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五山の送り火はいつから始まった

今日8月16日は,盆の送りの日ですね。 京都の五山の送り火は,京都全体の盆の送り火と聞いているのですが,いつから始まったのでしょうか。京都で人がたくさん死んだことがきっかけで始まったのかなと考えています。応仁の乱のあたりかなとも思っているのですが。

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  • titelist1
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回答No.3

>送り火としての意識を持つようになったのは,いつ頃からなのでしょうね。 山に火をつける発想は普通の時には危ないので思ってもやれないものです。始めた時にはおそらく山は燃えた後で火をつけても燃え広がらない状態であったのだと思います。戦乱の後が常識的です。 送り火と言う考えは元々の仏教にはなかった。やはり浄土宗による極楽浄土に死者を送るという考えによるものと思います。前述したように浄土寺の檀家が始め現在の浄土院の檀家に引き継がれたのではないかと考えられる。大文字山への登り口が浄土寺の跡地に建てられた銀閣寺近くにある。このとも古くから決まっている登り口なのだと思う。大文字山が浄土寺の所有であったと思う。 その起源は質問者さんが思っているように、私も京で多くの戦死者が出た応仁の乱の後だと思います。だから五山の送り火はもの悲しいものに見えるのです。

tobitobi123
質問者

お礼

ありがとうございます。 一度は,五山の送り火を観に行きたいと思っています。 でも,夏の京都は暑いでしょうね。

その他の回答 (2)

  • titelist1
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回答No.2

五山の送り火が同じ時期に始まったとは思えない。大文字は奈良の大文字焼きを連想し、妙法は明らかに日蓮宗であることがわかる。それぞれの宗派の寺の檀家が送り火のお世話をしており、その寺に由来が残っている。 おそらく、大文字が最初であったのではないかと思われる、大文字は浄土院の檀家が世襲で世話をしている。浄土院は浄土宗の寺で浄土寺が移されて浄土院として再興されたものである。浄土寺の跡地に足利義政が山荘を建て後の銀閣寺になった。おそらく浄土寺は応仁の乱で焼失したのだろう。起源は諸説あるが、浄土寺の焼失で寺を失った檀家と関係があるのではないかと推測される。

tobitobi123
質問者

お礼

ありがとうございます。始まった時期はそれぞれ異なるのですね。 京都の人たちが,送り火としての意識を持つようになったのは,いつ頃からなのでしょうね。

回答No.1

山に画かれた字跡に点火する行為の起源については、平安時代とも江戸時代とも言われているが、公式な記録が存在するわけではない[16]。場所と行為を具体的に特定した史料が登場するのは近世に入ってからである。『雍州府志』によると、盂蘭盆会や施餓鬼の行事として行われていたとあり、『花洛細見図』にも「盂蘭盆会の魂祭」として紹介されていることから、江戸時代前期から中期までにはそれに類する性格を持っており、大文字、妙法、舟形、加えて所々の山、原野で火を点けていた。 なお、以前の京都は過度の深林利用のせいでハゲ山が多く、深林は少なく、それが故に送り火と言う文化が産まれたのではないかと言う説が有る(京都精華大学人文学部教授 小椋純一による とあるので はっきりと「いつから始まった」かは分からないようです

tobitobi123
質問者

お礼

ありがとうございます。 京都観光協会の説明文も見てみました。それぞれ異なる時期に始まったのですね。 京都の人たちが,送り火としての意識を持つようになったのは,いつ頃からなのでしょうか?

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