宗教は、国をまたがって存在しています。
日本では、坊さんに相談に行ったりしていたことが、今、精神科医、カウンセラー、などになっています。
彼らの幾らかは、仏教に触れているでしょう。
お墓は、ほとんど仏教形式ですし、寺のイメージも、どちらかというと清浄というよりも、線香のたかれる非日常空間、なじみの薄いものになりました。
でも、その空間は、触れる機会が少ないとはいえ、確かに存在しており、社会的な出現頻度によって意義を語るなら、あまり意義は無いのですが、確かに在ります。
文化財にもなっており、また、禅は、世界的なブームになっています。モデルや女優、俳優、スポーツヒーローなどが、ヨーガや禅を、生活に組んでいるという報道も、それを助長しています。
日本ではそういうことはあまり有名では無いですが。
今まで、有名人は、その功績とは別に、金と権力によって彩られ、汚されてきました。
今もそうでしょうが、
ヨーガや禅をしているんだ、とかいうと、なにか、別のアビリティが付与されるのでしょうか、報道においても、そのイメージは良好なものとして伝えられます。
日本では、宗教→理解不能、気持ち悪い、という感覚が植えられており、その悪いイメージがどうしても、よきイメージを阻んでいると言うことがあげられます。
キリスト教人口は、日本では少ないです。
そのため、信者同士のコンタクトを、常に取って、組織によって信仰を強化しないと、信者が離れていってしまうという点はあるでしょう。
日曜学校などは、大昔からありましたが、それが、逆境の土地柄でも、信仰維持に役立っていると言うことです。
逆に言えば、そういうことをしなければ、キリスト教は日本から失われます。
仏教、神道は、比較的長い、歴史的な文化の蓄積があり、一時はかなり大きい権力を誇っていました。その時の、影響が、今でも残っているのです。
神道は自家製ですし、仏教は、アジア圏内においても有力であるため、そういう現地時間の努力をしなくても、生き残っていけるわけです。
が、
そういうことが、ほんとうに、意義の無いことであり、ようは、宗教勢力のバランス問題自体が、全く、その宗教存在自体にとっては無意味と言うか、勝手にしてくれといったところでしょう。
別に、救済をしないからと言って、宗教存在自体が困るわけではなく、困るのは、宗教組織を運営している者たちだからです。
>まあ、大晦日にお寺の鐘の音を聞いて、元旦に神社にいく人ばかりの国だからそういうことをいっても始まらないかも・・・。
宗教が多くなると、祭りが多くなってうれしいのです。日本の場合は、祭りにも伝統があり、それなりに仕上がります。
盛り上がらないのは、やはりクリスマスでしょう。
あれは、祭りではなく、イベントどまりです。
浅い。
もっと、クリスマスに味をつけるキャンペーンをどんどん張っていくべきです。
ルミナリエは追悼、復興の意味もあります。こういう、因縁を持ったキャンペーンは、伝統へと育っていきやすいです。金を廻そうとするのが見え見えだと、祭りは盛り上がりません。興ざめです。
どこかそこに、宗教的な味や、民族感、地球人感、宇宙人感があるから、盛り上がるんです。
金は、只回ってればいいんです。でしゃばることは無い。
例:春(神社の祭り)、夏(盆)、秋(色々、収穫祭)、冬(クリスマス)、その他色々。
宗教のあり方に、多くの人が、納得いかなくなっている、魅力を感じないのでしょう。だけれど、只、大衆のニーズにこたえることが、宗教の務めではありません。
困っている人を助ける。
そういう考え方でいいと思います。
困っている人を助ける。
その点で仏教の意義はどう在るか?
そういうことだろうと思います。
縁があれば。
仏教ではこういいます。
縁があれば、お助けしましょうと、こういうことです。
意義は、存分に在るでしょう。
>自分は寺ってお葬式やお盆などにしか行く機会がありません。
盆の夕餉に、墓に腰掛ける。
なかなかの詩情です。
日暮れ、墓参り帰りの電車。
果たしてこれが、家路だろうか?
だんだんと、都心に近づく。
まあまあの詩情です。
意義とは、与えられるものではなく、自ら意義深いかどうか。
その点につきるのではないでしょうか。
したがって、
「仏教の存在意義は?」
縁が実を結べば、意義はあるでしょう。
この縁、可能性を生み出したという点で、それが実るかどうかは別に、仏教に存在意義はあるでしょう。
また、意義に遊ぶ。
そういうシーンも、あります。
社会的存在として、何かの企業と同等の立場で仏教の意義を語るのは、カツアイします。
影響が大きかれ小さかれ、そんなものは、時代とともにかわってけば、それでいいのですから。
お礼
ありがとうございます。 >縁が実を結べば、意義はあるでしょう 縁は求める側から接触しないとだめなんですね。 くるものは拒まずですかね。