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マルクスの「定在と概念の矛盾」につきまして。
マルクスが「定在(定有)と概念の矛盾」について述べているのは、『資本論』のどの箇所で、正確な文言はどの様なものですか。 出典の正確な書誌情報やページ数も合わせてお教え下さい。
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マルクスの言ったという「定在(定有)と概念の矛盾」がいったい何を意味するのか、ということだと思います。 私はそれをアダム・スミスが「国富論」で言った労働は等価交換によって賃金が支払われるのだから、生産過程で剰余価値が生じるのではなく、流通過程で生じるという主張にあると思います。 スミスは資本主義生産は労働の価値に利潤を上乗せすることで、その上乗せ分を生産過程に再投入することで発展すると考えていました。 それに対してマルクスは資本主義生産は生産過程の労働力と労働との「差異」を資本家が搾取することで発展するシステムだと考えたことにあります。 スミスの間違いは生産過程の労働力と賃金が等価交換によって行なわれるのだから、剰余価値は生産過程からは生まれないと考えたことにあります。 ところがスミスが「国富論」で述べているように分業によって、労働力、つまり労働者の再生産費である生活費を上回る労働、これは社会の総労働の分数で具体的には数値に表わせないものですが、資本主義は労働力と労働が分離し、乖離した特有の生産方式で、資本主義が成立する以前は労働力と賃金は一体のもの、等価なものでしたが、資本主義生産はそれを分業によって分離したものと見做すことができます。 労働者は労働者の再生産費である生活費を上回る価値を生み出します。 資本家は労働力と労働との「差異」を搾取することによって、それを再生産に投入して拡大再生産を可能にし、そうして資本主義は発展してゆきます。 下のtefu_tefuさんがせっかくマルクスの「資本論」の該当箇所を引用されたことは敬意を払うのにやぶさかではありませんが、問題はそれに対する彼の解説がちょっと問題があることです。 マルクスが労働の量を問題にし、質を問題にしなかったというのは、マルクスの時代は労働はもっぱら労働時間で計算されていたので、量で計算されていたので、それを質で見なかったというのは、時代が違うし、無い物ねだりです。 ベンジャミン・フランクリンが「時は金なり」と言ったのは、資本主義の初期は賃金は労働時間という量で計算されていたということです。 だけど今の時代は労働は質で計算されていますから、今の時代は「時は金なり」ではありません。 それと、技術革新というのは20世紀になってからの話で、それ以前のマルクスの時代は生産も単純なもので、量的な拡大を目指して競争していたので、技術革新によって剰余価値を獲得するのはずっと後の時代です。 商品は売れなければ商品ではなく、ただの物です。 だから売れて初めて剰余価値も実現されるということができます。 貨幣が資本に転化するのも同じで、貨幣は生産過程の投入されることで資本で、そのままではただの金属です。 だからと言って、剰余価値が流通過程から生じるとは言えません。 商品が売れるか、売れないかには大きな飛躍を必要とします。 そこに資本主義に限らず、商品経済の矛盾があります。 資本主義がそれ以前の商品経済と違うのは、労働力という商品があったからです。 そしてその労働力は分業によって、労働力を上回る剰余価値を生み出します。 それが労働です。 労働力と労働の間に乖離が生じます。 その乖離、「差異」をひそかに、搾取することで資本主義はその「差異」を生産過程に再投入することで拡大再生産を可能とするシステムです。 だけど、資本家は搾取していると意識していません。 労働というものが、社会の総労働の分数だからで、具体的に数値で表せないからです。 だけど、マルクスは人類は総体的に見れば、生産力を増大してきたのだから、見えないけれども、労働はあると言いました。 それは人間の労働力というものが、単に生活費を生産するだけではなく、それを上回る「活力」を備えているからです。
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- kurinal
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- hannya-gl
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定在(定有)と概念の矛盾。始めて聞く言葉です。 老子の道(トウ)をよく、タオ、などと言われます。どうやら、老子の考え方を、タオ・リズムと英訳され、それが、道教民族と言われる日本に逆輸入?され、(道教民族とは言えなくなった?)日本のインテリに、タオ、とされたようです。統一、統合、なども、たおいつ、たおごう、となって行くのでしょうか? 西洋思想、認識論、心の機微などは、2千年 以上過去の、春秋時代、だけでも出尽くしている。と言われます。武器とキリスト教で世界を制覇した。西洋人の多くは、まだ文字も持たない、蛮族だった時代です。 と言うことで。 定在とか定有、とかの翻訳語は無視し。単純に、有る、とは、思う、とは、と解釈して、自分で考えるのが、始まりであり、答えなのでは。マルクスの考え型を知りたければ、形而上学批判、が解り易いかも? 中に、知恵を台無しにした、アリストテレスの形而上学。というのがありましたが。 そのアリストテレスから、キリスト教形而上学に対する、唯物弁証法、なのです。 資本論は経済学書であり、現実社会を知らない学生には無理、知れば排斥される、 象が蟻をつぶすような圧力、は共産党宣言の一節。 トウ
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- urigadai2013
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tefu_tefuさんへ 私はあなたがマルクスの「資本論」から引用していたので、「資本論」を読んで少しでも理解しているのかと思っていましたが、あなたの補足の文章を読んで私の考えていたのがとんでもない間違いで、あなたがほとんどと言っていいほど、マルクスを理解していないのが分かり、落胆しました。 あなたは「マルクスは労働をすべて商品と考えて賃金としたことで彼は資本主義の信仰者になってしまったのだと思います」と言っていますが、では何のために「資本論」を書いたというのか? 資本主義の社会は、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる、貧富の格差が限りなく拡大する社会です。 このような社会では、人間が人間らしく生きられません。 そのような資本主義を批判するために「資本論」を著したのです。 そのマルクスが、どうして、資本主義の信仰者であるでしょうか? そしてあなたは「人間の幸福はお金の多さでではないと思うんです」と言いますが、それと同じことを貧しくて幼い子供に何も買ってやれない、学校にも行かせられない、毎日食うのもやっとの貧しい人に対して言えますか? 貧しくて苦しい生活をしている人に対して「人間の幸福はお金の多さではないと思います」と言えますか? そういうことを言えるのは、あなたが食べるのに何不自由のない恵まれた人だからです。 マルクスが言うように資本主義の社会では、すべてが商品です。 その商品を買うために、みんな働いているのです。 決してボランティアで働いているわけではありません。 家族を養うために、一生懸命に働いているのです。 商品を買うためにはお金が必要だからです。 だれも、商品をただでくれる人はいません。 「労働をすべて商品としたことで」と言いますが、労働は「労働力」という商品です。 資本主義は、それ以前の時代と違って労働力という商品を発見したことで、飛躍的にその生産力を増大しました。 資本家はその労働者の労働力を商品として買い、それを他の資材・原材料と一緒に生産過程に投入し、資本制生産をしているのです。 ハンナ・アーレントはマルクスは労働以外の「仕事」とか別の活動があるのを無視した、と言って非難していますが、マルクスだってそんなことは十分承知の上です。 どうしたら、貧しい人たちを、その苛酷な状況から救い出すか、というのが「資本論」の課題だったので、労働以外の人間の活動は、とりあえず「棚上げ」にしたのです。 アーレントはそれを忘れているのです。 「人間の幸福はお金で買えない」というのは、当たり前のことです。 そんなことは言うまでもない。 だけど、一方では、お金がなかったら、幸福もない、と考える人はいっぱいいます。 今の社会で、非正規労働に携わっている若い男子は結婚も出来ず、幸福さえも手に出来ません。 そういう人に「人間の幸福はお金で買えません」と言えますか? 「貴方は、富と権力を無限に持つ人間が世界の中で一番の幸福者だとお考えですか?」と言いますが、世の中の多くの人たちが、富と権力を無限に持ったならば、一番とは言わないまでも、幸福だと考えるでしょう。 考えないのは、お金がない人の嫉妬心から出た「負け惜しみ」としか聞こえないでしよう。 キリスト教は「貧しいものは幸いである。天国への道が開かれているからである。富める者は天国に迎え入れならない」と言います。 それも同じ、貧しい人間の「ルサンチマン・憎悪」から来た「負け惜しみ」です。 そんな貧しいものでも、宝くじが当たって、大金を手にしたならば、自分の意見を撤回し、やっぱり幸福はお金だなあ、と思うに違いありません。 「もっとも豊かさを感じている人間は大富豪ではなく、みずから必要な物を想像したり、創造できる人ではないでしようか?」とあなたは言いますが、「想像した」だけではお腹はいっぱいになりません。 食べ物がなくてひもじい思いをしている子供に「食べ物を想像しなさい、それでお腹がいっぱいになりますよ」という母親がいるでしょうか? ひもじい思いをしている子供が、想像しなさいと言われて、それで喜ぶでしょうか? それに芸術家だったら、食べ物を描いて、それで満足するかもしれませんが、ひもじい思いをしている子供が、絵に描かれた食べ物を見て、満足するでしようか? 満足するのは芸術家だけではないでしようか? 「マルクスは正しかったでしょう。でも、人間の幸福はお金ではありません。そう言いたかった」 たしかにお金がなくても幸福でいられたら、どんなにかいいことだろうとマルクスも思ったかもしれません。 また「彼は富める者こそ、足るを知る」を語れたらどんなにかいいと思ったことでしよう。 だけど現実の目の前の苛酷な資本主義を目にして、そういう思いをマルクスは「封印」したのです。 資本家はお金に対する無限の欲望を制限したりはしません。 どんどん労働者から利益を引き出し、その反面では労働者をますます貧しい境遇に落として恥じません。 社会の富は少数の者に集中し、その反対に貧しいものがどんどん生産されています。 経済格差はますます拡大します。 最近、フランスの経済学者のピケッティが「21世紀の資本」という本を著し、ベスト・セラーになっていますが、今後の資本主義は経済格差が拡大し、貧しい者の不満が鬱積して反乱や暴動の危険性が高まると警告し、富める者から「累進課税率」を高くして税金を多く徴収し、貧しいものに分配しないと、それを乗り越えられないと言っています。 結論を申し上げれば、あなたにあるのは「甘いヒューマニズム」でしかありません。
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- Tefu_Tefu
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最後に一言だけ付け加えます。 お金は、無限に印刷することも可能です。崩壊した国は多い。
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- Tefu_Tefu
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こんばんは urigadai2013さん 貴方のおっしゃるとおりですよ。 しかしですね、マルクスは労働を全て商品と考えて賃金としたことで、彼は資本主義の信仰者になってしまったのだと思います。 人間の幸福は、お金の多さではないと思うんです。 貴方は富と権力を無限に持つ人間が世界の中で一番の幸福者だとお考えですか? 私は、昔と比べると明らかに人間の生活様式は豊かになっていると思います。 最も豊かさを感じている人間は、大富豪ではなくて、自ら必要な物を想像したり、創造できる人ではないのでしょうか? たぶん、他人にとっては、そのことが何の興味もない事だとしてもです。 このことは、人間が知恵を得てから少しも変わってはいないと思います。 今は、他人のために声をかけてあげることが、インターネットのおかげで出来ます。 余計なお世話だと殆どの方が思われるでしょう。 でも、一人でも喜んでくれればいいではないですか。 敢えて、私は現在の状況から考えました。 マルクスは正しかったでしょう。でも、人間の幸福はお金が全てではありません。そう言いたかった。 資本主義の肯定者マルクス、彼は富める者にこそ、「足るを知る」を語らなければなかった。 誰にでも才能はあります、ただ、それを富める者がお金で主導権を握るからです。 他人から見れば時代遅れの商品でも無いより便利だと思いますよ。 自分が貧乏だと考えている人間は可笑しいでしょう。人間は楽しく生きる権利があります。 それには、胸を張って生きなさい。です。
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- urigadai2013
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補足すると、 tefu_tefuさんは「富める者とは資源や領土を支配できる階級の人たちであって、労働とは関係ない」と言っていますが、では何で資本主義があるのでしょうか? それが分からなくなります。 資本主義における富める者とは、生産過程から生じる剰余価値を一方的に搾取することで、富める者になったので、資源だとか領土を持っているからではありません。 そして「知的財産による技術革新は人間の生活を豊かにするのであり、決して搾取の部分だけではないと思います」と言っていますが、技術革新で獲得した剰余価値は資本家に搾取され、労働者を豊かにするどころか、ますます貧しいものにし、経済格差を拡大します。 現に、技術革新のもっとも進んだ、アメリカで、富は全人口のたった5%の富裕階級に50%の富が集中し、経済格差が増大しているじゃないですか? 人間の生活を豊かにすると言いますが、その人間とは一部の人たちであって、大半の人はそれから除外されています。 「搾取の部分だけではない」と言いますが、反対で、搾取が全体なのです。 まるでそれでは、才能が富を生むと言っているようなもんじゃないですか? そうなんですか? 貧乏人は才能がないから貧しいのだ、と?
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- Tefu_Tefu
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こんばんは kimko379さん 「資本論」は全部は読んでいませんが、検索してみました。 >補論 13 マルクスもうひとつの弁証法 ――「貨幣の資本への転化」について http://www10.ocn.ne.jp/~shima/marx.html 貨幣の資本への転化は流通部面(前半)と生産部面と流通部面(後半)を通して行われる。G-W…P…W-G′ に対して、マルクスはG-W…P…W′だけで考えた、すなわち労働量にこだわり剰余価値を考えたために技術革新は資本家の搾取であるとした。 しかし、流通部面(後半)W′-G′を考えると、私は、領土と資源が富める者の条件であって、技術革新による商品は、むしろ、生活を豊かにすると思います。 >第2部:資本の流通過程 第1章貨幣資本の循環第 2節、第二段階、生産資本の機能 http://book.geocities.jp/kyawa2010/capital/vol2/ch01/sec02.htm 資本主義的生産の基本条件――賃労働者階級の定在――を生み出すその同じ事情は、いっさいの商品生産の資本主義的商品生産への移行を促進する。資本主義的商品生産は、それが発展するのと同じ程度に、あらゆるより古い、主として直接的自家需要を目的として生産物の余剰だけを商品に転化する生産形態にたいして、分解的解体的に作用する。それは、さしあたり外見上は生産様式そのものを侵害することなしに、生産物の販売を主要な関心事にする……。しかし第二に、この資本主義的生産が根を張ったところでは、それは、生産者たちの自家労働にもとづくか、または単に余剰生産物を商品として販売することにもとづく、商品生産のすべての形態を破壊する。それは、まずもって商品生産を一般化し、それからしだいにすべての商品生産を資本主義的商品生産に転化させる。[41-42] 商品生産を行なうあらゆる経営は、同時に労働力搾取の経営となる。しかし、資本主義的商品生産がはじめて画期的な搾取様式となるのであって、この搾取様式は、その歴史的発展の進行のなかで、労働過程の組織と技術の巨大な発達とによって、社会の経済的構造全体を変革し、従来のすべての時代を比類なく大きく凌駕する。[42] 私の考えでは、マルクスは労働を量で考えた事が間違いで、労働の質について考えなかった。 富める者とは、資源や領土を支配できる階級の人達であって、労働とは関係ない。 知的財産による技術革新は人間の生活を豊かにするのであり、決して搾取の部分だけではないと思います。 ポップアップはCtrlを押しながらリンクをクリックすれば許可できます。
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