>ラッパ節は~結構、辛辣な歌詞が並んでいて、こんな唄を歌える時代があったのは意外です。
確かに明治期は、自由というか大らかな時代だったようで、たとえば明治10年(1877年)、西南戦争当時に流行った「いっちく、たっちく」の歌詞は「♪いっちくたっちく、竹橋の赤いシャッポの兵隊さん、なに食うお芋食う、サツマ芋食ってプッププー」というものでした。その他時代不詳ですが「♪いやじゃありませんか軍隊は‥」(軍隊小唄)、「♪御国のためとは言いながら人の嫌がる軍隊へ‥」(初年兵哀歌)、「一つとせ人のいやがる軍隊へ志願で出てくる馬鹿もある‥」(数え唄)などなどありますし、明治期の有名な軍歌「雪の進軍」(永井建子)の歌詞「♪命捧げて出てきた身ゆえ死ぬる覚悟で突喊すれど武運つたなく討死せねば義理に絡めた恤兵真綿そろりそろりと頸締めかかるどうせ生かして還さぬつもり」などもかなり辛らつではないでしょうか。
>こういう自由な空気は何時頃まで続きましたか。転換点となった事件や法律を挙げることができますか。
昭和11年の二・二六事件、つづく国民精神総動員と布石になる事件や風潮が育まれ、そうして転換点は、やはり昭和13年(1938年)の国家総動員法公布ではないか、とおもいます。つまり支那事変で南京攻略を果たした後も国民政府を屈服させられなかった、という事実が統制時代を招いたということです。
軍歌の観点から申しますと、少なくとも満洲事変当時はまだ、それほど窮屈な感じがありません。たとえば「守れ満蒙の生命線」の「♪第一線に花と咲くヤング日本の男児あり」という歌詞なんか大正モダンの名残が、また「討匪行」には「♪いななく声も絶え果てて倒れし馬のたてがみを形見と今は別れ来ぬ」とか「敵にはあれど遺骸に花を手向けて懇ろに興安嶺よいざさらば」など、歌詞にヒューマニズムが感じられます。
ただし、太平洋戦争当時でさえ巷では「♪見よ東條のはげ頭‥」(「愛国行進曲」の替え歌)とか、「♪金鵄上がって十五銭~ああ一億は皆困る」(「紀元二千六○○年」の替え歌)と密かに唄っていたそうです。
>「今なる時計は八時半」とありますが、この刻限には、どんな意味がありましたか。
休日における歩兵外出の帰営時限を指します。夏季は午後八時でした。外出範囲は衛戍条令に基づき、例えば歩兵は所属連隊の警備区域内に限るとされ、騎兵は外出範囲の規定がなく帰営時間も午前0時までという兵科による特徴がありました。
※資料=『兵隊たちの陸軍史』 伊藤桂一(番町書房)、『戦争文学全集 別巻』(毎日新聞社)、『グラフィックカラー昭和史 6 太平洋戦史 前期』(研秀出版)
お礼
二・二六事件、国民精神総動員運動、国家総動員法公布という流れでしたか。「国民精神総動員運動」は言葉としても、この度初めて知りました。生齧りですが二・二六事件の時代背景が少し分かっていたので、これがキーワードになり暗い時代へと変化していく因果関係が少し掴めました。 誰もが勝てないと思っていて、誰もが勝てると発言するのは不可解ですが、今も基本構造は変わらんなぁと、思います。内部告発というものが少しずつ出始めてはいるようですが。 歩兵や騎兵など所属によって門限に違いがあったのは承知しました。 有り難うございました。これまでのお答で十分ですが寄稿の準備をされている方があっては、いけないので午前中は締め切らないでおきます。またの機会にもよろしくお願いします。