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人の手やテクニックによって作られたものは美ですか
日本語を勉強中の中国人です。日本の皆さんにお伺いします。この世界で人の手やテクニックによって作られたものは美と言えるでしょうか。たとえば、化粧をした女性、花壇にある形に手入れされた植物、テーブルに並べられた料理が入った食器の場面、などなど。 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
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>この世界で人の手やテクニックによって作られたものは美と言えるでしょうか。 すべての人工物が美だとはいいませんが、人間が美を目指して構築したものの中にはたくさん美といえるものがあると私は思います。それを否定すると人間の古来からの美をめざした営みのほとんどを完全否定してしまうことになります。もちろんそう考えるのも自由ですが、それはとてもかなしいことではないでしょうか。 多くの人工物が美をめざしており、私たちもそれを期待してそれらに触れ、実際にも多くの楽しみをそれらから得ています。私たちはそうやって人生を楽しんできました。むしろ積極的にそれらから楽しみを得ようとすらしています。疑義をはさむ理由はないと思います。あえて日々の食事をいつもまずいと思いながら食べるひとはあまり居ないと思います。そういうひとは不幸ではないでしょうか。 もちろん多くの美をみているうちに目がこえて、それらの中にはとびきりいいものからかなりいいいもの、あまりよくないもの、とてもみとめられない偽ものもたまにはあるようですが、それはまた別の問題だと私は思います。
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- mokomama2010
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美という概念が人が作り出したものなら、人が作り出した物に美という概念を感じることはあるだろう。 だが、個々のそれが美しいかどうかの判断は様々であろう。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
私は、本当の美しさとは人の心にあるものであり、目に見えたり、鼻に香ったりする美しさは、外面的なものであると思います。 では、本当の美しさを私は知っているのかと言うと、見出すのは難しいのですが、例えば、自分のために時間をかけて化粧をしてくれたなら、その化粧した顔は美しい、と思っていいと思います。 また、或いは、部活動などで一生懸命になって汗をかいている顔も、美しい、と私は思います。 作らない、素朴な笑顔もいいですし。 ですが、真の美しさはさらに上にあるような気がするのです。もっと、徳を備えたものこそが、美しいのだと思います。
- kurinal
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sobatya様、こんばんは。 「愛好者」にとっては、そうだと思います。 あるいは「そうでなくて、どうするんだ」ということかも。
- hannya-gl
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「好嫌戦慄は己より発し己を去る」(ブッダ) 美醜も同じで、自分の心が志向、執着し決めるものであり。その心は、ころころ変わるから、心、なのだ。と誰かが言ってました。 唯物弁証法では、好き嫌いや美しい、醜い、などは、行動の基準にはしないのでは。 私も子供のころは、厚化粧をし米兵と腕を組んで歩く女性は、醜い、と感じていました。 中国人も日本人も、欲に執着する者を、小人、とか俗物、などと言好い、好き嫌い、美醜、などは、口にしない、ものでしたが最近は、首相、国家元首などが、国益、などと恥ずかしげもなく口にし、行動の基準にしているようです。大衆に合わせているのか、元々その程度の人物なのか?中国の得が日本の損になり、日本の益が中国の害になるのなら。老子が言う、鶏の声が聞こえる程の近くであっても、あえて関わらない。 気になっていた事は、対戦の後満州に進行したソ連は、60万人とも言われる、関東軍を、シベリア に抑留したのは、「業に報いるに徳をもってする」との蒋介石の言葉を関東軍を組み込もうとしていると考えた、毛沢東がソ連と相談して。関東軍を中国から隔離した、ではなかったのか。 そういう事を確認するのが歴史認識では?・ ・・聞き流して下さい。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
ある著名な作家が次の言葉を遺しています。曰く「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」。 つまり、野辺に咲いている草花であっても床の間に飾られている一輪挿しの花であろうと、その「花」自体の美しさに感動するのであって、それをあれやこれやと分析したり評論することは「なぜ美しいと感じるのか」との問題を論じているのであって、そうした違いをどこかに置き忘れているよ、との少し意地悪な言い方です。 「美」といっても、自然の中にあるものもあれば、絵画や彫刻そして音楽や文学といった人間が創り出した「造形美」もあります。 その造形美も、造った人間が「美しいと感じた対象」を自分の手で再現した形と同じですから、美しい物であることにはかわりありません。 運慶が造った東大寺南大門にある仁王像が示す筋肉の躍動的な動きの美しさもあれば、ミケランジェロが造ったダビデ像が醸し出す小川の流れにも似た流れにも美しさを感じることもあります。 無駄な言葉を全て削ぎ落とすことで成り立ってもいる芭蕉の俳諧作品もあれば、与謝蕪村の春風馬堤曲が織りなす言葉の調べにもリズムと美しさはあります。 そうした「様々な造形の美」は造った人と同時にそれを観る人の目線によっても評価は異なりますので、これが「美」であると断定することにさほどの意味はないと存じます。「美しいと感じる感性」は何れの人にもありますが、「美」そのものが単独で存在することはあり得ないとの話でした。もし「美そのもの」が存在するならば、どのような形で存在しているのでしょうか。俗人である僕は未だにそのようなものに出会ったことがありません。
- trytobe
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自然が生み出す美しさというのがあります。いわゆる自然美ですが、その中には食虫植物みたいに「うまくこの形になっているな」という機能美を見いだすこともあります。 そういう美に憧れて、人工的に美しい物を生み出したいというのが「美術」であり、そこには道具の使いやすさを追求したら機能美がさらに進化することもあれば、自然の一瞬を切り出す写真でも露光時間を長くすることで静止画像の中に時間の流れを閉じ込めることもできたり、ピカソのゲルニカのように戦場の凄惨な風景やとまどう人々の複数の表情が一枚の絵に一気に描き込まれたキュビズムのような洗練された技法による美、というのもあると思います。
- 雪中庵(@psytex)
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「美」とは、経験の蓄積において生じる先入観の一種です。 脳には、過去の五感の相関した経験を蓄積して、新たな 感受(光や音などの先行感覚)に対して、直感的な意味 (より生理的な感覚)を励起させる機能があります。 たとえば、美にとって主要な要素である色彩とは、物理的 には光の波長の連続的変化に過ぎず、「赤は青の反対」 などという根拠は、どこにもありません。 長い波長の可視光線に対して、「赤い」と感じるのは、遠く にある「それ」が、接触した時に「熱い(火)、美味しい(果実、 肉)」ものであるという予測を潜在的に行うもので、生きる上 の知恵なのです。 赤の印象を分析すると、火や血、肉、花などの異なる原因に よる長波長を伴う現象の経験(温かい、危険、食欲など)が、 青には、水や空といった短波長を伴う現象の経験(冷たい、 爽やか、静寂など)が、潜在している事が分かるでしょう。 この「総和機能」において、さらに大きなカテゴリーが、人生 における快適な経験の総和である、視覚的刺激パターン、 「美」です。 自然が必ずしもいつも美しい=快適ではないように、人工 物がいつも醜い訳ではありません。 人工物が美しくないように思うのは、近代において経済性が 優先され、見た目よりも機能の方が優先される結果だ。 古代においては、日常使う鍋や信仰の対象となる宗教施設を 美しく飾る事が一般的でした。
お礼
No.5さんのお礼欄をお借りして、No.1からNo.8までご丁寧に回答してくださった皆さんに厚くお礼申し上げます。皆さんのおかげで、美に対する理解が深まりました。本当にありがとうございました。とても勉強になりました。