※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。)
認識論の限界と哲学の役割
このQ&Aのポイント
認識論のみでは《しゃべる蛸壺》に終わり、《棚卸し哲学》ではまだショーケースには陳列できない。
理論を掲げてそれを推し進めるだけでは理屈屋でしかない。知識や情報を目指すのではなく、実践に応用できるようにすることが重要。
哲学は現実性をどのように見るか、どのように取り組むかを考える学問であり、価値判断をする役割も持つ。
あるいは 《棚卸し哲学》では まだショーケースに陳列することは出来ない。
あるいは 理論を掲げてそれを推し進めようとするだけでは 理屈屋であるしかない。
理論も知識も情報も その在庫を目指すのではなく そのポケット(倉庫や抽斗)から出し入れすることが出来るようでなくては 認識の蛸壺の中におさまってしまう。
認識から実践へとすすむことを何故しないのか?
実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか?
《口八丁手八丁》では 理論認識が――あるいは 在庫投資が――おろそかになるという理屈であろうか?
要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか?
ちょっと抽象的すぎますか?
ほとんどの日本人は 蛸壺が好きなようだと言いたいのですが。繭を紡ぐのが大好きなようだと。
在庫投資であれば 将来にその壺を開くのでしょうが。
起業すると こんどは開きつつもひとつの党派に固まると思っているのでしょうか?
哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?
お礼
そうだなぁ。 げんみつに言えば: ★★ もうすぐ君はシアワセになれるよ。 ☆ これは 気休めに過ぎない。 気休めに過ぎないという意味は あしたになれば・・・ きっと明日には・・・という先延ばしをしているということ。 永遠に先延ばしになってしまうということ。 たとえば明日は明日の風が吹くというのは 明日に期待を置いているわけではない。そうではなく いまを思い切ったのである。 あるいは 《とき》が満ちるという自然史過程をさとったことである。 すなわち そのいま《シアワセになっている》ことである。 というより すでにシアワセになっているとさとることである。 また《悪党づらした》という言葉があるが これは ほんとうの悪党ではない。 ほんとうの悪党は わたしのように《ぶっきらぼう》がそれだ。何にも言わずに突き放すこと これだ。 あんたは 言ってみれば 介護士みたいにもろもろの細かいことでお世話をしている感じである。つまり 悪党ではない。 悪魔なるわたしなら その相手に 立って歩け! というところである。そう言って ほっぽり出す。 自分自身に自信をいだくのではなく ナゾのなにものかにお任せである。 ちょっときつかったかな。