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徳川家康は後家狙いか
徳川家康には何人の奥さんがいて、そのうち何人が元・後家さんなのでしょうか? また、狙ったわけではないのでしょうか。さらに「普通の男は最初の男になりたがるが、賢明な男は最後の男になりたがる」という格言は、彼の場合には当てはまらないでしょうか。 歴史ではありますが、ちょっと下ネタ&アダルトな話題でごめんなさい。
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- kouki-koureisya
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回答したくなる楽しい質問ですねぇ。 「三河武士のやかた家康館」に記載されている16人の側室で後家さんと推定できるのは、次の5人でしょう。いずれも真偽のほどは私では分かりません。 於愛の方:17歳で37歳の家康に。父は戦死、母は再婚。従兄弟の西郷義勝と結婚したが、義勝は討死。このときわずか10歳。17歳で浜松城の奥勤め。はたして“後家さん”と言えるかどうか。 於都摩の方(下山殿):18歳で41歳の家康に。武田家が滅亡した時、家康は武田家の松姫を狙ったが武田家の家臣が、既婚者の替え玉(下山殿)を差し出したとされる。いわば人身御供。 於茶阿の方:夫を殺された寡婦。百姓の出。連れ子は家康の声掛かりで花井遠江守と結婚。 於亀の方:26歳で53歳の家康に。夫早死で寡婦。連れ子は家康の小姓に。 阿茶局:25歳で38歳の家康に。夫戦死で寡婦。小牧・長久手の戦いの陣中にて流産。 これら5人の側室は、たしかに家康の子をもうけていますね。 世継を次々と亡くした秀吉を見てきた家康にとって、子が欲しいと願って出産経験のある後家さんを選んだという理由もあるようです。 しかし、正室築山殿との間に長男、長女を、そして於万の方(築山殿の侍女)との間に次男秀康をもうけています。また、家康24歳のとき西郡の方(後家ではなさそう)との間に侍女督姫をもうけています。 つまり、家康は“子種”があることを承知していますから、側室にしたい好みの女を選んだだけとも言えそうです。 少年期を人質として過ごした家康は、戦争未亡人となった不幸な後家さんの境遇が分かる人だったのではないでしょうか。 側室の連れ子の面倒まで見ていますからね。 恵まれた境遇の女より不幸せな女性の方が自分に尽くしてくれるというのが、50歳過ぎまでの家康の女性観であったと、想像しています。 側室19人という話もありますから、全ての側室の名が記録されているわけではなく、記録に残されていない“家康の女”はいっぱいいたはず。 武田家が滅亡したとき、家康は甲州で「女狩り」をしたそうです。 そのとき、側室にしたのがお竹の方・西郡の方・お牟須の方と言われています。 於万の方(蔭山殿)は14歳で53歳の家康に、於梶の方は13歳で49歳の家康の側室になっています。 ということで、後家さんも乙女もみんな好きだった、というのが私の結論です。
お礼
好色の一字ですね。 ご回答をありがとうございました。
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
gesui3 さん、こんばんは。 徳川家康は確か、二度目の正室、朝日姫は後家でした。側室の何人かは後家さんだったようですが、娘で側室になった人もいたようです。どちらかというと自分より身分の低い女性を侍らせて自分より身分の高い女性は敬遠していたようです。 詳細は下記のURLを参照ください。 徳川家康 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
お礼
ウイキでは、正室2人+側室19人を数えていますね。一人一人調べるのが大変そう・・・
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
旭姫は側室ですよ 家康は築山殿亡き後 生涯正室は置いてません これは今川家への配慮だったと言われています 今川滅亡後も正室を置かなかった事から 築山殿をよほど愛していたのでしょう 旭姫を正室としているのは秀吉への配慮からでは? (表向きにそう発表してただけで実際は側室だったと思います)
お礼
正室・側室の表向き・実質は、どちらがどちらとも言えませんね。やることは一緒ですから。むしろ、婚家との関係性で決まるのでしょう、愛情よりも。秀吉の娘がその好例。 とにかく後家はいくらもいます。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
側室は17人(離縁・死別も含めて) 正室は築山殿ただ一人 お夏 お梶 お万 阿茶局 お茶阿の方 お六の方 旭(秀吉妹) など 有名な側室が目白押し 中でも家康のお気に入りはお夏殿です 後家は旭ぐらいじゃないですか? わざわざ離縁してまで家康に嫁がされてます
お礼
朝日姫(南明院)も正室ですから、正室2人・側室16人と下記サイトにありました。 http://okazakipark.com/museum/iyeyasu/rekishi/kar103.htm#seishitu 「阿茶の局(雲光院)は、はじめ今川家臣の神尾忠重に嫁いだが、忠重の死後、家康に近侍した。」「於愛の方(西郷の局、宝台院)西郷義勝の後妻に入ったが、義勝戦死後は浜松城に召しだされて家康に仕えた。」「於茶阿の方(朝覚院)同郷の鋳物師のもとに嫁いだが、夫が打ち殺された。」などとあるので、やはり初婚でない女性がいくらもいますね。
- notnot
- ベストアンサー率47% (4900/10358)
単に後家というより、子どもを産んだ経験のある女性=跡継ぎを生んでくれる可能性が高いということです。 つまり、女性原因の不妊が無いという証明ですね。
お礼
跡継ぎ確保のためだったのですね。ありがとうございます。
お礼
これはすごい! 後家もござれ、乙女もござれ、何でもござれの「好色爺」だ! 身重の側室を陣中にまで侍らせて流産…。跡継ぎ確保ではなく性欲処理が主眼だ。 古来、「英雄色を好む」といわれる典型だ。支配欲と性欲の関連を見る思い! 「大奥」は初代の家康からすでに始まり、歴代続いたはずだ。。。