関ヶ原の合戦の秀秋との距離
初めにお断りしておきますが質問複数ありますのでご勘弁を。
小早川秀秋は三成勢の武将誰だったか忘れましたがナントカ山にいたのを遅れてきて追っ払い布陣したとありました。この秀秋隊、三成側、家康側、双方の考えとしては本来ならどの「場所」に配置される予定だったのでしょうか?
そもそもそうなった番狂わせな時点でいくら鶴翼の陣を敷いていたとしても石田三成は秀秋のことを怪しんだと思います。三成も背後の街道に逃げやすいナントカ山にいたのは解りますし秀秋隊が再三の要求に対し動かなかったのも解ります。それはそういった配置になってしまったからです。でしたらなぜ初めから自分が背後に付くような前方に置けなかったか?置かなかった?か不思議です。
先鋒きらせればいいのに・・・と。遠くの山って・・・。
三成は現場の指揮官として武将の配置さえ決める権限なかったのでしょうか?あのよく見る関ヶ原、西軍の鶴翼の陣はそもそも誰の采配で決められたのでしょうか?
三成は裏切られることをある程度予測して大谷吉継等々、抑えとして配置してますがそれだったらもう「初めの戦評定で自分の真正面に布陣させる構え」の方いいような気もします。
ましてや秀秋はギリギリまで情勢が有利な方を見極めようとしていたのだと思いますが、そんな危ない隊は本陣の手前、島左近や宇喜多隊の手前に布陣させればって思いました。もしくは参加しないで下さいと・・・。
家康にしても裏切る約束してたのであれば秀秋をもっと近くに置けなかったのでしょうか?(黒田長政は父親関係で裏切りそうだから本陣の前線に配置した、という噂もありますよね)
ましてこの戦さ前までは秀忠の増援も当然期待してたでしょうし秀秋の裏切りが絶対必要だったのでしょうか?来なくていい、もしくは他の西軍同様動かなくていい、でイイと思いました。
三成隊も間違って西軍になってしまった完全に乗り気でない島津隊をあの位置に配するなんておかしい気が・・・。
全ては結果論ですがこの秀秋隊との「双方本陣との距離の問題」が戦を決する一因になってたような気もしたので質問させて頂きました。
長文になり何を問いたいのか分からなくなりましたが適当に回答お願いします。
お礼
ありがとうございます 秀秋は思った以上にアホな武将だったみたいですね