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コロンブスより前に日本人が北米に到達した可能性
- 日本人がコロンブスより先に北米大陸に到達した可能性はあるのか?という質問です。
- 日本人は太平洋を渡る航海技術がなかったのか、技術はあったのに何かタブーでもあって太平洋の航海に乗り出さなかったのか、それとも室町時代以前にも船の難破などで北米に足を踏み入れた可能性は高いが、戻ってこれなかったので確かめようがないのか、どれだと思いますか?
- 日本とアラスカの間には黒潮が流れており、成功率は低いでしょうが動力がなくても船に乗っていれば北米大陸に到達することはできたはずです。室町時代には日本人の海賊である倭寇が日本から中国沿岸を荒らしていたくらいですから、世界的にみて当時の日本の航海技術は決して低くなかったはずで、一部の野心的な日本人が太平洋の先に目を向けていてもおかしくありません。また、地理的にも黒潮の利点に加え、千島列島とアリューシャン列島といった中継地点があり、ある程度の航海技術があれば北米に行くのに最も有利な立場にいるはずです。
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No.13.17です 再度お礼を記入頂きありがとうございます お礼の中に若干ご意見がありましたので、補足をさせて頂きます。 >それは滅亡が避けられないと分かった時に最後の逃亡先として太平洋に漕ぎ出すことです。 こような状況下で窮地を脱して活路を見出すべく太平洋へ乗り出した人はいなかった訳ではありません。 逸話伝承としては鎮西八郎為朝(源為朝)がいます。 八丈島には沢山逸話が残っています。為朝百合という特有種の大型の百合もあります。 ただ史料が見当たらないので大学の先生が認めていないだけです。 伊豆大島ではそうとう暴れ回って国司が手を焼いたようです 史実としては頼朝と榎本武揚がいます。 頼朝は伊豆で敗れた後に現在の神奈川県真鶴町から出航しています。 榎本武揚は江戸開城の後艦隊を引き連れて江戸湾を抜け出しています。 ただ二人とも太平洋の東を目指しませんでした。 頼朝は房総半島の突端の安房を目指し現在の鋸南町付近に上陸しています。 当然ご先祖様の為朝の話は知っていたでしょうけれども伊豆の島嶼は目指しませんでした。 榎本武揚も近代的な外洋船の艦隊を引き連れていてアメリカという国も国力も軍事力も熟知していましたがアメリカへは向かわずに仙台から函館を目指しました。 なかなか太平洋の東を目指す人はいませんね~ >私が北条のトップであれば、落城が近づいたら自分は首を差し出すべく出頭しますが、その前に息子に家来数人をつけ、船に食糧を積み、太平洋に送り出しますね。どっちみち殺されるだけですから、息子だけは敵に殺されたくないと思うはずです まぁ~個人的な情としてはよく分かります。 ただ権力闘争に参加するには、チト難しい考え方かと思います。 家族の安否が気になるようであれば初めから権力闘争などに参加して戦などしなければいいだけです。 北条氏にせよ長曾我部氏にせよ、それほど家族が大切ならサッサと降伏して領地を差し出して恭順すればいいだけです。 家臣に命がけの戦をさせておいて、やばいから自分の家族だけ逃がすなどということをやったら、いくら息子でも権力も金も手に入らないでしょう。 こんな考えの御大の息子でぬくぬく生き残っているような人間についていくようなお人好しの家臣はどこにもいません。 権力を得たいあるいは維持したいと考える人間は常にリスクは織り込み済みです。 自分の子供を人質に出すなどということは平気でやります。 こういう精神構造でなくては、権力闘争に参加する資格はありません。 又当てもなく戦線を離脱することはありません。 必ず捲土重来を期して行動します。 自分がだめなら子供に託します。 見ず知らずの土地へ流れついても捲土重来を図ることができません。 こんな無計画な行動を採るようでは権謀術数の渦巻く権力闘争の世界では生き残れません 生きて行くのがやっとでは、何のために苦しい逃亡生活をするのか分かりません。 日本の戦では、ヨーロッパや中国のように都市を廃墟にしてしまうような戦争はしませんでした。 総大将が自刃して、残された子孫が恭順の意を表すればお構いなしという暗黙のルールがありました。 そもそも頼朝や義経が生きながらえたのも母親の常盤御前が清盛に恭順の意を表明した結果です。 秀吉も高松城の清水宗治の切腹をもって兵を引いています。 小田原北条氏は方針が決まらずグズグズ軍議を続けのちに小田原評定と呼ばれるような事態を引き起こしていました。 氏政がサッサと腹を切ればことは済んでいました。 関東一円の支城が悉く落とされた後で海上へ逃れても行くあてなぞありません。 逃れる隙があるなら陸上を逃げた方がよほど生存率は高かったでしょう。 現在のような警察力がある訳ではありません、全国指名手配して首尾よく捕まるなどという確率は遥かに低かったでしょう。 家康も本能寺の変の際には鈴鹿山系をスタコラ逃げ回っています。 堺の茶屋四郎次郎を頼ればいくらでも海上へ脱出できました 義経も頼朝に睨まれてから逃げ回って陸路平泉を目指しています。 北陸地方には逃亡中の義経に纏わる伝説が沢山残っています。 義経が九郎と名乗ったのも為朝の八郎に因んだものです。 為朝の話を知らなかったはずがありません。 まぁ~伊豆諸島ぐらいしかない太平洋というのは何時の時代も逃亡先としては魅力がなかったようです。 小笠原列島の存在が周知されるのは江戸時代以降です ところで、島で暮らすというのはどのようなイメージでおられますか。 日本近海でカリブ海のロビンソンクルーソーのような生活はできません 八丈島でも冬には零下になります。 人が住んでいれば、当然なんだアイツはということになってときの権力者に訴えられてしまいます。 流刑すなわち島流しという処罰がありますが、これは裸一貫で放り出すわけではありません。 受け取る島側の統治者に指令を下すとともに最低限の食料も支給しました。 佐渡島の日蓮も隠岐の島の後醍醐天皇も衣食住には不自由していませんでした。 頼朝も流刑の身でしたが家臣もいれば鷹狩も楽しんでいました。 我が身大事に安穏に暮らす気であれば何事もない生活環境でした。 源氏再興という野心を持ったからこそ戦もし海上へも乗りだしました。 後鳥羽上皇は恨みつらみで怨霊となりましたが後醍醐天皇は野心を持って小舟で命がけで島を抜け出しました。 江戸時代には八丈島から島抜けをした連中は幾らでもいました。 ただし18回中1回だけ成功したようです。 流人伝、恐ろしきは女なり www.webfrog.jp/papa/essay/essay-12.html この連中も太平洋へ乗り出した野心を持った日本人に数えられますか?
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- onbase koubou(@onbase)
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「日本人」の定義にもよりますが「日本列島に居住していた人類」と広くとらえたとして、質問者さんが指摘しているとおり「可能性」というのであれば「絶対にない」とは言い切れません。しかし、証拠もなく黒潮に乗ったとしても数か月もかかる漂流に近いものでは「可能性はほぼない」でしょう。 また現実的にそのような証拠もないので「到達していた可能性」を論ずるのは意味がありません。
補足
倭寇の時代の船を再現して、その船に乗って北米に到達できれば、可能性がないとは言えないと思いますよ。太平洋をヨットで渡っている人も居るくらいですから。 それから、日本人である私が考えても、昔の日本人はなぜ太平洋を渡ろうと考えなかったのかわかりません。 西洋人は大西洋の先には怪物が棲んでいると考えていたようですが。
お礼
それにしてもよくご存知ですね。 太平洋に逃げた人は殆ど居なかったが、全くいなかったわけではないようですね。まあ、日本はいいところですから、日本を脱出したくないのはわかります。 それにしてもここまで様々な観点から20を超える回答を頂き、全ての回答者さまありがとうございました!