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世間の偽善的な考えについて
- 世間の偽善的な考えに疑問を抱いている方は多く、その言葉は日常で感じることができます。
- 中島義道さんの思想は常識に反し、考えない弱者を嫌うことを指摘しています。
- 世の中の定型思考には偽善的な要素が含まれており、それを教えてほしいという人もいます。
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質問者が選んだベストアンサー
No.7です。 お礼ありがとうございます。 >投影した相手に自分が見たくないものを見てるわけですが、当然関係性は悪化します。そして次の対象を見つけていくわけですが、自分に向き合わない限り同じことが続き、自分で自分を不幸にしているわけですがすべては相手のせいとなる。このような個人も社会心理と同じ「考えない弱者」です。 おっしゃる通りです。 自己投影したものに、本人は気がつかないのですよね。 自分に問わないので、気づけないのだろうと思います。 たとえば嫌いという感情は、その人の外には無く その人の中にしかありませんよね。 嫌いという感情は、心理学的には自分の甘えを気がつかせてくれる元ですが 自分に問わない人は、甘えを存分に振りまくことも気がつかない。 それもまた不幸の源ですので、それを振りまく行為が 世間が正当化している偽善的な考えとして広まりを見せるのでしょうね。 考えると自分に問うがセットになっている哲学は 哲学として機能しますが、自分に問うことが無く 人に問うだけになると哲学として成り立たない。 自分に問わないで人に問うばかりだと人は必ず孤独になっていきます。 自己投影に気がつかないからです。 哲学者でも哲学を好きな人でも、孤立して孤独になりたい人は 自分に問わないのを貫き通してもいいのですが 孤立して孤独になることが目的でなければ、機能していない哲学は不幸です。 目的をもたず哲学する時ほど、自分に問わなければ自己を見失いやすく 結果、哲学者というエキスパートであろうとただ考えるという行為をすることで 孤立・孤独・不幸に絡め取られていってしまいます。 その時、自分が正当化している偽善的な考えに陥らないことが 私自身は、一番大切なことかなと思う次第です。 私は幸せになりたいし、幸せな人を見ているのが好きだからですね。 幸せになるために哲学をするのが好きです。 他の人が、どの道を選ぼうと邪魔はしませんが 不幸になるのや、苦虫を噛み潰したまま生きるのは残念に思います。 あなたが言う所の「考えない弱者」を目にする時ですね。 自分に問うて、世の中から「考えない弱者」が減ることを切に願うばかりです。
お礼
>たとえば嫌いという感情は、その人の外には無く その人の中にしかありませんよね。 表現が素晴らしいです。同感です。 もちろん攻撃をされたり、コンプレックスやトラウマを刺激されたりする直接的な原因もありますが、自分が認めたくない部分を他人に通してみる。相手にみる嫌いなところが自分のシャドーである。それは「間接的」な理由として分けています。 >自分に問うことが無く人に問うだけになると哲学として成り立たない。 ご回答者様のこの表現によって、自分への厳しさの中から哲学というのは生まれてくると思いました。ひとつ学ばせていただきました。 >人に問うばかりだと人は必ず孤独になっていきます。 本当にそうです。私の知っているところで実際にいます。いつも周りに人はいても「心の中は孤独」と打ち明けられました。彼らに共通するのは、自分の欠点を自覚しているが直面できないということです。直面できないから直すこともできません。そして同じことを繰り返しています。 私にとっての真の幸福は、本当の自分に正直であることです。難しいと思いますが、日常の中でふとしたことで発見できています。孤独の時間が長いせいかもしれません。