• 締切済み

小説家は何を目的に書くのですか?

小林多喜二などは、その意図・目的は分かるんです。 漱石もエゴの追及ということで、分かるんです。 芥川龍之介も夫々の短編に問題提起があって、分かるんです。 しかし、川端康成の「雪国」を今、読んでいますが、この人は何を言いたいのか、何を描写したいのかが分かりません。この作品はノーベル文学賞の審査対象になった作品だそうで、内外で評価が高いそうですが、辻褄の合わないヘンな表現が多いですね。美しい日本語とのことですが、どこが美しいのか分かりません。むしろヘンな日本語での描写が多く、スラスラと読めません。 彼の他の作品は読んでおりません。 そもそも、明治以来、日本にはどっさり小説家が出ました。彼らは一体、何を言いたくて小説を書くのでしょう? 芸術家は美を追求したいからです。自然界の真理を知りたい人は科学者になります。経済人は金を儲けたいからです。権力欲が強い人は政治家になって大統領になりたがります。そういうことで言うと、小説家というのは、何をどうしたい人がなるのでしょう? あらためて考えている今日この頃です。よろしくお願いします。

みんなの回答

  • Ganymede
  • ベストアンサー率44% (377/839)
回答No.9

ご質問者は「木に縁りて魚を求む」の弊に陥っているかも知れません。魚を求めるなら魚屋さんへいらっしゃるべきでしょう。 (1) 「月の夜が深いように思われる。深さが横向けに遠くへ感じられるのだ。」(川端康成 『山の音』) についてであるが、「この表現のどこが……」を知りたいなら、修辞法一覧のような本を読もう。それがこの場合の魚屋さんだろう。修辞法も勉強(独学も含む)せずに、感性で理解できると思うのは、横着者ではないか。 著者の川端も、東大文学部在学中、海外の名作小説の翻訳を読み耽ったという。彼は英文科に入学したのだが、英語力があまり伸びなくて国文科に転科した。講義には出席していたが、先生から見えないように座高の高い学生の後ろに座り、教科書ではなく翻訳小説を読んだらしい。それがすごい速さで次々に読了していたそうだ(彼のクラスメートの回想による)。 そもそも修辞法とは、古代ギリシャや古代中国などの昔から華々しく発達を続けてきたものであって、川端も西洋文学をたくさん読み勉強して身に付けた。 とは言っても、偉そうに書いてる私は学がないので、具体的に川端の『山の音』の表現が何という修辞法かまでは指摘できないが、「常識に逆らって言って伝える」レトリックだろうと思う。 だいたい、深いといえば闇夜だろうに、月夜が深いとは、これ如何に。少し月明かりがあるほうが、かえって夜の深さが感じられるということだろう。すなわち、「常識に逆らって言って伝える」技法である。 ここで想起されるのは、例えば芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」だ。セミが鳴けばうるさいに決まってるのに、かえって閑かさが感じられたのだった。 この句が詠まれたのは山形藩の山寺で、険しく切り立った岩々の横穴に古い人骨が納められているそうだ。したがって、「セミは今うるさく鳴いているが、その声もあの岩穴に吸い込まれていって、やがて静かになってしまう(亡骸になる)」という詩想だったのかもしれない。 しかし、我々は詩歌を解説付きで鑑賞するとは限らないので、やはり「うるさいセミのおかげで、かえって静かさを感じた」というレトリックの妙を大切に味わいたい。 また、深さといえば鉛直方向なのに、それが横向けに遠くへ感じられると川端がいうのも、これまたレトリックの妙である。いわば「縦のものを横にして」伝えているわけだ。俗にいう「鼻を摘まれても分からない」闇夜だったら、横の広がりも分かるまい。しかし月夜ならば、横方向の遠さに気付いて、かえって夜の深さが身にしみてくるだろう。 以上は、私なりの小理屈に過ぎないが、感性感性と言うひまがあったらちょっとは勉強してみたらどうでっしゃろっちゅう話である。 (2) それにしてもだ、川端文学はなぜ新感覚のレトリックをあれほど駆使したのか。答を求めて川端の精神遍歴をたどろう。自伝的な作品などが、この場合の魚屋である。繰り返し言うが、魚を求めて八百屋などへ行くな、魚屋へ行け。 例えば『十六歳の日記』という作品がある。川端が27歳のとき、伯父の家の蔵を整理していて偶然見つかった、16歳時の日記と伝えられている。 川端は幼少期から肉親を次々に失った。父が死に母が死に、祖母も姉も死んだ。川端少年は祖父と二人暮らしになった。その祖父は白内障で目が見えず、耳も遠く、寝たきりだった。 財産は多少あったらしく、通いのお手伝いさんもいた。しかし、住み込みではないから夜はいなくなる。川端少年が祖父の介護をしなければならない。尿瓶で排尿させる。健常者なら排尿時に爽快感もあるが、祖父は排尿のたびに強い痛みを訴える。そのうめき声。祖父は死期が迫っていた。 鋭い頭脳を持っていた川端は、こうして、早くから人生のはかなさを悟った。私たち凡人は、人生というものが確かに存在して、それを飾るのが文学などで、文章のレトリックなどふわふわしたものだと思っている。しかし、川端は人生よりも文章に命を懸けた。文章の美こそが命であり、人生ははかない。そんな思想の川端が、作品をほとんど書かなくなったのちに自殺したのも、避けられない運命だったと思われる。確かに、川端は死んでも、川端文学は死なない。 (3) 川端以外の小説家は何を言いたくて小説を書くか。それを知るには、それぞれの小説家の遍歴をたどったり、文学史を調べたり、文芸理論を勉強したりしてください。それがこの場合の魚屋さんだと思う。 芥川龍之介 『澄江堂雑記』(青空文庫) http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3745_27318.html 〔引用開始〕 十五 比喩  メタフオアとかシミリイとかに文章を作る人の苦労するのは遠い西洋のことである。我我は皆せち辛い現代の日本に育つてゐる。さう云ふことに苦労するのは勿論、兎に角意味を正確に伝へる文章を作る余裕さへない。しかしふと目に止まつた西洋人の比喩の美しさを愛する心だけは残つてゐる。 「ツインガレラの顔は脂粉に荒らされてゐる。しかしその皮膚の下には薄氷(うすらひ)の下の水のやうに何かがまだかすかに仄めいてゐる。」  これは Wassermann の書いた売笑婦ツインガレラの肖像である。僕の訳文は拙いのに違ひない。けれどもむかし Guys の描いた、優しい売笑婦の面影はありありと原文に見えるやうである。 〔引用終り〕

rsemq819nl
質問者

補足

修辞法を勉強しなければ、彼の文章を理解できないとは、何とまた厄介な文章でしょう。修辞法を体得していなければ彼の文章が駄文に見え、体得していたら素晴らしい文章に見えるということですね。しかし、一応この文章の修辞法的説明を貴方から聞いたんですが、それでも尚、駄文にしか見えません。修辞法を知っても知らなくても、結果は同じですね。 西洋文学を読んだということと、彼の修辞法を結び付けて素晴らしいと結論されていますが、西洋文学を読む人はいっぱいいます。私の周りには2人いました。大学の4年間で日本語に翻訳されている欧米の文学哲学書を全て読んだ素晴らしい先輩がいました。彼の文章会話は明晰で川端とは全く違いますね。西欧文学をどっさり読んだことが、彼の文章が素晴らしいことの証明にはなりません。直接の関係はありません。 >>ここで想起されるのは、例えば芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」だ。 同じレトリックとのことですが、芭蕉はストレートで川端のようなもって回った言い方はしませんよ。「荒海や佐渡に横たふ天の川」勇壮でストレートです。川端の自然描写はゴテゴテとしています。 静寂に身を置くと、耳の奥でキ~ンかシ~ンかそういう音がするのを経験します。そういう経験が誰でもあるから、この句は修辞法ではなく、ストレートに読めは誰でもスッと入って来て理解できます。川端のものとは似て非なるものです。 芥川の文章も、時々こ難しいものがありますが、何について書いているものでも、川端のようにヘンなものはありません。ちゃんと理屈は通っています。 多くの作家は、作品を読めばその意図が理解できるのに、川端に限り、小説家の遍歴をたどったり、文学史を調べたり、文芸理論を勉強したりしなければ分からないとは何と厄介な作家なんでしょう。 ノーベル賞受賞が決定した翌日に、伊藤整と三島由紀夫と川端康成が談笑していました。今でもYouTubeで見ることができます。両人は川端にべた惚れで、アバタもエクボ状態になっていて、客観的な意見は聞けないなと思いました。川端の作品は「構成」のないのが特徴だといって褒めておきながら、その直後に、この作品は構成がしっかりしていると、また褒め、要するに、川端が何をやろうが全て褒めるのです。これを私は「アバタもエクボ状態」というのですが、貴方もその傾向があるように見えます。 奥野健男もそうですが、貴方も彼が自殺したとした方が、彼の人生を美化できるからそうしている。しかし、私がみるところ、実際は事故死の可能性の方が強い。老人がストーブの扱い方をよく知らずにガスが充満して死んでしまった。これでは余りに平凡過ぎてドラマがない。彼を素晴らしいと褒める人たちはどうしても自殺説を取りたがる。 >>(2) それにしてもだ、川端文学はなぜ新感覚のレトリックをあれほど駆使したのか。答を求めて川端の精神遍歴をたどろう。自伝的な作品などが、この場合の魚屋である。繰り返し言うが、魚を求めて八百屋などへ行くな、魚屋へ行け。 例えば『十六歳の日記』という作品がある。川端が27歳のとき、伯父の家の蔵を整理していて偶然見つかった、16歳時の日記と伝えられている。 貴殿は日記というものに真実が書かれていると無条件に信じているようだが、日記にすら人は自分をよく見せるための細工をすることを知らないようですね。自伝というものを丹念に研究して、その人間の全てを知ったような錯覚をしている研究者がいるが、滑稽だ。宮城音弥が漱石の妻の書いたものを読んで漱石を分裂病患者と見破ったが、私の手法もそうしたい。川端は京都に接する大阪の最北部出身でそこで18歳まで育った。人は誰でも育った土地の影響を100%受ける。村上春樹も似たような環境だ。私は彼のエルサレム演説を読んで、そのもったいぶった言い方に反吐が出たが、川端も彼と同類なのだ。俗世間の成功を求め、"格好いいもの"(川端にとってはこれが、美しいものに置き換えられている)を追い求める。 >>川端は、こうして、早くから人生のはかなさを悟った。 はかなさを悟った人間が、何故アレほどノーベル賞を有り難がるのでしょうか?合いませんね。YouTubeを見たら分かります。俗世間の賞を非常に有り難がっていますよ。ペンクラブの会長を勤めたり、彼は俗世間とのつながりを非常に喜んで生きた人間だと思います。漱石ならノーベル賞も辞退したと思いますが、彼は喜んで受け取りました。 >>文章の美こそが命であり、人生ははかない。 もったいぶった人間はこういう類の文章が大好きです。こういう風に書くから、当然川端の文章には美があるに違いないと思ってしまう。しかし実際に点検すると寧ろ逆であることがわかる。日本人の基本的性格はもったいぶったことが大好きな人種だから、川端のもったいぶりが見えないのだろう。しかし、私には見える。

回答No.8

好みの問題というと また問題になりそうですから 違う表現でいいますと 「自分のなかにあるかどうか」です 作品が自分の中に先にあったかどうかです 多喜二、漱石、芥川はわかるというのは 先に自分の中に実体の無いモノがあり それが形として文章になっていて 自分で理解できる、わかるわけです つまり この「雪国」がよく理解できなかったというのは あなたの中になかったのです 詩や小説、音楽もそうですが 人のつぶやきです そのつぶやきがどのくらい共感されて 普遍的であるかどうかで 読まれたり聞かれたりする 量が決まります しかし全員ではないことは確かです 本がたくさん読まれようが 音楽がヒットしようが 自分の好みでなければ スルーします その場合 わたしは作者に文句をいうのではなく 自分自身に向けて 普遍的な(流行の)感覚の欠如に 自信をなくします 音楽でも小説でも 作者に何が言いたいのかを問うのに 疑問をもちます 作者が大学の試験問題に出て 自分で作者の意図がわからなかったという話が あります そういうもんです 明治以来、小説家なんて 何万人と出たでしょう それを 一言で何が言いたいのかと 問うのは無理というものです それぞれなつぶやきですから そこに共感する人がどのくらいいたか どうかであって 問題は作者ではなく 読者にあるはずです 作者のぼそぼそとしたつぶやきを 大きい声にしているのは読者ですからね

rsemq819nl
質問者

補足

回答ありがとうございます。 >>つまり この「雪国」がよく理解できなかったというのは あなたの中になかったのです その場合 わたしは作者に文句をいうのではなく 自分自身に向けて 普遍的な(流行の)感覚の欠如に 自信をなくします つまり、川端の中にあって私の中にはないということですね。 それでは、聞きたいのですが、「それは何ですか?」 私に欠如している普遍的な感覚とは何ですか? 私はかなり感受性が強く色んなものに理解力がある人間だと認識しているのですが、私になくて川端にあるものとは、何でしょう? 是非知りたいです。 「深さが横向けに遠くへ感じられるのだ」この文章を美しく感じることが出来ないといけないのですか? 貴方はこの文を読んで、その奥行きの深さと美しさにうっとりとするのですか?

  • ESE_SE
  • ベストアンサー率34% (157/458)
回答No.7

雪国は未読ですのでスルーしていましたが途中参加させて頂きます。 恐らく質問者様は文学に対して大きな重みを感じて(あるいは意味付けををして)おられ、 他の分野にはあまり重みを感じておられないのでしょう。 小説家に対しては読者視点での意見をおっしゃるのに対して、他の分野については 制作者側の立場に立った漠然とした意見をおっしゃるばかりなので。 > 山に登る人の気持ちや分かりますよ。苦労の後、頂上を極めた時の征服感、爽快感。 > 作曲者や演奏者の気持ちも分かります。 > 感動的な音楽を創作出来た時の喜び、感動的な音楽を奏でている時の自己陶酔感。 > しかし、小説は読み終わっても、何の感動も与えてくれないものがいっぱいあります。 > 雪国もその1つです。書いてる本人は感動しているのでしょうか? これが好例です。 登山はアピールする相手がいるかどうか分かりませんのでさておいて、 作曲・演奏については端的に言えます。「創作の悦び」「自己陶酔感」については語っておられますが 「その演奏を聴いてつまらないと思う人もいる」という観点が欠如しています。 そして小説については「書いてる本人は感動しているんでしょうか?」と 制作者側に対して否定的な言葉のみを述べられています。 「小説家の気持ちもよく分かります。感動的な一編を作り終えたときの悦びと自己陶酔感。  しかし、音楽は聴き終わっても、何の感動も与えてくれないものがいっぱいあります。  ○○もそのひとつです。作詞作曲した、あるいは演奏している本人は感動しているのでしょうか?」 貴方の文章における高評価・低評価の対象を入れ替えても意味が通じる文章の出来上がりです。 やろうと思えば絵画と彫刻、落語と漫才、俳句と川柳。もうどんな二者の対立にでも書き直せます。 結局はどう評価するかという主観でしかないんですね。 それを貴方は客観的に分析して具体化・モデル化したいというところでしょうか。 しかしながら「その表現に人はどう感銘を受けるか」というのはまさに人の感性に依るところであり 感想は人それぞれ千差万別です。 もし出来上がった文学作品評価モデルが貴方の感性と合わない場合、「モデル化が間違っている」と言いますか、 それとも「こんな表現に感銘を受ける人間は私の考える標準的な感性を持ち合わせていない」と人の存在を否定しますか? 確かにおっしゃるとおり、表現方法を理解するところまでは分析可能でしょう。 ですがそこから先は「好み」や「流行」あるいは「新たな表現の登場による鮮烈さ」などが それぞれの評価ポイントに対して加点・減点になることもあるでしょう。 「文学賞 審査員 相性」で検索すると色々と愚痴が引っかかってきますね。 落ちた人間の僻みとも取れますが、一方で賞の選考が審査員の主観に依存しているとも言えるでしょう。 人は往々にして自分の感性を平均的なものと思いがちです。 主観評価と客観評価の違いは理解された方が良いかと。

rsemq819nl
質問者

補足

回答ありがとうございます。 >主観評価と客観評価の違いは理解された方が良いかと。 私は正に、客観評価を追及している人間です。物事を好みの違いや感性の違いで片付けてしまうと、何も喋れなくなるのです。世界中の多くの人を深く感動させた作品も、そうでない作品も同じになってしまうのです。 私が主観評価していると言いたいようですが、私の考えを述べているのは当たり前ですが、その内容は客観性を求めているものです。それが分かりませんか? 感性の違いで片付けてしまわず、客観的な論述をお願いします。 >「小説家の気持ちもよく分かります。感動的な一編を作り終えたときの悦びと自己陶酔感。  しかし、音楽は聴き終わっても、何の感動も与えてくれないものがいっぱいあります。  ○○もそのひとつです。作詞作曲した、あるいは演奏している本人は感動しているのでしょうか?」 貴方は何を言いたいのでしょうか?勿論そうですよ。音楽の全てが感動的ではないし、こんな音楽を作曲して本人は感動しているのだろうか?そう思うことも度々ありますよ。 音楽も文学も同じですよ。文学に関して、多喜二や漱石、芥川は理解出来ると言ってるでしょ。受け手として感動するし、感動するから彼らの意図も理解できるのです。貴方はわざと受け手と作り手を分断していますが、どういう意図があるのでしょう。受け手と作り手は表裏一体のもので、つながっています。 何の感動も与えてくれないものを読まされた、聞かされた、一体作り手はどういう心の持ち主なんだろうと知りたくなるのは当然ではありませんか。 感性の違い、つまりその意味は、私の感性が劣っているから川端文学を理解出来ないのだ、に聞こえます。 雪国にも随分ヘンね日本語表現が多かったのですが、今読んでいる「山の音」は雪国ほどではありませんが随所に出て来ます。その1つを紹介します。 この文章を理解出来ない、川端文学の美しさを感じることが出来ない私が、感性不足で、理解出来る人が感性があるのだと主張されるなら、川端愛好者は狂っていますね。 月の夜が深いように思われる。深さが横向けに遠くへ感じられるのだ。…(ちくま日本文学全集 川端康成)57ページ最初 この表現のどこが素晴らしいのか、感性の低い私にも理解できるように是非感じさせていただきたい。 「底知れぬ」と表現すればいいのに、殊更、彼は「底が抜けた」と書きますね。皆さん、こちらの方が美しいと感じられるのでしょうか?「底が抜けた」と書くことによって返って文章が生き生きとした、叙情性が出たというなら、その実例を示して納得させていただきたいですね。 言葉だけの問題ではなく、無用な描写が多い。 雪国の最初の辺りで葉子を描写して「その温かいしぐさにかかわらず、島村は彼女のうちになにか澄んだ冷たさを新しく見つけて、・・・」とありますから、その後の展開で彼女の冷たさに関わる何かが問題として描写されて来るのだろうと予想していたのですが、この場限りの描写でした。後に何の関連もないその場だけの表現でした。いや、駅に駒子を必死になって呼びに来る、"冷たさのない", ただ声が透き通って美しいだけの普通の女でした。 部屋の蛾を片付けている時に、東京に残してきた子供たちをふと思い出したとあります。思い出したと書くからには、妻子を東京に置いて芸者に会いに来ている自分を省みて何か、色々心の葛藤でもひとしきり書くのかと思ったら、直ぐにまた蛾と部屋に話は戻ってしまいます。何のためにこういう一文を挟んだのかは意味不明です。こういう文章が実に多い。その場限りの表現に一々注意を払わされて、肩透かしを食うのでやり切れません。

noname#201242
noname#201242
回答No.6

でも小説というのは古今東西、履いて捨てるほど(多すぎて捨てられないほど)あるのですよ。 その中から読者は自分に合ったもの、自分が読みたいものを選び出します。考え方が合わないものがあるのも当然。 ですから、世の中でどんなに「雪国」が評価が高くても、自分にとっては理解できない、というのもあると思います。 高名な人が評価したからと言って一般人には面白くないとかいうこともあります。 (賞を取ったからって面白いとは限らない) 小説家は各小説家がそれぞれにテーマを持っていて、純文学を書きたかったけどSFになっちゃったとか、あの人みたいにお洒落な話を書いてみたいと思ったのにへんてこな物語になってしまったとか、ある意味、本人にも選びようのない部分があると思います。 「小説家の書く目的」という全般的なタイトルではなくて、「雪国」や川端康成について質問されたら良かったのではないでしょうか。

rsemq819nl
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 でも、彼らも時間潰しに書いているわけではなく、何か言いたいことあるから書いているのだと思います。自分に合う合わないとは別に、その彼らの「言いたいこと」を知りたいのです。特にこの川端氏は何を表現したいのかが全く分からないのです。 美しい文体で美しい描写を売り物にしているのだろうと思っておりました。それならそれで理解出来るのですが、実際に読んでみると、そういう一般的評価と私の想像していたこととは程遠いので、疑問となったわけです。

noname#201242
noname#201242
回答No.5

#4です。 それは、読者の「好み」というものがありますので・・・・ 万人受けするものはないと思いますよ。 音楽だってそうですよ。ポピュラーなものはあるけれども、「モーツァルトよりベートーベンが好き」みたいな人もいるでしょうし。

rsemq819nl
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございます。 全てのモノゴトを「好みの問題」で片付けたがる人が多いですが、そう言ってしまうと、そこで議論はストップしてしまいます。「好み」の要素は勿論あるんですが、決して「好み」だけで終わる問題ではありません。 少なくとも、モーツアルトのどういう所のどういう表現方法に惹かれるのかの説明はあって然るべきだと思います。

noname#201242
noname#201242
回答No.4

目的はいろいろなのでしょうけど、自分の中に書きたいことがあるから書くんでしょうね。物語があるからそれを形にしたいとか・・・ 人に伝えたいというのもあるかもしれないし。 でも基本は、山に登る人が「そこに山があるから」と言うのと同じではないかと思います。 作曲家が作曲するように、演奏家が楽器を演奏するように、画家が絵を描くように、作家は文章を書いて表現する人々なんですよ。 昔ちょっと読んだ本ですが、 「若い小説家に宛てた手紙」(マリオ・バルガス=リョサ) 「内面のノンフィクション」(山田詠美ほか) 「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」 「なるほどの対話」(河合隼雄×吉本ばなな) SFだと小松左京さんの「SF魂」とか、岩波ジュニア新書の「未来力養成教室」 などで、作家が創作について語っています。

rsemq819nl
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

rsemq819nl
質問者

補足

山に登る人の気持ちや分かりますよ。苦労の後、頂上を極めた時の征服感、爽快感。 作曲者や演奏者の気持ちも分かります。感動的な音楽を創作出来た時の喜び、感動的な音楽を奏でている時の自己陶酔感。 しかし、小説は読み終わっても、何の感動も与えてくれないものがいっぱいあります。雪国もその1つです。書いてる本人は感動しているのでしょうか?

  • mitomito
  • ベストアンサー率40% (165/406)
回答No.3

>何を言いたくて小説を書くのでしょう? 約20年近く前の予備校の先生の受け売りですが、 明治以降・戦争以前の作家の多くの目的は「”自我の追及”・”個の確立”の表明や啓蒙」だそうです。 小説が、単なる読み物から、「人間の思考を問う武器のようなもの」へ変わったそうです。 あくまでも、「(の)ようなもの」だそうです。 そして、自分が全身全霊をかけて問いかけたものが、 世の中に上手く伝わらないと、 「世の中に見放されたと誤解して自殺までする」そうです。 別の予備校の先生は、指導教官に論文のテーマとして「太宰・漱石」等々をあげて全部却下されたそうです。 却下の理由は、「全員自殺しているから」だったそうです。 (結局、鴎外になったそうです。) >小説家というのは、何をどうしたい人がなるのでしょう? 小説と言う表現技法を用いて、世の中に自分の考えをアピールしたい人ではないでしょうか? その中には、世の中に自分の思想・意見が通らないと、自殺する人が出たり、小説家をやめて政治家(元・東京都知事)になる人も出るのではないでしょうか? 世の中のシステムを変えたいのではなくて、市井の人々の思考へ問いかけたいのではないのでしょうか。

rsemq819nl
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 少なくとも「雪国」からは「”自我の追及”・”個の確立”の表明や啓蒙」や、「人間の思考を問う武器のようなもの」を感じ取ることが出来ません。

回答No.2

こんにちは。個人的な意見ですが、よければお聞きください。 まず、小説というのは、どんな要素で成り立っているものなのでしょう? ストーリーの面白さ、それもあるでしょう。 メッセージ性の強さ、それも重要なところです。 メッセージにも色々あります。 読者に教訓を与えることだってできるし、現実社会の風刺をすることもできます。 批判も賞賛もできます。 魅力的な登場人物も欠かせません。 心理描写や、人間関係の描写も重要です。 美しい景色や印象的な場面を、適切な表現で描写することも必要です。 文体そのものの美しさを追い求める人もいます。 巧みな比喩や、面白い言い回しも、読者を飽きさせないためには重要な要素です。 SFなんかでは、設定の細かさや発想の豊かさも要りますね。 あと、展開の意外性がないと、読者を驚かせ、楽しませることもできません。 こんなふうに、小説に必要な要素というのは山ほどあります。 そして、小説家にも色々な人がいます。 自然主義文学を掲げた人たちは、とにかく正確で生々しい描写を目指しました。 プロレタリア文学なんかは、明確なメッセージありきで書かれています。 川端康成を初めとする新感覚派は、景観や文体の美しさを追求しています。 比喩や独特な表現にこだわっている作品もあります。そういった作品からレトリックを取ってしまうと、驚くくらいに何も残らないこともあります。 つまり、小説家一人一人が、違う目標を掲げているのです。 もちろん、他の分野でも、一人一人の目標は少しずつ違ってると思います。 でも、小説は、全てを文字で表現しなきゃいけないぶん、抽象的な概念とか、文体とか、人間の心理とか、ほかのメディアじゃ伝えられないことが伝えられるわけです。その分、表現できることが多い。 だから、小説家たちの目的も、多岐化しやすくなるのではないか、と僕は思うんです。 長々と駄文を申し訳ありません。質問者様の意見も聞けたら嬉しいです。

rsemq819nl
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >小説家一人一人が、違う目標を掲げているのです。 その小説家が何を目指しているのか、それが分からないといけないということですね。

rsemq819nl
質問者

補足

回答ありがとうございます。 娯楽大衆小説と純文学を別にした方が良かったのかも知れません。読者を楽しませるために書かれる小説の意図はよく分かります。何の疑問も持っておりません。 純文学の方です。読者を楽しませるのが目的でないとは言え、一体何を言いたいのかくらいは、読者に分からせないと意味がないと思うのですが・・・ >川端康成を初めとする新感覚派は、景観や文体の美しさを追求しています。 肌が合わない気がして、今まで読んだことがなかったのですが、今回読んでみました。日本語の表現が美しいと聞いていたのですが、逆ですね。デタラメな日本語を頻繁に使っています。それを自分の持ち味にしようとする意図が見え見えで不愉快になりました。駒子と葉子を特別美しい女性に見せようとする意図がありありとあり、何回も何回も、「清潔な」とか「透き通る」とか同じ言葉で出て来ます。余りに見え見栄の意図が見えて不愉快になりました。もっと自然に何故描写できないのでしょう。文体はゴテゴテとしていて、むしろ汚いですね。 実はカナダ人が英訳の雪国を読んで感動したと言って来たのですが、英訳がきっと素晴らしいのでしょう。その英訳本を読んだ外人たちがノーベル賞を与える気になったのでしょう。 そして読後ですが、一体何を言いたくて雪国を書いたのだろうと思いました。何の感動もなく、時間を浪費したように思いました。

回答No.1

意図や目的が直ぐに明らかになってしまう作品を「名作」とは言わない。そういう駄作は、直ぐに廃れる。貴方が理解できていると思われる事柄は、貴方の一時的な誤解、または、誤読。が、誤読こそ、読者の特権であるというのは西洋哲学(思想)の到達点。 行間に潜む深淵、作者の意図さえ超えて様々な解釈が可能な作品を「名作」と言う。で、真の作家は、今も昔も、真実だけを求めて書く。科学者が真理を発見するとは思えないからこそ、科学では解き明かせない、科学を超えた真理の発見に努める。あるいは、真理とは何かを読者に沈思黙考させることを意図して書かれる。

rsemq819nl
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 参考にさせていただきます。

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