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「よもの海みなはらからと…」が歌われた状況を教えて
「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」 意味の深い歌ですが、明治天皇が歌ったそうですね。その際の状況を教えて下さい。 1、この歌が作られたのは、明治37年だそうですが、この年2月8日に日露戦争が開戦しました。 開戦前に歌われたのですか? あるいは、開戦を考慮中に歌われたのですか? あるいは、開戦後に歌われたのですか 2、明治天皇は、当時、この歌を他人に公表したのですか? あるいは、暫く彼の胸の中にしまっておいたのですか? 宜しくお願いします。
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1)日露開戦の直前のロシアとの国交断絶(2月6日)を決定した御前会議でです。 国交断絶⇒開戦、はこの時決定されました。 2)関係者には公表されています。 しかし日露戦争当時にどの範囲まで公に知られていたかは判りませんでした。 この歌と太平洋戦争開戦の関連は興味あります。 以下は、ご質問に沿ったネット検索の結果です。 明治37年(1904年)2月4日、日本は御前会議を開き、ロシアとの交渉を打ち切り 軍事行動に移ることを決議しました。2月6日、栗野慎一郎駐露公使がロシアに 国交断絶を通告しました。 http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/seiji01_detail.html この御製は1904年にロシアと国交断絶した御前会議のあと詠まれたものだ。 それは明治天皇が「これは朕の志でないがやむをえない」ともらして詠んだ歌だ、 と側近が書いている。 http://agora-web.jp/archives/1598697.html 日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に 対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89#.E9.96.8B.E6.88.A6 この明治天皇の歌が、太平洋戦争開戦の決め手のように使われたと平山の 著書は読み解いた。 日露戦争の開戦にあたって、明治天皇には危惧があった。世界は全てが 兄弟姉妹である平和な時代であると思っているのだが、どうして波風が 立つような動乱の兆しがみえるのだろうか。このような内容になる。 一読、戦争忌避、平和愛好を感じて不思議ないだろう。 明治天皇の御製を二度朗読あらせられ『自分は常に明治天皇の平和愛好の 精神を具現したいと思っておる』とお述べ遊ばされた。」 「よもの海」の歌は、明治天皇が日露開戦当初に詠んだ和歌で、「そして畏多い ことながら、今上陛下の大東亞戦に臨ませられる大御心も明治天皇と いさゝかもお変りあそばされぬのである」(朝日新聞記事)と。 http://www.sunagoya.com/tanka/?p=12584
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- drmuraberg
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歌が詠まれた当時、どの範囲で知られていたかは定かではありません。 御前会議には指導的政治家と軍人が多数出席していた訳ですから、 日露戦争中および戦争直後では、上層部の人々は誰もが知っていたと 推測できます。 一般に知られるようになったのは、それほど遅くない時期で、日露戦争の 様々な行動が美談として語られ出した頃からと思います。 昭和天皇との関係は逆です。 昭和天皇はこの歌を引き、開戦に消極的に反対したと解釈されています。 しかし、朝日新聞に代表される民間は開戦に賛意を示したものと解釈し、 国民の決意を固め戦意を高めるためにこの歌を利用しました。 太平洋戦争の頃は、あの朝日新聞が最も愛国的で戦意高揚に熱心でした。 今手元に、つい最近田舎の蔵で見つけた昭和13年10月21,22日の東京朝日 新聞が有ります。記事の大半は日華事変の中国戦線関連です。 「紙一重の重さに喘ぐ、難行軍、泥と特派員、恵州へ地獄の四日間」、 「市外へ僅かに三里半、広東陥落いまや寸前、わが新鋭続々上陸中」 等など。 地方版には戦死者(論功)名簿が有ります。 「不滅の殊勲甲に輝く、郷土誉れの八勇士、・・・」 ちょっと脱線でした。
お礼
再度のご回答ありがとうございました。 紹介して頂きました”昭和天皇「よもの海」のなぞ”を早速、読んで(拾い読みですが)います。 この本によると、2月4日の御前会議の後,昭憲皇后に <・・・国交を断行することとなった。これは朕の志でないが止むを得ない」と漏らした際に「よもの海」 が詠まれた・・・> となっていますね。 下世話な言い方にすれば、明治天皇は、身近な親しい人に愚痴を言った際に、この歌を詠んだ、ということになるでしょうね。 次に、先々代の天皇のこういう行為をおそらく知っていた昭和天皇は、どういう意図でこの歌を詠んだのか、関心があります。 すなわち、開戦を思い止どまらせようとしたのか? あるいは、開戦は止む得ない、と暗に承認したのか?
- chomicat
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唱歌じゃあるまいし・・。 天皇の咏は御製(ぎょせいと云います) 70年も前だと明治天皇の御製を剣道場で唱和するのは常でした。 日露戦争前に御詠になった御製は明治天皇の已む無く開戦するに対する本当のお気持ちであったのではないでしょうか。 又、御製は全て印刷されて出回り、小、中学校の教育の場で盛んに使われました。 皆で唱和します。 何故戦争に入らなければならないのかとのお気持ちがあったと思います。 昭和天皇は昭和16年9月6日の御前会議で、普通は発言をなさらなかった天皇が統帥部が陛下の質問に対し満足せる答えを出さなかったことに対し、懐の短冊を取り出しこの明治天皇の御製をお詠みになり、已む無く開戦の詔(みことのり)を詠まなければ為らなかった事は昭和天皇には戦争を回避したいと云う気持ちが少しでも在ったのではないでしょうか?
お礼
早速のご回答ありがとうございました。 <御製> ですね。昔なら、不敬罪かもしれませんね。 ところで、質問のように当時の事情が知りたいのですが。
お礼
調べて頂いたご回答ありがとうございました。 1、側近によると <この御製は1904年にロシアと国交断絶した御前会議のあと詠まれたものだ。> ということですね。 2、範囲は不明なれど <関係者には公表されています。> ということですね。 そして、側近は <明治天皇が「これは朕の志でないがやむをえない」ともらして詠んだ歌だ、> ということでっすね。 これらの事情を知っていた昭和天皇は、この歌によって、「日露戦争と同様に、大東亜戦争の開戦も、止むをえない」と消極的に賛成する(追認する)と意志表示をしたと、私は考えますが、いかがでしょうか?