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江戸患い(脚気)の実態とは?大流行の理由は?
- 江戸患い(脚気)は元禄年間に武士から広まり、文化・文政時代に町人にも大流行しました。
- 白米を主食とした江戸勤番が長期滞在したことが、脚気の大流行の一因とされています。
- 江戸の町民が白米を常食とするようになったのは、元禄年間から百年後になってからであり、この記事は確かな情報です。
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他の方の回答で充分なはずなのですが、得心をしていないようですね。 逆に考えてみては? 玄米と食べ比べれば、当然ですが、銀シャリの方が遥かに美味いです。 栄養学の知識が無ければ、美味しいと思う方を選ぶのは、人の性でしょう。 一度覚えた味は中々忘れがたい物です。 更に白米の方が炊飯の時間も短く、薪炭の節約にも繋がります。(江戸では薪炭は購入しなければならない) 搗き米屋が承応(1652~55)から明暦(1655~58)にかけて登場したようで、此処いら辺りから、江戸では徐々に白米が流通の主流になったようです。 しかし落語の「搗屋無間」である様に、米搗き人夫の給金は安かったようで、実態は出稼ぎが主だったようです。 其のお陰で白米も安く流通出来たという訳ですね。 確かに脚気に玄米や小豆・芋等が効果があるとは経験的には知られていた節も見られますが、白米に慣れた江戸っ子には受け入れられなかったようです。 好きな人間は猪肉等も、薬として食べていましたから、結局は好みで白米ばかりを食べ続けた人間が、罹患したのでしょう。 決して白米以外の食材が存在しなかった訳ではないです。 >江戸中期以降は、脚気に罹っても対症療法を知っていて問題化しなかった、と想像しています。 “江戸煩い”は、『牛山活套』(1669年)に出てきていますから。 他の方へのお礼文ですが、此れは間違いです。 旧日本軍も脚気には悩まされていました。 現実に江戸時代に脚気医は存在していましたが、其の効果は推して知るべしで、徳川家茂も脚気が死因だとも言われています。 栄養学はこの時代にはありませんでしたので、原因がそもそも判っていませんから、「米信仰」とも言えるほどの日本人の米好きを覆す力は無かったようですね。 また一汁一菜の言葉が表しているように、食事とは「米」を食べる事で、一汁一菜は見ようによっては米の「調味料」の役割しかありませんでした。 一菜に糠漬けを食べていれば、幾分は効果もあったでしょうね。
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白米病の江戸煩と焼き芋 - JRT日本いも類研究会 www.jrt.gr.jp/diary/nikki_56.html 抜粋 米価は江戸時代前半は高値で推移した。 米が不足気味だったからである。それが中頃の享保期(1716~36)から下落に転じた。享保の中頃の米価はその初年の半値になった。米の生産力が上がってきたのに、その大消費地である三都(京郡・大阪・江戸)の人口増がその頃から止まったままになってしまったからである。 ところが諸色は米価下落に連動せず、逆に上昇に転じた。享保より前の元禄(1688~1704)の頃から都市の人々の暮らしが派手になり諸色の需要が増えた。だが供給力は低いままのものが多く、それらの品不足状態が続いたからで、世は「米価安・諸色高」となった。 それにつれて起った社会間題の一つに脚気(かっけ)の多発があった。それはビタミンB1の欠乏からくるもので、死亡率の高い病気だった。江戸と大坂での発生がとくに多く、前者では「江戸煩(えどやみ、えどわずらい)」として恐れられた。 ビタミンB1は玄米にはあるが、白米にはほとんどない。最初は玄米をたべていた江戸の人たちがだんだんぜいたくになり、白米をたべるようになったのは元禄の頃からで、それとともに脚気がでやすくなった。その辺のところを土肥鑑高氏は『米の日本史」(雄山閣、2001)でこう説かれている。 享保改革の米価政策 くそのー) www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu... 米価 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/米価 大江戸経済学 江戸時代の歴史観が変わりつつある - インターネット www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/edo.html 新しい歴史教科書・その嘘の構造と歴史的位置・近世の日本:28・幕府 ... www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-28.htm 江戸時代の経済 2009年4月号|環境レポート|NPO法人ネットワーク ... www.chikyumura.org/environmental/report/2009/04/01114133.htm... 抜粋 〔大工さんの場合(江戸中期、夫婦と子ども1人)〕 ・収入:金約26両(1日4時間半程度の労働を約300日) ・だいたい月に2両ほどで生活していた。食費が約70%、 その内、米が23%。家賃が8%など 〔農家の場合(江戸後期、江戸近郊、夫婦と子ども1人)〕 ・収入:金約47両に相当(米20石、麦、大根などの収穫) ・年貢(米5石)や地代、翌年分の種籾、運賃などの必要経費で約30両。 残り1/3(約16両分)で生活(主食6石、塩・農家具7両など、野菜は自給) 〔下級武士の場合(江戸後期、夫婦と子ども1人、下男下女を1人ずつ)〕 ・収入:金約28両(70俵5人扶持) ・主食(米)7両、衣食費9両、下男下女の給金4両など 新蕎麦 - 暦生活 www.543life.com/syuncolumn2.html 抜粋 江戸の飲食店の半数は、蕎麦屋でした。それほど人気があったのでしょう。武家では脚気の出やすい夏に麦飯をふるまう風習もありました。昔の人が一汁一菜で健康を保てたのは、精製しない玄米や雑穀に含まれた豊富なミネラルやビタミンのおかげだったのです。フランスのブルターニュ地方では小麦が育たなかったためにそば粉を主食とし、パンの替わりにそば粉を使ったクレープ、ガレットが郷土食として知られています なぜ「そば」は江戸で好まれたか - Biglobe www5e.biglobe.ne.jp/~soba/sobanazenaze/nazeedodesobahakonoma... 抜粋 こんな江戸で、そばが食べられたのには、ふだん、白米ばかり食事をしていた事と関係があります。「お天道様と米の飯はどこでもついてくる」などと大きな口を利いていたように、江戸庶民はわずかのおかずで、白米を大量に食べました。その結果、ビタミンB不足になり、脚気を患います。この病気を「江戸わずらい」といいました。江戸の地方病です。関西では、普段の常食には、白米ばかり食べず、麦や豆類を混ぜましたので、この心配はありませんでした
お礼
ご回答ありがとうございます。 私の質問は、文化・文政の頃に脚気がなぜ町人にも大流行したのですか、というものです。 「白米病の江戸煩と焼き芋 - 日本いも類研究会」の中に、回答が示されていました。 根拠は、土肥鑑高著『米の日本史」(雄山閣、2001)に下記のように説明されているそうです。 (以下引用) 江戸で脚気が大流行したのは米価の下落がひどかった享保・宝暦期(1716~64)と文化・文政期(1804~30)だった。白米だけが安く、それ以外のたべものや食材は高いとなれば、白米の多食で食事をすませてしまう人が多くなる。それがその原因だったと。(引用終わり) 文化・文政期は白米だけが安かったから、という理由ですね。 そう言われると素人の私は納得するしかないですが、しかし、米価は明和元年(1764)から天明元年(1781)間も安いので、少し疑問が残ります。 何か他にも理由がありそうです。 質問する前に小野武雄著『江戸物価事典』他で米価については調べておきましたが、越後屋呉服店の「小遣目録」に依拠しているようです。 米価は、季節、月、産地で異なるから慎重に比較せねばならない、ということを知りました。 町人より困窮していた下級武士は、元禄期以前にすでに“江戸患い”は経験すみなので、 江戸中期以降は、脚気に罹っても対症療法を知っていて問題化しなかった、と想像しています。 “江戸煩い”は、『牛山活套』(1669年)に出てきていますから。
- eroero4649
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白米を食べるか玄米を食べるかは、お金とかの問題というより、精米技術が普及していたかのほうが大きかったと思いますよ。それを専門に研究したのではなく、ほんの何冊かの本を読んだだけの知識で恐縮ですけどね。 江戸時代は精米技術がそれほど普及しておらず、ゆえに「江戸患い」だったようです。明治以降に精米技術が全国に普及すると、たちまち脚気は日本人の「国民病」として爆発的に増えることとなりました。 ところが当時は脚気の原因がビタミン不足だとは分からなかったのです。しかも欧米ではほとんど見られない。で、原因が特定されるまでは「風土病(細菌)説」と「栄養不足説」に分かれていたのです。 あの森鴎外先生が風土病説の論客の一人でした。鴎外先生は陸軍軍医総監だったので、結果的に陸軍は風土病説にこだわってしまい、日露戦争でも多くの脚気の患者を出してしまいました。 一方、海軍は日本以外のアジア地域でもあまり目立たないことから、栄養不足説をとっていました。そして海軍が目を付けたのがパンです。「欧米で脚気がほとんど見られないのは、パンを食べているからだ」と思ったのですね。ところが思わぬ問題が発生しました。地方出身でパンなんか見たこともない水兵たちが「あんなもんを食うくらいなら死ぬ」と猛反発したのです(本当)。「木村屋の創始者木村安兵衛が日本人がどうしてもパンを食べてくれないので中にアンコを入れてアンパンを作った」という有名な話がありますが、日本人のパンアレルギーには苦労したようです。 それで、困り果ててたどり着いた先があの、「カレーライス」だったのです。カレーライスを食べると栄養のバランスがとれて水兵の脚気が激減したので、海軍は栄養不足説に大きな自信を持ったのですが、陸軍では軍医総監であり文学界の重鎮である森鴎外先生のご意向をないがしろにできないので対応が遅れてしまいました。鴎外先生は生涯風土病説にこだわってらっしゃったようです。 江戸・明治時代の日本人は年間180キロくらいのお米を食べていたようです。現代人の消費量が約60キロですから、3倍です。「今の3倍コメを食え」となったら、とてもおかずを食べてはいられないですよね。 実際、玄米は完全栄養食と呼ばれていて、それだけ食べていれば死なないのです。不足するのはタンパク質とカルシウムで、だから昔の日本人は背が低かったのです。江戸時代なんて男性の平均身長が150センチ程度ですからね。 面白いことに、どうも縄文人のほうが背が高かったらしいのです。出土する骨を比べると、江戸時代の人より縄文人のほうが背が高い。様々な食品を口にしていた縄文人のほうがタンパク質やカルシウムをとっていたようです。 戦後、日本人の体格は「生物学的に異常」なほどに良くなりましたが、それは食事の洋食化にあったのはいうまでもありません。牛乳飲んで肉を食べるようになったので劇的に背が伸びたのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >江戸時代は精米技術がそれほど普及しておらず、ゆえに「江戸患い」だったようです。明治以降に精米技術が全国に普及すると、たちまち脚気は日本人の「国民病」として爆発的に増えることとなりました。 なるほど、明治になってから爆発的に増えたのですね。 ただ、私の疑問は、文化・文政期に町人の脚気が大流行したのはなぜ、というものです。 江戸の庶民は、下級武士も含めてこの時期、白米を従来以上に食べるようになったのには何か理由があったと思います。 玄米を買っても米搗き賃も要りますから、例えば、庶民が米屋から白米を容易に買えるようになったのも一因ではないか、という想像です。 また、文化・文政期を過ぎると脚気が下火になったのであれば、それは、食生活が変わったのか、あるいは脚気の効果的な対症療法を見つけたのか、これも疑問です。 屁理屈ばかり書いてすみません。 木村屋のパンの話は参考になりました。
- lotus_exige
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kouki-koureisya 様、 URLを提示して該当部分をコピペします。 http://www.maisen.co.jp/jiten/genmai-eiyo.html コピペ部分です。 『玄米は、白米よりも、ビタミン・ミネラル・食物繊維を豊富に含んでおり、人間が健康を保つために必要とされる栄養素をほとんど摂取できるため、完全栄養食と言われています。栄養バランスのとれた食事の例として、「1日30品目以上」と言われることがありますが、これはあくまでも白米を主食にした場合のことです。逆に言えば、白米を主食にした場合には、1日30品目以上の食品を摂取しなければ、健康を維持するための栄養素が不足する、ということです。 玄米を主食にした場合にはその必要はありません。昔の人が、「一汁一菜」でも健康でいることができたのは、玄米を主食にしていたからなのです。』 ★更に解説しますと、白米を食する時は副食として30品目以上必要ですが、精米する前の玄米だけだと、副食が無くても玄米のみで人が必要とする栄養素を殆ど摂取可能です。元禄年間に日本人の食生活が以前に比べると贅沢になってきましたが、この時代の知識では、白米だけの食生活では栄養素が不足して脚気になることを知りませんでした。ですので、江戸で美味しい白米を食しても、他に必要な動物性蛋白質やビタミンなどが豊富な副食を食べることが出来ませんでした。これが、脚気の主因です。 ★余談ですが、江戸時代が終わり、明治維新以降、日本は近代国家らしく兵制を充実しました。その時に、陸海軍ともに軍隊内で兵士の脚気が流行しました。その対策として、陸軍は給食を主食を白米食から玄米食へ切り替えると脚気が激減しました。海軍は艦艇での給食をフランス料理を参考に洋食に切り替えました。そうすると脚気が激減しました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >★元禄年間に日本人の食生活が以前に比べると贅沢になってきましたが、この時代の知識では、白米だけの食生活では栄養素が不足して脚気になることを知りませんでした。 栄養素に関する知識は乏しかったのかもしれませんが、武士階級は参勤交代で上京した経験から白米飯は何かおかしいと、気づいていたのではないでしょうか。 「文化・文政の頃に町人にも大流行した」のは、例えば、江戸では米の値がうんと安くなって野菜や麦その他が高くなったとか、炭や薪の値が高くなって一膳飯屋の白米飯が安くて旨いとか、米搗き賃が安くなったとか、何か町人が白米飯に飛びつきたくなるような理由があったのではないかと想像していました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 総論、全体像はよく分かるのです。 「文化・文政の頃に“町人”にも大流行した」とありますから、その頃、江戸の多くの町人が、白米飯をごくわずかなおかずでどんどん食べていた、と推定できます。 そこで、町人にも大流行した背景は何ですか、という疑問です。 懐具合が良くなって、あるいは悪くなって、食生活が変わったのですか、という疑問です。 文化・文政期を過ぎて天保期に入ると米価が高騰しましたから、脚気も下火になったのでしょう。 つまり、米価と脚気の発生は関係ありそうです。 しかも、対症療法を町人の多くは知らなかった、と推定できます。 銀シャリが美味いのも分かります。 白米の丼飯が二八そばより安かったという説もありますから、長屋住まいの住民もやむなくおかずなしの白米飯を食べたのかな、と想像しています。 >搗き米屋が承応(1652~55)から明暦(1655~58)にかけて登場したようで、此処いら辺りから、江戸では徐々に白米が流通の主流になったようです。 そうなんですか! 私は、米搗きの普及と何か関係がありそうと思っていたのですが、そんな昔から、米搗きが普及し始めたのですね。 “江戸患い”は、近現代になって歴史の研究が進み、再認識されたのでは、と思うようになりました。 江戸時代のだれかの随筆にちょっと出てくる話のような気がします。 江戸時代、そんな病と対症療法は武家のごく一部の人が知っていただけので、文化・文政期に町人層に大流行したのでは、と今のところ思ってています。