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英語に訳せないような日本語は話すなという人がいます
私の知人にこういう人がいますが、ご本人はかなり英語が話せるようです。私自身は、ほとんど英語を話せないのですが、訳せないのは英語力のせいだと思ってしまいます。しかしこの人は少し違う意味で言っているのかとも想像します。英語に堪能な型のご教示ををいただければと思います。フランス語には英語に訳せない表現があると聞いたこともありますが、同じような意味かなとも思っています。
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その方(知人さん)の意図は分かりかねますが、同じようなアドバイスなら、私もすることがあります。それは「言おうと思ったこと(←日本語)がうまく英語にできないなら、言おうと思う文を言い換えてみよう」ということです。 例えば英語にしにくい表現に「~がなさすぎる」というものがあります。英語には「無い」はありますが、それが過度だとする表現はありません。例えばtoo nothingと言っても意味が分かりません。英語の「無い」は行き止まりなのです。よく考えると、日本語の「~がなさすぎる」はセロの状態ではありません。あることはあるんだけど、不足の程度が著しい、過度だということです。 そこで、「~がなさすぎる」を「~が大変不足している」と言い直せば、英語にできます(be seriously short of ~ など)。「~」を対義語にすれば、「たくさんある」になり、やはり英語でどういうか、思いつきやすくなります。なお「良すぎる」などは直訳的に言えてしまうため、要注意だったりします。英語では、too goodはbadと受け取られます。 英語で言う必要がなければ、日本語の機能、力を存分に使えばいいです。英語にできるかどうかなんて、気にすべきではありません。英語にできることをいつも気にしていると、日本語が下手になります。日本語が下手になると、英語→日本語、日本語→英語にするの下手になります。 そもそも、日本語と英語で、同じ意味、ニュアンスの表現をすることは不可能です。極論に聞こえるかもしれませんが本当です。例外はありますが、8割がたの文章は完全に訳すことはできません。原文を忠実に伝える完璧な翻訳なんてものがあるなら、シェークスピア読むために英語を勉強しなくてもいいはずです。でも、英語に熟達して、英語の原文を読まなければシェークスピアの凄さは分かりません。もし和訳されたシェークスピアに感動したなら、8割くらいは翻訳者の力です。 ですので、英語で言おうとして困ったら、日本語のほうを言い換えてみるといいし、英語を日本語に翻訳するのに単語ごとに一対一対応させなくてもいいです。どうせ完璧な訳なんてないですから。そして、普段は英語にできるかどうかを気にせず、日本語本来の力を最大限に活かすといいです。
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- Oggy23
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こんにちは。 他の回答者様たちとだぶるところがほとんどかと思いますが、私は私の言葉で回答させて下さい。 <英語に訳せないような日本語は話すなという人がいます はっきりイエスともノーとも取れない、曖昧な言い方をするな、という風な意味でしょうかね? そのお知り合いの方がおっしゃる訳せない日本語とは? 例えば、小説などでも『和夫はそういって窓の外を見やった、窓の外には雪が。。。。。』 最後の『降り積もっていた』をわざと書かずに、日本語には余韻を楽しむ、静寂を楽しむ、という文化があります。 これは西洋からしたら、はっきり最後まで言え!ということになるのかも知れません。 ディープパープル(イギリスのロックバンド)ご存知の方多いと思いますが、例えば彼らの『ハイウェイスター』という曲のタイトル 直訳すると『高速道路の星』となり、なんともカッコ悪いタイトルだし、的を得ないです。 天気の話ひとつをとっても、英語でも日本語でもいろんな言い方がありますよね。 『お天気いいね~』という意味で、気持ちいいね~、あったかいね~、、洗濯日和だね~、などなど。 漫才のやりとりなども、大阪弁でのボケやツッコミなど、説明、英訳不可能だと思います。 で、何が言いたいかといいますと、英語で思考して出てくる言葉と、日本語で思考して出てくる言葉は時として違う時がある。 直訳できなくて、だいぶん言葉をくずして意味がわかるようにする、という場合が多々あるんじゃないか、が結論です。
お礼
単語の対応ではなく意味の対応ということになるでしょうか。ご見解をうかがい大変参考になりました。どうもありがとうございます。
- WindFaller
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こんにちは。 >英語に訳せないような日本語は話すなという人がいます 英語に直せない日本語も、日本語に直せない英語も存在します。 簡単な言葉すら、直接的にはないものもあります。 例えば、挨拶の「お疲れ様でした」などは、直接には英語に訳せません。 >「英語に訳せないような日本語は話すな」 というのは、対等な人間関係で発せられたものではないし、そういう言葉を、どういうコンテキスト(背景)で言ったのか分かりませんが、真に受ける話でもないと思います。 >この人は少し違う意味で言っているのかとも想像します。 概して、このような発言は、ただの戯れ事だと思っています。 しかし、あえて、それを論じるとしたら、こう考えます。 どんなに、日本語を英語に直したところで、正確に訳されているとは限らないのです。思考言語自体を英語にしたら別人格が現れるというのは、苫米地英人氏の論理で、医学的には、にわかには受け入れられませんが、巷では、そういう話はよく聞かれます。いわゆる「英語モード・日本語モード」というものです。 日本語の思考回路で、日本語を英語にすることは、可能な範囲は限られるということです。英語にしろ他の外国語にしろ、日本語を母語として生きてきたのなら、母語と他の外国語は、パラレロな位置関係にはありません。母語に対して外国語は二次的・従属的な位置でしかありえません。そうではないという人もあるとは思いますが、そういう場合でも、位相(phase)が違っているはずです。つまり、英語にない概念は表現できないのです。例えば、日本の「わび・さび」の美的概念があります。それを「ないにしてしまえ」というのなら、暴論であり、文化的破壊者(Vandalist)です。 ただ、この論調には『言語帝国主義論』と置き換えても可能で、支配者(強者)の言語によって、国民(弱者)を統制したり管理するべきだ、という議論は根強くあります。その時に、言語は支配の最初に利用するべき道具となるわけです。例えば、モンゴル語は、日本と同じ言語体系を持ちながら、長い間、ロシア語が必修だったわけです。それを、日本においては、英語を強者側の言語とし、日本語をマイノリティ言語として弱者側とするわけです。その時に、個性、言い換えれば、日本人としてのアイデンティの危機に、陥ることはないかという議論が成り立ちます。 ノーベル賞作家のペルーのマリオ・バルガス・リョサは、 「同じところに生まれ、育ち、同じ言葉を話し、同じ習慣を持つ人々が、多くの共通性を身につけ、それを意識し、愛しむのは自然なことだろう。しかし、これらの共通性が、それぞれの個人を定義するものであってはならないし、個人のかけがえのない特性を二義的なものへ貶めるものであってはならない。アイデンティティという概念は、それが個人に適用されず、全体を代表するものとして使われる時、それは個人の価値を損ない、人間としての大切な部分を捨象することになる」(『あえて英語公用語論』船橋洋一 文春文庫―2000年8月 からの引用-原文は、"Local Culture and Globalization"だとされています。) リョサは、こういっているらしいのですが、内容的に、一見「グローバル化」を反対しているようですが、これだけでははっきりしません。 ただ、この論議は、私たちの日本に置き換えてみると、別の意味に取れます。確かに、ローカル言語(Vernacular)によって、個人そのものを定義するものではないにしても、それを封じてしまうことは疑問に感じます。それに、ローカル言語/生まれによる「共通性」の意識が、個人のアイデンティを損なうものであろうか、と考えるわけです。私たちにとって、ローカル言語のもつ「共通性」を取り去って、現実にはないものをあたかも存在するものとして、あえてローカル言語を共有する感覚を否定していることに他ならないわけです。いわば、名目的には、コスモポリタニズムのような抽象的概念を持ち出しながら、結果的には強者の支配に委ね、ローカル文化を破壊してしまうことになりかねないか、ということです。 私は、身近な一例を挙げるとするなら、宮沢賢治の『永訣の朝』の詩の内容を、グローバルな言葉(標準語)で語れるものなのか、ということです。それでもって、賢治の掲げるローカリズムを否定することは容易にはできないはずです。 そして、日本語ネイティブとして育ったとしても、不幸にして日本語そのものは、ほとんど忘れてしまっても、郷愁以上に、私は、日本語の概念的な意識は残っているものだと考えています。日本人の民族意識というものは、元来存在するものとは思っていませんが、死生観や美意識のようなものは、プリミティブな感情の中、言い換えれば「深層意識」に存在しうると考えます。 言葉というものは、その言葉そのものに短くも長くも歴史性(その変遷は文書化されていない、という意味)を持っているものです。その歴史性を他の外国語に移行することはできるはずがありません。
お礼
ほとんど無意識になっているような部分が氷山の水面下の部分のような形であるとすれば、安易な解釈は差し控える必要がありますね。標準語が英語というのもやむを得ないのでしょうが、価値観そのものまでが標準化されては困ります。
英語に堪能ではありませんが、 日本語を話す時に英語のように考え過ぎるとかえって日本語がおかしくなってきますので、日本語を話す時は日本的で良いと思います。 ただし、英語を話す時は英語式に考えないと・・・・・少なくとも、英語式に考えるよう努力しないと・・・・英語的にならないし、日本語で考えたことを英語に直訳すると伝わりにくくなる場合があるので、そこは英語に訳しやすいような考え方をするのが良いと思います。 ネット上の自動翻訳を使う時は、英語に訳しやすい日本語を入力しないとうまく訳せません。それでも訳文の手修正が必要なことが多いと思いますが。。。 どの言語でも、単語と単語、文と文を単純にイコールで結べるわけではないので、別にそれはそれで良いと思いますよ。それぞれの言語はそれぞれの言語で。 (文学などの場合、そういう部分をいかに訳すかがプロの翻訳者の匠の技だったりする) 日本の政治家の発言を通訳するのは大変だろうな~と思います。
お礼
なるほどと思われるご教示でした。自分なりに勉強してみたいと思います。どうもありがとうございました。
- japaneseenglish
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英語で話す場合、初心者のころは、訳せる日本語を思い浮かべたほうがよい意味だと思います。 日本語独特の表現は訳せないので、そういう言葉を頭に思い浮かべると、自分の意見が言えなくなります。 私の場合は、最初は、訳しやすい日本語を頭に思い浮かべるようにしました。 英語を直訳した日本語がありますが、そのような日本語を思い浮かべていました。 外国人と四六時中話すような環境になると、長い期間に、だんだん慣れてきて、日本語で思い浮かべるようなこともなくなりました。 ただし、考えたり思ったりするのは日本語です。 英語の環境だけにいると、訓練されてきて、思ったこと(日本語)が、自然に英語の語順と単語で言えるようになります。 ただし、そうとう長い期間、そういう状態におかないと、それが英語でできるようにはなりません。 日本語がゼロの環境(つまり日本人ゼロ)にいると、英語でしか用がたせなくなるのか、本気になり覚えられるものです。 人間は極限の環境におかないと、楽な方へと自然にいくものです。 言葉が英語しかない環境にいると、英語も上達してきます。 まず、読み書きが大儀になります。 読んだり書いたりするより、聞いたり、話したほうが楽だからです。 英語が話せないころは、聞くことや話すことは難しいですが、少なくとも対人関係がある場合は、聞いて話すほうが楽です。 たぶん、そういう状態になるのは、英語も英語のまま理解できるようになっているので、聞くのも読むのも、同じとなり、読むより聞いたほうが、疲れないのだと思います。 話すのも同じ理屈で、書こうと思ったら、耳で覚えた単語も多くなり、スペルがでてこないことが多くなります。 また、話すのはいい加減でもいいですが、書くとなると、自然に文法のチェックもするので、面倒になります。 たぶん、このような環境にいると、英語はどういう話し方をするのか自然とわかるようになり、案外、私でも、しゃべりながら、つぎに続く言葉を英語の方式でできるようになったのだと思います。 でも、外国語である限り、わからないことがやまほどあり、ラジオやテレビも注意して聞いていないと、自然と耳に入ってくるようなことはないです。 また、不思議なもので、聞く気にしないこともできます。 話しかけられても聞きたくないと思えば、右から左へ、あれよと言葉は流れ消えていき、なにも頭には残りません。 母語でもこういうことはできますが、まったく聞こえない(意味がわからない)ようにはできません。 勘違いしないでほしいのですが、こういう状態になると、逆に英語力が落ちた気がします。 文法が瞬時に正誤がわからなくなるのです。 昔は説明で覚えた細かな文法が、なぜ、自分がこのような話し方をしているのか説明できなくなり、また、人の文章をみても、間違いか正しいかわからくなります。 不自然か自然か程度しか感覚としてわからなります。 それと、話す英語が洗練されていないのに、にがにがしい思いがします。どんなに努力しても、きれいな英語では話せないし、発音も日本人が話す英語だと自分でもわかるので、いやになるものです。
お礼
英語習得を芸術のように考えると貴方のおっしゃることがよくわかるように思えました。大変参考になりました。
- litsa1234
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>英語に訳せないような日本語は話すなという人がいます ある日本語の文章が良いか悪いか、つまり論理的であるかどうかのテストの一つが「英語に訳せるか否か」だと私は思っています。 それと同じようなことをその人も仰っているのではないかと推察します。 この質問を読んで、「英語にならない日本語 (1971年) 」「日本語にならない英語 (1974年) 」と言う本を 最所フミ女史がお書きになったのを思い出しました。私は当時学生でしたが大いに啓発されたことを思い出します。今読んでもいい本だと思いますので、よろしかったら一読されんことを。 以上、参考になれば幸いです。
お礼
早速探し出して読んでみたいと思います。どうもありがとうございました。
- Him-hymn
- ベストアンサー率66% (3489/5257)
日本語では、文化的に、論理性がない文章が許容されます。しかし、そういうのは国際舞台ではダメ、英語に訳せないような「非論理的」な日本語は話すなーーということかもしれません。 もちろん、私は、この意見の非論理的というのは、あくまで西洋人から見てのことであって、そうした、西洋人の文法、論理、文化という枠のなかで日本語を見て批判するのは、いかがなものかと思います。たとえば、英語には基本的に主語がありますが、日本語は主語を「省略する」言語だと彼らは言います。これは、主語がなくてはならないという考え方から出た日本語の見方です。しかし、日本語では、主語なるものは、は、が、の等の助詞で表される名詞にすぎないのです。これは、言語の違いであり、文化の違いなのです。主語もなくわけのわからない日本語を話すなとは、さすがにあなたの知人も言わないと思いますが、おそらく論理性のない日本語を話すなということだろうと思います。 以上、ご参考になればと思います。
お礼
別に英語を引き合いに出さなくてもよいことですね。ここにちょっと違和感を感じたのだと思いました。ご教示ありがとうございました。
お礼
言葉を大切にしなければならないということだろうと思いました。貴重なご教示ありがとうございます。