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シュウキョウというシュウキョウはアホンダラ教である
1. 世界は 経験事象から成るけれど 人間にとっての《現実》は 経験世界とそれを超えた場とから成る。と想定される。 人間の現実 経験世界 非経験の場 2. 非経験の場とは 非知として想定されている。 人間の現実 経験世界(経験事象) 可知(可感をふくむ) 既知 未知 不可知(知り得ないと知ったモノゴト) 非経験の場 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) 3. ひとは この現実を持って生きる。それは 《非知》へのあこがれのもとにある。と言っていいのではないか。 4. その意味では 経験事象なるモノゴトは移ろいゆくものであるからにはすべて 移ろいゆかないところの非知の仮りの像(すがた)であると考えられている。 5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。 6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引く補助線である。 7. かくて たとえば非知すなわちふつうに言う神は 不可知であると見た人がいる。けれども不可知は 経験事象である。数学じょうの定理で これこれは人間には知り得ないと証明されたなら その観念も経験事象である。よって 不可知は神の補助線ではあっても 神本体ではない。不可知なる観念を神としたなら それは あやまったシュウキョウとなる。 8. 神は感じるものだというシュウキョウもある。それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。それしかないと言い張るなら あしきシュウキョウである。 9. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または われひとり)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張るインチキ宗教である。 10. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説くシュウキョウがある。これは 悪しき無限に落ち入る。落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。これも 補助線を神そのものと見なしているからには アホンダラ教である。 顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか?
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そうそう、 人間の脳は、「夢で見た」、「本やTVでこの光景を見た」、「他人から話を聞いた」などの記憶の捏造すら行ないます。 ───デジャブ体験の正体は、これ、らしい─── 自分をダマシ、納得させるためなら、何でもやるものらしい(笑い)。 神さまを見せたり、神さまの声を聞かせたり、怪しの現象すら引き起こす!! 一心不乱に強く願うものを見せたりもする!!
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- kurinal
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B様、こんばんは。 >「顧みなければならない内容をもったシュウキョウはあるか? 」 B様一流の、反語と見ました。
- a_hona
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二番の非知についてですが、知り得るか知り得ないかが知り得ない、これはつまり、知りえるかもしれないが知り得ないかもしれない、という可能性についての言及と見て良いのでしょうか。それとも、可能性があるかどうかすらも知り得ない、絶対的に知り得ないことを示しているのでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 二番の非知についてですが、知り得るか知り得ないかが知り得ない、これはつまり、知りえるかもしれないが知り得ないかもしれない、という可能性についての言及と見て良いのでしょうか。 ☆ はい そうです。 言いかえると 《知り得るかも知れない》ということは ひとりの人間の主観の問題だとなります。 誰かが おれは神を見たのだと言った場合 それは 有り得るわけです。同時に そんなことはあり得ないとも言える。そういう問題になります。 言いかえると 主観内面におさめられているなら そのこと――つまり《非知》をわたしは知ったのだ・感じたのだということ――は それとして認められることになります。 ただし そこまでです。その主観(センス)を共同(コモン)化することは かなわない。常識(コモンセンス)には成れない。なぜなら 成ったとしても それは 神についてや神を見たということについてのさらに仮りの表現としての補助線でしかないからです。 《〈見た〉という視覚そのこと》と《〈見た〉と表現すること》とは 別だからです。 《神を見た》なる主観が 共同化されたとしても それは 補助線が共有されたにとどまります。《わたしは見ていない》という別のひとの主観も 共同化され得ます。補助線としてです。ただそれだけのことになります。 ★ それとも、可能性があるかどうかすらも知り得ない、絶対的に知り得ないことを示しているのでしょうか。 ☆ ですから 可能性があると言えるわけですが この場合の可能性というのは やはり微妙です。 可能性があって 神を見たと或る主観が言いうる。けれども そこまでの可能性だということになりますから。主観内面におさめられそこにとどまるという性質にかぎられた可能性だと思います。 《絶対的に知り得ない》とは言えないわけです。断定することはできない。 となると思います。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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だらだらとまた投稿するよ。 信仰は個人的な事柄であることは理解している。 しかしだ、神の神殿を立ててこそ文明のあかしなのだ。 人の共生に神は付いてくる。 その点の整合性も私は考察に値する課題だと思うな。 私は神を信じる。 その一言を打ち明けるだけでお互いに兄弟になり。 いかに神を言い表そうと、兄弟の信を揺らがせない。 人と人が信じ合う事はこういう理想を思い描くよ。 あんたは信じると言えば神の事だと以前私に言ったが、確かに信じることは、人と人の間でも神が仲介する。 それから、共生の証たる神は、それだけだと善神だ。 このよき神は、時にあらぶれ悪魔に姿を変える。 すなわち善神と言う定義で、神について判った気になっても間違いだ。 以上は以前からしている君の問題定義に対して、私もそれなりの宿題としているからだ。 自らが知るためであり。 君に教えてやるためではない。 まあ、お互い哲学がんばりましょうや。
お礼
つづいてのご回答をありがとうございます。 ★ 神の神殿を立ててこそ文明のあかしなのだ。 ☆ だから 神殿は オシエと同じく 神本体を理解するために人間が引いた補助線であると言っています。 ★ 確かに信じることは、人と人の間でも神が仲介する。 ☆ これも 補助線――あるいは神の依り代――どうしの間での出来事。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ それから、共生の証たる神は、それだけだと善神だ。 このよき神は、時にあらぶれ悪魔に姿を変える。 すなわち善神と言う定義で、神について判った気になっても間違いだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも 補助線――仮りのものごと――としての問題である。いろいろ語るのも 補助線。 すべては補助線なりとさとるのは 空(シューニャター:空っぽ)という見方です。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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あんたの非経験という認識だけ一言いっとくよ。 観念世界で、その地に足を踏みしめ生きている事を自覚する私だ。 その世界で目の当たりにした事は、私にとって経験だ。 これは常識と違う定義だね。 夢は垣間見るだけでけでは経験でないのが常識だ。 垣間見るだけならば、私もその通りだと思う。
お礼
ご回答をありがとうございます。 まぼろしを見たというのは それとしての経験です。 現実でないものを見たという経験です。 マチガイを侵したというのも 現実の経験です。 夢は夢という現実です。
- NemurinekoNya
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No.4をすこし修正します。 【修正箇所】 ですが、オシエとしての《シュウキョウ》の部分では、こうしたことは起きるのではないでしょうか。 【修正】 ですが、オシエとしての《シュウキョウ》以外の部分でも、こうしたことは起きるのではないでしょうか。 物理の世界では、 葬ったはずの《えーてる》が、《場》という言葉として、あらたな《えーてる》となって復活した。 所詮、《場》も《ヒモ》も現象説明のための仮説に過ぎないのに、これをあたかも実在として見なしたりする(ニコニコ)。 そして、 私のような変な《バカの飲み薬》を飲み、これに酔っ払っている人間は、 私とは異なる《バカの飲み薬》を飲んで酔っ払っている(?)人間を、どこか醒めた(?)目で冷やかに見守る。 「自分も《バカの飲み薬》を飲んでいるのに」です。
お礼
つづいてのご回答をありがとうございます。 了解できていたと思います。 ◇ 物理の世界では、 / 葬ったはずの《えーてる》が、《場》という言葉として、あらたな《えーてる》となって復活した。 ☆ そうなんですか。それを知らずに 日本教の特徴としてのクウキ教を エーテル教とも自然なかたちで言っていました。 ◇ 《バカの飲み薬》 ☆ そう言えば わたしにはまだ使い勝手が いまいち分からない。ようにも思います。
- NemurinekoNya
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☆☆ 意外とマイナス志向のようでもあるのですね。あるのですか? ◇いえいえ、 そこから一歩前進するために、動き出すために、 とりあえず、ネコダマシ、飴玉が必要ということです。 けっしてネガティブな意味で書いたわけではありません。 ただ、この子供だまし、ネコダマシ、飴玉の効果はいつまでも続かない。 いつまでも同じ飴玉が通用するものでもない。 また、同じ場所に満足し、そこに安住してもいけないのでしょう。 それでは、いずれ、喋るタコ壺になってしまうでしょうから♪ あくまで、「とりあえず」で、「泣く子を黙らす飴玉」です。 ☆☆ ううーん。そうですね。 ◇「すべてマヤカシである」というつもりはありません。 極限状態においては、こうしたマヤカシが起こりやすい、と言っているまでです。 分からないことは、とりあえず「括弧付き」のままにしておき、それを積極的に肯定も否定もしない、というのが私のスタイルです。 私は、決して超自然的なことや話も否定しません。 「そういうことがあるかもしれませんね」という姿勢をとり、そして、両者で合意できる点を起点として話を進める。 あまりに荒唐無稽な作業仮説に対しては噛みつきますが、 他人のフンドシや土俵で相撲をとることも厭いません。 ☆ いや ちょっと待った。認識してそのモノゴトに名前をつけること――あるいは ウタにして自己表現すること――と 《シュウキョウ》とは別ですよ!!!! ◇もちろん、《シュウキョウ》とは別です。 ですが、オシエとしての《シュウキョウ》の部分では、こうしたことは起きるのではないでしょうか。 言葉を与える、あるいは、言葉で定義することによって、その何だか分からないものの正体が分かったような気分になってしまうこともあるでしょうし、 その言葉で語られるそもそもの対象とは異なる、概念をその対象と混同してしまうこともあるのでしょうね。 《イドラ》には気をつけないといけない。 ☆ いや ちょっと待った。認識してそのモノゴトに名前をつけること――あるいは ウタにして自己表現すること――と 《シュウキョウ》とは別ですよ!!!! ◇酔いにも、 自己を常識や偏見などから解放し、自由で朗らかな気分にさせる、良性の酔いもあれば、 悪酔い、二日酔いなどの悪い酔いもありますよ。 《シュウキョウ》にしても、上から強圧的、教条的に与えられるものもあれば、 自身の内面から自然と湧き上がる、《シュウキョウ》以前のものもあるのではないですかね。 そして、 後者のものは、不可知なものなどに対する自然な畏怖の念、オソレなんでしょう。 私は、後者の自然心性・素朴心性に対するそれを否定したり、蔑んだりするつもりは毛頭ございません。 それはあって然るべきであり、むしろ、ない方がおかしい、あるいは、傲慢であると思っています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ ただ、この子供だまし、ネコダマシ、飴玉の効果はいつまでも続かない。 / いつまでも同じ飴玉が通用するものでもない。 ☆ ええ。その点をちょっとこだわりました。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ もちろん、《シュウキョウ》とは別です。 ですが、オシエとしての《シュウキョウ》の部分では、こうしたことは起きるのではないでしょうか。 言葉を与える、あるいは、言葉で定義することによって、その何だか分からないものの正体が分かったような気分になってしまうこともあるでしょうし、 その言葉で語られるそもそもの対象とは異なる、概念をその対象と混同してしまうこともあるのでしょうね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そういう名づけや言いたかったことをうまく表現してくれたというような語句や文章を 聖典に見つけるということは そのようにあって当然なのですが しかもシュウキョウ組織のほうに言わせれば それはあくまで〔かれらの言う変なかたちの〕信仰にもとづいてこそ意味があるというふうに言うに決まっています。と思ったものですから 区別しないと大変なことになるのではないかと。・・・ ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 《シュウキョウ》にしても、上から強圧的、教条的に与えられるものもあれば、 自身の内面から自然と湧き上がる、《シュウキョウ》以前のものもあるのではないですかね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしは心の底より組織宗教をうたがっていますので そういう・あって当然の自然の姿・内面の息吹きについても 宗教組織は教条的に見て この組織の説く信仰があったればこそ そういった恩恵に浴することができるのですよとか何とか 口を出して来ると思うのです。 つまり 組織宗教にあっては オシエが――変なかたちで信仰に結びつけられたオシエが―― すべてであって これによって雁字搦めになっているのではないかという邪推を捨てきれません。 ◇ 私は、後者の自然心性・素朴心性に対するそれを否定したり、蔑んだりするつもりは毛頭ございません。 / それはあって然るべきであり、むしろ、ない方がおかしい、 ☆ ありますよ。いくら 組織の一員として《活動》していても 個人としてのわたしの固有の時を持つことはあります。そのとき 組織やそのオシエから自由な心の時間が自然の流れとなって《わたし》におとづれるでしょう。 ただ でも たぶん組織のお偉い方たちは それをシュウキョウから切り離しては見ないのではないか? という懸念です。
- NemurinekoNya
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ついで、ついで。 デジャブ・既視感なんて、 「人間の脳には、脳の暴走、パニック状態を未然に予防するための、こうした機能」のなせるワザらしいですよ。 これまで経験したことのない、もの凄い光景などを目にしたりして脳が驚き、思考停止状態などに陥ったりすると、恒常性を取り戻すために、こういうトリックを行って、自分自身(脳)を騙すらしい。こういう恒常性回復機能が人間の脳には備わっているらしい。 言葉を失うような茫然自失の状態というのは、外敵に襲われる危険性が飛躍的に高まるので、自身の生存にとって非常に都合が悪い。 であるから、 脳は自分自身すら騙して、この危ない状態を回避し、安全な状態に戻ろうとするらしい。 「人間の脳というのは、かなりの曲者、食わせ者」というお話でした。
お礼
つづいてのご回答をありがとうございます。 ◇ 脳 ☆ ですか。そうですね。 同意の意を 記憶という行為能力のことでつづります。 つまり 記憶というのは 知識や情報の整理整頓といった秩序作業だと思うのです。しかも われわれの意志を超えて ひとりでにやってくれます。 ◇ 「人間の脳というのは、かなりの曲者、食わせ者」というお話でした。 ☆ ええ。承りました。
- NemurinekoNya
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こんにちは。 ☆3. ひとは この現実を持って生きる。それは 《非知》へのあこがれのもとにある。と言っていいのではないか。 ◇分からないままだと、ひとは、怖くて不安になるのではないか。 この不安な状態を解消するために、人は、何でもいいから理由付けやコジツケをして、今の状況などを納得しなければならないのであろう。 人間の脳には、脳の暴走、パニック状態を未然に予防するための、こうした機能が備わっている、と言われています。 みずからの行いが悪いためにこの様な悲惨な目にあった、 神さまの気まぐれやイタズラ、 サダメや運命、 地中に眠っていた大ナマズが暴れて地震が起きた、 今日の朝ご飯に食べた目玉焼き、昨日の夕食に食べた魚の祟りだ、 などなど、 荒唐無稽なものであったとしても、とにかく、自分を納得させる、あるいは、自分を騙せるものならば何でも良い。 それだけで、精神は落ち着き、冷静さを取り戻すんですよ。 また、生死に直接関係するような極限状況では、 人は自分以外の他者の存在、たとえば、天使や神さまといった《怪(あや)し》の存在を感じたり、感じやすくなったりする。 そして、 絶体絶命の状況を見事切り抜け、助かった人は 「神の導きがあった、天使の声がしてそれに導かれ、九死に一生を得た」 なんて言ったりする。 ───間違った導きに従った人は御陀仏なので、結果、正しい導きに従った人だけの証言になる(笑い)─── こういう機能が人間の脳に備わっているらしいんですよ。 脳科学の研究者の中には、 「右脳がそのようなビジョンを作り、論理などを司る左脳に語りかけているんだ」 と主張する人もいます。 さらに、 はじめて遭遇したそれまで見たことも聞いたこともない物や現象に名前を与えると、 人はその物や現象に対する怖さや薄気味悪さが減少したり、無くなったりするんですな~。 さらに、童謡や童歌(わらべうた)のように、怖い物や薄気味悪い物を 「でんでん虫、むし、かたつむり♪」 などと囃したり、冷やかし、バカにすることによって、怖くなくなったりする。 言霊の力は絶大なんです。 ~~~~~~~ 力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女のなかをもやはらげ 猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり 古今和歌集・仮名序 ~~~~~~~ とある通り、 本当に 「心をもなぐさむる」 ものなんです。 ☆5. すなわち 経験事象は 非知へのあこがれを現実のものとして確かめようとする人間にとっての認識対象である。 ☆6. 経験事象を認識することは 非知を知りたいために人間が引く補助線である。 ◇言葉にすることによって、非知であろうが何であろうが、形而下に引きずり下ろせる。 すると、もう怖くない(ポリポリ)。 安心できる(笑い)。 好き勝手な事をできる、言える。 補助線なんて高等な言葉を使うのは、頭のいい(?)人の言うことです。 宗教という《バカの飲み薬》を飲むことで安心できる人は、そういう難しいことを言わない(ポリポリ)。 ☆8. 神は感じるものだというシュウキョウもある。それが 補助線であるとわきまえているかどうかが問題である。それしかないと言い張るなら あしきシュウキョウである。 ☆9. 不可知を重く見る場合で 別のシュウキョウの形態がある。それは 神は不可知なのだから 不可知と知ったわれわれ(または われひとり)は 神の地上における唯一の代理人であると言い張るインチキ宗教である。 ◇自分だけではなく、他人も欺くことができる。 さらに、うまくゆけば、ボロい商売にさえなりうる(笑い)。 ☆10. いや 神は未知だ だからひとはつねに真理の探究をおこない続けるのだと説くシュウキョウがある。これは 悪しき無限に落ち入る。落ち入っても その宙ぶらりんが あたかも信仰の状態であると丸め込むことが出来るとすら思っている場合がある。これも 補助線を神そのものと見なしているからには アホンダラ教である。 ◇《バカの飲み薬》ですから。 そして、 ブラゲロも、ネムネコも、新たな《バカの飲み薬》を密造し、これを飲み《バカ》と化す(ニコニコ)。 宗教という《バカの飲み薬》を飲みつづけている人と、どちらがより酔っ払っているのか、分かったものじゃない(笑い)。 これだけで人を殺すことができるのですから、 言葉や概念というものは、恐ろしいですな~♪ 常に、 「(オレも他人も)もっともらしい事を言っているが、どうだか怪しいもんだ」と、 一歩下がって、引いたところから、反省的に顧みることが大切なんじゃないですかね。 では。では。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 分からないままだと、ひとは、怖くて不安になるのではないか。 この不安な状態を解消するために、人は、何でもいいから理由付けやコジツケをして、今の状況などを納得しなければならないのであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 意外とマイナス志向のようでもあるのですね。あるのですか? つまり 昔から――プラス志向において―― われらが人間さまの夢は 不老不死だと相場が決まっています。もう少し現実的に言えば お前百までわしゃ九十九までといった願いです。 ☆☆ それは 《非知》へのあこがれのもとにある。と言っていいのではないか。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ また、生死に直接関係するような極限状況では、 人は自分以外の他者の存在、たとえば、天使や神さまといった《怪(あや)し》の存在を感じたり、感じやすくなったりする。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ううーん。そうですね。わたしは NHKで新日本風土記という番組を見ているのですが 山里に暮らす人びとは無論のこと それらの人びとに限らず 町や村で年に一度の祭りを祝うときなどに特に現われるようですが やはり・ともかく・単純に・理屈抜きで日本人は神社なら神社で手を合わせて首を垂れる。ようです。 つまり言いたいことは 常日頃からだと こういう絵を見続けていると 思わざるを得ないのです。日から日への生活において すでに体に染みわたっているように思えます。決して極限情況だけの問題ではないと思われるのですが どうですかねぇ。 そういう――日常性とその継続という――意味でも プラス志向が定着している。のではないか。 マイナス志向は ブディズムの暗い暗い・もひとつおまけに暗あ~い雰囲気の影響だと見られます。楽しい顔をしたら いけないし 叱られるといったような。これも アホンダラ教の特徴ではないか。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 絶体絶命の状況を見事切り抜け、助かった人は 「神の導きがあった、天使の声がしてそれに導かれ、九死に一生を得た」 なんて言ったりする。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 宇宙飛行士の体験報告みたいですね。 山奥に暮らす日本人たちは 《神の導き》だとか《神の功徳 いや違った 何て言いますか めぐみですか》だとかは 考えていません。ただ体が動いて生活をいとなめて行けるなら 万々歳なんです。 そういう生活の神なんです。それが 非知だと思います。(親鸞のアミターバ・ブッダも 名は違っても 同じです。自然法爾です)。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 脳科学の研究者の中には、 「右脳がそのようなビジョンを作り、論理などを司る左脳に語りかけているんだ」 と主張する人もいます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ねこさん 眠っていないぢゃないですか。こういうのは 小賢しいとか言うんぢゃなかったですか? いかにも理屈理屈しています。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さらに、童謡や童歌(わらべうた)のように、怖い物や薄気味悪い物を 「でんでん虫、むし、かたつむり♪」 などと囃したり、冷やかし、バカにすることによって、怖くなくなったりする。 言霊の力は絶大なんです。 ・・・ 本当に 「心をもなぐさむる」 ものなんです。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このあたりのことは 同意します。そういうことなのでしょう。 ◇ 補助線なんて高等な言葉を使うのは、頭のいい(?)人の言うことです。 / 宗教という《バカの飲み薬》を飲むことで安心できる人は、そういう難しいことを言わない(ポリポリ)。 ☆ ありゃあ。あちゃちゃあ。 いや ちょっと待った。認識してそのモノゴトに名前をつけること――あるいは ウタにして自己表現すること――と 《シュウキョウ》とは別ですよ!!!! まぁ それでもシュウキョウを出すというときには それは オシエを文学・思想の作品として読むときです。シュウキョウから切り離して扱うときです。けれども シュウキョウはこのオシエを信じなさい――無条件に受け容れなさい――と言います。オシエとあやまった信仰とは ひとつにつなげられています。 よほどオシエから切り離して読んだりするのでないと ほんとうの《バカの飲み薬》になってしまいます。 ◇ 自分だけではなく、他人も欺くことができる。 / さらに、うまくゆけば、ボロい商売にさえなりうる(笑い)。 ◇ 宗教という《バカの飲み薬》を飲みつづけている人と、どちらがより酔っ払っているのか、分かったものじゃない(笑い)。 ☆ これも 区別して欲しいなぁ。 神をめぐる物語としての純然たる芸術作品があって これを酔狂にも信じるべきオシエとして組織をつくり聖なる秩序階層を築きおれたちの言うように信じよというシュウキョウが あくまで文学作品とは別にある。 そうして 世界中の思想を点検してより良い思想として生きる方針とするわれわれのイトナミがまたある。 区別して欲しいなぁ。真ん中の行き方だけですよ バカの飲み薬は。 ◇ これだけで人を殺すことができるのですから、 / 言葉や概念というものは、恐ろしいですな~♪ ☆ だから 言わんこっちゃないぢゃないですか。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 常に、 「(オレも他人も)もっともらしい事を言っているが、どうだか怪しいもんだ」と、 一歩下がって、引いたところから、反省的に顧みることが大切なんじゃないですかね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それはそうですが もっと楽な方法があります。 互いに自由に――自由にです――絶えず批判し合ってすすむこと これです。 おのれの反省で見直すことが出来ると思うのは まだ一歩下がっていません。 批判しあおうという精神こそが へりくだりです。とうとい。 つづいても回答をもらっています。
お礼
つづいてのご回答をありがとうございます。 ◇ 神さまを見せたり、神さまの声を聞かせたり、怪しの現象すら引き起こす!! / 一心不乱に強く願うものを見せたりもする!! ☆ これは 常民と言いますか――この言葉を用いたのは 誰でしたっけ(たしか 宮本常吉だかの後援者?)――にとっての神と信仰にかんしては そういった特殊な情況や非常事態の問題を持ち出しても あまり効きません。 なにしろ日から日への生活 これがきわめて強い基盤となっています。 あるいはもっと話を広げると 縄文時代は 一万年つづいたのですよ。 この歴史の重みは 大きいはずです。だから アニミズムが大きく残っているという側面もありますが それとは違って 人間の暮らしというものが あたかも土地に根を張ったかのごとく しっかりと安定したものとなっている。はずなのです。その中に 神も息づいています。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・記憶の捏造すら行ないます。 ───デジャブ体験の正体は、これ、らしい─── 自分をダマシ、納得させるためなら、何でもやるものらしい(笑い)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 少々言葉はわるいですが こういうヨーロッパ系のアマテラス科学語のお話を聞くと どうも小手先の能書きであるように思えてしまうんですよねぇ。 縄文土器の生活が 一万年つづきました。この地層は おろそかに出来ません。