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死後に意識は存在しない

~~~~~~~~~~~~~ 水の中に投げられた塩の塊りが、まさに水に溶けてしまい、それを人は取り出すことは出来ないが、どこからか〔水を〕取り出せば、それがまさに塩辛いように、このようにまことに、この大いなる存在は無限であり、際限なく、まさに認識の塊りである。それは、これらの生きものの中から現れ、まさにそれらの中に消滅する。死後に意識は存在しない、と、わたしは語る」。 そのようにヤージュニャヴァルキヤは言った。 ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド 第2章4・12 ウパニシャッド――翻訳および解説―― 大東出版社 50ページ ~~~~~~~~~~~~~ START BrhUp 2,4.12 sa yathā saindhavakhilya udake prāsta udakam evānuvilīyeta na hāsyodgrahaṇāyeva syāt | yato-yatas tv ādadīta lavaṇam | evaṃ vā ara idaṃ mahad bhūtam anantam apāraṃ vijñānaghana eva | etebhyo bhūtebhyaḥ samutthāya tāny evānuvinaśyati | na pretya saṃjñāstīty are bravīmi | iti hovāca yājñavalkyaḥ || BrhUp_2,4.12 || http://gretil.sub.uni-goettingen.de/gretil/1_sanskr/1_veda/4_upa/brupsb2u.htm ~~~~~~~~~~~~~ >死後に意識は存在しない。 興味深いと思いました。 梵我一如について教えてください。

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  • titelist1
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回答No.1

私は小学生低学年の時に池に落ちて、瀕死状態で助けられた経験があります。池に落ちた瞬間しか覚えていないのです。意識不明だったそうです。大泣きして意識が戻ったと聞いています。 死後どころか死ぬ前に意識が無くなるのです。したがって、死ぬ時は自分では分らないのだと思っています。人の臨死を見てきましたが、苦しくて暴れることは無かったです。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 意外と唯物論っぽいのだろうかと思ったり。 英訳はネットにあるみたいなので 興味があればどうぞ Brihadaranyaka Upanishad http://www.universaltheosophy.com/sacred-texts/brihadaranyaka-upanishad/

その他の回答 (1)

回答No.2

ギリシャの哲学者エピキョロスは、いいました。 意識があるなら、死んで居らず。 死んだらもうどうでも良い。 フランス語のエピキュリアンはどこですれ違ったのか、快楽主義者 になってしまいました。 確かショーペンハウエルもエピキョロスに 近いと思います。

noname#207067
質問者

お礼

~~~~~~~~~~~~~~~~~ われわれが世界を超克したかの聖者たちに、自分自身の経験のなかで出会えるなどということは、もちろんめったに恵まれないことであろうが、しかし彼らについて記録された物語や、内的な真実さという印象を押されて保障ずみの芸術作品が、かの聖者たちをわれわれの眼の前に髣髴とさせてくれることと思う。そこでわれわれは本書の以上のような仕方に従って、これら聖者たちの生涯や行状を考察して、無にまつわるあの暗い印象を払いのけなければならない。この無こそあらゆる徳ならびに精進の背後に、その最終的な目標としてただよっているものであるというのに、われわれは子どもが暗闇を怖れるように、この無を怖れているのである。 あのインド人たちにしてからが、神話だとか、意味の空っぽな言葉をつかって、梵(ブラフマン)への参入とか仏教徒たちの涅槃(ニルヴァーナ)への帰入とかいって、無を回避しているのであるが、われわれはこれを回避することすらしてはならないのである。― むしろわれわれはとらわれなしにこう告白しよう。意志を完全なまでになくしてしまった後に残るところのものは、まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。 しかし、これを逆にして考えれば、すでに意志を否定し、意志を転換し終えている人々にとっては、これほどにも現実的にみえるこの我々の世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めて――無なのである。[1] [1]これこそまさしく仏教徒たちの般若波羅蜜多 Pradschna-para-mita、「一切の認識を超えた世界」である。すなわちもはや、主観も客観も存在しない地点のことである。 [イサーク・ヤーコブ・シュレミット『大乗と般若波羅蜜多について』を参照されたし] ショーペンハウアー  意志と表象としての世界 III 西尾幹二 訳 中公クラシックス 243~244ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ショーペンハウアーの文章で気になっていることがあります。 >あのインド人たちにしてからが、神話だとか、意味の空っぽな言葉をつかって、梵(ブラフマン)への参入とか仏教徒たちの涅槃(ニルヴァーナ)への帰入とかいって、無を回避しているのであるが、われわれはこれを回避することすらしてはならないのである。― どうやら、梵我一如は無ではないようです。無といってもいくつか種類があるようですが。

noname#207067
質問者

補足

引用文に誤字がありました。 誤: 印象を押されて 正: 印章を押されて

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