダイナミックな絡み合いとして解釈したようですね。 ☆ そういうふうに《ふたつの要素をみとめて それらが共存している》と言っていましょうか。 たまたま いま読んでいるところでしたので取り上げるのですが: ▲ (ニーチェ:この人を見よ) ~~~~~~~~~~ ドイツ人というのは偉大さというもののいかなる概念をも理解する能力を持たない。 そのいい証拠がシューマンである。私はこの甘ったるいザクセン人に腹を立てて 『マンフレッド序曲』に対する対抗作を自分で作曲したことがあった。尤も ハンス・フォン・ビューローはこれを評して 五線紙上にかつてこんな代物を見たことがない。音楽の女神(エウテルぺ)に対する暴行にも等しい と言ったものだが。 (西尾幹二訳 1990 新潮文庫 p.54 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ エウテルぺというのは ご紹介のあった《セイキロスの墓碑銘》のセイキロスの妻 エウテルぺでしょうか。 ニーチェは ビューローの酷評に対して さほど腹を立てず受け容れているのでしょうか。だから 対立する二項のどちらも受け容れているということになりましょうか。 ★ ただ、「現代的な言い方をすれば、アポロン神は混沌に形を与える力を、ディオニュソス神は、秩序化され形式化された世界にもう一度根源的なカオスを賦活するような力を司ると考えればいい」と書かれていたのを読んで、芸術が活気を保つためには、ディオニュソス的なものに時々カツを入れてもらう必要があるのではないかと思いました。 ☆ もしそれなら デュオニュソスは ただの脇役だとなりますが。 つまり ケカレに対して《活を入れる》のは やはりケなるリズムの中にあって魂振りをおこなうことだと考えます。アポロンにすでに 混沌と秩序はあると見ます。《ヨリ原始心性》に返りたいというのは われに還ることではないと考えます。 アイドルやカリスマへの憧れは あく(我)‐かれ(離れ)であってつまりは アニミズム・シャーマニズムなる原始心性にもはや戻れない――歴史知性が身にも心にも着いた――ところをなお その状態に返りたいということでしょう。 単にイリ知性にあって 不老不死を願うということではなく 不老不死を願うという時間的存在たるヒトでは無くなりたいと言っているわけですから。原始人に戻りたいというのは――そういう表現や表現の手法はありうるでしょうが―― いま人間であることに我慢がならない 百年内外を生きるという辛抱が出来ないと言っているはずです。 デュオニュソスというのは そういう心性でありそういう心性を目指す心理であると考えます。 ワーグナーならワーグナーに デュオニュソスならデュオニュソスに寄り憑いて行ってそこから――この場合は――自由に およそ自由に言葉を発している。それが フリッツくんだと考えます。 アポロンは 母レトが ゼウスの后であるヘラにねたまれ 命をねらわれていたのです。姉のアルテミスともども 心配していたはずです。感性や心が乏しいなどということはあり得ないと考えます。 それを二―チェは勝手に無視したのでしょう。ほかの人も ニーチェに何か義理立てでもするかのように 口裏を合わせています。 ★ スクリャービンにとって理想の音楽は、聞く者を日常から離脱高揚させ、忘我陶酔を通じて至高の叡智へと導くものとなります。 ☆ ですから問題は すでにヒトは歴史知性なる存在になっていますので 《日常から離脱高揚させ 忘我陶酔をつうじて》というとき それが《至高の叡智へと導く》というのであれば やはり 《イリ歴史知性》にとどまり《ケなる日常性のリズムとチカラ》の基礎の上にあって生きることになる(われに還ることになる)ものと考えます。 ケカレをすでにマツリなるハレの舞台にのっけて表現もしそういう問い求めをもおこなったほうが――つまり デュオニュソスを持ち出したほうが―― 現代人にうったえるチカラはより大きいのかも知れません。でもおそらく空想に終わると思われます。 昔むかしのヨリ原始心性にそっくり戻るなどということは 無理です。狼に育てられた少女が人間に成れなかったのと同じように・またその逆の方向において 無理だと考えます。 あとは――そういうニーチェやスクリャーピンの救済方法は―― 文学として表現しているんだよということになるのではないでしょうか。 ★ 音楽的感性で神人一体の境地に導く ☆ おそらく――私見をどしどし差し挟んで来ていますが―― もし《神人一体――梵我一如――の境地》を言うのならば アポロンであれば・バッハであれば 《日常生活としてのリズム》に立て! ということでしょう。 言いかえると 梵我一如の境地はすでに われわれにそなわっています。ケなる律動は 身と心とに埋め込まれています。そこに還ることだけです。そのキッカケになること それが あらゆる芸術の――もしつとめがあるとするのならば――務めなのでしょう。 ですから あたかもヨリ原始心性に成ってのカリスマ崇拝やアイドルへの憧れも 或る種の仕方で美学としてそれぞれが自己表現していることだ。こう考えられます。芸術の側も芸術に群がる側も それとしての美学をおのおのが実践している。ことになるのだと。 ★ スクリャービン ☆ サティの名とその作品とは 別々に知っていましたが 曲名とそして人の名前や曲の内容とが一致していたわけではありません。 スクリャービンは 名前だけを聞いたことがあります。曲は いま聞いても過去に聞いた記憶がありません。そういう状態で・先入観なしで聞いたと思うのですが ハーモニーはどうなっているのかと思いました。 たぶんあたらしさは有るのだと思います。 そして プロメテウスのほうは その概念や物語が呼び起こされますから そのイメージと音楽が あっ 合っているなと思うところがありました。(でも 標題音楽って あまり評判がよくないのでは?) 交響曲第4番「法悦の詩」は 《 The Poem of Ecstasy 》と出ていましたが こちらは標題とあまり関係が無いように感じました。曲のたましいといったものが どこへ向かおうとしているのかが よく分からない曲なように感じました。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
お礼有難うございます。 回答が滞らないようにするためには、頂いたコメントはいったん保留した方がよいかとも考えたのですが、それほどたくさんないようなので、今日はまずこちらから扱います。 ピタゴラスの個所で、 >それは おもしろいですね。そう伺うと 自然の中にはなかったのかとは考えが向かいますね。 とありましたが、これは、自然の中のものです。例えば、一本の弦を振動させて音を出すと、振動は、弦全体だけではなく、部分振動といいまして、2分の1の長さの位置、3分の1の長さの位置、4分の1の長さの位置などを支点にした振動が起こります。ピアノで、「ド」の音たったひとつだけをたたいた場合、訓練されていない普通の人の耳には「ド」とだけしか聞こえませんが、部分振動によりほかの音も出ていますので、訓練すれば、オクターヴ上の「ド」、その上の「ソ」、そのまた上の「ド」、「ミ」、「ソ」という音が聞こえます。協和音、不協和音、という言葉がありますが、協和音というのは、この自然の倍音律に基づくものなので「協和」するわけです。ピタゴラスのハンマーの話もたぶんそういうことで、重さに一定の関係があるハンマー同士の音が、協和する振動数に当たるということでしょう。 >一般にリズムからと言われますが メロディーの問題も潜んでいるのでしょうか。 今回調べて、音の高低から生まれたとする「言語起源論」の方が優勢であると知りました。やはり、メロディーが本質的なのではないかという気がします。しかし、場所によって生活形態も違ったでしょうから、それによって、どちらが先に発展したか、地方差があって当然だと思います。 アポロン的なものとディオニソス的なものについてですが、ニーチェの著作に当たっていないので、ニーチェ的な意味ではなく、一般的な見方から考えますと、音楽は感情に訴える芸術ですから、ディオニソス的なものというのは本質的に持っていると考えます。作曲、演奏など、直接音楽行為をしているものにとっては、体感的なものとしてもあると思います。ハレとケに単純に当てはめるのはちょっと無理ではないかと思います。別の言葉への言いかえは危険ですし、それによって定義が明らかになるとも思えませんが、無理して言うなら、「客観的な音楽」と「主観的な音楽」、あるいは「ロゴス」と「パトス」、あるいは「聖」と「俗」、などを連想します。あまりにもアポロン的、静的な音楽というのも、退屈なものですよ。ハレの音楽と言っても、必ずしもハメをはずすものとは限りませんからね。宗教的な場面であれば、神聖さ、崇高さを呼び起こすために、アポロン的な音楽が有効でしょうし、神秘主義的、秘儀的になれば、ディオニソス的な音楽も考えられます。 バッハの音楽も、教会で実際に使われるわけですから、ケなる日常性のあゆみ、というのはどうでしょうか。バッハの音楽にも、祝祭的な華やかなものはいくらでもありますが、その華やかさは、あくまでも均整のとれた美から生じるものであって、ディオニソス的なものでは全然ありません。 >合理派とロマン派とは それぞれの部分要素において非日常のハレの領域へと行っちゃってる。と見てよいのでしょうか どうでしょうか。 合理派とロマン派は方向が逆です。それと、日本の民俗を捉える用語としてのハレとケが、どうもなじまないような気がするのですが。日本の伝統音楽を考えるときは意味を持つと思いますが、世界的視野で、古代から現代までの音楽全般を考えるときに、この用語を持ち込むのには無理を感じます。 音楽とシャーマニズムに関しては、私は詳しくありません。手元の書物に若干の記述はありますが、異様な音響によって、聴者が畏怖や崇拝の感情におそわれる、という直接的な影響が、音楽、もしくは音響にはあるに違いないと思います。こういう面は、今日でも、ロックコンサートで熱狂する若者などを見ていると、音楽の本質的な作用の一つではないかと思います。そういえば、五木寛之は、美空ひばりのような歌手をシャーマン的な役割として考えていました。まあ、あまりあてにはならない見方ではあるのですが。 アリストテレスの模倣の学説で、音楽が表現する感情が聴者に感染するとされているというのは、ドナルド・ジェイ・グラウトの「西洋音楽史」に紹介されていて、出典は、アリストテレスの「政治学」となっています。プラトンの「国家」も参照、となっています。どちらも持っていません。 音楽における芸術性と技巧は、われわれ音楽関係者にとっても難しい問題です。一般的には、芸術性と技巧は、半ば相反することもある二つの要素ととらえられすぎるきらいがあります。「技術はあるが音楽性がない」という言い方は、決まり文句のようになっています。しかし、この二つが双補完的であることはもちろんですが、私などは、もう少し一体のものとして考えた方がよいのではないかとしばしば思います。これは、専門的な話になってしまうので、詳述は避けますが、たとえば、「音楽的に演奏するための技術」というのもあり得るという考えです。もちろん、技術のみで芸術性を全うできるものではなく、精神的成熟が不可欠であることは言を待ちません。 聴衆にも、過剰な技巧に対して拒絶反応を示す人もいるでしょう。しかし、大衆の多くは、超絶技巧に熱狂する傾向があり、極限に達した技巧はそれ自体芸術的である、というのは、やや通俗的な解釈になりますが、私は、技巧を楽しむ、という聞き方を否定する気持ちは全くありません。私自身も、同業者として、技巧に優れた演奏家や作曲家に触れたときには、尊敬の念を持ちます。作曲に関して言えば、バッハの音楽なども技巧の極致ですから。偉大な作品や演奏は、みなそれなりに技巧の面でも優れているものです。演奏の華麗な技巧に反応するかしないかは、楽器を少しでもやったことがあるかどうかも関係してくるのでしょう。楽器を演奏することのむずかしさを知っていれば、目の前に繰り広げられる技巧は、それだけで感動を呼ぶに違いないと思います。できることなら、bragelonneさんにも、そういう聞き方を開発していただきたいなと思います。ねこさんが、昨年、「伝説の名演・・・」というスレッドで、ナタリー・デセイという歌手の技巧に感動したと書いていらっしゃいました。音楽好きな人には、ごく自然なことだと思いますよ。 とりあえずこの回答は、頂いたコメントへの再回答ということで、ここでいったん切ります。 できれば、今日もう一度、この先の問題について書こうと思います。
お礼
たすてん先生 こんにちは。早速つづいてのご回答をありがとうございます。 ★ ピタゴラスのハンマーの話もたぶんそういうことで、重さに一定の関係があるハンマー同士の音が、協和する振動数に当たるということでしょう。 ☆ なるほどですね。〔とたぶん 協和音として 分かった感じです〕。と同時に 自然と言いましたのは 《鍛冶工のハンマー》が打ち出す音とリズムでなく 鳥の声や川のせせらぎなどからはさらに積極的に導き出して来なかったのかなと思った次第です。 ★ 今回調べて、音の高低から生まれたとする「言語起源論」の方が優勢であると知りました。やはり、メロディーが本質的なのではないかという気がします。しかし、場所によって生活形態も違ったでしょうから、それによって、どちらが先に発展したか、地方差があって当然だと思います。 ☆ そうなんですね。《音ないし声の高低》ですね。そして 地方差があるのも もっともでしょうね。分かりました。(ヘーゲルでしたかは メロディーが主役であるとか)。 ★ 一般的な見方から考えますと、音楽は感情に訴える芸術ですから、ディオニソス的なものというのは本質的に持っていると考えます。作曲、演奏など、直接音楽行為をしているものにとっては、体感的なものとしてもあると思います。 ☆ なるほど そうなんですか。つまりわたしにとってこの体感的なものについての把握が希薄だったでしょうか。 もっともそうは言っても 《もののあはれ》にまつわるような情感にかんしては《体感的なもの》をもすでに含めて言っていると思っていました。つまりは アポロンにもそういう意味での情感ないし体感的なものがあると思っていたわけです。 言いかえると デュオニュソス感覚は わたしが思っている以上に人びとにふつうに感じられている。ということなのだと理解しました。 次にご指摘を承けて もう少しこの件について長引きますが。 ★ あまりにもアポロン的、静的な音楽というのも、退屈なものですよ。 ☆ ええ。つまり ケ=日常性の中で気晴らし(これは スポーツ関係にかかわっていく筋でしょうか)もあって そのいわゆるあそび一般も アポロンのあゆみ(基礎)に入っていると思っていたわけです。 ★ 神秘主義的、秘儀的になれば、ディオニソス的な音楽も考えられます。 ☆ たぶん扱うのに厄介な点のいちばんは この《神秘・秘儀》の要素だと思われます。 言いかえると 《神秘》はそれでもなおアポロンにもあると思います。《秘儀》にまで通じるのではないかとさえ思われますが 大昔のデルポイの神殿における呪詛のような神託は アポロンが一たん無くして あらたな神託のかたちにしたのではないかと捉えられます。ですから 秘儀だとしても 意識を超越したトランス状態というのは アポロンではなく デュオニュソスのほうだと思われるのです。 ですから もしハレという言葉を使ってよいとしたら デュオニュソスは ハレの内でも隠れたところに位置する非日常性であるかと思われて来ます。《特殊》なのではないかといういくらかわたしの先入見でしょうか。 ★ バッハの音楽にも、祝祭的な華やかなものはいくらでもありますが、その華やかさは、あくまでも均整のとれた美から生じるものであって、ディオニソス的なものでは全然ありません。 ☆ ええ。そうですよ。そうですから バッハは ハレの特殊部隊のごときデュオニュソスではなく ケの中のアクセントとしてのように 休みの日や祝祭といった意味でのアソビを表現するような感じで ★ バッハの音楽も、教会で実際に使われるわけですから、ケなる日常性のあゆみ、という ☆ ふうに捉えたのでした。 このケなる日常性からズレテ行くとしたら 合理派とロマン派とはそれぞれ 理性や情感を主要な要素としたハレなる非日常性に属すかたちではないか。――くどいようですが どうでしょう。 バッハが 大道であると思います。日常の歩み( basis = going )は ケでしょうし そのチカラなのだと見ます。ここから外れれば ハレです。デュオニュソスは 外れ過ぎです。 すみません。これから 出かけなければならない用事があります。帰って来てからつづきを書きます。あしからずどうぞ。
補足
お礼欄を承けて継ぎます。 まづ訂正があります。 ☆☆(お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ バッハは ハレの特殊部隊のごときデュオニュソスではなく ケの中のアクセントとしてのように 休みの日や祝祭といった意味でのアソビを表現するような感じで ★ バッハの音楽も、教会で実際に使われるわけですから、ケなる日常性のあゆみ、という ☆ ふうに捉えたのでした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このとき《祝日》は もろに《ハレ:非日常性》だと思います。間違えました。 ○ ケ:日常性なる歩み・リズム・チカラ:感性と理性ともども。 平日:仕事をする日 お休みの日:教会へ行ってバッハの音楽を聞く もしこうだとすれば バッハは ワーキングソングなど と同じ《ケ》のジャンルに入るのだと。 ○ ハレ:非日常性:感性や理性の解放(?) 一般にマツリである。 さらに広義のマツリとして 音楽において: 理性重視の合理派と 感性を重んじるロマン派が出た。 それぞれが ケ(日常性)から離(か)れている。 よって ケ‐カレ(褻‐離れ)としての心の状態が想定され それとしての芸術分野へと進んだ。 ・ ちなみに ケカレからさらに 社会力学じょう身分制ないし身分の 共同観念がはたらくと ケガレ(気枯れ・穢れ・汚れ)という概念をも発生さ せる。 生きるケから 死体などにかかわるケガレへと。 ☆ 訂正は ここまでですが 関連する概念を取り上げます。: ○ 鎮魂(たましづめ) これには 細かく分けて 魂振りと狭義の魂鎮めとがある。 われに還るという魂鎮めのために むしろ初めには 魂振りが ほどこされる。ゆさぶるほどに奮い起こす。 鎮まり落ち着いたたましいの状態が ケのチカラでありリズムだと 思われる。 そのケには 仕事と遊びとが含まれる。 ハレは 《魂振りと魂鎮め》の一体となったケから ともかく別の 世界へと移るといった感覚を持つのだと思われる。マツリです。 ☆ こんなふうに概念整理をしつつ 世界的視野への見通しを立てたいと思います。 ○ 音楽とシャーマニズム ★ 異様な音響によって、聴者が畏怖や崇拝の感情におそわれる、という直接的な影響が、音楽、もしくは音響にはあるに違いないと思います。 ☆ これには さらに細かい分類が必要になるとわたしは思います。 ○ 歴史知性の誕生 ヨリ(憑り):歴史知性以前。世界と一体であり あらゆるものごとに 気持ちが寄りつく。原始心性。 アニミズムおよびその世界の親分としてのシャーマン イリ(入り):世界ないし時空間への入り。世界‐内‐存在。 要するに 時間を知ったし ヒトは朽ちるべき存在だと知った。 ゆえに 歴史知性。 ヨセ(寄せ):イリ歴史知性となった者が ヨリ知性なるシャーマンを 気取る。 神のごとくいかなる者の下にも立つまいと強く心に決めた人間。 ヨリ知性(知性以前)を束ね イリ知性をも寄らしむ。 アマテラス公民としての為政者。 ☆ このように知性として人間を分けてみたのですが 《シャーマン》は いま現代では《ヨリ準知性》のままでは いません。すでに《イリ歴史知性》となっていて しかも知性以前のヨリに寄って行く場合だと考えられます。アニミストも 同じくでしょう。 つまり ロックコンサートで熱狂する人びとについても 未開社会そのままのアニミズムやシャーマニズムを《実践》することは 不可能だと見ます。そういうふうになりたいという願望を表わしているのであり それだけにとどまるとさえ見ます。 だとしたら 日常性なる歩みとしてのリズム(つまり ケ)は そのロック好きな人たちにも じゅうぶん当てはまります。せいぜい ケ‐カレ(離れ)を試みているのだと見られます。(また そういうジャンルで創作する人びともいるということだと思います)。 ★ 畏怖や崇拝の感情 ☆ 《崇拝》は いわゆるアイドルへの憧れではないでしょうか。ロックに代えて アイドルを持ってくればよいと思います。 《畏怖》は 基本的にのぞましい心の状態ではないでしょうか。単純に言って この世界で一定の時間を生きると知って生きるとき人は その光と闇との織り成す世界についておそらくその経験世界を超えたところに ナゾや神秘を捉えたと思って 《きよらかなおそれ》を抱くものと考えます。これは ケのチカラによるものと見ます。そして むろんイリ歴史知性にあって持たれる境地だと考えます。 ★ アリストテレスの模倣の学説で、音楽が表現する感情が聴者に感染するとされている ☆ 典拠についてわたしもあやふやで申し訳ありませんが このコト自体については でしたら 現代人にとっては 先ほどの《ケ‐カレ》の試みとしてであるということ。カリスマへの崇拝やアイドルへの憧れとして 《ヨリ》なる原始心性をみづからの内によみがえらせようとしている。のではないでしょうか。 現代人としては もはやそういうフリなのだと思います。未開社会人へとさかのぼって成り切ることは出来ないのではないでしょうか。 ★ 詳述は避けますが、たとえば、「音楽的に演奏するための技術」というのもあり得るという考えです。 ☆ なるほど。分かるような気がします。 ちょっと怒るかも知れませんが ねむねこさんの創作作品を例に取り上げます。 あの古語による表現としての和歌は 言ってみれば超絶技巧です。そうしてもしその技巧が 作品の全編をつうじて散りばめられていたとします。だとしたら 芸術的に表現するための技術にも成ります。 気持ちや心理を描くその内容は 必ずしもあたらしいものがあるとは限らない。すでに人びとに知られていてこれまでに表現が試みられて来ているものであるかも知れません。けれども それらも人間の心です。だとしたら その心を 初めからおしまいまで超絶技巧で表わし切ったとすれば 芸術性の問題になります。 五島みどりは むしろその気持ちとしてわが超絶技巧を見てくださいと言っているのではないでしょうか。そういう場合には それに応じて受け留めるものと思います。 ★ 私は、技巧を楽しむ、という聞き方を否定する気持ちは全くありません。 ☆ 《否定》は 思うべくもありません。 ★ 作曲に関して言えば、バッハの音楽なども技巧の極致ですから。 ☆ それは知りませんでした。演奏の結果は 違って聞こえます。これは どう考えればよいのでしょう。 あっ そうか。つまり ★ ねこさんが、昨年、「伝説の名演・・・」というスレッドで、ナタリー・デセイという歌手の技巧に感動したと書いていらっしゃいました。音楽好きな人には、ごく自然なことだと思いますよ。 ☆ というときのその《感動》のあり方や中身を 哲学として説明できるならば いちばんよい。こう考えられます。普遍的なよろこびやたのしさであるということの共有に向けてですね。 ちょっと対決気味に成って来ましたが まだなお公共性のある主題であり問い求めの仕方であると考えます。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
続きです。 さて、音楽は「何のために」あるか、という問いへのヒントとして、音楽の創生期、古代における音楽の役割や意味を考えます。 有史以前では、やはりシャーマニスティック、魔術的な役割が強く、今日いう音楽のようなものではなく、騒音のような音を立てる楽器で、術者が聴者を興奮させたり恐怖させたりしました。「心地よい」どころではなかったですね。これが、医術としての音楽につながります。例えば、アリストテレスなども、心情を純化する医学的な手段として、歌の魔法を体系づけて推奨しました。日本でも、護摩というのがあるではあって、太鼓を叩いたりしますよね。しかし、音楽と医学の関係というのは、そのまま現代にまでつながっていて、音楽療法というものがあることは御存じでしょう。もっとも、ねこさんが紹介しているモーツァルトの例に関しては、モーツァルトの音楽だけに特別な効果があるということが科学的に証明されているわけではありません。あれは、商業的宣伝が先行したきらいがあります。この件については、学者たちがいまだに議論をしていますが、現在一般的になりつつある見解は、自分が好きな音楽を聴くことが、リラックス効果を生む、というものです。昨年、科学カテゴリーにその質問が出ましたが、ちょうどその少し前に、知人から尋ねられて調べたばかりだったので、回答しました。 https://okwave.jp/qa/q8819123.html 先ほど、音楽の定義の項で、数の問題が出ましたが、古代ギリシャでは、音楽と数学の関係が重要です。ギリシャでは、音楽という言葉の意味は広く、語源のムーサは、芸術と科学をつかさどる九人姉妹の一人ですから、真理や美の追求に関する行為です。ピタゴラス以来、音程論、数理論、太陽系を同一理論で論じる形で形成されました。つまり、天文学とも関係があります。ピタゴラスは、伝説によれば、エジプト人やバビロニア人に学んだとされますが、北方起源説というのもあり、古代中国からの影響もあると言われます。エトス、音楽の倫理面に関しても、数学との関係があって、ピタゴラスの考え方は、音楽を、創造物一切に作用している数学的法則と同じ法則に基づく音やリズムの体系としての小宇宙とみなすものです。したがって、世界に働きかける、能動的な力でもあり得た。ピタゴラスの伝説にもう一つ面白いのがあって、ピタゴラスが星を観察していたとき、アウロスという楽器(現在のオーボエのような管楽器)を演奏している人に若者が熱狂して、女優の家に侵入しようと騒いでうるさかったため、楽器の奏者に半音変えるように命じたところ、若者たちは静かに家に帰った、といいます。 アウロス https://www.youtube.com/watch?v=Yrpf6KqUfDs https://www.youtube.com/watch?v=zEkqgj5uNW8 https://www.youtube.com/watch?v=Bty066C2si4 音楽が、人間の意志、性格、行動に及ぼす影響については、アリストテレスが「模倣」という学説を唱えます。音楽は、魂の情感や状態を直接模倣する、つまり、優しさ、勇気、また怒りなどもです。それを聴いた人間は同じ情感に感染する。卑劣な情感を呼び覚ますような音楽を聴いていると、卑劣な人間になる、というものです。プラトンもアリストテレスも、正しい人間を生み出すためには、体育と音楽が重要であると考えました。一方は肉体の訓練のため、他方は精神の訓練のため、というわけです。音楽の教育的意味、というのも重要だったわけです。そして、学ぶべき音楽も当然選ばれました。プラトンの「国家論」では、理想国家の統治者になるように訓練される青少年には、勇気や節度の美徳を鼓舞する旋法として、ドーリアとフリギアが推奨されています。旋法というのは、音階ですが、今でいうハ長調とかヘ短調とかいうものではなく、音階を構成する音同志の幅がみな違うもので、今日ドーリア旋法と呼ばれるものは「レミファソラシドレ」、フリギア旋法と呼ばれるものは「ミファソラシドレミ」です。しかし、当時の理論の詳細はわからず、実際にどういう形の戦法であったかは不明です。このほか、細かい音の使用や複雑な音階、異種楽器の合奏、そして、先ほど挙げたアウロスも追放されなければならない、と「国家論」にあるそうです(手元にある「プラトン集」には「国家」が入っていないので確認できません)。 当時広く使われていた楽器は、今のアウロスのほかに、弦楽器のリラやキタラ(少なくとも紀元前6世紀から)で、名手たちが技を競い合う祭典があったようです。アリストテレスは、一般的な音楽教育において、あまりにも多くの職業的な訓練が課せられていることに警告を発しているというのですが、われわれは、当時の音楽は、現代の音楽と比較すると、はるかに単純な単旋律のものだったのではないかと思ってしまうので、どうしてそんなに多くの訓練が必要だったのかと疑問に思います。しかし、「専門的な競技で行われているような、目も眩むような妙技を身につけようとせず(・・・)気高い旋律やリズムに喜びを見出すことができるようになるところで留めるべきである」とアリストテレスは書いています。これは、いつの時代にもある、「技巧に走る」ということを戒めたものです。しかし、華麗な技巧というのは芸術の大きな魅力でもありますし、これまでの音楽史を振り返ると、音楽があまりに芸術性ばかりを追い求め、それを害するとして技巧を抑制すると、聴衆を失うということもしばしばおきます。音楽だけではありません。西洋から、まじめな「芸術」の概念が日本に入ってきたとき、たとえば歌舞伎から「けれん」が廃されてしまったりしました。それはつまらないことだと思います。そこで、今日の名人芸を少し(BGMには向きません)。 エルンスト 「庭の千草」による変奏曲 (ヴァイオリン:ギドン・クレメル) https://www.youtube.com/watch?v=krrYBnk5YDM ヨハン・シュトラウス(ジョルジュ・シフラ編曲)トリッチ・トラッチ・ポルカ (ピアノ:ユジャ・ワン) https://www.youtube.com/watch?v=abdUjh6yo8E 「真善美」については、余力がありましたら、のちの回答で触れるかもしれませんが、音楽をやっている側からいうと、あまりそういうクソマジメな見方ばかりではなく、面白いものは面白いものとして楽しんでもらいたい、という気持ちです。そして、面白い、というのは、必ずしもいつも「快」というわけではありません。 それでは、古代ギリシャの音楽とはどういうものだったのでしょうか。実は、セイキロスの墓碑銘というものがありまして、完全な形で現存する音楽作品の一つです。年代的には、紀元前200年から紀元100年までの間のものらしいです。 セイキロスの墓碑銘 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%A2%93%E7%A2%91%E9%8A%98 これの復元演奏が何種類かYoutubeにあります。どの程度の復元が可能なのかはわかりませんが、少なくとも旋律はどの演奏でも同じで、その部分は解読できているということなのでしょう。 https://www.youtube.com/watch?v=9RjBePQV4xE&list=PL2NTxGFlRyz5GnXyTwhutjGOx97qzXyaV&index=1 https://www.youtube.com/watch?v=xERitvFYpAk&list=PL2NTxGFlRyz5GnXyTwhutjGOx97qzXyaV&index=2&spfreload=1 https://www.youtube.com/watch?v=qahEaDKuxaM https://www.youtube.com/watch?v=KjHNEbVKIGk ほかにYoutubeに古代ギリシャの音楽として出ているものをいくつか拾ってみました。 https://www.youtube.com/watch?v=W1N4IXF5vRY https://www.youtube.com/watch?v=xotPWR5I8RY&index=3&list=PL0C351529EF66C8C1 https://www.youtube.com/watch?v=Sc109u7Zw8M&index=4&list=PL0C351529EF66C8C1 https://www.youtube.com/watch?v=jU7wScXYTkM&list=PL2NTxGFlRyz5GnXyTwhutjGOx97qzXyaV&index=12 https://www.youtube.com/watch?v=p8yWpQfN-V8 本日はここまで。
お礼
つづいてのご回答をありがとうございます。 ○ シャーマニズムと音楽 ☆ これについては あとで考えたいと思っています。 ○ 音楽による治癒 ○ モーツアルトの曲による音楽療法があった(ある)。モーツアルトに限るというのは 言い過ぎ。 ○ ピタゴラス。音楽は 感情が陶酔にまでみちびかれる要素を持つと同時に 数論ないし量的比例という物指しを持ちこれを世界認識に用いるかたちをもみちびく。 ○ 笛のように見えるアウロスという楽器 ○ アリストテレスの《模倣》説 ☆ アリストテレスは解説書読みで済ましていたところがあって 少しづつ読み始めてはいますが そのような素養で言いますが このミメーシスは むしろ表現者が ものごとの有り様をまねるということではなかったでしょうか。 ★ プラトンの「国家論」では、理想国家の統治者になるように訓練される青少年には、勇気や節度の美徳を鼓舞する旋法として、ドーリアとフリギアが推奨されています。 ○ 音楽〔の演奏〕における芸術性と技巧 ☆ これは どうなのでしょうか。 つまり私見をまじえてよいならば 人によると思っているのですが。 五島みどりの演奏について 何の文句もありませんが よくやるという感想に ほぼとどまります。 歌舞伎のけれんみについては 鑑賞経験がとぼしく何とも言えません。スーパー歌舞伎について 《わたしの履歴書》を読みましたが。 梅原猛の《活躍》した時代をも経て来ていますので 多少は耳に入って来ました。 弁慶の勧進帳などは 理屈抜きで いい話でありいい場面だと思います。それと同じようにか その場面ごとに――むろんその背景や情況があってのことですが――ていねいに人物の心理や動きを書き込んで行く。描いて行く。それを演じて行く。音楽もが伴なわれていましょうか。(これが たぶん ねむねこさんの創作のそなえるチカラであり香りでしょうか)。ただし わたしは気が早い性質(たち)でして その先またその先へと――心理のドラマを通り越して――飛んで行きます。 申し訳ないですが ギドン・クレメルのバイオリンとユジャ・ワンのピアノについても そんな感覚になります。正直なところです。 《真善美はひとつのみなもと》説は 《美》の領域で人びとがその美学について十人十色・千差万別であってふつうであるという現実観を確認したものです。 《けれん味》を愛好する美学も 人間の現実であり バッハを愛するのも同じくであると見る仮説です。 音楽のたのしさが 《快不快》の問題では必ずしもなく――いろいろ・さまざまであり得るのであり―― たとえもし《芸術性》を重く見る場合にでも そこに四角四面で七面倒なことだけを追求するものではないと主張する見解ですよ。――人間の現実としては そのように見ることになると考え まだ持ちこたえると思っています。 ★ セイキロスの墓碑銘(紀元前200年から紀元100年) ☆ おもしろいですね。 こういった歴史は 小学校からおしえてもよいと思うのですが いまではそうなっていましょうか。 ちょっとクセになるようなメロディーに感じます。 ○ 古代ギリシャの音楽 ☆ バビロニアのリラの曲をふくめて これら数曲みな いい調べだと思いました。 バロックか教会の歌のようにさえひびきます。 デュオニュソスから歌舞音曲 そして陶酔に狂喜乱舞といったイメージの連想が どこか一面にはありましたから このようなおだやかなメロディーがあったということ まづこの確認が出来ました。日から日への生活のあゆみ( basis )という見方も 満更ではないと自慢げに思ったのですが。 シャーマニズムの議論は ここからなお時間がかかると思いますから 延ばします。
- Tastenkasten_
- ベストアンサー率98% (339/345)
こんばんは。 この問いには、答えはないでしょうね。ドイツのコミュニティーサイトなどでも、同じ質問がちらほら。大した回答はついていないようでした。ドイツの権威ある音楽百科事典に、「音楽」という項目はあるのだろうかと思って見てみましたら、ちゃんとありました。音楽の定義については、その本質的、存在的理由については、今日まで、完全かつ決定的な定義はない、とあります。これまでに試みられてきた定義は、どれも有意義なものであるとはいえ、みなそれぞれ、ある一つの側面を前面に立てたものに過ぎない、と書かれています。そのほかの音楽百科事典や、音楽美学関係の書物を見ても、同様のことが書かれています。であれば、私が回答しても、大して謎は解けないでしょう。 ということで、まずは、チャールズ・アイヴズ作曲の「答えのない質問」。 https://www.youtube.com/watch?v=trkFgIMC-Ks この作品の序文には、 弦楽器が、不変のテンポで常に最弱音で演奏する。これは、「何も知らず、見ず、聞かないドルイド僧」を表す。トランペットが歌うのは、「存在への絶えざる問い」。しかし、「見えない答え」への探求が、フルートとほかの人間たちに引き受けられる。 とあり、わりと哲学的な内容の曲なようです。 さて、最初から雲行きが怪しいですが、「何のために」ということで、音楽の起源についても話があったようなので、とりあえずその辺から。 古代においては、音楽の起源についての因果論的、合理的説明はなく、伝説の対象、神話的思考に限られ、特定の人物による発明という説明ばかりのようです。よく知られているのが、古代の伝統として、ピタゴラスが創始者であるという考え方、もう一つは、聖書により、ユバルを創始者とする考え方(創世記4-21)。ピタゴラスやユバルが、音程の関係を、数学的、科学的に認識、研究した場所として伝説的、象徴的になっている場は、鍛冶屋だそうです。「鍛冶屋のピタゴラス」の伝説では、ピタゴラスが、同時に鳴る、重さに特定の関係(12:9:8:6)がある複数のハンマーの音の調和を発見したことになっています。 このほか、もちろん、神々の名前が音楽の創始者として挙げられます。アポロ、ディオニソス、ミューズ、パン、サチュロス、セイレーン、オルフェウスなどなど。これは、北欧でも、中国でも、インドでも同様で、何らかの人物や神の名前が挙げられます。一方、インドでは、人間が誕生したときに上げる原初的な音、叫びが、生命の原初的な実体と象徴であると同時に、音楽の原初的な実体と象徴でもあるという神話があり、生命と音楽は、切り離すことができない一体のものと考えられました。 こうした考え方はしかし、合理主義の時代になると重要視されなくなります。進化論で有名なダーウィンは、音楽の起源は、鳥の鳴き声の模倣だと言い、音楽学者のカール・エンゲル、生物学者のグィド・アドラーも同じ考えでした。一方、比較音楽学者のリヒャルト・ヴァラシェックはリズムが起源だと言い、経済学者のカール・ビュッヒャーも、集団の労働のリズムが根源であると言っています。 しかし、最も影響力が強かった説は、ルソー、ヘルダー、シュレーゲル、グリム、特にスペンサーなどが唱えた、「言語起源説」です。こういうと、言語らしきものが成立してそののち、というように取れますが、よく読んでみるとどうもそういうことでもないようです。「感情を伴った人声の昂り」がメロディーを生んだとする説です。最初に、高低の違う二つの音の段階、次にもう一音加わって、三音になる段階と続くと考えられています。比較音楽学者のクルト・ザックスは、この説を受け継ぎますが、楽器を持たず歌だけは持っているという民族が、文化の最も低い段階にみられるため、音楽の起源は声楽にあるとしました。 上のような説があるわけですが、音楽と言語とどちらが先かということに関しては、私はどちらともいえないような気がします。声の抑揚が音楽の起源だということなら、言語と音楽は、やはり同時発生的ではないかと思います。人間がまだ言語を持たないうちから、動物の鳴き声の模倣や、感情を表す叫びがあっただろうことは想像できますから。労働のリズムから、という説も、それなりにわかりますが、そうなると、メロディーが先か、リズムが先か、という議論にもなり、面白い問題だと思います。ただ、いずれにしても、これらが音楽らしき形をとるためには、知能の発達を待たなければいけませんし、知能が発達すれば、言語もまた形成されたであろうことを想像すれば、やはり、大体において、並行して発達したのではないでしょうか。言い換えれば、音楽の起源は、言語の起源と同じくらい古く、音楽は、人類の文化の歴史にとっても、その最初期から切っても切り離せないくらい重要なものでしょう。 なお、先ほどのインドの神話を思い起こさせますが、生まれたばかりの赤ん坊でも音楽に関心を示すことから、人間には、音楽に対する何らかの遺伝的基盤があるのではないかともいわれております。 音楽の定義についてですが、古代ギリシャでは、プトレマイオスが、「音の高低を聞き分ける能力」と言っているようです。もう一人、アリスティーデース・クィンティリアーヌスという人は、「メロス、およびそれに属するものについての学問」としており、このほかにも、「メロス(音高線、メロディーの語源)」について言っているものが目立ちます。音楽の起源で、声の抑揚から音楽が生まれたという説が最も説得力あるものとして継承されているとすると、最初期の音楽の定義が、メロス中心であることは偶然ではないのかもしれません。世界中の民族音楽や未開民族の音楽を聴くと、太鼓のリズムだけの音楽というのも当然あるわけですが、やはり今日のわれわれ同様、メロディーというものが、音楽を最も音楽たらしめる最優先の要素と感じられたのでしょう。また、古代ギリシャにおいては、すでに音楽における理論と実践が分けられていました。それは、中世に「scientia」と「ars」という形で存続します。 アウグスティヌスは、アリスティーデース・クィンティリアーヌスに倣い、「音楽は、良き調節の学問である(Musica est scientia bene modulandi)」と言ったそうです。なぜそんなことを言ったかというと、これはbragelonneさんの専門になりますが、「告白」の中で、アウグスティヌスは、音楽の「陶酔」と「敬虔さ」の両面に引き裂かれそうになった、と書いており、その経験に基づく教訓だと考えられます。これだけを見ても、「心地よい感覚の問題」としてだけ音楽を捉えるのが無理なことがわかります。ねこさんがおっしゃるように、音楽にはもっといろいろな力があります。アウグスティヌスのmodulandiは、二つのmodusから派生する二つの面、音響現象としての音と、音楽の数学的要素としての数の調整を言っており、それぞれ、知覚と理性的認識として考えられています。この二つの要素を、ボエティウスはsensusとratioと表現しました。バランスをとれ、ということでしょう。音楽の熱狂的魅力には捨てがたいものがありますので、いつもこれに従うわけにはいきませんが、ある意味、創作態度の基本というか、標準というぐらいの意味はあると思います。しかし、ロマン派以降の音楽など、アウグスティヌスに言わせたら、過剰な陶酔になるのでしょうね。 定義の歴史をやっているときりがなくなりますので、かいつまんでお話ししますが、中世においては神の啓示としての音楽が説かれました。美学史の最初に出てくる名前はバウムガルテンだと思いますが、その先駆として、ライプニッツがいます。「音楽は、心霊の無意識な計算である」と言っております。「Cogito, ergo sum」で近代の夜が明け、人間が中心になって、主体としての人間と客体としての音楽という捉え方が明確になった、という意味で、注目されています。 ロマン派になりますと、合理主義とは正反対の考え方となり、音楽を、個人的体験、知覚としてとらえるようになります。この時期の定義は、現代まで生きています。「音楽は、情熱的感情から生じ、それを描写する音の連続である」(ズルツァー)、「音楽は、さまざまな音の組み合わせによって、感覚に触れ、想像に生気を与え、美と崇高の理念を感じる心を調整する芸術である」(ミヒャエリス)、「音楽は、音によって感情を表現する芸術である」(コッホ)、「不可視なるものの啓示」(ヘルダー)、「無限なるものの表現」(シェリング)、など、いろいろあります。哲学者による言葉は、今ちょっと保留します。 続けて、もう一つ回答を出します。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ この問いには、答えはないでしょうね。 ☆ そしてその実際の中身としては: ★ これまでに試みられてきた定義は、どれも有意義なものであるとはいえ、みなそれぞれ、ある一つの側面を前面に立てたものに過ぎない、 ☆ ということは それぞれに意義のある見方・捉え方が 定義などとして打ち出されて来ている。とも考えられるのですね。ただし 部分的な見方であることをまぬかれないと。 ★ 聖書により、ユバルを創始者とする考え方 ▲ (創世記4:20-21) ~~~~~~~ 20: 〔* 例のカインの子孫である〕アダはヤバルを産んだ。 ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。 21: その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ピタゴラスやユバルが、音程の関係を、数学的、科学的に認識、研究した場所として伝説的、象徴的になっている場は、鍛冶屋だそうです。「鍛冶屋のピタゴラス」の伝説では、ピタゴラスが、同時に鳴る、重さに特定の関係(12:9:8:6)がある複数のハンマーの音の調和を発見したことになっています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それは おもしろいですね。そう伺うと 自然の中にはなかったのかとは考えが向かいますね。 ★ このほか、もちろん、神々の名前が音楽の創始者として挙げられます。アポロ、ディオニソス、ミューズ、パン、サチュロス、セイレーン、オルフェウスなどなど。 ☆ 別の議論としますが 同じ音楽関係におけるアポロとディオニソスとの違いを知りたくなりますよね。 ★ 一方、インドでは、人間が誕生したときに上げる原初的な音、叫びが、生命の原初的な実体と象徴であると同時に、音楽の原初的な実体と象徴でもあるという神話があり、生命と音楽は、切り離すことができない一体のものと考えられました。 ☆ これは おさえておく必要がありましたね。あるいは 胎児の聞いている音といった主題があるのでしょうね。と同時に ここに次をもおさえます。: ★ 生まれたばかりの赤ん坊でも音楽に関心を示すことから、人間には、音楽に対する何らかの遺伝的基盤があるのではないかともいわれております。 回答No.7のへきゆさんは 《音楽から言語が産まれました》という見解のようですが 一般に《言語〔からの音楽〕起源説》は: ★ 「感情を伴った人声の昂り」がメロディーを生んだとする説 ☆ も あるんですね。つまり: ★ 最初に、高低の違う二つの音の段階、次にもう一音加わって、三音になる段階と続くと考えられています。比較音楽学者のクルト・ザックスは、この説を受け継ぎますが、楽器を持たず歌だけは持っているという民族が、文化の最も低い段階にみられるため、音楽の起源は声楽にあるとしました。 ☆ しかも: ★ 音楽と言語とどちらが先かということに関しては、私はどちらともいえないような気がします。声の抑揚が音楽の起源だということなら、言語と音楽は、やはり同時発生的ではないかと思います。人間がまだ言語を持たないうちから、動物の鳴き声の模倣や、感情を表す叫びがあっただろうことは想像できますから。 ☆ と考えられるのですね。わたしは 感覚として《わたしと心と環境とが一体であって 同時発生》の見方に傾きます。 ★ 労働のリズムから、という説も、それなりにわかりますが、そうなると、メロディーが先か、リズムが先か、という議論にもなり、面白い問題だと思います。 ☆ 一般にリズムからと言われますが メロディーの問題も潜んでいるのでしょうか。 引用するのではなく 要約せよと言われるかも知れませんが: ★ ただ、いずれにしても、これらが音楽らしき形をとるためには、知能の発達を待たなければいけませんし、知能が発達すれば、言語もまた形成されたであろうことを想像すれば、やはり、大体において、並行して発達したのではないでしょうか。言い換えれば、音楽の起源は、言語の起源と同じくらい古く、音楽は、人類の文化の歴史にとっても、その最初期から切っても切り離せないくらい重要なものでしょう。 定義に移って ★ 「メロス(音高線、メロディーの語源)」 ☆ を知っておくとよさそうです。 そして先ほどのメロディーとリズムの問題として: ★ 世界中の民族音楽や未開民族の音楽を聴くと、太鼓のリズムだけの音楽というのも当然あるわけですが、やはり今日のわれわれ同様、メロディーというものが、音楽を最も音楽たらしめる最優先の要素と感じられたのでしょう。 ★ また、古代ギリシャにおいては、すでに音楽における理論と実践が分けられていました。それは、中世に「scientia」と「ars」という形で存続します。 ★ アウグスティヌスの modulandi は、二つの modus から派生する二つの面、音響現象としての音と、音楽の数学的要素としての数の調整を言っており、それぞれ、知覚と理性的認識として考えられています。この二つの要素を、ボエティウスは sensus と ratio と表現しました。バランスをとれ、ということでしょう。 ☆ なるほどですね。先ほどの音楽の神としては アポロ、ミューズ、オルフェウスが バランスの取れた音楽であるように思えます。ディオニソスは 両方があるのでしょうが感覚や感情が勝っているように見えます。 ★ しかし、ロマン派以降の音楽など、アウグスティヌスに言わせたら、過剰な陶酔になるのでしょうね。 ☆ そうしますと どちらかと言うと 広い意味でのディオニソス的な要素は やはり見られるということでしょうか。 私見をちらっと挟みますが アポロンはすでに《感性と理性》を調和させた音楽であると見るのですがそれは 日々の生活の歩み( basis )にもとづくのではないか。ハレとケというときの日常性なるケですね。 ハレには喜びも悲しみもあると思いますが そのハレの音楽としては ここでは《陶酔〔が勝ったかたちでの知覚と理性〕》の部類に入るでしょうか。 そのあと やはり二つの派に分かれるのでしょうか。 合理派として ライプニッツ バウムガルテン デカルトの線。 ロマン派として 感情ないし情感を重んじるその系譜。 そうしますと 突拍子もないことを言いますが バッハは ケなる日常性のあゆみを表現している。つまり情感も理性をもバランスよくととのえた音のしらべを表現した。と。 合理派とロマン派とは それぞれの部分要素において非日常のハレの領域へと行っちゃってる。と見てよいのでしょうか どうでしょうか。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
>「音楽から受けた《効果》が 自分ひとりにとって強く深く《実感される》というのとは 別の話だと思ったのですが。」 なるほど。 「環境」の問題にも関わるのかなと思います。 ・・・その音楽を提供したのが、「ヒト」だったのか、あるいは「プログラム」だったのか? (受け取る側の、受け取り方に)違いは、あるでしょうね。
お礼
ううーん。ということは 相手に伝わるかどうかの問題は 間接的なのですね。 つまり 作曲家や演奏家が曲をつくり演奏することとは 直接にはつながっていないということ。 つまり その曲を 自分ひとりで聞き そこから何らかの《伝達》があったと《実感される》ということ。でしょうか。 たぶんそれは 非常に主観的であって――だから いけないということではなく そうではなく―― その《実感された伝達内容》は必ずしも内容が定まらない。主観が難なく共同化されるとは限らない。というふうには思われます。 どうでしょうかねぇ。 ご回答をありがとうございます。
- nyan_nyanko
- ベストアンサー率54% (27/50)
こんばんは > フランク: ☆ そうでしたか。それは よかったと思います。自分だけでなくて。 小生致しましても、よかったです。 今回のフランクにしてもそうなのですが、”この曲のいったいどこがいいの?”と問われた際には、返答に窮することがあります。 適当に、言葉で説明してはみるのですが、こうした [非常に個人的な] 感覚というのは説明するのに困難を極めることが多くございました。 ですが、今回、このようなことを想いながら音楽を聴くことが理解されて、とてもうれしくおもいました。 > ☆ こういったことも問題になるのですね。 フランス人をつくったフランク族も ゲルマンではないかと思ってしまうのですが。 確かに、そうですね。当時のフランスで人気のあったマイアベーア、オッフェンバックなどもドイツ系でしたので・・・ オペラに興味を示さなかったのが特徴的だったのかもしれません。 > ★ 従いまして、「ニーチェ主義者は、揃って〔* ニーチェが〕”反キリスト”と主張すること」、これに疑問を持っています。 ☆ オシエとしての聖書あるいはキリスト信徒のことを ボロクソに落としめていますが キリスト・イエスのことをたたえている文もあったかと思います。形式だけを言えば 支離滅裂となります。 最晩年に、「この人を見よ」を著しましたが、この表題は以下のヨハネ伝からきているとされています。 ヨハネ伝 19章5説 (新共同訳) イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。 つまり、「この人(=ニーチェ)を見よ」、とは、「新たな宗教ニーチェ教としての、このわたしを見よ!」、になろうかと考えられます。ここらへんにも矛盾・支離滅裂さが見てとれます。 > ★ 3. ニーチェの理想に賛同できるのか? 新たなご質問を拝見させていただきました。 それでは、今後ともよろしくお願い致します。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ フランス人をつくったフランク族も ゲルマンではないかと思ってしまうのですが。 確かに、そうですね。当時のフランスで人気のあったマイアベーア、オッフェンバックなどもドイツ系でしたので・・・ オペラに興味を示さなかったのが特徴的だったのかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。名前で分かるかたちですね。 ▼ (ヰキぺ:ジャコモ・マイアベーア) ~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%A2 ジャコモ・マイアベーア(またはマイヤベーア、Giacomo Meyerbeer, 1791年9月5日 - 1864年5月2日)は、ユダヤ系ドイツ人の歌劇作曲家。本名はヤーコプ・リープマン・ベーア (Jacob Liebmann Beer) 。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ちょっと知りませんでしたので 引きました。 ★ つまり、「この人(=ニーチェ)を見よ」、とは、「新たな宗教ニーチェ教としての、このわたしを見よ!」、になろうかと考えられます。ここらへんにも矛盾・支離滅裂さが見てとれます。 ☆ あっ。わたしは 『この人を見よ』についての知識が欠落しています。読んだのかどうかも記憶がありません。困ったことがおきます。読むことにします。 もちろんご指摘の内容については じゅうぶん推し測ることが出来ると思っています。言ってみれば《超人》も ニーチェ教でしょうかね。 なお 前回のご回答の中で セザール・フランクの人となりを知りました。留意しました。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
>「以心伝心といったことでしょうか?」 本人にとって、それが有るのと無いのとでは大違い、という、「効果」を実感されるものがあります。 「昔取った杵柄」でしょうかね。
お礼
★★(回答No.15) 「非言語コミュニケーション」として、 ☆ というのは 言葉によらないで互いに意志疎通が成るという意味ではないのですか? ですから 音楽から受けた《効果》が 自分ひとりにとって強く深く《実感される》というのとは 別の話だと思ったのですが。 ご回答をありがとうございました。
- amenhotep2000
- ベストアンサー率31% (72/227)
bragelonneさん お礼ありがとうございます。 私は音楽は好きなだけで専門家ではありませんが、お礼の虫の声ということから、回答します。 ご存知かも知れませんが、アメリカには、18年に一回、いっせいにさなぎから羽化する18年蝉というのがいて、うるさくて叶わないそうです。 私の大学院時代の恩師の教授も留学中に出くわし、日本人としてもうるさいと言ってました。 しかし、日本文化の美を松尾芭蕉の俳句に見ると。 「閑けさや 岩にしみいる 蝉の声」 日本人は日本独自の自然の中で、西洋人とは違う感性を身につけ、音楽性にも表れているのでは? では、帰宅が遅くなると思いますが、bragelonneさんのご意見をいただければ幸いです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 18年蝉 ☆ 周期ぜみとも言うんですか。日本人にとってもうるさいのなら よほどなんでしょうね。 ヰキぺの絵からは ワシワシと呼んでいるクマゼミのように見えます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 「閑けさや 岩にしみいる 蝉の声」 日本人は日本独自の自然の中で、西洋人とは違う感性を身につけ、音楽性にも表れているのでは? ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうなのでしょうね。専門の先生がやがて回答してくれるかも分かりません。待ってみてください。 ▼ (人麻呂:淡海の海。万葉巻三・266番) ~~~~~~ http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou/ver2_2/manyou_kekka2.php?kekka=03/0266 原文 淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思<努>尓 古所念 訓読 近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ 仮名 あふみのうみ ゆふなみちどり ながなけば こころもしのに いにしへおもほゆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これを ローマ字で書き出してみます。 Ahumi-no-umi Yuunami-tidori Na-ga nakeba Kokoro-mo sinoni Inisihe omohoyu さらにこれを 母音だけを抜き出します。 あうい-お-うい ううあい-いおい あ-あ あえあ おおお-お いおい いいいえ おおおう どうでしょう? おもしろいと思うんですがねぇ。 真ん中の転調のような感じも おもしろい。 最後の二句も互いにつり合いが取れていて よさそうに思います。 こころなどの / オ /の音は ウムラウトのかかった内向きのあいまいなオであったようですが。 これは すでに音楽だと思うんですが。・・・
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ Hermann Necke - Csikos Post (Mail Coach)のような曲を聞くと、運動会で頑張ったのを思い出す方もおられるのではないでしょうか。 音楽は、ひとの活気・活力を高めることもある(特に何かの祭典等には)、と思っております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええ。それで にわか仕込みですが ハレとケとの音楽というふうに理論づけたわけです。 ふつうの生活のリズム 日常性なるケのあゆみ( basis )の音楽とそして ハレなるときのリズムをつくる音楽と。 心としては やすらかな歩みとしての基礎とそして楽しさにも悲しさにも高鳴る調子を交えた状態と。 ★ [ベートーベンと同じ1770生まれの] ヘーゲルは次のように述べていたようです(因に、ロッシーニ愛好家だったそうです)。 ☆ ヘーゲルは 嫌われているほどには 大したことないわけではなく けっこういいことを言っていると思います。 ▲ 自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること) freies Beisichsein (引用文献 p.73 ) ☆ ですか。さとりだとか解脱だとかと ブディストなら言いたくなりそうな境地でしょうか。 ▲ 「不確定なものへ出てゆくのではなく、 ☆ おそらく一般に人びとは 知識を外から・また他人から得るという感覚があって 絵を見ても音楽を聞いても 一たんとしてでも外に出て行くというふうに思っているかも知れません。んにゃ! と言ったわけですね。 ▲ 自己自身の中で分化し、 ☆ 《分化》というのは ただちにはなじみませんね。それまでまだ知らなかったおのれの一面を見た・知ったというようなかたちで《部分》を言っているのでしょうか。(分かりませんが)。 ▲ 自己へ帰還する運動としてのみ、 ☆ もともと自然本性として われがわれであって しかも世の中の良きにつけ悪しきにつけのコネやシガラミをとおして やはり外に出かけてしまいがちですから(またそのようなマジハリにおいて 互いの共通感覚というのは 必然ですしヒトの社会性として大切なものでもあると考えられますが) わが固有の時においては われに還る。最初に引いた《自由でやすらかな われへの到来 freies Beisichsein 》ですよね。 ▲ メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自在性(自己のもとに安らって在ること)に適わしいものである。 ☆ 《メロディー》が挙げられています。リズムもハーモニーをもふくむものとしてでしょうね。 それにしても 曲がそのまま《主観性の自由な拠自在性を表現すべき》ものとして捉えられているのですね。 その調べが 初めに触れました《日から日への生活においてそのつとめを果たして行く地道なあゆみ( basis )》に沿っているなら そうなりますね。 ▲ そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白の領域に於いて理想性と解放を実現する。 ☆ 《理想性》は いわゆる真善美でしょうね。 《解放》は すでに見て来た自己還帰・自己到来のことでしょうね。 《直接的表白》というのは 何でしょう? 音の調べが われらが心に直(ぢか)に入り込んで来るということでしょうか。いや 分かりません。 ▲ この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取( Vernehmen cf. p.73 )せるものである。」 ☆ 引用を直させてもらいましたが 《たましいの高い領界》ですか。 真善美だとすれば 《高い》でしょうね。ふつうの自然本性なるワレとすれば 高い低いは 必ずしも関係ないかも知れません。地べたの上でもよいはずです。でも たましいは 天翔けるのでしょうか どうでしょうか。 《解放》であると《同時にハーモニー的必然に服している》とは どういうことか? われがわれであるやすらかな状態は ハーモニーが特に合っているということなのだろうか。 記憶という行為能力は おぼえるというハタラキよりも精神ぜんたいの秩序作用にかかわると見るのですが そういった秩序≒ハーモニーの問題として捉えられたということでしょうか。 おぼえるときにも 知識や情報の整序にかかわるのだと。しかも われは意識していないのに 記憶が勝手にはたらいている。この記憶なる領域は ハーモニーと相性がよいということかなぁ。 ▲ 高柳茂:ヘーゲルの音楽美学 ☆ は あとであらためて読むことにします。 次は カントですね。 ▼ (Wikipedia ”趣味判断”) これは人間が物事の情緒を味わう際の判断であり、ここで判断される基準というのは自身にとっての趣味であるかという事である。 ☆ 《情緒》でしたら 音楽にもとうぜんかかわりますね。 ▼ そしてこの趣味判断では美醜を判断する際には快苦を基準として判断されるという事であり ☆ やっぱし快不快ですか。仕方ないですかね。情緒としては。 自分でも《心地よさ》と言っていますし。 つまり この快適さというのは 入り口でのことを言うのでしょうね。そのあと《自己到来》が よい音楽ならば 来るはずですから。 ★ なお、ここでの”趣味”は独語の”Geschmack(英:taste, flavour)”の訳語からきています。 ☆ 《味 schmecken 》から来ていると思ったら そのシュメッケンは 臭う( riechen; stinken )から来ているとか。いえ 独和を引いただけですが。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 音楽についての哲学ってありますか? 最も知られているのは、ショペンハウエルだと思います。特に、その後の芸術家達に大きな影響を与えたと言われています(思想家には散々だったようですが)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですか。回答No.1でのやり取りで ニーチェと一緒くたにしてしまいました。 ただし 《(思想家には散々だったようですが)》なのですか。 つまり ショーペンハウアーの《音楽哲学》を 芸術家たちはほめたたえるほどであった。そして 思想家たちは散々な評価をくだした。のでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ・芸術は、イデアを純粋に表象し、個々の争いやエゴを超越するもの。 ・これらから生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 概ねこのようなものだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということですか。 《われがわれであるとき ほぼ生まれつきの自然本性に還っている》と思うのですが そのとき潜在的なエゴを持っていてもよいとわたしは思います。 あるいはもっと言えば 間違った推論を批判するときエゴをむき出しにして 論陣を張ってもよいと思います。人間の意志や心を踏みにじる内容の議論に対しては 言論の戦争をおこなってよいと思っています。その怒りを きよらかなおそれのもとに 対話に代えて批判するそのチカラを 芸術作品はあたえてくれることがある。こう考えます。 それではそのとき ○ これら(個々の争いやエゴ)から生じる苦悩。この苦悩から解放・解脱できるのは、芸術(特に音楽)をもってである。 ☆ と言えるか? つまりおそらくわれに還るのは 芸術作品がきっかけになるということではないかと考えます。 還るべきわれは もともとあるわけですから芸術作品の中に概念やイメージとして――あるいはつまり《表象すべきイデアとして》―― かたちづくられているといった恰好なのではない。と思われます。 イデアは関係ないと思います。つまり プラトンのとしてはです。 そんな先入観を突き抜けて われはわれに還る。のだと見たいのですが。きっかけを音楽等はあたえてくれる。 ちょっと荒削りでしたでしょうか。 ショーペンハウアーは ★ 余談ですが、ワーグナーを評価しなかったと言われています(ヘーゲルと同様、ロッシーニの大ファンだったそうです)。 ☆ ということですね。 ワーグナーは 話題として引っ張りだこですね。
補足
▲ 高柳茂:ヘーゲルの音楽美学 ☆ のレジュメです。 § まえがき (あ) 音楽美学:カント; ヘーゲル (い) 音楽観:ショーペンハウアー; ニーチェ § 1 へーゲル美学の構成と音楽の位置づけ (う) 芸術・宗教・哲学:《絶対精神》を内容としている。 (え) 芸術:直観を道具とする:美は 理念の感性的現われ 宗教:観念 〃 哲学:思惟 〃 (お) 芸術様式の分類・歴史的発展 a: 東洋的(象徴的):建築;精神的意味が限定的 ・精神を暗示する外的な容器に留る外はない b: ギリシヤ的(古典的):彫刻;精神を個的形態に適合させたもの ・有機体の身体の中に精神が現われている形態を表現するが、 尚心情の主観的内面性は未だ持たない。 c: キリスト教的(ロマン的)芸術様式:絵画・音楽・詩(劇をふくむ); 精神の直接的存在の有限性から精神自身への高揚の過程 ・彫刻迄がもつ空間の次元 Raumdimensionen が否定されて絵画が成立し、 更に絵画のもつ空間性そのもの Räumlichkeit selbst が否定されて 音楽が成立する。 このような完全な主観性への没入が音楽の基本的性格を形成する。 可視性が消え 聴覚 Gehör のみが素材として残る。 (か) カントの様式観 ・ 美は 美的理念 ästhetische Ideen の表現 Ausdruck ・ 表現:言葉 Wort ・身振り Geberdung ・語調 Ton から成る ・ よって 言葉の芸術:修辞術・詩 造形芸術:彫塑 Plastik(彫刻・建築術)・絵画 感情の戯れ Spiel der Empfindungen:音楽・色彩芸術 Farbenkunst (き) ヘーゲルの《聴覚 Gehör をとおしての完全な主観性への没入》としての音楽観 従って音楽表現には全く没客観的な内的なもの das gannze objektlose Innere 、 抽象的な主観性そのものが適わしい。 「音楽の主要課題は対象性そのものではなく、反対に最も内的な自己が 自らの主観性及び観念的な魂に従って自身の内部で運動する様式を再現(鳴) wiederklingen させることである」 従って音楽は心情の芸術 Kunst des Gemüts § 2 音楽の一般的性格 (く) 数量的関係に依存したり、又規則正しさや均斉 Regelmässigkeit und Symmetrie の形式を所有している. ハーモニーの規則や、拍子、リズムの繰り返しとか、又音のより大規模な展開の法則 (け) 音楽の把握様式 主観的内面性 subjektive Innerlichkeit の領域で内容が生命を得ることが音楽の機能である (こ) 音を「主観的内面性をもつ音」 Töne der subjektiven Innerlichkeit にまで形成し、それに生気を与 える beseelen ものが音楽である 心清は悟性的考察に走ったり、或は自意識を離れ離れの直感に分解せずに感情の緊密さ及び解明不能な深さの中で生き続けなければならない。この深い内容に欠けると、心情に何ら触れるところのないハーモ二―やメロディーの悟性的考察に陥るか、又は単なる音の佳さ Wohllaut を喜ぶ境地に堕する運命にあることが注意される § 3 音楽的な表現手段の特殊な性質 (さ) 音は 相対的な独立性を持つ 諸音及びその結合の確定性は 定量 Quantum、即ち数関係に存することとなる。 そしてこの点から言えば、生命ある有機的統一が音楽の基礎を構成するのではなく、相等性、不等性等の一般に量的なものの中で支配的である悟性形式 Verstandesform こそ音楽の基礎を構成するものなのである。 (し) へーゲルは「従って楽音について確定的に語られることは、数的関係とそれを表示する記譜法についての叙述があるだけである」と断言している。 (す) カントも似たようなことを述べている。 「音の場合では、同時的あるいは継時的な音の結合が存する限り、同一時間の中の空気の振動数の割合に基くのであるから、数学的に一定の規則へもたらされることが出来る。 ……また趣味が、あらゆる人の判断への権利をそれによって予め敢えて言明しうるところのものはただこの数学的形式なのである。しかし音楽の惹き起す魅力と心情の動揺に数学がいささかも関与しないことはたしかであって、数学は印象の比例の不可欠な制約 Conditio sine qua non であるに過ぎない」 (せ) 音楽における芸術的表現はいかに可能か 第一にへーゲルは単なる時聞的持続及び運動を扱う。即ち速度、拍子、リズム Zeitmass, Takt, Rhythmus を具体的に分析する。 次には現実の音に具体化されたもの、ハーモニーの理論を考察し、 最後にメロディーについて論じている。 (そ) へーゲルは云う。「最後の領域は前のものがその中で統一され、そしてこの同一性の中で音の真に自由な展開と結合の為の真の基礎が始めて与えられるのであるが、その領域とはメロディーである」。 (た) 又「ハーモニーは音の世界の必然性の法則を構成はするが、尚拍子やリズムと同様に本来の音楽ではなく、自由な魂が従うところの法則的な基礎、土台即ち実体的な土台に過ぎないところの本質的な関係のみを把える」 (ち) 又メロディーは「音の自由な展開なのであるから、一方拍子、リズム及びハ…モニーとは独立している。併し他方メロディーは自己を実現するためには、本質的でしかも自身で必然的な関係にある音のリズム的、合拍子的運動以外の手段をもち合せない。 メロディーの運動は従ってその現存のためのこの手段の中に閉じ込められてしまい、この本性上必然的な手段の合法則性に反対して存在し得ないのである。 ハーモニーそのものとのこうした密接な関連によって併しメロディーは自らの自由を失いはしない。そうではなく唯気紛れに進行したり、奇妙な変化をするところの主観性に生じる恣意から自由になるのであり、正にこのことによってその真の自主性を維持するのである。」 (つ) 従ってへーゲルによれぽ音楽に於ける芸術的表現ぱ、空想の自由に没入することと、かのハーモニー的 関係のもつ必然性との闘争の中に成立するのである。 (て) 彼はメロディーについて次のように結んでいる. 「不確定なものへ出てゆくのではなく、自己自身の中で分化し、自己へ還帰するところの運動としてのみ、メロディーは、それが表現すべきところの主観性の自由な拠自存在(自己のもとに安らって在ること〉 freies Beisichsein に適わしいものである. そして唯音楽は内面性というその本来の領域で直接的表白を実現し、又直接的に内面的であるところの表白の領域に於て理想性と解放を実現する,この解放は同時にハーモニー的必然に服してはいるとしても、魂をして或るより高い領界を聴取 Vernehmen させるものである.」 § 4 音楽的表現手段の内容との関係 (と) 音楽美学の三つの理論 1. 表出説: 音楽は自然の凡ての現象及び人間の凡ての感情を描写すべきであると考える立場。 1-a.観念論: 表出説のうち 更に思想、観念を描写し得るとするもの 2. 形式論: 音楽美はあらゆる観念や感情と交渉なく、単に数的関係に成立つとする。即ち音楽 の本質はその形式に在るとする。 3. 内在的音楽特有美論: 両者の中間に位置する立場であり、音楽的形式に基づく特殊感情を内容 とする。 Lehre von der immanenten spezifisch musikalischen Schönheit