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カトリック初心者です、福音と聖霊について

カトリック初心者です。 仏教的「空」の世界観になじめなくなりつつあり、(現世の混沌でも生きながらえるよう)「満たされた」世界を求め、「福音」を求めキリスト教・カトリックの門を叩きました。 ところで、「聖霊の交わり」「聖霊の恵み」という言葉を耳にします。何となく感じはしますが、まだまだ理解が不十分です。どなたか、良いご教示・資料やホームページのご紹介を願います。 また、プロテスタントではよく聞くのですが、カトリックにとっての「福音」もご教示していただけると助かります。 どうかよろしくお願いいたします。

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  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.7

>仏教的「空」の世界観になじめなくなりつつあり、・・・・ 仏教をそのように思われているのは残念なことです。色即是空。空であると言っているのは般若心経を唱える仏教徒です。他の宗派では空だとは考えていません。仏陀の教えがどうか疑問であると私は思っています。 私の信仰心は子供のころ池にはまって意識不明で助けられたことが原点です。生きているだけで感謝なのです。地獄も極楽もありませんでした。以来、この世しか存在せず、この世で自分を試してみようと思って生きてきました。人生は火宅にして安きことなしと思っています。その現実が生きていることの証と思っています。そこからの救いを求める気持ちはありません。

TY-mnt
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。今後とも、是非ともよろしくお願いいたします。

TY-mnt
質問者

補足

仏教側からのご回答、ありがとうございます。 お尋ねさせていただきますが、禅宗系(臨済宗・曹洞宗)でしょうか、浄土宗系(浄土宗・浄土真宗)でしょうか、それともその他の宗派でしょうか。 回答者様(titelist1様)からのご回答、そして、問答、問題提起をお待ちしております。 そもそも、私が問題として抱えた点、「現世とは(碧巌録・正法眼蔵のような)哲学的観念論だけではとても渡っていけない、渡る世間は鬼ばかり」なのです。社会人を少々経験されるとご理解可能ではないかと思われるのです。 確かに、「精神修養として」「碧巌録・正法眼蔵」は非常に役に立ちます。しかしながら、「人格者としての人間達」が前提とされている問答の世界のではなく、現世とは「とんでもない人間達」の混沌であるようです。 こんな混沌の中、まあ、聖書(新約聖書など)の記述にはあくまでユートピア的な記述もありますが、2000年近くたった現在でも、なかなか感動させるものがあります。 「年間第29主日「神のものは神に返しなさい」」の福音などは、2000年経つのに全然色あせていません。 単に(ちょっと極端でキツい言い方かもしれませんが)「苦界の中に生きる」という生き方で、この世に「生を受け」、人生を生きる幸福感・充足感は得られますか? 「苦界の中に生き、苦界の中で没する」のでは悲しくはありませんか? 私は、(神のご加護により)「現世でも幸福と充実を少しでも享受し(まだ先のことですが)没年を迎えたい、この世の混沌からお守りを受けたい」と思うのです。 ぜひとも、回答者様の問題提起、論争、書き込み、コメント等をお待ちいたします。 これを縁に、今後ともよろしくお願いいたします。

その他の回答 (6)

回答No.6

 こんばんは。  ★ (=質問者としての対話の相手。No.7補足欄) ★と☆の意味の解釈をお願いいたします。  ☆ (=回答者としてのわたし=ぶらじゅろんぬ) という使い分けで用いています。  ★ (同上) それと、☆の考えかたは「生けるものすべてに仏性がある」というような思想でしょうか。  ☆ そうでしょうね。  ただし違いはあります。三位一体論として明らかにされている神学でしょうか。  ブッダター(仏性)は けっきょくブラフマ二ズムにおけるアートマン(霊我)とともに 聖霊――聖霊なる神――と同じだと〔少々形式的になりますが〕捉えています。  この聖霊なる神とペルソナが違うだけで同じ神であるところの 子なる神は 肉(身と心なる存在)と成ったという想定がありますから。  すなわち キリスト・イエスのことですが アートマンやブッダターの場合は このような人間イエスという存在は 想定されていません。  (ダルマ・カーヤ(法身)のブッダ――これは 霊です――が そのまま応身のブッダとなる・すなわち 人間となるという話はありますが ナザレのイエスならそのイエスとしての具体的な存在はないはずです。ゴータマをそれに当てることは 無理です。さとりなどというワケの分からない境地の問題を持ち出したからです)。    このイエス・キリストに倣う場合と ブッダターが自然本性にそなわったという人間存在のまま生きる場合とでは たぶん違いが出て来るのではないかと思います。  ただし なにぶん三位一体なる神は 想定の中の想定ですから 論証はむつかしいと思います。

回答No.5

 こんばんは。  ★ 福音  ☆ ひとはみな 一人ひとりが小文字のキリストである( On est un christ. )。です。

TY-mnt
質問者

お礼

ありがとうございます、今後ともよろしくお願いいたします。

TY-mnt
質問者

補足

すみません、★と☆の意味の解釈をお願いいたします。 それと、☆の考えかたは「生けるものすべてに仏性がある」というような思想でしょうか。 参考にさせていただきたいと存じます。 ご足労をいただけましたら、こちらへの回答などによってご教示いただければ、うれしく存じます。今後ともよろしくお願い申し上げます。 欲張りなお願いですが、こちらへの回答などで、フランス語でのご教示などもいただければうれしく存じます。(大学で第2外国語がフランス語でして、今も少々やっています。)

回答No.4

そう仰らずに・・ イエスキリストだけがキリストではありません・・ イエスは実体的面の復帰を成し遂げれず 次のキリストに その使命を託されました そして 新しいキリストは それを全て成し遂げ 後は キリスト教が一つに まとまる事さえ出来れば 神の元へ導かれる様になりました なので カトリックとかプロテスタントとか 関係ない時代に突入しているのです まだ 解って無い 教会が それを受け入れないだけ・・まるで イエスが降臨した時の祭司や立法学者の様に・・・・

TY-mnt
質問者

お礼

一応、ありがとうございます。

TY-mnt
質問者

補足

なかなか難しいご内容ですが、哲学的解釈の一つとして参考とさせていただきます。

回答No.3

No.2です。 お礼をありがとうございます。 イグナチオ教会には私も何度か行ったことがあります。 荘厳でいいミサですよね。 ミサの趣が「癒し」と感じられるのなら、神があなたを導いていると考えて求道を続けられるとよろしいかと思います。 カトリックは指導体制が確立されています。私も信者ではありますが、人に教義や信仰について助言する権限を持ちません。こちらのサイトのような機会で学ばれるのではなく、書籍や司祭にお尋ねになるのが原則で、最も近道です。 仮に、こちらで詳細に助言される方がいても、その方を信じる根拠はどこにあるのか?って話になります。 神に信託された司祭にこそ教えを乞う、というのもカトリックのシステムの一部です。

TY-mnt
質問者

お礼

たびたびのご教示と書き込みをありがとうございます。

TY-mnt
質問者

補足

ご教示ありがとうございます。確かに、カトリックでは教義に関する指導・ミサの司式に関する権限は司祭様にありますが、私へのご教示の場合、そこまで厳格に考えなくても大丈夫です。 そうなると、大学の○○学の講義と学説解釈は大学から任命された講師・准教授・教授ではくてはならないといったあんばいでしょうか。 大学の友だち同志で講義の内容を教え合うといった程度でも結構です。 今後とも、よろしくお願いいたします。

回答No.2

カトリックです。 教義については、神学校で何年も学んでも理解に苦しむかなり難解なものであるのは否めず、こちらに質問されても到底満足な回答など得られるものではないと思われます。 カトリック関連の書籍などを扱う通販のサイトをご紹介します。 http://www.paulus.jp/ 初心者向けのものも多数ありますので、それらをご覧になってはいかがでしょうか。 あとは、意味が分かる分からないに関わらず、日曜のミサに参加されるのをお勧めします。 洗礼を検討されているのであれば、すでに通われているかもしれませんが、ブログではミサの様子がかかれていなかったので、少し心配になりました。 キリスト教というのは頭で理解するのではなく、感覚として吸収していくようなところがあります。 御聖堂(←「おみどう」と読みます。)の空気を吸って、聖歌は無理に歌わなくて結構、神父様に祝福していただくだけでも感覚の吸収に一役買うと思いますよ。 「神がいる」と実感するのに何年もかかります。 カトリックとプロテスタント、どちらがご自身に馴染みやすいかも比べてみてもよろしいのではないでしょうか。

TY-mnt
質問者

お礼

ありがとうございます。

TY-mnt
質問者

補足

早速のご回答、ありがとうございます。私はここ数か月教会に通い、ミサについては本拠地の教会では土曜日を中心とし、日曜日は休息にあてるかまたはほかの教会(イグナチオとかその他の)を覗いております。一応最近では司祭様に聖体拝領の代わりに祝福を受けています。典礼聖歌にも少しずつ慣れてきて、カトリック聖歌の良い趣はとても癒しになります。 OKWaveで回答していただいたご縁で、お力添えをお願いいたします。

回答No.1

「神の御加護」を期待して信仰するのなら辞めておいた方が良い・・ 神は崇められる存在にはなりたくないので 御加護とか奇跡等 起こさないから・・ ただ単に 神と人間は親子関係そのものでありたいだけ・・

TY-mnt
質問者

お礼

一応、回答いただき、ありがとうございました。

TY-mnt
質問者

補足

まあ、そうおっしゃらずに。私は聖書(特に新約聖書)は日本人であっても一生に一度は読まなくてはならないと思うようになるぐらい、感動いたしております。これだけでも、神のご加護です。もし、万が一「殉教」に似たことがあったとしても、聖書を読んで非常にえたものがあります。

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