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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:カトリック教会に行ってみたい。)

カトリック教会に行ってみたい

このQ&Aのポイント
  • タイトル:カトリック教会への興味と悩み
  • 要約1:プロテスタント教会に疲れてしまった私がカトリック教会に興味を抱く理由とは?
  • 要約2:カトリック教会の信仰と教えについて理解したいが、マリア信仰に違和感がある

質問者が選んだベストアンサー

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  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.5

少々プロテスタント教会に疲れてしまったんです。 よくある話ですね 一度祈ってさ~神様とお話をして見ましょう。何をすることがいいのか? どこの教会に行く事が正しいのか?できるかな? 教会に行かなければならないと言うのを捨ててもいいかな? マリア様にも信仰がありますね~ まあ一部のプロテスタントも教会を崇拝したり教会を信仰にしてる人もいますが・・ 「私たちの教会はなんてすばらしい・・」「うちの牧師は・・・」ってね。 まあミサに行き祈るのもいいし、平日に祈りに行くのもいいでしょう。 後はHPで礼拝を聞いたりHPで聞いたり プログに参加する方法はありますね~ まあ阪神大震災を経験しました。教会はその時だけ助けてくれますが キリストは常に助けてくれます。 場合によっては教会にこだわらずに信じてるだけでもいいよ。 そのうちにあなたにあった教会は見つかるかも。強引に教会周りしても神様はあけないと思う。 最善な時期を待ってこそ本当に導かれあなたにあった教会にいけえるのかも・・・ 本当につながる必要があるのはキリストであり御言葉ですからね。 聖書を口から離さず、昼も夜も口ずさみ、書いてあることをみな守れ。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

roko0929
質問者

お礼

皆様、お答えありがとうございました。 全てをベストアンサーにしたくたい、ためになるご意見でした。 もう少し神様に祈って、考えてみます。 本当にありがとうございます。

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その他の回答 (4)

回答No.4

カトリック信徒の者です。 ちょうど昨日、プロテスタントのクリスチャンと聖母マリアについて話をしていたので私なりの意見を述べさせて頂きます。 まずカトリック教会は信徒の方でもそうでない方にもいつでも、どんな時でも開かれています。お気軽にお越しいただけるととても嬉しいです。そして神様は唯一、洗礼も唯一です。教派に関係なく私たちは同じキリスト者として教会にお越しくださる方すべてを歓迎します。 さて、一つ目のご友人のお話「いい意味でも悪い意味でもカトリックはドライ」という認識は、私も一信徒として感じている部分です。地方だとちょっと分からないのですが、都市部だと教会の規模や信徒数も他のキリスト教諸派の教会に比べてそれなりに大きいので、小規模な教会に見られるような家族的な強い結び付きが生まれにくいのが原因かなとも思ってます。私の友人でもそれを良いと思う人もいれば、熱心さに欠けるとか寂しいと思う人もいます。質問者様はどのように感じられますでしょうか。 二つ目の質問、お上品で近寄りにくい、という点。私も感じた事がありますがそれは目に見えるごく一部の教会のカラーだと思います。実際の教会には様々な国、民族の方、お金もちもいればそうでない方もいます。実に様々な方がいらっしゃいます。 三つ目の聖母マリア様を信仰しているのではないかという質問ですが、これはプロテスタントの方は特に理解しにくい点だと思います。神学的なことはあまり詳しくはないので僭越な話は避け、ここでは一信仰者の視点から意見を述べたいと思います。 カトリックも聖母マリアや列聖された諸聖人を崇拝することは禁じられています。当然ながら崇拝対象は唯一の神のみに向けられるべきものだからです。ただし、聖母、聖人の生き方に倣い、敬うことがあります。これは神様を賛美すること(=崇拝)に対して、崇敬と呼ばれます。神様にとっても、また多くの人にとっても聖母や諸聖人の生き方は、模範となるものが多く、また神様の愛に満たされなければ決して実現できないような様々な印しをなされています。質問者様の周りでも、人として素晴らしい生き方をされ、亡くなられた方もいらっしゃると思います。私はそういう方の生き様を見たとき「この方なら間違いなく天国に行っているはず。いや、もし行ってないなら神様なんて信じない」という思いになります。どちらにせよ、間違いなく地上に生きる私たちより神様の近くにいるという思いになります。そう考えたとき、神様の近くにいる敬愛なる方に、私の祈りを取り次いでもらいたい。そういう願いから聖母や聖人への崇敬があるのかなと私自身は思っています。 両親に例えた方が解りやすいかもしれません。私を愛してやまなかった素敵な両親が天に召され、神様の近くにいるはずと信じるとき、私を愛する両親ならば私のどんな祈りや願いでもきっと神様に取り次いでくれるはず。そんな感覚で聖母マリアや諸聖人への崇敬があるのかなと思っています。

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回答No.3

踏絵があったら踏んでしまうぐらいの信仰心しかありませんが、カトリック信者です。 洗礼も受けてませんが、幼少期から今30歳になるまでカトリックの教会に気が向い たら通ってます。 プロテスタントの教会には行ったことがないので比較できませんが、お役に立つか 分かりませんが、僕なりの実体験としてカトリック諭を記載させていただきます。 母親が熱心なクリスチャンということもあり、幼稚園は聖母に通い、それなりに 神様の教えを叩き込まれました。小学校になった際にも、聖霊会という(恐らく 聖霊派?)土曜日に教会に遊びにいくイベントに参加してました。クリスマスや 復活祭などのイベントでは寸劇やみんなで歌を歌ったり楽しんでました。 中学、高校になると徐々に疎遠になり、イベントの日だけに教会に行くぐらいの 頻度です。話はすっ飛んで、結婚し子供ができてから、久しぶりに教会に通って みたら、フィリピン人が凄く多くなっていました。変わったんはそれぐらいで、 子供のころから教会の雰囲気だけは変わりません。 日本人って、どこか宗教を敬遠している人が多いかと思いますが、自分も多くに もれず、どっちかというとその部類かと思います。でも、宗教も自分なりに 勉強してみて、やっぱり言ってることが分かりやすく、「人を許す」ことが できるキリスト教は素晴しいなと感じています。歴史を紐解くとカトリックは 散々酷いことをしてきたし、考え方でいうとプロテスタントの方が納得できる 部分もあるのですが、現代となってみては、歴史的な背景にこだわっても しょうがないかな、と思いようになりました。 恐らく、カトリックもプロテスタントもその教会と、神父さんによって大きく 変わってくるような気がします。自分がいってるカトリックの教会は、いつ 行っても温かく迎え入れてくれて、優しくて、アットホーム。皆が料理を持ち あってきて、小さなパーティーを開いて、そのことに感謝する。ただ必要以上 に詮索もしないし、洗礼も進めてこないし、いい意味でも悪い意味でもドライ。 ってのは的を得た表現だな、と思いました。子供の頃の神父さんもそうですが、 今の神父さんも含め、歴代神父さんは皆総じて、ユーモアがありギャグを好ん で、周りを温かな空気にしてくれます。遠目で見ていても、さすが神父さん だわな。と感心してしまいます。 >自分の中ではカトリック=お上品で、少し近寄りがたい感じに思えるのです >がどうでしょうか? >また、今までの影響かもしれませんが、マリア様に対して全くと言って良い >ほど信仰心はありません。 >カトリックの方はイエス様と同等にマリア様を信仰している気がするのです >が、どうなのでしょうか。 たしかにお上品ってイメージはありますね。たまに通っている僕でもそう思い ます。しかし、一旦打ち解けるとオシャベリ好きのオバちゃんだったり、飲 兵衛のおっちゃんだったり、下品とまではいいませんが、至って人間味溢れる 人ばかりですよ。着ているものや、たたずまいが上品に見えるかもしれません。 でも本当の金持ちなんて、そうそういませんよw たしかにマリア様にも信仰 心はありますね。カトリックの考えは、「崇拝」ではなく「敬愛」の感情かと 思います。イエスさんは神様で、その母親はマリア様。マリアなくしてイエス の存在はなく、キリスト教の教えもない。クリスチャンは神の子なので、その 母でマリアさんは、私達の母でもある。こんなニュアンスだったと思います。 自分たちの母親を愛しましょう。そして、その母親を育んできた祖父母も敬愛 しましょう。みたいな感情かと思います。 中途半端な信仰心のせいで、ろくな回答になってないかとは思いますが、少し でも参考になれば幸いです。

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  • Domenica
  • ベストアンサー率76% (1060/1383)
回答No.2

私自身はキリスト教徒ではありませんが、小学生のころからの友人がプロテスタント(ルーテル)で、短大以来の友人の1人がカソリック(ローマカソリック)です。 2人とも両親がキリスト教徒のため(?)、幼いころからのキリスト教徒です。 プロテスタントの友人は、「熱心なキリスト教徒」という印象は受けません。 教会の行事などには参加しているようですが、お寺や神社へも平気で行きます。 彼女は、カソリックの教会にも行きますよ(バザーのお手伝いやコンサート(声楽家なので本人が歌うこともあれば、聞きに行くこともあります)など)。 ですから、ご質問者さまも行ってみられればよろしいのに…と思いました。 カソリックの友人は、プロテスタントの友人よりも「キリスト教徒らしいキリスト教徒」という印象を受けます。何が「キリスト教徒らしいキリスト教徒」かと言われると困るんですが…。 教会の行事などにももちろん参加しています。お寺や神社へは「観光」では行きますが、「参拝」はしないですね(そういえば、神社の「鳥居」をくぐりませんでした)。 2人とも毎日聖書を読んでいるかは知りませんが、少なくとも、一緒に旅行をした時には読んでいませんでした。 イズラエルへ行きたいという話も、バチカンに行きたいという話も聞いたことはありません。 > 宗派によって全く教えが異なり、教会ごとに考えが違うような感じを受けました。 これは、私も聞いたことがあります。細かいことまでは知りませんが。 ただ、これは、仏教などでも見受けられることだと思います。 同じ「仏教」でも、宗派によって、ご本尊も違えば、唱えるお経も違いますから。 そして、他の宗教・宗派を許容しないというのは、日本でもあったことは、歴史の授業でも習うことです。 > 私が以前いた教会は教会に疑問を呈したり、リーダーに逆らったりすると即「要注意人物」と言われ、教会を離れた人間とは付き合うなという方針の所でした。 プロテスタントの友人からは、そういう話は聞いたことがないです。 逆に、カソリックの友人からは、そういう話を聞いたことがあります。 でも、キリスト教の歴史(世界史)の中にも、そういったことは数多く見えますよね。 馴染みのない私などは、あちこちで得た情報をつぎはぎして、勝手に「キリスト教というのはこういうもの?」と思っていますが、「懐が広い」とは言い難い宗教のような印象を受けます。 慈善活動を行ったりしていますし、あちらこちらで「慈しみ」とか「愛」という言葉を見かけますが、「排他的」な印象も強く受けます。 カソリックの友人は、同じ教会の信徒だった人と結婚したのですが、数年前に離婚しまして、その時の話を聞いているせいか、「許し」を与える宗教じゃなかったのか?と疑問を感じる点も多々あります(お互いの言い分がすごかったので…)。 > カトリックの信徒さん曰く「いい意味でも悪い意味でもカトリックはドライ。でも、教えはひとつに統一されてるからあまり争いはないよ。」とおっしゃっていました。 私は、「ドライ」「教えは1つ」というのは、プロテスタントに強い考え方…という話を、カソリックの友人から聞きましたが…。 カソリックは「身内には優しいけれど、身内じゃない人には鼻もひっかけないところがある」と。 勧誘に熱心なのはカソリックとも聞きました。 > 自分の中ではカトリック=お上品で、少し近寄りがたい感じに思えるのですがどうでしょうか? 私は教会には全く関わり合いのない人間ですが、カソリックに上品というイメージはないです(カソリックの友人が、友人たちの中で言動が一番上品でなく、俗っぽいからかもしれません)。 まあ、確かにカソリックの教会は、プロテスタントの教会に比べると「すごい」とは思いますが。 > マリア様に対して全くと言って良いほど信仰心はありません。 > カトリックの方はイエス様と同等にマリア様を信仰している気がするのですが、どうなのでしょうか。 カソリックの聖母信仰って、公に認められたのは結構最近の話ではなかったかと…。(200年も経っていないのではなかったでしょうか。) 別の友人が、カソリック系の総合病院に勤務していますが、確かに8月15日は「聖母被昇天日」で休診になっているそうです。 そういう意味では、信仰されているんだと思います。 そうでなければ、マリア像なんてできないと思いますが、これは、キリスト教に限らず、原始宗教にも存在した「女性」「母性」への信仰によるものと混じり合った部分があるのではないかと思います。 お気に触られることがありましても、「何も知らない人間が、印象だけで勝手なことを書いている。」とお許しいただけると幸いです。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.1

貴方がお悩みのことは宗教とは全く関係ない、政治の次元でのお悩みですね。人間は政治から逃れることが出来ません。したがってカトリックに行ったとしても、お客さんとしての始めのうちは良いですが、いよいよ本当の会員であると相手が認めた段階で、人間関係のドロドロした政治問題が必ず出て来ます。したがって、今貴方の持っている動機で宗派を代えても、結局同じ問題に悩まされることは目に見えています。 私はキリスト教の信者ではありませんので、外から眺める事しか出来ませんが、私が若い頃にはプロテスタントに説得力を感じておりました。プロテスタントはカトリックの聖書からの逸脱に対する反省を基にして、聖書に帰れと唱えているからです。しかし、歳をとるようになって、今ではカトリックの方にプロテスタントよりも説得力の軍配を上げるようになりました。宗教の本来の目的は人を救うことであって、過去に言われていたことを金科玉条の如く拘って、論理的な整合性を押し通すことはどうでも良いことです。人を救うと言うその本来の目的を実現するためにカトリックではイエスが何と言おうが、彼の言葉を全く無視して、イエスの父、すなわちヤホバを拝む以外にマリアや聖人達を拝むことも認め、また、それを形にした偶像を拝むことも認めております。カソリックの連中がいろいろな理屈を付けて、それは、イエスの言葉とは矛盾していないなんて言っておりますが、そんな子供騙しな屁理屈を本気で受け入れるのは、カソリックの坊主ども以外にはいないでしょう。このように、イエスの言葉を無視してまで本来の目的である人々を救うというイエスの願いを実現しようとしているカソリックに、プロテスタントよりも遥かに成長した宗教の深みを読み取れるような歳になりました。 これは私の個人的な精神史ですので、貴方には貴方の歴史が形作られて行くでしょう。いずれにしても、人間の逃れられない政治的な側面に拘っているようでは、キリスト者にはなれないのではないかと危惧致します。

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