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私たちが「祈る」理由とは?
- 私たちは、手紙などで、「ご健康とご発展をお祈りしています」と述べることがありますが、実際に日常的に「祈る」ことがあるのか疑問です。
- 「祈る」方は、どんな場面で、どんな神仏に対して、どんな内容で祈りますか?
- 祈らない方は、その理由を教えてください。
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(1)日常的に「祈る」ことがありますか? うちは、父母が亡くなり、もとより子供時代に兄弟をなくしていますから、ことあるごとに仏壇に手をあわせています。 (2)「祈る」方は、どんな場面で、どんな神仏に対して、どんな内容で祈りますか? 基本的に先祖崇拝(日本古来の土着信仰の流れ)困ったときとか、嬉しい時とか(感謝して) 「何何の件よろしくお願いします」と祈ります。 >仏教を信じる方へ、(4)仏教では「神」よりも「仏」が上位にいますが、「読経」をすることが「祈る」ことに相当するのでしょうか? 般若心経は暗唱しています。修証義は家の宗派の教典ですからときどき上げます。 >ひとり心の中で「祈る」という習慣をお持ちなのか疑問に感じ、この質問を致します。 私は、「人生は戦うものではなく優しく夢見るものだ」と書いたら、ある人にすごく共感してもらえてうれしかったです。 私にとっての「祈り」は、やさしく夢見ることです。神の愛というより、大いなる宇宙エネルギーというか共通無意識というか現実創造の根源にふれて、その夢をリアリティをもって感じる。これが祈りです。 >祈ることによって、自分の願望はきっと成就すると信じています。 それは、わたしもそうです。 弟を亡くした中学1年のときから還暦をすぎた今まで、自分の願望が祈りで叶わなかったのは弟の小児癌の回復だけです。それゆえに私はより深く宗教に傾倒し、しかしなぜかどこの信者にもならずかわりに昭和初期の新興宗教や80年代末期のニューエイジサイエンスにはふかくのめりこみました。 >祈る内容・対象は、 >・自分や家族や友人・知人の健康(特に病気からの回復など)や幸せのため、 >・或いは、今やっている仕事やプロジェクトがうまくいきますように、 >・・・といった「御利益」を願うこともありますし、 これは宗教観の問題で、人間として無意識にどこかで自分や家族の幸福を 「祈って」いると思いますよ。 求めよさらば与えられんとマタイの福音書にあるように、本当は求める者を しっかり形を示して超自然的なものにお願いしたほうがいいのだと思います。 私は、「やさしく夢見る」ことでいくつも手にいれてきました。 なぜか、手に入らないものがあってこれが謎なんですね。 >・自分の心の清浄を願うこともありますし、 >・世界や社会の平穏を願うこともありますし、 志しが低いからでしょうか。社会意識も低いからですか? 敵対する感情が自分を傷つけたりすることは私もわかります >・感謝を捧げることもあります。 これは、日常言葉にして伝えてます。 大空さんは65歳くらいですか?人の年齢を訊くなら自分も書かないと誰も答えてくれませんよ。 61歳 男 曹洞宗 成長の家(生命の實相を読破しただけ)ニューエイジ バシャール全3巻 シャーリー・マクレーン「アウト・オン・ザ・リム」 引き寄せの法則 ザ・シークレット こうして思考は現実になる スピリチュアル系は 何でも読んでます。 読書が祈りかもしれません。
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- kanto-i
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>フランクル著『夜と霧』に書いてあるように、ユダヤ人強制収容所のような極限状態でも、生きる意味を見失わず、生き残っていくためには、信仰心や宗教的関心、精神的なものに対する感受性が大変重要なキ-ワードになるのではないでしょうか? フランクルの夜と霧は、私も好きです。 希望を持つことで、どんな状況においても幸せでいられる。 しかし、別にそれが宗教である必要は無いと思います。 あの時代あの状況下なので、宗教と言う手段なのです。 フランクルの参戦の目的は、全く違う意味合いですよね。 前線での過酷な状況下での人の希望の実証ですよね。 そして、あの場では宗教は使われましたが 大切なのは人間として生き、人との助け合いの中で希望を持ったことです。 宗教があったとしても仲間がいなければ、生き抜くほどの支えにはなりません。 大切なのは、今生きている人だと私は思います。 ご自身が宗教に依存心が高ければ「人間には必要だ」と感じられるでしょうが 依存していなければ、必要ではないのです。 しかし、人とのふれあいは必要なのです。 「私には宗教が必要だ」は、全然かまいません。 それで、いいと思います。 しかし、必要としていな人に「必要だ」と言われても それは相手の意思を無視してる押し付け行為に過ぎません。 祈る必要性を押し付けるのは、相手の人権と尊厳を無視した行為だと思います。 貴方には祈りが必要で、祈る貴方を私は認めることはできますが 人に祈ることを押し付ける行為は、認められません。 これ以上の話しは、おそらく平行線でしょうね。 私は、人と生きていくことに希望を十分持つことができますので、祈りは必要としません。 では、失礼させていただきます。
お礼
押し付けに聞こえたとしたらすみません。 別にあなたとけんかするつもりはありません。 それぞれ、まっとうなお考えだと思います。
- kanto-i
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No.3です。 >又、私は、あなたのように、何でも自分の独力で出来ると思っていません 私は >ほとんどが自分達の力で乗り越えることができます。 と申しました。 自らがやること、人に相談すること、人に任せること。 それを的確に判断してやって行くことは必要だと思っています。 ただ、神仏への依存心が無いので神仏を対象として祈ることが無いのです。 依存しなくても願望は成就しますし、依存が無い方が成就しやすいです。 祈る必要性が無いと言うのは、そういったことです。
お礼
再度有難うございました。 そうですね。「自分達」の「達」を見落としていました。要は神に頼らなくても、人のネットワークを利用することも出来ますものね。今度の大震災でも、人のネットワークは大いに助けになりましたものね。 でも、信仰心があったら鬼に金棒でしょうね。前にNo.11さんへのお礼の中で書きましたが、フランクル著『夜と霧』に書いてあるように、ユダヤ人強制収容所のような極限状態でも、生きる意味を見失わず、生き残っていくためには、信仰心や宗教的関心、精神的なものに対する感受性が大変重要なキ-ワードになるのではないでしょうか?
- 阿加井 凛悟(@neutral)
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こんばんは、大空さん。 >「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」 :はい、そのとおりですが、いけないのですか。 嗚呼!おお!という声は 泉が湧くのと同じように、火山が噴火するのと同じように、 自然に出るものです。涙もそうだし顔の皺もそうです、出る。 それから、【祈る】と【願う】を混同してはいけません。 【願う】と【すがる】を混同してもいけません。 あなたはヘブル書11章を読みましたか。 あなたはそこにあるものに【希望】を持ちますか。 1.はい。日常です。祈るのを休むことはなかなかできません。 2.対象は、なんでもかんでも、いつでもどこでもです。 3.省略します。 それでは、それがそれであることを喜びつつ、 あなたがあなたであることを喜びつつ、 あるいは祈りつつ、失礼します。幸運を。
お礼
これまでの皆さんのご回答と、キリスト教(カトリック)信者である私の抱いている「祈り」のイメージが、あまりにも違うので、思う所があり、次の質問に回答者として投稿しました。 信仰と宗教の違い http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8750610.html (回答No.15) その冒頭で、私は次のように書きました。 >多くの日本人が「信仰」と「宗教」に対して抱くイメージと言うのは、 > 先ず、「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」 >と言った自然に湧き出てくる「信仰心」が先にあり、その存在に対して、 >では「祈る」(或いは「拝む」、「願う」、「頼む」)のか、と問われ >れば、必ずしもそうではない、もし「祈る」とすれば、それは、「信仰」 >とは別のレベルの「宗教」活動である、ということなのか、と漸く納得 >した次第です。 ヘブル書(新共同訳では「ヘブライ人への手紙」)11章も恥ずかしながら初めて読みました。 「信仰」について書かれている章ですね。 >あなたはそこにあるものに【希望】を持ちますか。 とお尋ねになっている意図が良く見えないのですが、ここに書いてあるように先が見えない試練に人間が見舞われたとしても、あくまで神に対する信頼を失わず、今「目に見えていない」未来に希望を持つことが出来るか、ということでしょうか? それは「ヨブ記」にも書かれてある重要なテーマであり、「義人」と呼ばれたヨブにも容赦なく試練が訪れたにもかかわらず、最後まで希望と信仰を失わなかった、そしてその信仰を支えたものが「祈り」だったと言えるのではないでしょうか? 尚、【祈る】・【願う】・【すがる】を混同してはいけないとのことですが、それぞれニュアンスが異なるとはいえ、重なる部分もあり、適度に使い分ければそれでよろしいと思います。
- asisai888
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(1)ないと思います (3)そもそも「祈る」という行為がどういうものなのかよくわからないです ですので祈らないのではなく祈れないのです oozora2000さんの祈る内容を見てみますと、祈るとは何かを願うこと もしくは感謝を捧げることになります 恥ずかしながら私にとって「願う」という行為もイマイチぴんときません 期待するというのであるなら意味が分かるのです このニュアンスの違いは「願う」場合は積極的な感じで、「期待する」場合は受け身な感じです というのも、自分の力の及ばぬことはなるようにしかならないから 必然的に期待するという受け身な心構えになってしまいます これはたぶん私が神の存在を信じていないからこういう発想になってしまうのだと思います 神を信じてる人はきっと神に対して願うことで、自分の力の及ばぬことに対しても 自分の意志が神の御業により実現されると、神は全知全能ですから、思ってるんじゃないですか? だとすると「祈り」とは神の存在を認める行為であると言えます なので私は心の底から神を信じてないので、願うことができないのです ただ都合の良い偶然が訪れることを期待するのがせいぜいです 同様に感謝を「捧げる」こともできません 誰かに感謝することはあります、が、神に捧げることはできません 神が存在しないので捧げようにも捧げられないのです 日本人は無宗教だなんて言われてますが、きっと多くの日本人の心の中には 神が存在していると思います だって疑問を持たずにお正月に参拝してるから 神を知らない私にとっては立派な祈りであると思います
お礼
≫「祈り」とは神の存在を認める行為 確かに、存在を認めているからこそ、その存在に対して祈りを捧げるのでしょうね。 存在に確証が持てなければ、祈りにくいのも確かですね。 一方、多くの日本人の心の中には神が存在していると思っておられるのですね。 それはそれで尊重されるということですね。 まあ、寺や神社や教会等の「聖地」を訪ねたり、雄大な自然に接したりすると、神の存在を実感するようになるかもしれませんね。それと、五木寛之さんや山折哲雄さんやひろさちやさんなど、宗教や人生についてわかりやすく説いて下さる先生方の本も時には読んでみて下さい。 ヴィクトール・フランクルと言う人が、ユダヤ人の強制収容所における心理状態について書いた『夜と霧』によると、こうした極限状態でも、生きる意味を見失わず、生き残っていくためには、信仰心や宗教的関心、精神的なものに対する感受性が大変重要なキ-ワードになるということを言っており、大変共感をもちました。 → http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/14_frankl/ http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/b9972431f445b5b6578b778f3b08d99b
- kanto-i
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No.3です。 >やはり、あなたのように多くの方は、日常、「神」に「祈る」という切迫性を感じておられないのでしょうか? 多くの方のことは、分かりません。 これだけ個人的なことに関する内容は、自分のことしか分かりません。 質問者様は、切迫性があるから神に祈るのでしょうか。 切迫性があるから、神を信じるのでしょうか? 私は、自分に必要性が有るか無いかが判断基準です。 ただ、その判断が確定するまでは神仏に祈ってました。 祈ることをやりながら検証して、自分には必要無いと判断しただけです。 少なくとも、今の私には神に祈らなければいけないような切迫性もありません。 日常で困っていることは、大抵は人間が作り出したものですから ほとんどが自分達の力で乗り越えることができます。
お礼
再度有難うございます。 まあ、特に日常祈る必要性を感じられていないというのは、ある意味幸せなのかもしれません。 一方、私にも、とりわけ、今とても満たされなくて困っているということがあるわけではなく、「切迫性」があるわけではありません。 唯、私は、幼時から、家族や親類に、カトリック信者を含め、信仰の厚い人が多く、ミッションの学校にも通っていたこともあり、自然と、「神様」が当然のような環境に育ったので、「祈る」ことも抵抗なく出来るようになっただけだと思います。 又、私は、あなたのように、何でも自分の独力で出来ると思っていません、昔から大変依存心の強い人間で、劣等感も強く、今でも、少しわからないことがあると、出来るだけ人に聞いてしまう方ですし、悩み事なども自分だけで背負わずに、何でもすぐにぶちまけてしまう人間で、それが私の悪い所でもあり、良い所でもあると思っています。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 祈ることは あります。 神に向かってです。 願いを思い それが成るようにと祈ります。 ただし われわれが祈ることをする前に 神はそのことを知っていると思っています。 なら 何故祈るのか? わたしは ここにいます。と言っているのだと考えます。 誰に向けて? けっきょく自分自身に向けてなのでしょう。 どの神ですって? 神は じんるいにとってひとつです。 《無い神》も 神ですから。《有る神》も その名前が違っていても みな同じ神です。《無い神》と同じ神です。 シュウキョウは 集団で信じるといった出来もしないことを出来ると思っているのでしょう だから オシエを持ちます。オシエに従うことは 信じることと何の関係もありません。すなわち シュウキョウは オシエを柱とするかぎりで 考えるべきオシエを信じるという矛盾の上に成り立っています。つまり 自己矛盾としてあるわけで 精神錯乱が長い歴史を刻んでいます。 二人や三人があつまって さあいっしょに信じましょうなどということは 言葉で言えるとしても じっさいそのことは成りません。あり得ません。信じるは 個人のしわざです。 この信じるを離れなければ 組織宗教は 成り立ちません。つまりは 人びとを支配したいという支配欲にみづからが支配されているのでなければ 組織をつくることはありません。あとは お金儲けという場合があります。 要するに シュウキョウは 信仰とは 似ても似つかぬいとなみです。
お礼
このカテの大御所のbragelonneさんには、珍しく、この度は数式もなく、平易な文章ですね。 前半には大いに共感するものがあります。 確かに、キリスト教にも、昔から「予定説」というのがあり、全人類の運命を既に神様はご存じなのにもかかわらず、我々は、今、祈り、行動し、自らの人生行路を歩んでいくのですね。もう人生がどうなるのかも決まっているのなら、今更じたばたして良い人間になろうと努力しても始まらない筈なのに・・・。でも、神様の世界には、時間(過去・現在・未来)が存在しないので、今祈ったり努力することも達成されるのでしょうか? それとも、あなたの言うように、無数の人間の中であなたのことを神様に思い出してもらうために、「わたしはここにいます!」とアピールしているのでしょうか? そして祈る相手は、宗教に限らず、いわゆるただ一つの≪神様≫なのですね。 まあ、後半言っておられることは、「宗教」の存在は、「神様」とは関係ない、と読めますが、そこらへんに関しては、私の以下の過去問でも取り上げたように、誰でも「神様」に対しては純粋な気持ちを持っているが、「宗教」に参加するという段になると二の足を踏む、と言う心理はよくわかるような気がします。 「普通名詞としての神」に祈ること http://okwave.jp/qa/q7321056.html
補足
これまでの皆さんのご回答と、キリスト教(カトリック)信者である私の抱いている「祈り」のイメージが、あまりにも違うので、思う所があり、次の質問に回答者として投稿しました。 信仰と宗教の違い http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8750610.html (回答No.15) 表面的には、いずれのご回答に対しても、私の考えとは隔たっている部分が多く、自分ないしキリスト教的な「信仰」や「祈り」に対する考えが、日本人に受け入れられにくいことを改めて実感しました。 ただ、bragelonneさんの言われる「信仰と宗教の違い」については、腑に落ちる部分も多く、大変勉強になりました。
- pahiko
- ベストアンサー率12% (3/24)
回答 47 男 あなたの宗教は 南無妙法蓮華経 妙法は諸天善神が必ず守ると日蓮大聖人は 教えてくれてます 教えてくれるというのは 経を根本にこうかかれてるということを教えてくれてます 祈りはかなうが 疑った瞬間消えるとも言われてます こうなりますように こうなったらいい つまり 心で思うことは祈りであり 人は無意識にやってますね 読経は毎日 なぜか 書かれてあって そうなるから まず毎日読経して とてもじーーーーーーーんと体がなり どんな悩みも 冷静になったり ぼんのう即ぼだい といって 煩悩も知恵に変わる とにかく 宗教体験ありますかといわれれば 毎日 読経すれば かんじてまーーす また3類の強敵というのもあって まず仏法に無知な衆生がわるぐちいってくる 第二に どうもんじょうぞうまん これはいろんなしゅうはのおぼうさんがせめてくる 第三に 聖せん上増慢 高僧がせめてくる 権威をかさに攻めてくる また権力と結託してせめて来る この仏法に無知な衆生にはあいますね 仏法をそしれば罪となり やってる行者をそしれば罪となるとかかれてます 現実に私を また 読経を馬鹿にした人がどうなったか書きましょう 離婚して 左遷され 病気でしょうか 立てなくなりました はい かかれてあって そうなってるから やってます 宗教体験は日々ですね そしった人は地獄に落ちて必ず保つともかかれてあります つまりわるぐちも「逆縁」となり救われるということです また これは生命哲学ともよばれ 南無妙法蓮華経 と唱えれば 自分の中の仏の命が出るといわれてます 信じない人には 叶いません 命も 地獄の命から 菩薩の命 仏の命 と自身の中にあると捕らえてます 神は父母など 助ける働きや 助言など 周囲の人の中に見ますね 善神には感謝してます 結局 死んでから幸せになるなんていやだ 生きてるうちに幸せになるというのが本当 書かれてあって現象が起こると書いてあってそうなるから やってます ではなかなか叶わないのは 自分がそこまで成長してない 力が無いということです 結局 自分の中の力を出し切り成長する 人格を高める 意識を進化させる ということが大事ではないかと個人で思います フェアに考えて 理にかなってる と思いました ですから これは 妙法 で 法 宇宙の法則にのっとって生きるって まぁ 心理を生きる段階っていうやつらしいですよ ですから 誰かが作るとかそう言うものじゃない この世界にあるもの 法則ですね 仏法は 科学が証明してきてると最近いわれてますね また 経済も生きずまった 完全に とは10年前にいわれてました 知恵や心眼などで見るとそう見えるんでしょう お金は100万以上は喜びは増えないと聞きます 仏法は 世法もうべきや という言葉があります 最後に セックスしたいと必死に祈ったら 読経しながら祈ってから3ヶ月ぶりにできました なんでも本音だすしかないし 仏は何でも知ってます 心の中も 問題は自分だと気づかされます また最近は 目標額達成 まで 貯金ができるまでに成長できて ちょう うれしーーーーい 継続できる人間になれてきましたが 油断大敵 金遣い荒い 私自身との戦いはまだまだつづきます かな もうかわれたかな 実際祈って行動で現象でますね 最後に 大事な点が書かれてあるので紹介 理証 文証 現象 といいます 理にかなってる 文に書かれてある 理より 文より 現象が出る事が上である ですから 南無妙法蓮華経を唱えましょう あごん けごん ほうとう 般若 は 法華経に含まれると聞きました また教えにも 高低 薄深 があるといわれ 法華経をとなえることをすすめてます 衆生は 仏であり 善いもろもろの神のはたらきをし 周囲は 菩薩行をしてくれてます 人はとうとい 生命は大事だとつくづくおもいます あっくめりされても 私が叶った 目標に達したという人生経験は変わりませんから 気にする必要なし 以上 宗教体験でした おわりーーーー
お礼
煩悩即菩提、三類の強敵(さんるいのごうてき、(1)俗衆増上慢、(2)道門増上慢、(3)僣聖増上慢)、逆縁、理証・文証・現象、阿含・華厳・方等・般若・・・などと色々勉強になりました。 「仏法は 世法もうべきや」とおっしゃるのはちょっとよくわかりませんが、 検索したら次の言葉が出てきました。これのことですか? 日蓮上人が 「天晴れぬれば地明かなり、法華を識る者は世法を得べきか」と仰せのように、天が晴れれば大地にあるあらゆるものがはっきりと見ることができますが、またその反対に雲に覆われていれば地上が暗くて、色々なものを正しく判別することができなくなります。 (http://shoryoji.org/?cat=1&paged=2 より引用) 南無妙法蓮華経を唱える(読経することは「祈る」のと違い、言霊であるお経を唱えることにより無心の境地になることでしょうか?)ことにより、とてもじーんと体がなり どんな悩みも冷静になったり煩悩即菩提といって、煩悩も知恵に変わる。自分の中の仏の命が出てくる。妙法即ち宇宙の法則或いは「世法」にのっとって生きることができるようになる。・・・といった概略でしょうか? 私は、今、NHKテレビで放映中の「こころの時代(宗教・人生)」で華厳経を、そして本日(9月3日)から始まる「100分de名著」の新シリーズで「般若心経」を勉強中です。般若心経の260文字は、天台経、毘沙門経、そして阿含経、華厳経、方等、般若、法華経等一切経より選び出されたものだそうですね。
- fuukakou
- ベストアンサー率22% (200/870)
個人情報は伏せます。 宗教的な考えでは、すべては無から始まり無に終結し、今ある現在も無が姿を変えたものと思っています。 日常的に祈る事は無いです。 神社等では、挨拶と感謝をします。 たまに願う事もあります。 すべての命と魂に、救いと安らぎがありますように とか なぜそこではそうするかというと、そういった気分だから行く事が多いからでしょう。 メールのやり取り等では、書き、そうなるように願う事はあります そう思ったから書き、願います。 日常の中で、感謝をすることもあります。 特定の何かに祈っている、願っている訳ではなく、そうなるといいと強く思うといった感じです。 感謝も特定の何かではなく、すべてのものに…といった感覚です。 無から始まり無に終わり、現在の全ても無が姿を変えたもの ならば、根源的エネルギーも自分の中と繋がっているとも思っています 強く願う事は自分の中のエネルギーと繋がる事のようにも感じます だから、感謝すること願う事を無駄な事とは思わないので、行うのだと思います。 自分の思いが、相手に伝わるといい 相手が気付いてくれるといい 言葉にしても伝わらない事はままある事。 感謝は自分の中の根源と外の全てに ただ自分がしたいからするだけ。 そんなものなので…祈っているとはあまり思ってはいないです。
お礼
>宗教的な考えでは、すべては無から始まり無に終結し、今ある現在も無が姿を変えたものと思っています。 「無」と言えば、仏教のキーワードのひとつと考えられますが、「無から生じて無に帰る」というのは、キリスト教はじめ多くの宗教でも同じだと思います。ただ肉体は、滅びても霊魂は永遠と言う考えもありますよね。又、仏教などの場合、しばらくすると輪廻転生で戻ってくる、という考えもありますね。 そして、神道などで言う「祈り」とは、大方「感謝」やほのかな「願い」のようですね。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
(3)神などいない以上、無駄な労力だから。
お礼
わざわざご投稿有難うございました。ご苦労様です。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
君の様な祈りの姿勢と内容は、ご利益神様と言われて江戸時代位には明白に軽蔑されていた。 現在でも宗教が嫌いな人はあんたみたいなのを軽蔑する。 無を信じることは無言である事でもある。 君の様な祈り方とは、自らの欲望にいたたまれなくて、神に八つ当たりする浅ましい祈りだ。 君はすでに日本人でないよ。 奴隷として西洋に魂を売り飛ばしたのだ。
お礼
お言葉ですが、人の信仰のあり方についてとやかく言いっこなしだと思いますよ。 ご利益とおっしゃいますが、キリスト教の「祈り」の中心は、まず、自分の心のありかたをよくするように祈る、ことであって、「御利益」一辺倒は当たらないと思います。 むしろ、自分や家族や友人・知人や社会に対して、よかれ、と祈りを捧げることは、何ら責められることではありません。たとえ「御利益」のためであっても、それが神の意向に沿うことであれば、何らやましいことはありません。キリストが言われた有名な言葉にもありますよね。「求めよ、さらば与えられん」と。 勿論、願いが全てかなえられるわけではなく、病気が治らず死に至ることもあれば、大災害で命を落としたりすることもあります。ですから、出来れば、このようになってほしい、と祈るにしても、(神様の)「みこころのままになりますように。」という文句を足すようにしています。 又、仏教では、「無」や「空」の境地を重んじ、「欲」を少なくし、人間も仏のように達観した気持ちになるように勧めます。それはそれで、立派な教えだと思います。 最後にくぎを刺しておきますが、信仰には洋の東西もありません。何教であろうと、いいものはいい、私は、何度も言いますが、キリスト教も仏教も神道も夫々崇高な教えだと考えています。 一方、宗教や神仏をないがしろにする人間とは、正直距離を置きたいと思っています。
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お礼
大変お待たせしました。 exhivisionist2さんも「祈り」の心をお持ちの様で、嬉しいです。 確かに、多くの日本人にとっての「祈り」の基本形は「先祖崇拝」であることがわかります。 神道に登場する多くの「神」も、天皇家の、そして我々の先祖のようですものね。我々に縁続きの人間を神に見立てることにより、ある意味、神に対する「友達」のような「親近感」があるような気がします。 それに対して、西欧に根差したキリスト教の神は、「宇宙創造神」であり、人間とは峻厳に隔てられた絶対神であったものが、イエスの登場により、漸く人間の目線に降りてきたような気がします。 般若心経は私もよく親しんでいます。お寺に坐禅を組みに行くと、よくその後で皆で唱えます。 NHKEテレ毎水曜夜11時放映中の「100分de名著」では、今月「般若心経」を採り上げています。 修証義も祖母が大好きでよく唱えていました。 あなたにとっての「人生」ないしは「祈り」が、「夢見るもの」と書かれているのは面白いですね。 神の愛というより、大いなる宇宙エネルギーというか共通無意識というか現実創造の根源にふれて、その夢をリアリティをもって感じるのが祈りだとおっしゃっているのは、大変「哲学的」ですね。 一方、マタイの福音書にある「求めよさらば与えられん」、或いは、「あすのことを思いわずらうな」は、絶対の存在である神を愛し、信頼し、求めれば与えられる、ということですね。 東洋的には、神との一体感をイメージする所を、西洋的には、「神の愛」を持ち出してきている所に興味が湧きますね。 まあ、「祈り」の方向性・ニュアンスには色々違いはあるようですね。 最後に、私も、年間100冊は読む読書大好き人間で、宗教やスピリチュアル系をよく読みます。 読書が祈りと言うご意見には大賛成です。 申し遅れました。62歳 男 家の宗教は同じく曹洞宗、自身はカトリックの洗礼を受けていますが、自宅に仏壇を祀り、どちらの世界にも足を踏み入れています。
補足
いつも丁寧なご回答、有難うございます。 多くの日本人の「祈り」が先祖崇拝である、とか、 「祈り」は、やさしく夢見ることであり、大いなる宇宙エネルギーというか共通無意識というか現実創造の根源にふれて、その夢をリアリティをもって感じる、とか、日本人の宗教や信仰に対する心情が、良く描かれていて、腑に落ちる部分が多く、B.Aを差し上げることに致しました。