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ニヒリズムの超克について

ニーチェ「かく騙りき」の ドストエフスキー「罪と罰」で、 末路だと思うんです。 キルケゴールの宗教性A・B、つまり キリスト教に代表される既成宗教には縛られずに。 神に至れば、ニーチェのGaya だと思うんです。 ご意見あれば、回答下さい。

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回答No.3

ニイチェの「ニヒリズム」を虚無主義と同一視する人がいますが、ちょっと違います。 ニイチェは主著「力への意志」で、ニイチェの生きた時代、またぞろヨーロッパに「ニヒリズム」が訪れようとしていると警告しているけど、「ニヒリズム」とは虚無ではなく、むしろ反対なんです。 ニイチェに言わせれば、「ニヒリズム」は古代ギリシャのプラトンからずっと続いているヨーロッパの哲学・思想の根底に流れている通奏低音であり、ヨーロッパの哲学の歴史は「ニヒリズム」の歴史なんです。 どういう意味かというと、プラトンは「イデア」を天にある永遠の世界であり、地上の世界は仮象の世界、「イデア」が本当の真実の世界とすれば、地上の世界はニセモノの世界と言いました。 この天にある「イデア」が超・感性的世界とすれば、地上の世界は感性的世界、そして超・感性的世界から地上の感性的世界を眺めるのを古来、形而上学と言ってきました。 何かこの世界を超えた超・感性的な原理を設定し、そこから感性的な世界を演繹的に導き出す、それはみんな形而上学です。 そしてこのプラトンの「イデア」は古代末期のプロティノスによって、「一者」「イデア」の発出による世界の創造という新・プラトン主義に受け継がれ、さらに聖アウグスティヌスによって、ユダヤ・キリスト教の神による世界の創造というドグマ・教義に受け継がれ、プラトンの「イデア」は神に言い換えられた。 こうしてプラトンの「イデア論」は中世の神学に受け継がれ、神が天にいて、その神が人間や自然を創造したとされ、人間は神の被造物とされて、神の前にひれ伏し、神に従属するものとされた。 そして神が地上の世界を秩序あるものとして作ったとされ、王侯貴族が庶民・農民の上に君臨し、そのような身分制度を神が作ったのだから、その身分制度を変更したりできない、永遠のものと言った。 こうしてプラトンの「イデア論」は中世の秩序を恒久的なものとして合理化する神学に利用されることとなった。 ニイチェはこのプラトンのいう「イデア」の世界こそ、真の世界であり、地上の世界はニセモノの世界であるという思想を「ニヒリズム」と言ったのです。 ニイチェにとってキリスト教は「ニヒリズムの宗教」だった。 なぜかと言えば、天には神がいて、その神が人間を創造し、人間にとって人生の意味はその神から来なければならないとされたからで、本来人生に何の意味もないのに、その人生に意味があると言って人生の真実を「隠ぺい」し、人々から人生の真実に目を向けるのを妨げてきたからです。 キリスト教は人間の生をダメにした、というのがニイチェの言い分です。 ニイチェにとって、人生とか世界というのはもともと「ニヒル」なんです。 「ニヒル」というのは虚無ではなく、むしろその逆、人生の本当の姿のこと、人生に何の意味もなく、目的もないということです。 ところが人間は人生に何の意味もなく、目的もないという真実に耐えきれなくて、意味を求める、だからキリスト教はその意味を人々にもたらすものとして、崇拝された、そして神の前にひれ伏した。 ニイチェに言わせればキリスト教は弱者の宗教、弱者の強者に対する「ルサンチマン・憎悪」の宗教なんです。 本来、強者が弱者の上に立つべきなのに、キリスト教はそれをひっくり返し、弱者こそが本当の人間なのだといって、人間をダメにした。 だからキリスト教の道徳は「ルサンチマン・憎悪」の道徳、人類の健康な道徳をひっくり返し、貧しい者こそ幸いである、富める者は天国に行けない、という。 こうしてニイチェにとって、ヨーロッパの哲学の歴史はプラトン主義の歴史であり、そして形而上学と神学の歴史です。 それをニイチェは「ニヒリズム」と言ったんです。 だから「ニヒリズム」とは虚無主義ではなく、むしろその逆、人生の真実が何の意味もなく、目的もない、それから目を背けることなく、またキリスト教の神学によって、神がその人生の意味をもたらすということで「隠ぺい」するのではなく、人生を直視することなんです。 ニイチェは「ニヒリズム」を二つに区別します。 ニイチェ以前のそれを「消極的ニヒリズム」、その典型がキリスト教だとすれば、ニイチェのいう「ニヒリズム」は「積極的ニヒリズム」なんです。 感性的な世界の上に超・感性的世界があるのでも、地上の世界がニセモノの世界でもなく、感性的世界こそ、真の本物の世界であり、弱者の弱者のための「ルサンチマン・憎悪」の道徳でなく、古代ギリシャのキリスト教に「汚染」される前の人間の健康な道徳、キリスト教の弱者の「畜群」のための道徳ではなく、強者の「超人」のための道徳、それを復興すべきである、というのがニイチェのいう「積極的ニヒリズム」。 ニイチェの生きた時代、そこでようやく「神が死んだ」から、これからのヨーロッパは神などいない、神など必要としない、キリスト教以前の時代、古代ギリシャの健康な時代が訪れようとしている、それをニイチェはヨーロッパに「ニヒリズム」の時代が訪れようとしていると言ったのです。 それは歓迎すべきことであって、拒否すべきものではない。 以上がニイチェのいう「ニヒリズム」、しかも「積極的ニヒリズム」です。 ニイチェは主著「力への意志」で、「最高価値の価値転換」を主張しました。 最高価値とは、キリスト教の神のことでした。 だからキリスト教の神を排除し、それに代わってみずからの唱える「超人」の強者による強者の価値を復興することなんです。 「ルサンチマン・憎悪」という、弱者の強者に対する嫉妬と憎悪による道徳ではなく、そして天に本当の世界があり、地上の世界はニセモノの世界だというのでもなく、地上の感性的な世界こそ、唯一の世界であり、そして人生には意味もなく、目的もない、無意味が永遠に繰り返す「永遠回帰」の世界、それを拒否するのではなく、絶対的に肯定すること、直視することという価値に転換しなければならない、それがニイチェのいう「最高価値の価値転換」です。

fujisaway65
質問者

お礼

無自覚な人々を「虫けら」と詰り、 自覚的な生を心がけろ、と ニーチェは読みました。 私見です。ユーライア・ヒープ「対自核」

その他の回答 (3)

回答No.4

 こんにちは。  まづ聖書のひとくだりです。:  ▼ (ルカによる福音書 20章 38節) 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。   ☆ 例のレヰラート婚の話が出たところで イエスがみづから語ったと伝えられる言葉です。    これを読み落としたというボタンの掛け違いから ニーチェは出発しています。プラトンと同列にしか聖書を扱えなかった。  なぜそうしたかと言えば 自説には何の根拠も内容もないものだから 精一杯売り出そうとして 仮想敵を作り上げたのです。《反日》のスローガンによって人心を掌握しようとするたぐいです。  このニーチェのエラー〔と言うよりも けっきょく強制連行と同じ作り話でしょう〕を見極めこれから自由になること そうすれば ニヒリズムの超克は出来ましょう。  参考にどうぞ:  ☆☆ 【Q:『聖書』を知らなければ話にならないというお話】 ~~~~~  が多すぎませんか?  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8833227.html  (あ) 聖書が《神は生きた者の神である》と言っているのに ニーチェは《現世の否定・生の否定》と見てへんちょこりんな殴り書きの批判を延々とつらねました。  (い) プラトンは イデアの世界がこの経験世界に影を落としていると 一介の人間でしかないのに勝手に 断定しています。それは 思想は自由だからよいとしても その思想を聖書による神学と一緒くたにするというマチガイをも侵しています。  (う) 神とあまりなじまないアリストテレスにしても その絶対(ないし非経験の場)を 《第一原因》と捉えました。つまりは 《不動の動者》です。かんたんに単純に《神が人間世界を動かしている》と言うのなら プラトンとあまり変わらない。  (え) 聖書の《創造主なる神》は あくまで物語です。経験事物が被造物だというのは――アリストテレスと似てはいますが―― その絶対と相対とのあいだの隔たりをしっかりと確かめるためにタトエで述べているだけです。  (お) (むろん 神は《そのナゾが何であるか分かるか分からないかが 人間には分からない》のですから ひょっとするとほんとうにこの世界を非知なる神が造ったということなのかも分かりません。いづれにしても 聖書記者の意図は まづタトエで分かりやすく表現したのだと考えられます)。  (か) 聖書とそれにもとづく神学を知らないデカルトは ご苦労にも《神の存在証明》をおこなっているようです。まったくの不首尾のもとに。こんなことは 一度共通の理解に到っておけば 無駄な議論が省けます。  (き) ヨーロッパ人は 《真理と真実》とがよく分かっていない。真理は 絶対でありけっきょく非知なる神のことです。真実は 事実認識としての誰れ彼れにおけるその主観真実のことです。  (く) 神学は 経験現実について知るために 前提事項として知っておくという問題です。おそらく聖書の神学が 哲学としても普遍的な内容をそなえると考えます。  (け) 聖書を知らない――またけっきょく誤解している――ことによるむだな議論が多すぎます。のではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この質問のNo.2における回答者と質問者とのやり取りをごらんください。さらに詳細が分かるものと考えます。

fujisaway65
質問者

お礼

私はニーチェの梅の毒な晩年を肯定的に、 当然の報いだと思うのです。 Bookish な職業者として大学教授、カントと比べ。 カントが売春窟で病んだでしょうか? あるいはアルチュール・ランボーのアプサンとか。 脱法ドラッグほどヤバくはない治験済薬物なら、職業的に 手を出した側に、 信を置きます。

回答No.2

存在は無に還元する。 存在に生を依存していれば、そこで虚無に直面するが、 無からの自我仮説(記憶(時間的流れ)=過去=超光速) と空間仮説(予測(空間的広がり)=未来=光速下)の 相補分化において、環境性は、自我成立のための必要 として得られる。 そうした階層現象的な表面性に由来する、仮想的非光 速性に依存した時空的広がりに対する無の射影として 存在の本質を成す量子性が得られる時、物理学とは 有限的存在性による環境認識を無へと還元するプロセ スであり、それに基づく環境との物質循環や社会行動 における自他の利害の共通といった、自我の拡張(愛) において、ニヒリズムは超克し得る。

fujisaway65
質問者

お礼

直面した、そして 来るべき難局のすべてを 神に感謝する。

回答No.1

仏教でいうところの諦観ですね。 これキリスト教徒とかイスラム教徒とかユダヤ教徒など、一神教の「アブラハムの宗教」に帰依している者どもには理解しがたいみたいです。

fujisaway65
質問者

お礼

諦観。 さすがです。

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