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キリスト教の成立と初期の発展とは、地域に関して

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、一神教に分類されています。 一神教は、乾燥した、砂漠に近い場所で成立した、という見解があります。 ところで、キリスト教は、初期の段階では、南欧を中心としたローマ帝国内でも、発展しました。 キリスト教が、砂漠で成立したが、初期に砂漠とはいえない沃地で発展したことに、違和感を感じます。 質問は、キリスト教の成立と初期の発展とは、地域に関しては、別ものなのですか?

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回答No.2

乾燥地というだけでなく、国境が不安定で絶えず侵略の リスクのある地域では、個人主義的・自己中心的で我の 強い性格が育まれる(集団主義的で利他的では、自分が 犠牲になる)。 仏教であっても、モンゴルやチベットに広まったチベッ ト仏教(ラマ教)では、ラマ=輪廻転生する特別な僧侶 への強力な帰依や聖地への五体投地による巡礼といった 厳しい戒律を伴う、一神教的なものになっているし、 ブータンから雲南~江南地方~日本に伝わった大乗仏教 は真言を唱えれば誰でも救われ、儀式宗教としての側面 が強いのに対し、タイやカンボジアに広まった南伝仏教 (上部座仏教)は、僧侶による厳しい修行によってのみ 解脱でき、庶民は不断に僧侶に功徳を積む事で救われる という戒律の厳しさがある。 乾燥地帯(=粗放農業・遊牧文化圏=個人主義)とモンス ーン地帯(=ジャポニカ米稲作農耕文化=集団主義)以外 にも、宗教の性質に関わる文化的要因として、国境が不安 定で侵略の多い大陸文化(=個人主義)と、コミュニティ が隔離されて安定的な山国・島国文化(=集団主義)とい う違いもある。

park123
質問者

お礼

早急なご回答ありがとうございました。 一神教の成立には、砂漠という厳しい自然面だけが、要因ではない、ということですね。 社会面、文化面なども、重要な要因として、働くのですね。たとえば、 <国境が不安定で絶えず侵略の リスクのある地域> が、一例として挙げられるのですね。

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  • veradico
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回答No.9

>一神教は、乾燥した、砂漠に近い場所で成立した、という見解がある >キリスト教は、初期の段階では、南欧を中心としたローマ帝国内でも発展した >キリスト教が、砂漠で成立したが、初期に砂漠とはいえない沃地で発展したことに、違和感を感じる >キリスト教の成立と初期の発展とは、地域に関しては、別ものか ということですが,まず,ここでは,おおむね,キリストの教えを唱道する弟子が,はっきりと現われるようになったことを「キリスト教の成立」とすることにします。 (1)「一神教」は総称ではないでしょうか。「“一神教”は,これこれの地域で成立した」といったとしても,それだけでは,具体性に欠けるから,何かを判断する根拠にはできないと思いますが,いかがでしょうか。 (2)聖書が述べるところによれば,「キリスト教」が「成立」したといえるのは,西暦1世紀のイスラエルを中心にした地域です。  当時のイスラエル地域は,砂漠が見られる地域であるとはいえると思いますが,かといって,ほとんどが砂漠だったとまではいえないのではないでしょうか。  例えば,Wikipediaの「イスラエル」には,「地中海沿岸の平野部は肥沃な農地地帯となっている。…南部のネゲブ砂漠は国土のかなりの割合を占めており…」とあり,「シリア」については,「…南部は肥沃な土地が広がっており、…中部は…乾燥地帯の延長上には、アラビア半島に続くシリア砂漠がある。」とあります。  以上の情報から判断できるのではないでしょうか。「砂漠で成立したかどうか」よりも,キリストの教えを唱道する弟子たちが,どの地域から発生し,拡大していったかを聖書の「使徒行伝」や一般的に認められている資料によって調査されることが,良い判断をする助けになると思います。 (3)「キリスト教が初期に砂漠とはいえない沃地で発展した」ということですが,「初期の発展」というものの「時期」をどのように設定するかによって,答えが変わると思います。例えば,Wikipediaの「キリスト教の歴史」の「諸教派の系統図」中の“初代教会”という時期なのか,はたまた「ミラノ勅令による公認」の項目にあるとおり「キリスト教を公認する国が現れるようになった」時期なのか,ということですね。聖書には「ローマ人への手紙」という書があり,その書はどう考えてもキリスト教の「成立期」の書物ですので,「ローマ帝国内で発展した」というだけでは,「成立」と「発展」を区別しにくく思われます。  しかし,一般的に「キリスト教の発展」というと,“キリスト教”なるものと世俗の政治が関係を持つようになる時期を指すようです。“キリスト教”が世俗の政治に似た権力構造を持ち始めるのです。かくして,キリストの教えとは似ても似つかぬことをする組織である“キリスト教”が成長し“発展”していきます。 「砂漠で成立したが、初期に砂漠とはいえない沃地で発展した」ということですが,単に「砂漠」と「沃地」の違いだけでなく,“キリスト教”と呼ばれる組織の“発展”の実情,組織の背景事情が深く関わってきますね。

park123
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 以下、初学者の弁解やら補足やら蛇足やら偏見やら独断になります。 1.<「一神教」は総称ではないでしょうか。> については。その通り総称と思います。具体性のある説明が背景ある、のだと思いますが、私は知りません。 2.砂漠で発生したことについて、文字通り砂漠の中で発生とは思わず、砂漠の近くで発生、と解釈しております。 3.初期の発展とは、キリスト教が、ユダヤでない土地に拡散してゆき、ローマの国教になるまで、と考えています。 4、沃地とは、砂漠との対比を表すように使いました。 全体的に、砂漠(の近くで)発生したキリスト教が、その基盤を離れ、なぜ、沃地で国教にまで発展したか、が疑問でした。

  • ishihii
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回答No.8

キリスト教は別に砂漠で発展したわけではありません。現在のパレスチナ地域は南米のジャングルみたいではありませんが、決して全てが不毛の荒野というわけでもないです。 旧約聖書で約束の地パレスチナを「乳と蜜の流れる地」と呼んでいるのは、イスラエルの人々の思い込みではないのです。 成立と初期の発展については別におかしな点は何もありません。 キリスト教は始めのうち、現在呼ぶところのユダヤ教といきなり袂を分かっていたわけではないのです。当時、ディアスポラのユダヤ人がローマ帝国内やその他の国々に散らばってシナゴーグに集まっていました。ユダヤ教のラビたちは請われてこれらの各地のシナゴーグを回っていました。 最初の使徒たちも、このラビたちと全く同じことをやっただけです。広大な世界に広がっていたシナゴーグを回ってイエスこそが待望のメシアであることを説いて回ったのです。 したがって、成立も初期の発展も、その前からあったユダヤ教(現代と混同するとまずいのでイスラエルの宗教と呼んだ方が良いのかもしれませんが)と別物とか違うものと認識する必要性はあまりないのです。

park123
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。す 1.<キリスト教は別に砂漠で発展したわけではありません。> について、承知しています。ただ、砂漠に近い所で、砂漠の風土に影響されて成立した、と思っています。(そもそも、宗教が砂漠で成立できる、とは思っていません。ある程度の人の住んでいる所でないと、宗教として成立できない、はずですから) 2.各地のユダヤ人やシナゴーグに、ユダヤ教が付随していったのですね。その際、キリスト教もユダヤ教の一派として付いて行った、のですね。ただし、わからないことは、ユダヤ教が繁栄しないで、なぜ、キりスト教の方が繁栄したのか、(おそらくユダヤ人以外に広まった、のでしょうが)。

  • chiha2525
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回答No.7

セム的一神教、というのが一般的かどうかは知らないですが、これが後にユダヤ教になり、ユダヤ教からキリスト教が生まれ、また時代が下りユダヤ教やキリスト教を継承してイスラム教が生まれたわけです。 で、セム的一神教が砂漠に近いところで成立した、というのは結果論的な話でしょう。影響を考えることはできますが、他に一神教が1つも創造されていないことを考えると、成立の助けになる要素とは言えない可能性が高いと思います。 私の少ない知識で言うなら、砂漠と一番関係の深いのは一番最後にできたイスラム教で、おきての一部は砂漠の風土での経験的知識を元としたものとなっている(○○は腐りやすい→○○を食すのは禁止、みたいな)という話を聞いたことはあります。

park123
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 <砂漠に近いところで成立した、というのは結果論的な話> なのですね。私は、少し齧っただけなのですが、新約聖書には砂漠という感じを受けませんでした。(荒野という記載はありますが) <セム的一神教> については、初めて聞いた用語なので、これから調べます。

回答No.6

park123 さん こんばんは。 お礼を見て、私がpark123 さんに疑問に思ったのは、どちらも「おそれる」ですが、「恐れる」と「畏れる」の日本語の違いに注意しているかなということです。 聖書のシラ書というものの中に、「主(神)を畏れることは、知恵の初めである。」とあります。 シラ書1章14節 恐れるというと、悪いことしたら罰がくだるという恐怖の恐ですが、畏れるとは「大いなるものを敬う」と意味と私は思ってます。 私はイスラム教の知識はあまりありませんが、豆知識程度に一神教のイスラム教を考えてみましょう。 スペインに「アルハンブラ宮殿」というものがあります。 これはコロンブスがアメリカ大陸を発見しに冒険に出た頃、レコンキスタというヨーロッパにおいて、イスラム教からキリスト教が国土の奪還するための戦争において、イスラムのヨーロッパにおける最後の砦だったそうです。 you tube でタレガが作曲した「アルハンブラの思い出」というクラシックギターの曲を聴いてみてください。どこかで、喫茶店のBGM で聴いたことがあると思うはず。 この曲はアルハンブラ宮殿の噴水をイメージしてタレガが作曲したそうです。また、アルハンブラ宮殿には宮殿を映す、水鏡のような池がありますが、これは、水が風によって波立った時に、池に移る宮殿が揺らめき、蜃気楼のように見えるように設計されたそうです。 そして、宮殿内は、アラビア特有のアラベスク文様。偶像崇拝を禁止するイスラムは、コーランの言葉と植物文様からなる、アラベスクで装飾する。 また、イスラム教のモスクというものは青色のドームや柱頭です。青い空をイメージしているのでしょう。 ここまで、まとめると、砂漠地帯の人々は、水や植物は生きるために切望するものであった。私は砂漠に行ったことがないので想像するしかありませんが、砂漠の空は、日本で見る空より青いかもしれない。そして、夜は満天の星空。 このような、我々日本人が触れる自然の豊かさからかけ離れた、土地柄、一神教ができたと私は思ってます。 一方、日本ではどうでしょう。豊かな水が流れ、植物からなる野山で囲まれている。 イスラム教やキリスト教が生まれた、砂漠地帯より、「神」と考える選択肢が多い。 一説によると、仏教が入ってくる前の日本には「巨木信仰」というものが、あったそうです。現在でも神道の神社に行くと、大木に、しめ縄がされているのを見かける事があるでしょう。 そして、仏教が日本に入って来た時、その巨木で大きな仏像を造った。これは、巨木を見上げるように、仏像を下から見上げるようにして、信仰するためというものとのこと。 神道と仏教は実に日本において、うまく融合した。 ここで、最初の「畏れる」という考えに戻って欲しいのですが、仏像を見るとき、「上から目線」でなく、「下から目線」です。「大いなるものを敬う」という謙虚な気持ちが表れていると思います。 美術館に行って仏像を見る場合、立ったままの目線で仏像を観ても、本当の美しさはわからない。そのような見方をするのは素人です。かならず、下から観ると美しさがわかる。 これは、私が修学旅行で行った、飛騨高山の「円空彫り」の店主の、おじいさんから教わったことです。 この回答を読むのも大変でしょうが、書くのも大変です(笑) 総括すると「神様」でも「仏様」でも「自然」でもよい。「大いなるものの前に敬い、へりくだり、謙虚になる」ことが、私は大切と思います。 最後にキリスト教の聖書の言葉で締めくくります。 「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい、どんな事も感謝しなさい。」 テサロニケの信徒の第一の手紙 5章 16節~18節 これが、神様を愛することと私は思います。

park123
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございました。 ”神”と”愛する”については、むずかしいです。 私はジャズが好きで、よく聞いています。友達と雑談しているとき、「第九番に匹敵する曲が、ジャズにもあるよ。コルトレーンの演奏した”至上の愛 A Love Supreme”だよ」と私はしたり顔で言いました。彼女は興味を惹かれたようで、そのCDを借りて行きました。しばらくして分かったのですが、彼女はこの曲に不満があったようでした。愛は、男女間や子供や家族間の愛のようなものを期待していたのです。神への愛などは、想定していなかったのです。彼女も私も大木への畏れや敬いや愛は分かりますが、神への愛はなかなか理解できないものです。

回答No.5

park123 さん こんばんは。 私の個人的考えですが、「道徳」というものに焦点をあて、わかりやすく回答します。 park123 さんもソクラテスの名前は知っているでしょ。 park123 さんも友人と話をしていて、その考えは私と違うということがあるはず。これを「相対的考え」とします。 一方、みんなで賛成という考えもあるはず。これを「絶対的考え」とします。 しかし、世界中の人が皆、賛成という「絶対的考え」は難しい。 ソクラテスは、当事のソフィストという、口が達者な人達が唱えた「相対的真理」に対し、「絶対的真理」があるはずと唱えたために、裁判をかけられ、毒ニンジンを飲んで死んでしまった。 じゃあ、ソクラテスはかわいそうと思うかもしれませんが、その考えは、ギリシャ時代に流行した、ストア派という哲学に受け継がれ、「いつでも、どこでも、誰にでも、当てはまる普遍的な自然法がある」という考えとなった。 そして、ストア派の自然法が、ローマに伝わり、キケロという人が「ローマ法」を作った。 ここで、キリスト教の伝道者だったパウロの聖書の言葉を書きます。 「たとえ律法を持たない、異邦人も律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄が、その心に記されていることを示してます。彼らの良心もこれをあかししており、また心の思いも、互いに責めたり、弁明し合って同じことを示してます」 ローマの信徒への手紙 2章 14節~15節 この、パウロの言葉からわかるように、「良心をもつ彼ら」とはローマ人と考えられています。 私、個人の考えですが、ローマ法という道徳をすでにもっていたローマ人は、キリスト教を比較的受け入れやすかったのではないかと考えてます。 暴君ネロ皇帝の弾圧とかありましたけれど。 旧約聖書における律法、つまり神様の前で守らないといけない掟は、たくさんありますが、新約聖書で、キリストが旧約聖書を要約した掟はたった2つ。 「こころを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 「隣人を自分のように愛しなさい。」 日本ではキリスト教を信仰する人は、仏教に比べ、ごくわずかですが、ちまたで、はやりの流行曲を聴くと「愛」とか、「Love」と、歌詞に含まれているでしょう。なぜか、仏教の同じ言葉を意味する「慈悲」とは言わない。 クリスマスも、もうすぐだ。 今日が、いい日であっても、悪い日でもあっても、よく寝て、明日は、誰かを愛し、愛されましょう。

park123
質問者

お礼

早急なご回答ありがとうございました。 御回答を読みまして、気になったところがあります。 <あなたの神である主を愛しなさい。> りました。厳しい自然や社会のもとに、一神教が成立したようです。その厳しさを反映して,その神も厳しくなりました。したがって、一神教では人は神に平伏するだけ、だと思っています。しかし、キリスト教では神を愛す、ということになっています。だから、キリスト教は典型的な一神教(私が考えている一神教)ではない、のだと現在思っています。

noname#224207
noname#224207
回答No.3

ご質問の「キリスト教の成立と初期の発展とは、地域に関しては、別ものなのですか?」とローマ帝国内での発展とは時間的というか年代的にはズレていますので注意して下さい。 キリスト教の成立と初期の発展にはローマは関与していません。 発展した結果とローマの版図が重なったとお考えになられた方が混乱を避けられるかと思います。 キリスト教が独立した宗派となった過程といいますか時期は正確には不明です。 キリスト教内部ではいろいろ定義されているようですが、歴史学とか考古学の分野では特定されていません。 キリスト教の始祖であるキリスト自身はユダヤ教徒であったとされています。 御存知にように古代ローマの兵士がキリストを処刑したとされています。 ローマが版図を広げてローマ帝国と呼ばれるようになってから、皇帝であるコンスタンチヌスがミラノ勅令なるものを布告した以降にローマ帝国内でキリスト教が他の宗教を圧倒し始めています。 ご質問のように砂漠生まれの宗教が自然発生的に南欧に広がっていった訳ではありません。 キリスト教がユダヤ教から分離独立したという点と、その際のキリスト教支持者がどのような生活環境にあったのかという点を考慮する必要があります。 分離独立して別宗派を立てる以上は、本家本元のユダヤ教から横槍が入ります。 当然のように迫害合戦が始まります。 政教分離ではなかったとお考えください。 どこの国でも地方でも古代においては宗教と統治政治は一体です。 現在中近東と呼ばれている地域はチグリス・ユーフラティス川流域から離れた地域は農耕よりも遊牧が生活の糧でした。 遊牧という生活方式は定住ではなく移動が伴います。 結果として現在ディアスポラと呼ばれる移動集落のような形態となります 過酷な砂漠地帯で全員の生命の安全を保証するには、指揮系統の明確な組織が必要です いわゆる一致団結が不可欠です。 このような地域で宗派が異なれば闘争は集団間の闘争となり過激化します。 現在も宗教宗派の違いで激しい戦闘が繰り広げられています。 ローマ帝国が目をつけたのはこの団結力の強さでしょう 組織化された集団を取り込むことで広大な版図の統治に利用しようとしたのでしょう。 団結力の強い組織を敵に回しても得るものはありません。 ローマが大帝国となった要素の一つに異民族の文化や宗教に対して寛容だったことが挙げられています ミラノ勅令もキリスト教を擁護するものではなく、いわゆる宗教の自由を認めさせ他の宗教への攻撃を止めさせるものです。 こうなれば組織力の高い宗派といいますか集団が有利になります。 ということで、ローマ帝国内で広がったのは、自然発生的なものではなく極めて政治的な要素が強いものであったとお考えになられた方が宜しいかと思います。 キリスト教史観に基づいて史料を読まれると混乱や矛盾が出てきてしまうかと思います。 以降のローマ教会を主体とした時代とは切り離して考えてください。 宗教史や民俗史というのはほんとうにややこしいです。

park123
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございました。 <ローマ帝国内で広がったのは、自然発生的なものではなく極めて政治的な要素が強いものであった> なのですね。私は、今まで、キリスト教が迫害を受けながらもローマ帝国内に自然発生的に広まり、困った為政者が仕方なくキリスト教を解禁し、国教にした、のだと思っていました。そして <ローマが大帝国となった要素の一つに異民族の文化や宗教に対して寛容だった> のですね。これを契機にもう少し調べてみます。 ったのは、国民が、自然的に、

回答No.1

 こんにちは。  ★ 一神教は、乾燥した、砂漠に近い場所で成立した、という見解があります。  ☆ そのような自然環境の要素は ひとつの見方としてかかわっているのかも知れないというふうに捉えておけばよいのではないでしょうか。  ▼ (創世記/ 12章 01節) ~~~~~~~~~~~~~  主はアブラムに言われた。   「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて    わたしが示す地に行きなさい。    ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この神の言葉にアブラム(のちのアブラハム)が従った。ということから 〔ほかにも神ないし神々は存在するようだが この民族にとってはただひとつの神であるヤハヱ―なら〕ヤハヱ―の神を理屈抜きで心より受け容れるという信仰が始まったようです。  この生まれ故郷というのは ウルという町で メソポタミアの古代都市ウルのことではないかと推測されています。つまり アブラハムのくにはと言うと 砂漠に近い場所ですが かなり大きな町であったとも考えられます。  アブラハムは 族長であったと言われます。家を出たのは 七十五歳であったそうですが 遊牧民の生活をして《まだ示されていないところの・神が示す地》に向けてさまよっていた。  このような定住でない生活を送ることになったのは ひとつの単純な解釈として ひとはあたかも〔すでに生まれつき自然本性としてそなわったところの〕神のくにを目指して 生涯のあいだに巡礼の旅を送るものだということの提示があるとも言われます。  はなはだ簡単な議論ではありますが こういったところを考えるに 《砂漠に・または砂漠に近いところに生きる人びとだからこそ持ち得た信仰》ではないかという見方は さほど問題にはならない。こう考えています。  なぜならこれも単純な推理ですが いわゆる多神教をいだく民族にとっても その神々を抱くといういわゆる宗教形態が ほかのたとえば一神教なる宗教に対しては あたかも一神教であるかのごとく国民精神総動員が為されるかに見られるからです。つまり 日本教あるいはウリナラ・ファンタジーといったそれぞれ一神教であるのと変わりない。と見られるからです。  つまり 宗教は 宗教であること自体において ダメだという意味です。個人にとっての信仰は 別だという意味です。

park123
質問者

お礼

早急なご回答ありがとうございました。 1.砂漠に近い所で成立した、というのは <自然環境の要素は ひとつの見方> くらいなのですね。 2.ユダヤ教が砂漠で成立した、というのは神の指示であるのですね。 3.1に戻りますが、砂漠ということは、 <さほど問題にはならない> ということですね。 4、多神教といっても、場合によっては、一神教と変わらない、こともあるのですね。

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