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徳川家康

「家康にとって豊臣氏は目の上のたんこぶのような存在」と言いますが、どういうことか説明して下さい(*_*) このような記述問題がテストで出るであろうと思うので、その際のキーワードなど教えてくださると助かります(><)

質問者が選んだベストアンサー

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  • gonveisan
  • ベストアンサー率20% (477/2365)
回答No.5

天下分け目の関が原で勝利したのにいつまでも豊臣家をそのままにしておくと 又第二関が原 実質大阪冬 夏の陣が 大規模に起きる可能性がある 伊達政宗みたいな野心家もいるし、上杉景勝みたいな言う事聞かない者もいるし 関が原で改易された浪人もいるし 豊臣も一大名に成り下がれば生き残れたのに国替えの話もあった 豊臣の財力を減らす対策もしているお寺作り。 豊臣に又恩が有る大名が又集結して又!!戦乱になる恐れ!!が有る No3様と同じかな

その他の回答 (4)

  • sino8209
  • ベストアンサー率48% (12/25)
回答No.4

「成り上がり者」の秀吉があそこまでの勢力を築けたのは、いくら戦国の世とはいえ超人的な人格・手腕があったからと思います。(秀長の尽力もあったと思いますが。) その威光を背景に秀頼に対する畏敬の念が関が原以降も大きくありました。福島正則・加藤清正などの豊臣恩顧の大名たちが東軍に属していましたが、それは反豊臣ではなくあくまで反石田であったわけです。もう一つは、一説によると秀頼はかなりの切れ者で家康も一目を置いていたようです。このまま生かしておけば彼を旗印に反旗を翻す可能性が大きくありました。 よって石田滅亡後、いつ彼ら豊臣恩顧の大名たちが再結集し反旗を翻してもおかしくない状況にありました。 また、秀吉存命中に限って言えば、 戦には勝てても知略は秀吉の方が何枚も上手でした。小牧長久手の戦いなんかいい例です。兵士の数が大きく劣っている状態で、三好秀次・池田恒興らの軍勢を破りました。しかしその後、織田信雄が秀吉の長暦に落ち勝手に単独講和したため大儀を失い退却に至りました。 さらに言うなれば、本能寺の変の時に家康は急いで伊賀越えをし三河へ帰り兵を調えて出陣するつもりであった様です。しかし周知の通りこれも秀吉に先を越されてしまいます。 こういったことが質問にある言葉につながると思います。 乱文・長文ですみません。歴史好きなんで・・・

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

30年くらい前、こう思った 「目の上のたんこぶって、ずいぶん家康も人間が小さいな、秀吉時代には、織田秀信という信長の直系の孫がいたが、何にも気にしてないじゃねーの」 最近読んだ本によれば、状況が違う。 1 西国大名は、江戸や京都から自国に戻るとき、大坂城の秀頼に拝謁していた。 まぁ、これは昔から私も知っていた 2 本格的な徳川親派の勢力はもっとも西で、近江の井伊から、伊勢の藤堂のライン 伊賀上野城の異様なまでな西側の城壁の高さは、藤堂高虎が家康の意図を理解して築城したそうだ。 3 伊勢で、秀頼の書類が見つかった どんな書類かというと、年貢がどーのこーというもの、従来豊臣家とは関係名と思われた土地が秀頼の権威の元で支配されていた・・・ なんてことから、最近は鎌倉時代初期の朝廷くらいの権威と権力を持っていたのではないかと考えられている。 吾妻鏡を熟読していた家康にとって西国の状況は徳川家の安定のために予断できない。承久の変が、西側の主導で再度行われる前につぶしておくのが、徳川家のため。 なんせ、二代目秀忠の軍事的能力は、最低ラインでしたから。

noname#155097
noname#155097
回答No.2

天下統一を目前に倒れた織田信長の跡を継いで、 実質的に天下統一を果たしたのが豊臣秀吉。 その秀吉が死に、豊臣政権の官僚である小大名群はともかく、 彼の生え抜きの家臣であった黒田、福島などの大大名や その他の大名たちは、ことあらば(徳川が政権奪取を目論んだら) 豊臣家への恩を名目に徳川に敵対する可能性があるため、 遺児である秀頼にうかつに手が出せない。 名目上は豊臣政権の第一番の大大名である徳川家康といえども、 反豊臣の旗をあげるわけにはいかない。 なおかつ、豊臣家単独の所領や秘蔵する金銀財宝が 山のようにあるため、いざという時の軍事力、資金力も豊富、 で、立て篭もるのは当時の難攻不落の要塞大阪城。 というのが、関ヶ原の合戦後の徳川家康の立場であった。 というところでどうでしょう。

01642511
質問者

お礼

ありがとうございました。日本史のテストうまくいきました。 他の回答者様もありがとうございました。

  • cm002
  • ベストアンサー率13% (4/29)
回答No.1

やり方はどうあれ、人臣の最高位となった豊臣氏です。 武士の棟梁となっただけの徳川家とは家柄の格が違います。 かつての上司であり、宮家となっています。そう簡単に盾突くわけにはいけません。だから方広寺の梵鐘の銘文事件なんて事がが起こったのでしょう。 一つの理由として挙げさせていただきました。

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