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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:恣意的な定義によって命題の結論は変化するのか?)

恣意的な定義によって命題の結論は変化するのか?

このQ&Aのポイント
  • 恣意的な定義によって命題の結論は変化するのか?「○○界」における事柄は「イ属」「ロ属」という性質に基づいて分類される。
  • 論者が「X類」という概念を恣意的に定義した場合、その論者の主張は「A、B、C、Dなどの事柄はイ属である」という命題を真とする。
  • しかし、「X類」とは異なる概念である「Y類」という恣意的な定義を持つ別の論者も存在し、その主張では「A、B、C、Dなどの事柄はロ属である」という命題が真となる可能性もある。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

分類するには、そうするに値する特性があるはずです。 イ属に属していたものがX類に属していた(イ特性と X特性を具有する要素がある)としても、それぞれの 特性が同じという意味ではないので、X類に即している もの全てがイ属に属する(特性まで同じ)とするのは おかしい。

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂き有難う御座います。  私もそう思います。  「イ属」も「ロ属」も「分類を行うために設けられた概念」なのですから、その分類をする事を否定する事となる考えに「イ属」という概念を持ち出すのはおかしいと思います。  只、このサイトのこのカテゴリーには、イ属に属していたものがX類に属していた(イ特性とX特性を具有する要素がある)という事をもって、X類に属する全ての事柄の特性は同じであるという類の主張を繰り返している論者が時々現れてくるものですから、その主張が正しいのか否かという事に関して、他の方の御意見もお聞きしたかったのです。

その他の回答 (16)

回答No.17

 考えてみれば 回答No.15は しっかりとした内容で 基本を説明していると言えると考えます。  よって このやり取りは 行き着くところまでたどり着いた。こうも考えます。  それでは。

kagakusuki
質問者

お礼

>このやり取りは 行き着くところまでたどり着いた。こうも考えます。  そうです。  「超経験の場」などと呼んでいる間は、その事柄は未解明な事柄であるという事になりますから、「超経験の場」として定義している以上は、その事柄にまつわる議論を「正解であるとみなす」事は出来ないという事を意味しますので、「超経験の場」をもって一般的な分類の仕方を覆す事は出来ないという結論にたどり着いたという事です。  御回答頂き有難う御座いました。

回答No.16

 以前の議論にもどっちゃった。  いま少し時間が出来て書き込みをしています。  すぐ戻らねばなりません。  問題は 超経験の場は 《分からない・分かり得ない》というのではなく そうではなく 《分かるか分からないかが 分からないナゾ》だというところにあります。  或る主観にとっては――その主観の内部で―― おれはこの超経験の場が分かったぞとか おれは神を見たんだとか言う場合があるという意味です。  しかも それが ほかの人の主観においてもまったく同じ形と中身において共有されるということはありません。あり得ません。  あったら それは 経験合理性で認識し理解しうる何ものかであると成ります。つまり 超経験の場ではなくなります。  《答えは出ないナゾ》について それは何か? どういうふうに捉えればよいのか? これを問い求めます 哲学は。  夕方から夜にかけて またPCの前に坐ります。

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂いた事には感謝致します。  しかしながら、回答者様のお話には前提条件の間違いか論理の飛躍がある様に思われますので、同意は致しかねます。 >超経験の場は 《分からない・分かり得ない》というのではなく そうではなく 《分かるか分からないかが 分からないナゾ》だというところにあります。  何ですかそりゃ?・・・  《分かるか分からないかが 分からないナゾ》というのであれば、「次の大地震は何日後に起きるのか?」とか「シュレーディンガーの猫は生きているのか死んでいるのか」といった類の話でも同じ事です。  「やってみなけりゃ出来るかどうか判らない」というのであれば、パチンコや競馬で儲ける事が出来るかどうかといった話と同じ事です。  その様なものは言うなれば「未経験の場」とでも呼ぶのが相応しい事柄に過ぎず、実際に地震が起きたり、猫を閉じ込めた箱の蓋を開けたり、実際にギャンブルに金をかけたりすれば判る事に過ぎませんから、回答者様が仰る経験事象と同列に扱うべき事柄に過ぎず、「超経験の場」などと呼んで特別扱いする様な事ではありません。    単に経験していないが故に《分かるか分からないかが 分からないナゾ》だとされているだけであって、もし《分かる》のであればそれは経験する事が出来たという事を意味し、経験する事が出来るという事であれば、それは回答者様が仰る経験事象になるのですから、論理的な必然によって決まった事である >AとBはイ属に属する >CとDはロ属に属する という分類を覆す事は出来ないという事になりますので、 >「『A、B、C、Dなどといった○○界に属する全ての事柄はイ属である』という命題の答えは真である」 という主張は誤りという事になりますし、逆にもし《分からない》、即ち経験出来なければ、それは未経験であるが故に正しい答えを得る事が出来ないという事になりますから、 >「『A、B、C、Dなどといった○○界に属する全ての事柄はイ属である』という命題の答えは真である」 と断定している主張は正しいものとは言えないという事になります。  従って、「超経験の場」としている限りは、いずれの場合であっても >「『A、B、C、Dなどといった○○界に属する全ての事柄はイ属である』という命題の答えは真である」 という主張を正しいものと見なすのは間違いであるという事になります。

回答No.15

 ★(No.14お礼欄) ~~~~~~~~~~~    >《特殊な議論》になる場合というのは 早い話が 《超経験》の場合であって 要するに《神》の議論のことです。  これは明確に限定している言い方になります。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この認識内容に間違いはありません。定義をめぐる《特殊な議論》は これ以外にありません。なぜなら 定義すべき対象を〔わたしは〕 《経験事象 と 超経験の場(チカラ)》とのふたつに分けているのですから。  ★ 「一神論」は「論」であり、《個々の神の名前》そのものではありませんから、その様な考えは成り立ちません。  ☆ 《論》の中身は 定義すべき(実際には 信じるべき)対象として 神の名です。たとえば ブラフマンという名の神を信じる一神論です。  たしかに 《信じている人本人》にとっては 《論》じているわけではありません。けれども ほかの人から見た視点を交えれば 一神論となるわけです。  精確に言えば 《一神信仰》でしょうが こういう規定もその仕方において その本人以外の主観を交えているかぎり 《論・説》になります。  ★  この場合の「認識や判断を為すその対象」とは神そのものではなく、人間が考えている「分類方法」なのですから、人間の経験を超える事柄が発生する余地はなく、明らかに回答者様が仰る経験事象に属する事柄です。  ☆ 《分類方法》の問題において 分類するために個々の対象を定義するという際に もしそれが経験事象ではなく 超経験の場であるばあいには ふつう一般の経験事象を定義するのと同じ方法では立ち行かないという見解を述べています。  わたしの示す仮説法以外に定義し得る手立てがあるなら おしえて欲しい。  そのとき 《定義し分類しそれらを認識する》のは むろん人間のおこなう意志行為として経験事象に属します。  ただし その《定義し分類し――あたかも経験事象と同じように・しかし その超経験の場というナゾを経験事象としての人間の言葉で仮りに指し示すかたちをとおして――認識する》対象は もちろん超経験の場です。  《神やブラフマンや あるいは 超経験ないし絶対や無限》は それらの概念≒言葉がどれも その超経験の場の仮りのシルシです。このシルシで 仮りに説明するかたちを採り定義をもおこないます。  ★ 人間の経験を超える事柄が発生する余地はなく  ☆ 余地があるか無いかについては 一たん不問に付して 最初から《仮説》として(あるいは《想定》として)哲学としての特殊な問い求めをおこなうのです。  その議論は 初めからすべてが仮りの設定によるものであるかぎり いくら議論し探究しても《人間の経験を超える事柄》が 実際にそのように発生しているのかどうかについて まったく人間には分かりません。  《超経験の場ないしチカラ》がもし仮りにあるとするなら それは これこれこのように――想定として――定義することができるのではないか? というたぐいの問い求めです。  なぜそんな雲をつかむようなことがゆるされるのか?  《人間の経験を超える事柄が 実際にそのように発生しているのかどうか それは人間にまったく分からない》のですが しかも同時に《発生していない》という証明は出来ない。という事情にあるからです。  むろん 《発生している》という証明も できません。  それでも じんるいは 《絶対や無限あるいは永遠。さらには 絶対なる真理または愛》といった――仮想の――概念を持つに到っています。  つまり 単純には なぜ《かみ》という言葉を持ったのか? という問いに代えることもできます。  哲学は これにこたえる義務を持ちます。みづからが持ちますと言って 問い求めをおこなおうと言うつとめです。  さもないのならば 《かみ》という言葉は 死語であると言って その証明ないし説明をおこなうことになります。  ★ 恣意的な定義  ☆ というときの《恣意性》というのは いま述べたような《特殊なナゾを扱う場合》にともなわれる《想定性あるいは 初めから終わりまで仮説で説明しつづけるかたちの議論であること》から来る性質の一端です。  終始 仮説でしかない議論が どうして哲学であり得るか?  《かみ》という言葉を どの民族≒言語にあっても 持っているからです。  《超経験の場 と 人間たるわれ との――むろん主観内における――関係》 このことが・つまり信仰が 経験事象としても・仮説としてでも前提することが出来ると思われるからです。  《永遠》という言葉は よく人びとの経験思想の中に――あたかも――入って行っています。入り得ないのですが 《無限 と 有限 (あるいは 絶対 と 相対)との関係具合い》とでもいうような捉え方において 経験的に持たれており そのことは いまの仮説の有効性を望み見させてくれるかに思われます。  《超経験の場 を定義しようという特殊な哲学の理論》 この問い求めの試みも あたまから否定することは 出来ないでしょうと言っています。  このように長々と述べたのは:  ★  しかしながら、回答者様のお話には前提条件の間違いや論理の飛躍がある様に思われますので、同意は致しかねます。  ☆ というときの《前提条件》の問題にも 触れようと思ったからです。  《定義における恣意性 あるいは 前提条件の間違いや論理の飛躍》というのは いま上に述べた事情のもとにあります。

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂いた事には感謝致します。  しかしながら、回答者様のお話には前提条件の間違いや論理の飛躍がある様に思われますので、同意は致しかねます。 >>《特殊な議論》になる場合というのは 早い話が 《超経験》の場合であって 要するに《神》の議論のことです。 >これは明確に限定している言い方になります。 >☆ この認識内容に間違いはありません。定義をめぐる《特殊な議論》は これ以外にありません。なぜなら 定義すべき対象を〔わたしは〕 《経験事象 と 超経験の場(チカラ)》とのふたつに分けているのですから。  それならば、X類が有神論ではない場合には、 >『A、B、C、Dなどといった○○界に属する全ての事柄はイ属である』という命題の答えは >《真ではない》というひとつの解に決まっています。 という事で間違いはない訳ですね? >精確に言えば 《一神信仰》でしょうが こういう規定もその仕方において その本人以外の主観を交えているかぎり 《論・説》になります。 >☆ 《分類方法》の問題において 分類するために個々の対象を定義するという際に もしそれが経験事象ではなく 超経験の場であるばあいには ふつう一般の経験事象を定義するのと同じ方法では立ち行かないという見解を述べています。  この場合の「個々の対象」とは、神ではなく人間が唱えた《論・説》なのですから、明らかに回答者様が仰る経験事象であり、超経験の場などではないのですから、ふつう一般の経験事象を定義するのと同じ方法で十分事足ります。 >☆ 余地があるか無いかについては 一たん不問に付して 最初から《仮説》として(あるいは《想定》として)哲学としての特殊な問い求めをおこなうのです。  その場合、論理的な必然によって求められた。 >CとDはロ属に属する という結論はどうなるのですか?  論理的には、 >CとDはロ属に属する である事は間違いのない事であるのにもかかわらず、 >「『A、B、C、Dなどといった○○界に属する全ての事柄はイ属である』という命題の答えは真である」 とする事を正しいと見なすのは矛盾しているではありませんか。 >その議論は 初めからすべてが仮りの設定によるものであるかぎり いくら議論し探究しても《人間の経験を超える事柄》が 実際にそのように発生しているのかどうかについて まったく人間には分かりません。  いくら議論し探究しても人間には分からないという事であれば、それはつまり、「正しいかどうかという事も判らない」、「正解というものが存在しない」、「答えが出ない」という事を意味します。  従って、 >『A、B、C、Dなどといった○○界に属する全ての事柄はイ属である』 という主張が正しいと言う事は出来ないという結論になります。  それどころか「答えが出ない」事が明らかなのですから、その様な主張は命題ですらないという事になります。 >哲学は これにこたえる義務を持ちます。みづからが持ちますと言って 問い求めをおこなおうと言うつとめです。  回答者様の仰る事は矛盾しています。  最初から「分からないもの」として定義しているのですから、それに答えが存在していないという結論が最初から出されている訳で、それは即ち、答える事を拒否しているという事を意味しているのにもかかわらず、「こたえる義務を持ちます」などと言っているのですから、矛盾以外の何物でも御座いません。 >《超経験の場 と 人間たるわれ との――むろん主観内における――関係》  主観内における関係という事は、それはあくまで人間が経験した事柄、人間が持っている範囲内の事柄という事になりますから、それは回答者様が仰る経験事象であり、超経験の場などではないのですから、ふつう一般の経験事象を定義するのと同じ方法で十分事足り、その「ふつう一般の経験事象を定義するのと同じ方法」とは、 >一般的にはAとBはイ属に属するとされているのに対し、CとDはロ属に属するとされている というものなのですから、 >「『A、B、C、Dなどといった○○界に属する全ての事柄はイ属である』という命題 の答えは明確に「偽」(誤り)という事になります。  そこへ「X類とは○○界に属する全ての事柄の総称である」という考えを持ち込む事は、「主観内における――関係」によって得られた「主観」が間違いであるという前提を立てる行為であり、つまり信仰の話ではないという事になります。  信仰の話ではないのにもかかわらず、 >つまり信仰が 経験事象としても・仮説としてでも前提することが出来ると思われるからです。 としているのは矛盾というより他にありません。 >《超経験の場 を定義しようという特殊な哲学の理論》 この問い求めの試みも あたまから否定することは 出来ないでしょうと言っています。  何故出来ないと仰っておられるのか理解出来ません。  その様な試みは簡単に否定する事が出来ます。というより否定する以外の選択肢が存在しません。  何故なら、その「超経験の場」とやらは人間が知りえない事柄であると定義されている、即ち「答えが存在しないもの」として定義されいるのである以上、最初から「答えが存在しないもの」という権論が出ているのであり、その答えを求めようと試みる事自体が矛盾した行為であり、無意味な試みであるという結論を出す以外の選択肢は最初から存在しません。

回答No.14

 ★(No.13お礼欄) 「特殊な議論」とは「有神論に関する事に限定した議論」という事でしたら  ☆ 限定してはいません。次のように言っています。  ☆☆(回答No.13) ~~~~~~~~~~  もし《 X 類》が 《有神論》という括り(概念)のことだとするなら   ・・・  つまり 超経験を扱う特殊な議論になる場合です。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《特殊な議論》とは 《超経験を扱う》場合です。  その場合に たとえば《 X 類》が 有神論という概念である事例を取り出すことが出来る。と言って その事例について・またその事例によって議論全体を 説明したものです。  ★  X類は「有神論」であるとは限りません。  ☆ もちろん そうですよ。  ★  それに、「有神論」とは「神は存在する」とする「論」の事であって、「神の種類」或は「神の分類方法」の事ではありませんから、「有神論」に属する事柄とは「汎神論」や「理神論」などといった「神は存在するとしている論」という事になりますので、どう考えても「有神論」に「神」や「神の名前」が属するという事にはなり様がありません。  ☆ 類と種と個との分類方法をまなんでください。  《 X 類》をもし《有神論》とした場合 A や B には おっしゃるように《汎神論》やあるいは《理神論》をその要素とする区分の仕方もあり得ます。  そして 言わば《一神論》もあり得ます。    このような事情については しかるべき議論がそのために必要ですが すでに《有神論》は おしなべて結局は《一神論》におさまるという見通しがあるという見方にすでに立って 《個別》の区分・すなわち《個々の神の名前》を A や B に当てはめるという行き方もが あり得ます。  そのように理解してみてください。  ★ 更に言えば、「論」とは人間が唱えたものなのですから、その"分類方法は"経験事象に属する事柄という事になります  ☆ もちろん そういう事情は 大前提において承知の上です。  つまり 経験事象に属するわれわれ人間が為すことがらはみな 当然のごとく 経験事象に属しています。  ただし そのとき 認識や判断を為すその対象が 経験事象であるか・それとも超経験の場であるか このふたつに分かれます。

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂いた事には感謝致します。  しかしながら、回答者様のお話には前提条件の間違いや論理の飛躍がある様に思われますので、同意は致しかねます。 >★(No.13お礼欄) 「特殊な議論」とは「有神論に関する事に限定した議論」という事でしたら >☆ 限定してはいません。 との事ですが、回答者様は次のように言っています。 >《特殊な議論》になる場合というのは 早い話が 《超経験》の場合であって 要するに《神》の議論のことです。  これは明確に限定している言い方になります。 >《 X 類》をもし《有神論》とした場合 A や B には おっしゃるように《汎神論》やあるいは《理神論》をその要素とする区分の仕方もあり得ます。 >そして 言わば《一神論》もあり得ます。 >このような事情については しかるべき議論がそのために必要ですが すでに《有神論》は おしなべて結局は《一神論》におさまるという見通しがあるという見方にすでに立って 《個別》の区分・すなわち《個々の神の名前》を A や B に当てはめるという行き方もが あり得ます。  「一神論」は「論」であり、《個々の神の名前》そのものではありませんから、その様な考えは成り立ちません。 >経験事象に属するわれわれ人間が為すことがらはみな 当然のごとく 経験事象に属しています。 >そのとき 認識や判断を為すその対象が 経験事象であるか・それとも超経験の場であるか このふたつに分かれます。  この場合の「認識や判断を為すその対象」とは神そのものではなく、人間が考えている「分類方法」なのですから、人間の経験を超える事柄が発生する余地はなく、明らかに回答者様が仰る経験事象に属する事柄です。

回答No.13

 ★(No.12補足欄) ~~~~~~~~~~~~  特殊な議論になるのはあくまでもX類やY類に関しての話です。    >AとBはイ属に属する    >CとDはロ属に属する  というのは、論理的な必然によって決まった事なのですから、  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。分かりました。ちょっと雑な議論をしていました。  つまり 《特殊な議論》になる場合というのは 早い話が 《超経験》の場合であって 要するに《神》の議論のことです。  ですから   ★ 特殊な議論になるのはあくまでもX類やY類に関しての話です。  ☆ というのは おっしゃるとおりです。  と同時に――と同時にです―― もし《 X 類》が 《有神論》という括り(概念)のことだとするなら じつは A も B も 神のことを言います。具体的な神の名前になります。  つまり この A、 B や イ属というのも 《神》の問題です。つまり 超経験を扱う特殊な議論になる場合です。  そういった込み入った事情にあると言わねばなりません。つまり 具体的なモノゴトの分類の話になるとです。  どうでしょうかねぇ。

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂いた事には感謝致します。  しかしながら、回答者様のお話には前提条件の間違いや論理の飛躍がある様に思われますので、同意は致しかねます。 >もし《 X 類》が 《有神論》という括り(概念)のことだとするなら じつは A も B も 神のことを言います。具体的な神の名前になります。  X類は「有神論」であるとは限りません。  もし回答様が仰る「特殊な議論」とは「有神論に関する事に限定した議論」という事でしたら、X類が有神論ではない場合には、 >『A、B、C、Dなどといった○○界に属する全ての事柄はイ属である』という命題の答えは >《真ではない》というひとつの解に決まっています。 という事で間違いはない訳ですね?  それに、「有神論」とは「神は存在する」とする「論」の事であって、「神の種類」或は「神の分類方法」の事ではありませんから、「有神論」に属する事柄とは「汎神論」や「理神論」などといった「神は存在するとしている論」という事になりますので、どう考えても「有神論」に「神」や「神の名前」が属するという事にはなり様がありません。  更に言えば、「論」とは人間が唱えたものなのですから、その"分類方法は"経験事象に属する事柄という事になりますので、 >《超経験》の場合であって 要するに《神》の議論のこと にはなりません。

回答No.12

 ★(No.11補足欄) ~~~~~~~~~   つまり、    >《真ではない》というひとつの解に決まっています。  という訳ではないというふうに お考えを変更されたのですね?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一般論と特殊論とがあります。  経験事象を扱うのが 一般論です。  定義すべき対象が そうではなく 超経験なる場ないし絶対あるいは無限である場合には 特殊な定義の仕方を用いての特殊な議論となります。  《〈真ではない〉というひとつの解に決まっています》というのは 経験事象についての定義を扱う一般論の場合を言っています。  特殊の議論については 《真か偽か》というよりも 仮説が――経験事象を超えたナゾを扱い定義するという特殊な議論としての仮説が―― 経験世界のものごとと照らし合わせ〔得る事例については照らし合わせ〕て いちおう妥当であるのかどうか。これを判定します。これで妥当性を判定します。  仮説法(アブダクション)によると言ってよいでしょう。  回答No.3は まだまだ簡略なものですが ひととおり全体像について説明しています。  つまり ここまで議論がすすんだならば あとは A B C D やイ属・ロ属といった扱うべき対象を 具体的に特定して 問い求めて行くことになりましょう。  おつかれさまでした。

kagakusuki
質問者

補足

 それはおかしな話だと思います。  特殊な議論になるのはあくまでもX類やY類に関しての話です。 >AとBはイ属に属する >CとDはロ属に属する というのは、論理的な必然によって決まった事なのですから、 >《論理的な必然による分類》というのは 経験事象ですよ。 >経験事象を扱うのが 一般論です。 という事であれば、CとDの分類は一般論の範疇であり、特殊な議論にはならず、 >CとDはロ属に属する という事に変わりはない筈ですから、 >『A、B、C、Dなどといった○○界に属する全ての事柄はイ属である』という命題の答えは >《真ではない》というひとつの解に決まっています。 という事にならねばおかしいという事になります。

回答No.11

 ★(No.10お礼欄) イ属に属していたものがX類に属していた(イ特性とX特性を具有する要素がある)という事をもって、X類に属する全ての事柄の特性は同じであるという類の主張  ☆ Y 類の定義と同じように X 類の定義も《恣意的であって 論理的な必然性がない》のであるならば そこからみちいびた命題が 真か偽かと言えば 真であるはずがない。  《真であるはずがない》命題について これは 《ただしいでしょうか?》と念には念を入れて問うてみた。こういうことでしょうか?  ただし わたしの回答No.3にもどることになります。イ属や X 類などの用語では その中身について――論理的な条件を満たしているだけでは――十分ではない問題があるからです。  ☆☆(回答No.3) ~~~~~~~~~~~~~~~~  3. お尋ねの件についても この一般的な議論になじむものかどうか。これを問う必要があります。  4. すなわち:     ○○界:        X類 〔イ属 ( A、B )〕       Y類 〔ロ属 ( C、D )〕      これらの分類は その個々の要素要因が 経験事象であるかどうか? です。  5. もし経験事象ではない(つまり 経験的なものごとだというだけでは 把握しえない)というときには 定義の仕方が 特殊な方法によることになります。  ・・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その(4)に示した分類は 解釈があやまっていたようですが (5)以下に指摘した問題が なお横たわる。こういう回答を寄せました。  おつかれさまでした。

kagakusuki
質問者

補足

>5. もし経験事象ではない(つまり 経験的なものごとだというだけでは 把握しえない)というときには 定義の仕方が 特殊な方法によることになります。 >(5)以下に指摘した問題が なお横たわる。こういう回答を寄せました。 つまり、 >《真ではない》というひとつの解に決まっています。 という訳ではないというふうに お考えを変更されたのですね?

回答No.10

 ★(No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~    >《可能》ではないというふうに お考えを変更されたのですね?  全く違います。  それは可能です。  但し、それは論理的な必然性に基づいたものではないというだけの事です。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ でしたら そういう場合には ご質問への回答――正解――は もともとその初めの前提で 定義において《論理的な必然性にもとづくのではない》設定がなされているのですから 《真ではない》というひとつの解に決まっています。  どうして そういう分かっている問いを問うておられるのでしょう。

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂き有難う御座います。 >どうして そういう分かっている問いを問うておられるのでしょう。  回答No.2様の御回答に対するお礼コメントでも述べた事なのですが、以下の様な理由です。 >このサイトのこのカテゴリーには、イ属に属していたものがX類に属していた(イ特性とX特性を具有する要素がある)という事をもって、X類に属する全ての事柄の特性は同じであるという類の主張を繰り返している論者が時々現れてくるものですから、その主張が正しいのか否かという事に関して、他の方の御意見もお聞きしたかったのです。

回答No.9

 【あ】 ★★ (趣旨説明欄) その「Y類」という概念に「ロ属」に分類される性質を持たせる事も可能であるものとします。  ★ 《可能》ではないというふうに お考えを変更されたのですね?  もうだいたい このご質問にかんしては やり取りが成され得たのではないかと思います。  お答えによっては もう投稿もせずに失礼します。

kagakusuki
質問者

お礼

 御回答頂いた事には感謝致します。  しかしながら、回答者様はこちらの話を理解しないまま間違った方向にばかり話を進めている様に思われますので、同意は致しかねます。 >《可能》ではないというふうに お考えを変更されたのですね?  全く違います。  それは可能です。  但し、それは論理的な必然性に基づいたものではないというだけの事です。  何故、回答者様は毎回文章の内容を正しく理解する事が出来ず、書かれていない事柄を勝手に作り出して、その勝手に作り出した事を前提条件としてしまってばかりいるのか解りかねます。  ここでこの様に説明を加えたところでbragelonne様は更なる曲解をされてしまうばかりで、いつまで経ってもまともな答えが返って来ないという恐れが高そうですので、こちらが述べた事に対して >お考えを変更されたのですね? などといった確認が必要という事であれば、bragelonne様にはこれ以上回答して頂かなくとも結構です。  御回答頂き有難う御座いました。

回答No.8

 ☆(回答No.7) ~~~~~~~~~~~~  【あ】 ★★ (趣旨説明欄) その「Y類」という概念に「ロ属」に分類される性質を持たせる事も可能であるものとします。  ★(No.7補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~  それは単に質問文の一部のみを引用しているだけであって、何の回答にもなっておりません。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ とのことですが:  ★★(No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~  回答No.3に対するお礼欄にて、  >因みに、質問文で   >>ある論者が恣意的に考え出した概念である「X類」という概念   >>恣意的な定義を持ち出すのであれば、別の論者が「○○界に属する全ての事柄の総称」として「X類」とは異なる概念である「Y類」という概念を作り出し  >と述べている事からも明らかな様に、  【い】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >イ属 X類 〔イ属 ( A、B ),ロ属 ( C、D )〕  >ロ属 Y類 〔イ属 ( A、B ),ロ属 ( C、D )〕  >という分類の仕方に論理的な必然性はありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  と既に述べている  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というとき ここで 【あ】と【い】とは 矛盾していませんか?

kagakusuki
質問者

補足

 全く矛盾してはおりません。  X類やY類は恣意的に決められた分類方法でしかないのですから、X類やY類がA、B、C、Dの全てを含むとする論理的な必然性など存在する訳がありません。

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