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63歳主婦です。 今川義元が尾張の南半分を占拠し、それによって織田家の 経済力の源となっていた伊勢湾海域での制海権が脅かされ、 信長も逆襲に転じ笠寺城を奪還。 鳴海城の周辺へ丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を、 大高城の周辺に丸根砦、鷲津砦を築くのですが、 この「砦」って、所謂、要塞のことだと思いますが、 どのようなものだったのでしょうか? 砦の画像がありましたら、ご紹介下さい。

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  • eroero4649
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回答No.1

http://26.pro.tok2.com/~yataro/nakajimatoride-younotoride.html ここのページにイラストなんかがのっていますが、これを見れば分かるように、防御に適した小高い場所に、堀を掘って外側に土を盛ったそういう意味では割と簡単なものです。 これに柵や小屋や櫓などを組み合わせたわけです。「要塞」なんて仰々しいものではありません。 「砦」と「城」の違いは「一時的なものかどうか」です。ご存じのように日本は高温多湿で、放っておくと雑草はグングン生えてくるし雨で土も流れます。だから、城や砦を維持しようとすると人手もお金もかかります。ずーっと維持する程でもないのであれば、簡単な砦程度のものにして、用が済んだら自然に朽ちるのに任せるということになります。

kurikuricyan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ご紹介頂いたURLとても、勉強になりました。 なるほど、要塞、、、というほどのものではないのですね。 「一時的なものかどうか」との違いも、納得です。 昔を知る、、、というのは、とても楽しいものですね。 ありがとうございました。すっきり、しました。

その他の回答 (1)

  • jkpawapuro
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回答No.2

織田家は砦と呼びましたが一般的にはこういったものは付城(つけじろ)と呼びます。 目的は敵の城の交通と物資の運搬を妨害するための陣地で、丘の上に土塁・柵・空掘りなどを掘った陣地を作り、そこから近隣に近づく敵を攻撃するもので主に兵糧攻めの時に使います。 おそらく大掛かりな建物はありません。物見櫓くらいは作るかもしれません。

kurikuricyan
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 付城って、砦のことだつたのですね。 安土桃山時代の時代物を読んでいて、付城と出ていたのですが、 調べもしないで読み飛ばしていました。 それにしても、昔は、こんなちゃち な砦位でも、勝利を導くことができたんですねー。 当時の男性の平均身長は、155cmくらいだったとか、、。 馬も、今の競走馬みたいに大きいものでなく、ポニーくらいだったとか、、。 なんだか、ガリバーの世界みたいですね。 そういう、歴史の積み重ねが現代に繋がってる、、、と思うと不思議な気がします。 だから歴史は面白い、、、ですね。 回答ありがとうございました。

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