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作家 あるいは芸術家の自殺について・・・
芥川龍之介、太宰治、川端康成、ヘミングウェイ等は自殺したと言うことですが、彼らの作品の流れと、例えば、病気等で亡くなった夏目漱石らの作品の流れについての大きな相違点というのはあるのでしょうか? 私個人としては、自殺した人の傾向は一つのことにとらわれ過ぎている傾向がある←いい、悪いということでなく。自殺してない人は多角的な面から物事を捉え、客観的な物事の捉え方をすると感じてます。
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「自殺」ということを考えるとき、とりわけ文学者や芸術家の場合、自殺の起源が、かなり若い頃、幼い頃からあるということが言えます。それは、「自我の脆弱性」とも言えるもので、繊細さとも言えますが、「自我の強さ」に欠けるところがあるのです。 これは、三島やヘミングウェイなどを考えると、奇妙にも思えるのです。ヘミングウェイは、高名な作家であると同時に、冒険家、狩猟家で、ある意味、「男のなかの男」でもあったのです。「パパ・ヘミングウェイ」という言い方があるのですが、「偉大な父」というか、尊敬に値する「偉大な男」という像がヘミングウェイにはあるのです。 しかし、ヘミングウエィは、その自我に「脆弱さ」を持っていたのです。 >彼らの作品の流れと、例えば、病気等で亡くなった夏目漱石らの作品の流れについての大きな相違点というのはあるのでしょうか? 自殺というのは、精神疾患、例えば、鬱病の自殺などを除くと、非常に実存的なもので、個々人の生きるありかたに関わっており、自殺した人の文学や芸術に何か共通性があるかと言えば、恐らくないのです。 ただし、自我の脆弱性と、自殺へと傾く実存の姿を作品に描こうとした場合は、ある共通性があるかも知れません。 ヘミングウェイの若いときの作品には、生きる喜びと活気に満ちた作品があります。芥川は、作品の線が非常に細く微妙ですが、彼でも、今昔物語に題材を取った初期の作品では、生きることの充実というか、生の躍動のようなものがあるのです。 太宰も三島もそうでしょう。川端などもそうなのです。川端などは、死んでも死なないようなしぶとい、恐ろしい人間だったともいえ、誰か友人が、晩年の川端の生き方を見て、「鬼」だと評しています。 >私個人としては、自殺した人の傾向は一つのことにとらわれ過ぎている傾向がある それは、自殺を実際既遂してしまったので、そこから作品を見てしまうので、錯覚が起こるのだと思います。 時代や社会や文化や価値観や、様々なものが変化してゆく中で、作家や芸術家の生きている現実においても、矛盾や葛藤や、あれかこれか、というような選択や、プレッシャー、重圧がかかってきます。 自殺した作家は、自己を支えきれなかったのだとも言えます。 ヘミングウェイの場合だと、どうしても満たされない空虚感、自我の自信の欠如というものに悩まされたのだと言えます。 >自殺してない人は多角的な面から物事を捉え、客観的な物事の捉え方をすると感じてます。 多角的な物事の捉え方ができず、客観的でないが故に、自我の脆弱さが露呈されず、自殺しなかった人が多数いるでしょう。「健全な自我」は、ユーモアのある自我で、ユーモアは、自己の客観視と多面的な価値観で物事を見ることができてはじめて可能だとされます。 自我に余裕がないとユーモアにはならないのです。自殺した作家であれば、三島は若い頃からユーモアがありませんが、それでも、生命の躍動があった時期があります。芥川や川端や太宰などは、それなりにユーモアを持って、自己を客観視できた時期があったのです。 しかし、自殺した人の自我は、脆弱性があったことは間違いありません。しかし、誰が自殺するかは、その作風からは分からないのであり、自我の脆弱さと生きている複雑な状況が絡み合って、その結果、自殺する人はしてしまうのです。 自殺の代償として書いた作品には、自殺した作家の作品だという特性があるかも知れませんが、そういう作品ばかりとは限りません。だから、一般論でくくるのは無理があります。 作家に限らず、自殺する人は、それぞれに違った実存なのです。夏目漱石や森鴎外のような、ある意味、健全な大作家と比較するのは無理があるでしょうし、自殺していない作家の作風や生き方を比べると、その多様性に驚かされるでしょう。 作家は自我や実存の問題で苦悩するのであり、鴎外は、乃木希典の自殺に深刻な衝撃を受け、この苦悩のなかから作品を創造したのですし、夏目も、同じような事情があります。三島や川端や芥川もそうでしょう。 ただ、自殺した作家の作品を後から眺めると、自殺へと向かった心の葛藤と、それに敗北した自我の脆弱さが見える場合があるのです。鴎外や漱石も、自殺した可能性はあります。ヘミングウェイのような「強い男」が自殺する訳などないと思われていたでしょう。 しかし、自殺を既遂してみると、後から辿ると、その作品や人生が、自殺へと向かう必然があったようにも見えるのです。 ユーモアがあり、自己を客観視できる人は、それだけ自我に柔軟性があり、強さがあると言えます。しかし、そのような人でも、状況次第で決まる要因というものがあるのです。 個々の作家または人間について考えねばならない問題になって来て、共通性というのは、自我に何かの脆弱さがあったということです。ただ、その脆弱さがどこまで露呈したか、どこまで耐え得たかで、自殺した人としなかった人の境ができているのでしょう。 鴎外も漱石も自殺の危機があったが、それを乗り越えたということだとも言えます。川端は、晩年の鬼の苦悩に苦しむ前に、アルベール・カミュのように、ノーベル賞を取った直後に、交通事故ででも死んでいれば、違った評価や見え方になったでしょう。他の自殺した作家についてもそういうことは言えます。 (ヘミングウェイは、初老の入り口で、事故死していれば、違った評価になるとか、太宰は、自殺か事故死か、現在でもはっきりしません。彼の場合、演技自殺症状があり、演技のつもりが失敗したのだとも言われます)。
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- ngc7000
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芥川と太宰は幼年期から死にたいと思っていた。親との関係からでしょう。 川端はノーベル賞の重圧だと言われていますね。賞を取ったころは新しい作品は書けないでいた。 三島も海外から評価されつつあったが、作品にいきづまっていた。 信じてもいない仏教観などを導入している。 彼の場合、戦争へ行けなかったことが大きい。死に場所を探していた。 ヘミングウェイについてはあまり知りませんが やはり作品の枯渇だと思います。
- eiji156
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個人的感想です。回答ではありません。 偶然か、自殺した作家の作品は好きではありません。自殺したから嫌いというのでは無いのです。何故だか自分で考えても、分からなかったのですが、sergegainsbourgさんの言うことを参考にして、考えていきたいと思います。 例外は芥川龍之介、特に好きというわけではありませんが、嫌いではありません。芥川の場合、自殺というより、病死(神経症)というような気がします。彼の『歯車』を読むと、分かる気がします。 最近、三島由紀夫の死は、太宰治のような情死(心中)だったというような評論が出ましたが、成る程、という気がしました。心中と孤独な自殺はニュアンスが違いますよね?
遠藤周作さんと三島由紀夫さんのことを比べると分かりやすいと思ってます。遠藤さんは自身がよく言われるようにいろんな顔を持ちたいというので、狐狸庵という名前を自分につけておもしろい路線のエッセイを書かれてますね。一方三島さんの生き方は本来の"平岡公威"じゃやだというので、いろいろ健全な自分作りに励んでおられた。しかしこういう自己完結的な生き方というのは、崩される事を恐れますでしょう。三島さんの場合自己完結が壊れそうになる前に、自分で死んでしまおうと思って腹を切ったのだと思います。ちなみに明治大正の作家で最も多い血液型はA型らしく、三島さんもA型です。これが自殺と関係あるかは分かりませんが、少しだけ気になりました。
- shibako74
- ベストアンサー率18% (163/876)
私もまぁ、似たような回答になってしまうのですが、作家ないし芸術家というのは、仕事(作品づくり)=自分のアイデンティティを確立するもの、と思っていると思います。普通の仕事についている人は、仕事で行き詰まっても家庭や仕事以外の趣味、才能などを持っていることで、自分を否定しなくて済む気がします。対して作家or芸術家は、作品自体が自分の分身であり、それがスランプなどでできなくなってしまったときに自分の無力さや崩壊を感じるのではないでしょうか?それだけ作品とシンクロしているからこそ、良い作品が生み出されると言うこともあるかもしれませんが…