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愛とは社会生命的自覚である

  正しいか。  

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回答No.4

#1の者です。 ご参考のために、私の過去の「愛とは」の回答を引用して おきましょう。 *********************************** 愛とは、1つの現象を指すのではありません。 自己チューな意識を補正する、社会や遺伝や経験に起因する多様な要素の、便宜的な定義です。 正確に記述するなら、たとえば以下のようです; 愛(あい);自己の生命の組織(社会)性の認識によって、あらゆる衝動の発現に於ける利己過程に、利他が介在すること。 主として、性別(交配)・親子(生殖)・分業(組織)などに、個体生命の成立に於ける超個体的機能が顕著であるが、認識未だ及ばず、「自己の生存(反エントロピー)」という本質的統一性を、現象上に捕捉し得ない不完全な認識を補う、非認識的に組織化する上での近似的多元的に発達した多様な即物的衝動や他律的常識の集積による、内的矛盾に於て発生する自虐的意識行動に対し、その結果(非認識)的整合(>システム進化)に対する、形骸的概念として、主に性欲・自己顕示欲・虚栄心・偽善などの発現の上に、現象的定義域を持つ。 しかしそれは、この本質としての、生体外情報の処理システムたる認識による、自己の生命システムの組織性の追跡によって意識(必然=宇宙)を共有し、自我を超越するものではなく、近似システム(金・権力etc.)による自我の延長(自由競争)、あるいは歪曲した衝動(イズム)の手段としての自我の相乗(マイホーム主義・愛国心etc.)とでも言うべきものであって、つまり「利己過程に利他が介在する」事によって個体間闘争が回避されるのではなく、集団的に新たな、そして組織的ゆえにより強力で容赦ない、闘争段階の形成へと変形されるに過ぎず、飽くまで常識による常識の為の虚構であって、人を低認識(情動)化して充足減に導く、中毒(近充足)性毒物(非最大充足)に他ならぬ。 そこに於て究極的に、真の愛は、完全なる科学(原理認識=社会生命としての他我化)である。 http://okwave.jp/qa/q8446702.html

hitonomichi34
質問者

お礼

  >そこに於て究極的に、真の愛は、完全なる科学(原理認識=社会生命としての他我化)である。 科学は真理の探求の1つには違いないが、真理の探求の全てではない。 真理の探求とは宇宙の真実に辿り着くための果てしなき探求の旅である。 そしてそれは真の愛によって導かれるものである。 故に、「そこに於て究極的に、真の愛とは、完全なる真理の探求である。」、このように訂正すれば同意できます。    

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その他の回答 (4)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.5

人の道様、こんばんは。 そう、定義ですか。 何処かのクソジジイが、「愛だ」とかで一方的に・・・ いい加減にして欲しいところ。

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回答No.3

 こんにちは。  1. 愛とは 意志です。意志行為のことです。  2. 意志行為は ヱクトルです。向きがあり それは正負ふたつのかたちになります。  3. 正の向きは好き 負は嫌いです。  4. 好きでも嫌いでもない場合 ふつうにまだ知り合いにもなっていなくてそうである場合を除いて 一般に無関心と呼ばれます。    5. 無関心が 自分でそれでよいと確認されたときには あたかも愛の死なのでしょう。愛は ゼロになります。けんかをするのは ひろく愛です。  6. 好意と嫌悪 愛情と憎悪 つまり引力と斥力といったヱクトルの中身は ヒトとヒトとのかかはり(関係)にもとづき じっさいにまじはり(交通)を持つということにおいて 《社会的生命》と言ってもよいのでしょう。  7. 愛は 社会という磁場のような土俵で起きるものと考えられます。《自覚》からさらに実践へと移って行きます。  8. ★★(No.2お礼欄) みな誤解してるようだけど、真理の探求が究極の愛なんだよね。   ☆ 真理は ナゾであるゆえに やはり磁場のごとくはたらいて ひとを引き寄せるのでしょう。    9. 《真理の探究》と言うと あたかも人間が自分の力で真理をつかむかのように言っていませんか?  10. 《究極の》などという場合には たいてい眉唾ものです。  11. それと同じように 《犠牲》の問題があります。人間が自分で考え自分の努力で 他人のために自分が犠牲に成って行動するというのは まだふつうの《好き嫌い》の次元なのだとわたしは考えています。

hitonomichi34
質問者

お礼

愛というものを階層現象表面的定性化により(いい加減に)捉えるとこのような見解になります。 みな誤解しています。 愛の最終形態、究極の愛とは真理の探求です。    

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回答No.2

人間は個人としては単に生物としての生命に過ぎないけれど、人間は一方では社会的存在なので、単に生物としての生命だけでなく、社会的生命を持っている、ということですか? 社会的生命とは、生物としての「エロス」だけでなくもっと高次の「愛・アガペー」を持っている。 プラトンが「饗宴」でいうエロスに対するアガペーとしての愛のこと、普遍的な天上の愛のことですね? 共同体のためには自己犠牲をいとわない、自分の生命を崇高な目的のために捧げることも辞さない。 個人を愛する、男が女を愛するのはエロスの愛、それに対して人類の全体のために自己を犠牲にする、それが本当の愛、アガペーとしての愛、それを自覚することが社会的生命。 人類という大きなものに限らず、家族のため、国家のため、共同体のため、子供のため、近隣住民のため、仲間のため、同志のため、主義のため、自己の信念のため、・・・・・そうした個人の生命を上回る価値のために自己の生命を犠牲にすることをいとわない、そうしたものが社会的生命の自覚。 そうですか?

hitonomichi34
質問者

お礼

  みな誤解してるようだけど、真理の探求が究極の愛なんだよね。  

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回答No.1

それは正誤の問題ではなく、定義の問題である。 性欲の事を愛と呼ぶ人や考えもあれば、博愛の事を愛と 呼ぶ人もいる。 ただ、全体的な傾向として、短絡的利己に対して異性や 親子、社会組織性など、利他的行動が求められる時に、 それを指して用いられる。 性愛、親子愛、愛社、愛国、人類愛など。

hitonomichi34
質問者

お礼

  >性愛、親子愛、愛社、愛国、人類愛など。 それは愛というものを階層現象表面的定性化(いい加減に)により捉えているに過ぎない。 愛の最終形態、究極の空いとは真理の探求です。    

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