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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:認識論のみでは 《しゃべる蛸壺》に終わる。)

認識論の限界と哲学の役割

このQ&Aのポイント
  • 認識論のみでは《しゃべる蛸壺》に終わり、《棚卸し哲学》ではまだショーケースには陳列できない。
  • 理論を掲げてそれを推し進めるだけでは理屈屋でしかない。知識や情報を目指すのではなく、実践に応用できるようにすることが重要。
  • 哲学は現実性をどのように見るか、どのように取り組むかを考える学問であり、価値判断をする役割も持つ。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.8

お礼読んだよ。 やあ、私の手法ではね、 > 要するに 回答としても書いたようにすでに死者の国を通り過ぎて来ているのだから 早くそのことに気づいて欲しいし 気づくようにしてやって欲しい。 最近これに手が届きそうなとこまで、追い詰めつつあってね。 死ぬなんて御免だ。 こういう形の開眼から、生きる自らの意思と言うのを自覚させようたという成り行きになりそうだ。 ただし、オカマの懇願がみっともなかったらその限りではない。 タコをどりを面白がっているが、悪党づらした私なりの親切は全うしているよ。

bragelonne
質問者

お礼

 そうだなぁ。  げんみつに言えば:  ★★ もうすぐ君はシアワセになれるよ。  ☆ これは 気休めに過ぎない。  気休めに過ぎないという意味は あしたになれば・・・ きっと明日には・・・という先延ばしをしているということ。  永遠に先延ばしになってしまうということ。  たとえば明日は明日の風が吹くというのは 明日に期待を置いているわけではない。そうではなく いまを思い切ったのである。  あるいは 《とき》が満ちるという自然史過程をさとったことである。  すなわち そのいま《シアワセになっている》ことである。  というより すでにシアワセになっているとさとることである。  また《悪党づらした》という言葉があるが これは ほんとうの悪党ではない。  ほんとうの悪党は わたしのように《ぶっきらぼう》がそれだ。何にも言わずに突き放すこと これだ。  あんたは 言ってみれば 介護士みたいにもろもろの細かいことでお世話をしている感じである。つまり 悪党ではない。  悪魔なるわたしなら その相手に 立って歩け! というところである。そう言って ほっぽり出す。  自分自身に自信をいだくのではなく ナゾのなにものかにお任せである。  ちょっときつかったかな。

その他の回答 (22)

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.2

日本人はなぜ認識論を日常生活で使わないのか 日常で使うことこそ哲学であり、使わないなら何の役にも立たない ってことを言いたいのですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ええ。そのとおりです。  ご回答をありがとうございます。  たしかに日常生活と言えば ここ(哲学カテ)でも人生相談のような質問の場合には 《具体的な実践》としての回答が寄せられます。でも ほかの場合には だいたい《世界はこう見られる》というところまでだと思います。  こう世界が見られるのなら そのあと どうするのか? という問いがあってよいのではないかと。  日常で使えるような哲学(または そのように実践する地点の寸前にまですでに明らかにしている認識論であり思想であるもの)が のぞましい。  こう思っているのですが どうでしょう? という問いです。

  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.1

>ちょっと抽象的すぎますか? というよりも理論が破たんした文章です。 以下は理論的な思考についてのあるサイトからの抜粋です。 『考えを表現する能力は、考えの中身そのものと同じくらいに重要なものです。 インターネット上の議論でよく見かけるのは、自分の言いたいことがうまく伝わらないときに、その原因を相手の読解力の低さに求める人です。しかし実際には書き手側の説明不足に起因することも多々あります。』 『考えを表現する能力は、考えの中身そのものと同じくらいに重要です。例えば多数決の場であなたの意見を通すためには、あなたと異なる意見を持つ者を説得して最多数の支持を得なければなりません。そのためには、異なる意見を持つ者でさえ納得するような、根拠のある論理的な主張を示す必要があります。 日本人のなかには、「主張を述べるさいは正しい結論さえ述べればそれで十分であり、根拠を説明する必要はない」と考える人がいます。しかし、根拠の無い主張が同意を得られるのは、もともと同じ意見を持つ者からだけで、意見の異なる人の同意を得ることはできません。それでははじめから何も主張していないのと同じことなのです。意見の異なる人を説得できるのは根拠のある主張だけです。 ただしその根拠が結論を正しく支えていない主張は非論理的な主張(詭弁)であり、そのような主張が論理的な思考をする人の同意を得ることはできません。論理的な人の同意を得られるのは根拠が結論を正しく支えている論理的な主張だけです。そのことについても第二章以降で詳しく解説します。 もしあなたがはじめから思想的な多数派に所属しているのなら、たとえあなたが根拠のない非論理的な主張をしたとしても、あなたと同じ意見を持つ多数の人からの同意を得ることができます。それによってあなたは知的な気分に浸るかもしれません。しかし意見の異なる者に対しては全く影響力がないので、やはりなにも主張していないのと同じことなのです。』

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆ (趣旨説明欄)  ~~~~~~~~~~~~~  認識から実践へとすすむことを何故しないのか?  実践という出発点に立つことまでは むしろその理論認識の範囲内でおこなっているというのが 哲学なのではないか?    要するに 哲学は 現実性をどのように見ているのか? あつかうのか? あつかうのがふつうではないか?  哲学も 価値判断をする。のではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これらのくだりは 掛け値なしの表現ですから 分かってもらわねば困ります。  ご回答に感謝しつつも 中身は 勇み足ですね。それをねらった――ようなかたちになってしまいましたね。釣ってしまいましたね。ふらうさん。

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