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大谷吉継は何故小早川秀秋を参加させたのでしょう?
大谷吉継は小早川秀秋が関ヶ原で寝返るだろう事をほぼ察していました それでもあえて関ヶ原に参陣させたのは何故でしょうか? 秀秋が出てこなければ寝返りも起こらず 東軍は勝てなかったかもしれないのに
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そうですね、関ヶ原だけを見れば小早川勢の代わりに個人的におそらく西軍最強部隊のひとつである立花宗茂勢1万を連れてくれば歴史は大きく変わったろうなと、思わないでもありませんが^^ 実際にはそんなに簡単なことではないのです。まず、大谷吉継が小早川の裏切りを確信していたというのは物語です。非常に心配していたのは関ヶ原の大谷勢の布陣で間違いないとは思いますが。 そして、大谷吉継は太閤時代は有力な政権の執行者のひとりでしたが、関ヶ原のときは病身で一線を退いており、引き連れている兵数も少なく、三成の相談役程度のポジションです。その三成自身が身代が小さいため諸将を調整する以外に指揮のとりようがなかったのです。そんな状況で、太閤の親族で総大将の毛利の分家を継いでいる秀秋を主戦場からはずすなぞできるわけがありません。 それに、我々は結果を知っているので天下分け目の関ヶ原に目がいきがちですが、、、あれは家康の誘いで、本来ああいう展開の戦いになるなぞは誰も思って無かったと思いますよ。城攻めの大嫌いな家康が、西軍主力のこもる大垣城を無視して大阪方面に進出しようとしたのに、反応してあの戦いとなったのですが、かまわず行かせれば後ろに敵を抱えた家康は自滅するしかなかったんですが^^ 三成が自分の佐和山城を取られるのを怖れて過剰反応したともいわれています。
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- nananotanu
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いわゆる今伝わる歴史は、勝者が書いたもの、ですからね。 この本が正しいとも言えませんが、例えばこういうこともあり得る、ということで読まれてみるのも面白いかと。 https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://www.amazon.co.jp/%25E6%2588%2591%25E3%2581%258C%25E5%2590%258D%25E3%2581%25AF%25E7%25A7%2580%25E7%25A7%258B-%25E7%259F%25A2%25E9%2587%258E-%25E9%259A%2586/dp/4062197391&ved=2ahUKEwiipsKi_5LcAhWMwrwKHVhOC94QFjAAegQIAxAB&usg=AOvVaw0DKnMMqleUiRdW8eKb0NjF
お礼
ありがとうございました
- jkpawapuro
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なぜも何も総大将が毛利ですからね。 主戦線の伏見から近江を経由して美濃に至るルートが総大将家毛利とその縁戚の両川、第二戦線の伊勢ルートを残る5大老の宇喜多、田辺城を小野木重次前田茂勝織田信包とこれは完全に戦闘力が弱いと見られてる庶家です。 もし小早川をあてにならないとみなしたら小早川一家で田辺城にあてるのですが、毛利家に自分らが主戦線と伊勢に分裂する気もないですし、西軍に小早川勢15000を除いて戦う兵力もありませんよ。 そして事実かどうかわかりませんけど小早川家の所領に比較して15000はあまりに過大で、遠征でこの兵力は根こそぎ動員といえます。現代では優柔不断の暗愚扱いですが実際には野心に燃え戦場に望んだことが伺えます。
お礼
ありがとうございます
お礼
ありがとうございます 確かにそう思います 家康は城攻めが下手なので(下手すぎて信長に酷評されてました) 岐阜城か大垣城に立てこもって戦えば三成は勝てたと思います