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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「神とは、定義できないものである」と定義する。)

神の定義についての問い

このQ&Aのポイント
  • 神の定義とは何かという問いについて考えています。神は定義できないものであるとする立場がありますが、それはどのような意味を持つのでしょうか。
  • Gとは何かという問いについて考えています。Gは定義できないものであるとする立場がありますが、それはどのような意味を持つのでしょうか。
  • 神やGといったものの定義について考えています。それらは定義できないものであるとする立場がありますが、それはどのような意味を持つのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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  • a_hona
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回答No.12

それを定義できないものと定義したならば、それ以上のことは言えない。 定義できないものの名称であるGやAに、創造主や、絶対者という属性を付与することはできない。 しかし、GをAと言い換えることが出来るのなら、そこから何らかの、定義できないものたちの共通項を導き出すことは可能性としては残ると思う。つまり、定義できないものの特性、というものが導き出せる可能性はあるということ。 具体的には、たとえば、全く知らない、見たことも聴いたこともないものについては、定義ができない。 それについて、すべての人の意見がバラバラであったり、嘘で固められていて共通項が見いだせない、あるいは信じられる要素がないものについては定義ができない。 言語の法則性が崩壊しているものについては定義ができない。 など。 定義できるかできないかが分からない、というものは、定義できる可能性を示唆しているが、それ以上ではない。その場合、かもしれないという表現に値すると思う。それは、Gを絶対者と定義できるかもしれない。それは、Aを創造主と定義できるかもしれない。など。 確証はなく、希望によって色付けられるものなのではないだろうか。

atomonados
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >具体的には、たとえば、全く知らない、見たことも聴いたこともないものについては、定義ができない。 正しい使い方である。Gを定義できないものと定義したら、それを使って、「全く知らない、見たことも聞いたこともないものはGである」などとするのが正しい使い方である。 >それについて、すべての人の意見がバラバラであったり、嘘で固められていて共通項が見いだせない、あるいは信じられる要素がないものについては定義ができない。 正しい使い方である。 >言語の法則性が崩壊しているものについては定義ができない。 同上。 >定義できるかできないかが分からない、というものは、定義できる可能性を示唆しているが、それ以上ではない。 「というもの」が「定義できるかできないかが分からない」を指すのではなく、「ある対象」が定義できるかできないかが分からないとき、その対象という意義で同意する。 Gによる判断は成立しないが、判断の選択にGは現実に利用されている。 >その場合、かもしれないという表現に値すると思う。 そういう場合もあります。 >それは、Gを絶対者と定義できるかもしれない。 ? 前に戻ります。 >しかし、GをAと言い換えることが出来るのなら、そこから何らかの、定義できないものたちの共通項を導き出すことは可能性としては残ると思う。 Aは対象概念で、Gを言い換えたのではない。Gに合ってるかどうかを確かめる対象ということです。舌足らずでしたが。 >つまり、定義できないものの特性、というものが導き出せる可能性はあるということ。 同意する。「定義できないもの」の要素群から内包が形成される可能性はある。たとえば「限定されぬもの」という内包かもしれない。 再び >それは、Gを絶対者と定義できるかもしれない。 なるほど。絶対者という内包をみたわけですね。やり方は正しい。しかし「すべての人の意見がバラバラであったり、嘘で固められていて共通項が見いだせない、あるいは信じられる要素がないものについては定義ができない。」との整合性に難ががあるようだ。 >それは、Aを創造主と定義できるかもしれない。など。 同上です。めんどくさくなって飛躍したんでしょう。 >確証はなく、希望によって色付けられるものなのではないだろうか。 めんどくさがりはそうやっちゃいますね。 質問の趣旨にかなった考察をしていただきました。質問を書いた時点では、大きかった定義から「Gは絶対者である」などへ溝が、少し埋められたようです。感謝致します。

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その他の回答 (13)

  • a_hona
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回答No.14

なんかわかりにくくなってしまってすみません。 前述に、定義できないものとしてGやAを用いたのに、後述の定義できるかできないかがわからないものについてもGやAを用いたのは誤りでした。 後述の場合、Sは絶対者であるかもしれない、とか、Vは創造主であるかもしれない、と、表現した方が分かり易かったでしょう。 定義できないものとしてのGやAを、そのまま定義できるかできないかがわからないものに対する名称として、同じタームで用いたのはこちらのミスでした。 すみません。 だだし、質問者様が考察されたように、定義できないものの群から、共通項を見出した結果、何かの特性が現れることはあり得ると思います。

atomonados
質問者

お礼

ありがとうございます。 分かり易くするところまでに進めるのは大変なことですね、

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  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.13

すみません、定義できるかできないかがわからないものに、Gを用いたのは誤りです。お手数かけます。 そうですね、ここではSぐらいにしておきたいと思います。

atomonados
質問者

お礼

ありがとうございます。 了解しました。

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回答No.11

存在、には 物理的存在、化学的存在、精神的存在、と在るかと思います。 それぞれに定義、が与えられる様に思います。 また、定義できないものにはどんな事柄が有るのでしょう。 私の頭では思い付きません。

atomonados
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 純粋な定義を考えます。 「純粋定義とは、定義項(純粋な意義)に被定義項(純粋な名前)を関係付けること」 純粋定義による概念からなる概念は、定義しなくても曖昧なく用いられるでしょう。 それに対して、「一般的な定義とは、被定義項(既成概念)の曖昧さを省くために、定義項(既成概念からなる概念)で意義を限定すること」です。(この意義に限って用いるということ) 自然科学的な概念はおおむね曖昧さが省かれています。精神科学は曖昧な概念が多いです。定義がしっかりできていません。一般的な定義の方法では、誤解をうみ、だから「心とは?」「精神とは?」と問いが繰り返されるのでしょう。結局これらは形式的に定義できたといっても実質的には定義できていないのです。 これらは、本来、定義できるものなのかという疑念が湧きます。そこで仮にそういう対象を定義できないものと判断し、純粋定義で説明していくことでその姿を明らかにしていけばよいのではないかという考えをもちました。すなわち主題となる概念は定義しないものだから、定義できないのです。 「何が主題か?」→「心が主題だ」→「説明に用いる語の定義」→「主題の説明」という流れです。 すでにこの方法は自然科学ではとられていて、あたりまえのことを言っているにすぎないのかもしれません。

atomonados
質問者

補足

わかりやすく説明し直します。 ・「分かっている事柄」に名前を付けること(定義) ・定義された名で「分からない事柄」を表すこと(曖昧さのない説明) で、定義できないものは「分からない事柄」

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回答No.10

 果たしてここ、哲学カテで学ぶ人たちに、定義できないもの、なんて、有るんだろうか。  これを発見しなければ、答は出せないのではないでしょうか。  “G”は存在しないと思います。  

atomonados
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 存在を定義しようとして悩み、神を定義しようとして悩む。これは定義能力がないためなのか。 定義できるものは定義できるもの、定義できないものは定義できないもの。 (このパターンよくつかうけど、意味がわかりやすいでしょ。心の基準はこの構造なんだよ、きっと)

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  • hiak123
  • ベストアンサー率16% (14/87)
回答No.9

どちらからAが出てきたのですか。その必然性の理由は?ないでしょう。 どうして本旨がGなのにAはGなのですか。おつむがかっこよいことを望んでいるからです。 空っぽのおつむ。 定義できないものであるものはある種の部類はいまだ未達であるとして分からないとはしないものです。 あなたはものほんで馬鹿です。でも、ハッピー。自己補完で賢いと感じることができるから。

atomonados
質問者

お礼

ご指摘感謝致します。 >どちらからAが出てきたのですか。その必然性の理由は?ないでしょう。 やっしゃるようにAの導入は唐突ですね。 >定義できないものであるものはある種の部類はいまだ未達であるとして分からないとはしないものです。 意味が汲み取れません。 >自己補完で賢いと感じる とはどういうことでしょうか? その他の意義は理解しましたが、ぼくには意味をなしません。

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回答No.8

 こんにちは。お邪魔にならなければと思いますが。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  聖アンセルムスは主著「プロスロギオン」の第2章で以下のように言っています。  (あ) 「神はそれより大なるものが考えられないあるものである。  (い) それより大なるものが考えられない何ものかは、少なくとも理解のうちには存在する。  (う) そして理解のうちに存在するものは理解の外にも存在する。  (え) もし、理解のうちに存在するものしか理解できず、理解の外に存在するものを理解できないとしたら、それは神のそれよりも大なるものが存在しないという定義に反する。  (お) よって、神は理解の外にも存在し、実在する」  (か) 「神は全知全能で完全無欠の存在者である。  (き) もし、その神が存在しないとしたら、神の全知全能、完全無欠の存在者という定義に反する。  (く) よって、神は実在する」  近世のデカルトの神の存在証明は以下のものです。  (け) 「この世界に存在するすべての存在者は偶然の存在者である。  (こ) 偶然があれば必然もなければならない。  (さ) しかるに、神は必然的存在者である。  (し) よって、神は存在する」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (う)がマチガイである。  ◆ (う) そして理解のうちに存在するものは理解の外にも存在する。  ☆ おそらく《理解のうちに存在するもの》《よりも大なるもの》だから その神は《理解の外にも存在する》というみちびき方だと考えられる。  けれども それはすでに人間としてはその持てる能力によって推量しているに過ぎない。  言いかえると (あ)の命題を前提として推理したに過ぎません。    ◆ (あ) 「神はそれより大なるものが考えられないあるものである。  ☆ 証明すべき命題の中の要素をすでに 推理のために用いている。これは マチガイである。  次の論理もまったく同じマチガイを侵しています。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (か) 「神は全知全能で完全無欠の存在者である。  (き) もし、その神が存在しないとしたら、神の全知全能、完全無欠の存在者という定義に反する。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 《全知全能・完全無欠》という概念が 概念としてはありうると証明したことになるのみである。  だったら神は そういう観念であると成ります。   つまり《全知全能》のチカラを持ちそのハタラキを及ぼすといった実際とは無関係の観念でしありません。  デカルトのは そもそも成っていません。  人間だって 必然の存在です。なら 人間は 神か?  というより《偶然・必然》とは何であるかを明らかにしなければ話は始まらない。    

atomonados
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 間違いがあるにせよ、神という概念で思考できるということですね。ぼくとしては、そういう間違いをおかすのはなぜだろうというところに関心があります。それを知れば自分の論理思考の間違いもいくらかは防げるでしょうから。それとそういう間違いであれ、反面教師として提示してくれた先哲には頭が下がる思いです。見下すような表現はあまり好みません。

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回答No.7

あなたはすでに「神とは定義できないものである」と定義している。 この神をGと言い換えても同じで、「Gとは定義できないもの」と定義している。 Gが定義できないとしたら、「Gはもともと意義を持たない、単なるラベル」ということも言えないはず。 それをあえて言えば、言うとおり、属性概念という名称を付与することになり、定義することになるから意義が発生する。 もし、それを避けようとしたら、新たにAを持ち出して、Gは「定義できないもの」という属性だということになり、AはGでない、「属性を持たないもの」「定義できないもの」と定義せざるを得ない。 だけど、そのAもふたたび「定義できない」という定義を有する以上、新たにBを持ち出すしかない。 かくしてGをAに、AをBに言い換えても、どこまでも無限遡行に陥るだけで、「定義できない」というものにたどり着くことは出来ない。 そして無限遡行を停止したかったら、あなたが言うように「定義以外のGはBという形式の概念思考は出来ない」と言って、ストップをかけるしかない。 ストップを掛ければ、「Gの定義から、この定義以外の属性を分析判断することができない」から。 まあ、当然ですね。 ストップを掛けなければ無限遡行に陥るだけですから。 「Gは創造者である」とか「Gは絶対者である」とか、そういうことはキリスト教ではいくらでも言います。 聖アンセルムスは主著「プロスロギオン」の第2章で以下のように言っています。 「神はそれより大なるものが考えられないあるものである。それより大なるものが考えられない何ものかは、少なくとも理解のうちには存在する。そして理解のうちに存在するものは理解の外にも存在する。もし、理解のうちに存在するものしか理解できず、理解の外に存在するものを理解できないとしたら、それは神のそれよりも大なるものが存在しないという定義に反する。よって、神は理解の外にも存在し、実在する」 「神は全知全能で完全無欠の存在者である。もし、その神が存在しないとしたら、神の全知全能、完全無欠の存在者という定義に反する。よって、神は実在する」 近世のデカルトの神の存在証明は以下のものです。 「この世界に存在するすべての存在者は偶然の存在者である。偶然があれば必然もなければならない。しかるに、神は必然的存在者である。よって、神は存在する」 どうですか? アンセルムスといいデカルトといい、神の属性とか性質から、その神の存在を証明しています。 「神は定義できないものである」という定義をすれば、無限遡行に陥らざるをえず、無限遡行に陥るのを避けようとしたら、神の属性とか性質から神を定義するしかないのです。 そしてアンセルムスやデカルトの神の存在証明に対して、カントが批判したように、神がいかに定義できるからと言って、定義から神の存在を証明することは出来ません。

atomonados
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 他の回答のなかで読書の方法は全集を数年かけて読むのだと述べておられましたね。その姿勢には感服しております。ですのでご回答の後半部分の内容は信頼できるものと思っています。神を定義して論じるものは、だれがどう言ったかは覚えていませんが、西洋哲学史に書いてあったように思います。 この質問は最近B氏とのやり取りの中で生まれてきた問いなのですが、B氏は、つまるところ神を定義できないものとして定義しているのです。そしてそこから一歩も論理は進まず、非論理的に跳躍して、想定の領域にいってしまわれる。この理解しがたいところを理解する方向でたずねてきましたが、もう限界を感じてきました。 結局、神が何であるか、定義するにしても、想定するにしても、真理には到達しないようですね。 さて、ご回答の前半部分についてですが、 >あなたはすでに「神とは定義できないものである」と定義している。 たしかにそうです。 >この神をGと言い換えても同じで、「Gとは定義できないもの」と定義している。 ここが、意見が分かれるところだと思います。というのは、ぼくは定義の言い換えではなく、しなおしたのです。神という既成概念、既成観念にがんじがらめの名前から、純粋な名Gに定義しなおすということには大きな意味があります。 一言で言えば、定義のコペルニクス的転回です。定義し難い既成概念の名を、ある種の属性に関連させるという捉え方ではなく、純粋な属性概念を限定して、それに純粋な名をつけるという捉え方をしています。 以下、譲歩して下さり、その方向で考察していただいていますが、ぼくの常識に反した定義観と、urigadai2013さんの常識的な定義観の違いからか、論議がぼくにとっては無意味に思えています。せっかく時間をさいていただいたというのに申し訳ありません。 と、このような事情ですので、ぼくにとっては神の議論は不要であって、その考え方として、最近の思いつきを検証していただきたかったというのが本音のところです。 いまいちど、ご説明させていただきますと、たとえば、「有とは、無とは?」という議論がありますが、それについては、「ある」という純粋な属性概念を、Eという純粋な名をつけ、何かの対象、例えば宇宙について「宇宙はEである」と判断する。Eはいわば、宇宙を測る概念のものさしなんです。 「ある」は純粋で、「ある」として常にあり続け、他の概念を図る基準としては好都合なのです。 「ある」は「存在する」とも言い換えられる属性概念ですが、属性概念の最上位のクラス、属性概念範疇です。こういう属性概念は概念思考の対象ではなく、概念思考の道具なのです。

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回答No.6

 No.1です。   《定義する》ということは その定義の内容によって規定することになります。  G なら G について α として定義したら 非 α が排除されます。そういう派生的な規定を必然的に受けます。  ところが 神は 《定義できない》のではなく 《定義できるか定義できないかが 人間には分からない》のです。そして そういう想定に成るものだと考えます。(想定というのは 《人間には分からない》という表現ではまだあいまいであって 《分かるか分からないかが分からない》と言わねばならないものと思います)。  そういう出発点については どうでしょうか? 最初にかけるボタンの問題だと思います。 

atomonados
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >G なら G について α として定義したら 非 α が排除されます。そういう派生的な規定を必然的に受けます。 α、並びに 非 α という属性概念を、人はまずもっていて、そのαに名前Gを与えることが定義になります。そして別の対象であるXの判断に、性質の名前Gを使い、性質aのあるなしをいうのです。ここに最初にかけるボタンの問題があります。 想定とおっしゃってますが、それはGの定義からは推論できないことを前提とした物語の設定というものです。物語るのは自由です。《分かるか分からないかが分からない》というのは、Gからの推論ができないということが分かっているということです。そして物語の設定が真実かどうか(分かるか分からないか)が分からないということが分かっているということです。これは表現は違いますが、ぶらじゅろんぬさんの言ってることと実質は同じことです。この点で最初にかけるボタンの食い違いは認められません。

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回答No.5

>「Gとは、定義できないものである」と定義する。 「Gとは定義できるものの補集合と言える。」という命題が可能ですが、その場合、「Gは空集合になる」と考えるのが常識的ですね。

atomonados
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 集合はその要素から見れば、内包、つまり属性概念に対応しますね。属性概念を集合とみなして定義して、矛盾する属性概念は補集合に対応するということですよね。 Gが空集合になるという常識的な考えは、すなわち属性概念は定義可能であるということ。強く言ってしまえば、それ(属性概念(集合))成立している限りは、そこに命名するだけのことが定義となるのだから、定義できない属性概念(集合)ってのはないでしょ。ということですよね。

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  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1165/9209)
回答No.4

これは理解力の問題ではなく、誰にもわからない問題ではないでしょうか。案外ビッグバンの前はどうなっていたのか誰にもわからないというのと同じことなのかもしれないと思います。

atomonados
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ビッグバンですか。もしそれがあると判断されるのなら、Gを属性概念「ある」で定義して、すると、「ビッグバンはG」となります。 また、Fを属性概念「誰にもわからない」で定義して、「ビッグバンの前はF」となります。

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