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偽善は悪でしょうか?
私は必ずしも悪ではないと思います。 それよりも全く慈善行為をしない方が悪だと思います。 また、最初は偽善行為であっても、続けているうちに、真実の慈善行為になる場合もあると思います。
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そもそも、いい人ぶるや悪い人ぶる・・・そもそも素の自分、正直な自分を隠すこと自体が悪の根源なのです。 「偽善」という言葉は嫌な響きをもっています。 上辺を飾って実際以上に自分を良く見せようとするためです。 つまり、行動としての形は善と同じでも動機はあくまで自己中心であるわけです。 ところで、「偽悪」という言葉があります。これは、自分を実際以上に悪く見せかけようとすることです。 よくサラリーマンなどの中に、自分の同僚に「自分は学生の時に酒を飲んでは大暴れをしたんだよ」とホラを吹いてる人がいます。 聞いてる方は、「ヘェー、そんなふうには見えないけどね」と首をかしげていたりします。 これなどは日常よく見かける偽悪の一種です。 日本では、太宰治がその傾向の強い人でした。また、太宰が憧れていたフランスの15世紀の詩人、フランソワ・ヴィヨンも、それを最大限に発揮した人でした。 偽善と偽悪を比べれば、偽悪の方が何となく罪が軽いように感じますが、自分を偽っているという点では、どちらも同じなのです。どちらも仮面を被っているわけです。 偽善はどちらかというと、政治家や財界人をはじめ、外交的な人間に多いように見えるのに反し、 偽悪は平凡なサラリーマンや学生、宗教人など、どちらかといえば内向的な人間に多いようです。 政治家の偽善というのは嫌味でついていけませんが、我が内なる偽悪も"自己主張"という点では偽善の裏返しにすぎませんね。。 大体偽悪ぶる人は、繊細で傷つきやすい魂の持ち主が多いと思われます。むしろ、そういう自分を守るために偽悪ぶったポーズを取って別の自分を作り出すのです。 マージャンや賭け事が好きでもないのに、「お前は固いやつだ、つき合いにくい」といわれるのがイヤで、無理に精を出している人もいます。 大言壮語したり、強がりをいう人ほど、心は悲しいことが多いと思います。 それと、偽悪は一種の自己防衛の手段にもなっています。 他人に対して自分を実際以下に悪く見せかけておくことによって、自分では「実際はそれ以上なんだ」と考えることによって安心するからでありましょう。 他人ともつき合っていくうちに、次第に相手が「思ったよりなかなか立派じゃないか」と自分を発見してくれるというひそかな期待があるのです。裏返せば、つき合ううちに悪いことやボロが出てくるということに、偽悪家は耐えられないわけです。だから先行して自分を悪く宣言しておく・・・せこいですね! 偽善は、どうせ化けの皮が剥がれていくのですが、それを平気でやれる人はきっと楽天家に違いありません。それに対して偽悪家は、心配性でそんなことはできないのです。偽悪家は、賑やかな仮面の下に臆病な魂を隠して生きる、悲しきピエロといえましょう。 偽善にせよ偽悪にせよ、別の自分を作り出してお茶を濁してきたということは、自己の本来の存在位置を離れて、自分だけを守るために嘘の努力してきたわけですから、バカなというかかえって人生を棒に振る行為以外のなにものでもありません。何より嘘は罪です。 また、偽善も偽悪もどちらも悪ですが、それを見抜けないのも悪です。更に見抜けても何もしないのも悪です!! 悪いことだと思ったのなら、それを正してあげなきゃね!見て見ぬ振りも知らない振りも偽善と同類です。 前置きがずいぶん長くなり、質問へ戻ります。 最初が嘘でも嘘は嘘ですから悪です。しかしどこかで本位に変わったのならそれを偽善とはいいません。 途中で偽善が本位の善に変わったからといって、それを一般化し、生き方を偽善からスターとさせましょうと偽善を正当化する人はいません。そのような例が数例あるからといって一般化できないのです。 偽善がそうでないものに変わったから許せるのであって、だからといって偽善そのものを許す根拠にはなりません。偽善の動機はあくまで自己中心です。その動機が変わるか変わらないかは、不確定要素なのです。
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- grasuki
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人の為の善と書いて偽善と書きます。結果.救われる人がいるなら悪ではないと考えます
- hunaskin
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やらない善よりする偽善、と言いますからね。 誰かの善行を他人が偽善と評する時の基準て その行為がが「100%の善意に基づいたものでない」とか完「璧な自己犠牲ではない」とかの無茶なものだったりしますよね。 名前を出して寄付をすれば「売名行為だ」とかふと気付いた時に誰かの手助けをすれば「継続しなければ意味が無い」とかいくらでもケチをつけるひとがいます。 私はそんな無茶なハードルを設定してそれを越えられないものを偽善だなんだというほうがおかしいと思います。だいたい半分くらいの善意に基づいた行為なら、困っている誰かの役に立つのなら、善行の資格十分ですよ。 と、いうわけで、世に言う「偽善」のかなりの割合が私の中では善そのものとしてカウントされます。 まあ今回の震災被災地でもあったような暴力団が地元と顔を繋ぐために行ったような現金バラマキみたいなものは、たとえ誰かの役に立ったのだとしても、偽善そのものだと考えますが。
- shubal
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偽善であるか完全な善であるかは、人間の永遠の課題です。私は相手が喜んだり物理的に助けられるのなら、それでいいと思います。問題は自分の中でそれが偽善ではないかと問うことが重要だと思います。
- 1582
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ケース バイ ケース 一言で偽善といっても状況でいろいろありすぎる やらないよりマシな偽善もあるが マイナスにしかならず何もしないほうがマシな偽善もある そういうのに限って自分はいいことをしていると 陶酔しきっていて断るとぶち切れして厄介なことが多い