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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:この世界は 認識によって派生するのですか?)

この世界は認識によって派生するのか?唯識論の根拠はあるのか?

このQ&Aのポイント
  • この世界が認識によって派生するのか?唯識論を考える。
  • 現代の自然科学によっても唯識論が裏づけられているのか。
  • 認識する主体の派生や存在の意味を考える。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#221368
noname#221368
回答No.7

 #4です。 >☆ 分かりました。分かりましたが・つまり 《現実= 事実〔の認識〕+ナゾ》だという出発点を共有することは分かりましたが 《われは われである》という自己到来についてのデカルトの議論は 必ずしも独創性はないと思いますよ。 >【Q:"cogito"(コギト・エルゴ・スム)は真か?】その回答No.5   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7902812.html >ここにアウグスティヌスの焼き直しであるという議論をしています。興味がありましたら どうぞ。  それは前に読ませて頂きました。で、結論としては、そうだなと思いました。デカルトの宇宙論は、近代的な事を言っていながらも、その基本発想は実に中世的です。でも、中世的な発想が駄目だと言ってる訳ではありません。それはそれで、一つの思考パターンなのだと思います。思考パターンは、その時代の影響を受けます。後の百科全書派(啓蒙主義)が言ったように、デカルトは当時としては最良の事をやったのだと思っています。 >☆ あっ。どうも《素朴実在論》の意味で 食い違っているようですね。 >☆ むむ。《素朴実在論》とは 何ぢゃいな? 分かりません。  自分の思う素朴実在論は、どうも、 >▲ (kotobank > 素朴実在論とは) ~~~~~~~    http://kotobank.jp/word/%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96 に近いようです。ただしそれはその前半「事物はただ端的に実在しており,」であり、後半の「主観の意識や表象はそれを模写するもの」については、受け入れられません。  (1)まず理想的には模写が可能であっても、そこには必ず人間の意志や恣意性が入るからです。論理哲学論考(模写説に基づく)を仕上げたヴィトゲンシュタインは、某汽車の中でそれに対する某哲学者から反論を受け、反論に一言も応えられなかった自分に衝撃を受けた、という話を読んだ事があります。そこから、彼の死に至る病が始まります。  (2)次にまさに量子力学的世界観(?)が、そういう事は不可能だと言いだした。量子そのものを見たいのに、量子は観測した瞬間に、自然法則に従って、それは古典的(ニュートン力学的)存在に化けてしまう。自然の真実の姿である量子世界は、絶対に垣間見る事はできない。  なのでここでの素朴実在論とは、次のようものです。    ・たとえ垣間見る事さえ出来なくとも、その彼岸の向こうには、理想的には精神に模写可能な実在の世界が拡がっている と信じる事です。  現在の多くの物理学者は、こういう気持ちで研究をやってると思います。  ・・・あなただけでなく他からも、いっぱい怒られそうだ(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ふうむ。複雑ですね。素朴実在論。  ★ ただしそれはその前半「事物はただ端的に実在しており,」であり、後半の「主観の意識や表象はそれを模写するもの」については、受け入れられません。  ☆ とは言うものの 量子の世界について 模写をも思い描いている。ようにうかがえますが。  すなわち:   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  量子そのものを見たいのに、量子は観測した瞬間に、自然法則に従って、それは古典的(ニュートン力学的)存在に化けてしまう。自然の真実の姿である量子世界は、絶対に垣間見る事はできない。  なのでここでの素朴実在論とは、次のようものです。    ・たとえ垣間見る事さえ出来なくとも、その彼岸の向こうには、理想的には精神に模写可能な実在の世界が拡がっている  と信じる事です。  現在の多くの物理学者は、こういう気持ちで研究をやってると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いまは 波と粒とのあいだの確率を採るような存在なのですか?  そのような観察? 推理? 理論? は知覚および理性をつうじての《模写》ではないのですか?  〔可能性としてでしょうか〕ミクロもマクロも 素朴実在論として 世界を捉えるということでよろしいですか?  世界に対して人間は受け身であるというような姿勢に わたしには見えます。それなら   自然史過程として世界を捉える    というわたしの見解と同じなのですが。・・・  * ヰトゲンシュタインについて 推測として言えば その模写説はどうも物理的世界に人間が吸収されているような感じがします。  自然や歴史の世界に対して受け身という場合 その模写をおこないうる認識などの能力を 人間は あたえられているのだと捉える。そのような自然本性を立てている。ヒトとしての自然本性と 自然世界とが呼応し対応しているように受け取るものと思います。

その他の回答 (7)

noname#221368
noname#221368
回答No.8

 #7です。 >☆ とは言うものの 量子の世界について 模写をも思い描いている。ようにうかがえますが。 >そのような観察? 推理? 理論? は知覚および理性をつうじての《模写》ではないのですか?  そうなんです。  そうは出来ないと知りながら、「《模写》を理想とする」という意味において。  それも数学的言葉を用いて。  それは宇宙は(世界は)、数学的言葉だけで無限に正確に記述できるだろう、という一種の信念です。これは20世紀以前の古典物理の遺産です。遺産ですが、今もほとんど有効に人々に働きかけ、現実にもほとんど有効に機能しています。 >☆ いまは 波と粒とのあいだの確率を採るような存在なのですか?  趣旨を外れますけれど、説明したいと思います。  量子力学のコペンハーゲン解釈、いわゆるボーアの量子力学に関する哲学(認識論)において、ボーアは実在論を本当は一つも語っていません。  量子(原子サイズの粒子や物体)は、波の性質と粒子の性質両方を併せ持つ事が実証された。しかし「波という概念」「粒子という概念」は、あくまで古典力学的存在に対して仮定されたものであり、本当の実在が古典的な波や粒子である保証なんてどこにもない。じっさい古典力学的存在においては、波と粒子の性質は相容れない。  我々が行っているのは、「量子と名付けただけの」存在に対して、古典的概念がなんとか通用し観測可能な、波とか粒子とかいう側面の性質だけを切り取って、そこだけを語っているだけではないのか?。  だとすれば、古典力学的存在としては矛盾する波と粒子の性質を、量子が持っていたとしても、何ら不思議な事ではない。そしてその仲介を、確率という数学的概念に全て押し付けてるだけだ。  その結果、(じつはそれしか知らないし、それしか使えない)古典的言葉では、観測した時に実在と「呼ぶもの」が発生すると、言わざる得ないような事態も発生する。  上記は非常に個人的バイアスがかかっていますが、上記のような視点は瞠目に値すると思います。  しかしそれでも多くの物理学者は素直なんです。宇宙は(世界は)数学的言葉だけで無限に正確に記述できるだろう。量子の世界の彼方には、無限に正確に記述できる実在の世界があるに違いない・・・(^^;)。  前も言いましたが、そういう信念がない限り、(現在の)物理を本気でやろうなんて気持は起きないはずです。  ヴィトゲンシュタインについて言えば、 > * ヰトゲンシュタインについて 推測として言えば その模写説はどうも物理的世界に人間が吸収されているような感じがします。  きっと、そうなんです。それで吸収されないような形にしようとして、やり過ぎて死んじゃいました。  でもヴィトゲンシュタインを持ち出すべきではなかったな。論旨が不明確になる。 > 自然や歴史の世界に対して受け身という場合 その模写をおこないうる認識などの能力を 人間は あたえられているのだと捉える。そのような自然本性を立てている。ヒトとしての自然本性と 自然世界とが呼応し対応しているように受け取るものと思います。  これは微妙ですね。確かに古典力学と古典物理は、この立場なんですよ。そして「学の欲求」として「まさに自然を模写したい」のですよ。それは現在も変わっていません。  ここは自然史的過程の意味を尋ねるべきかな?、と思いました。  人間が自然に妥当な方向へ行くなんて事は、絶対にあり得ない!(あえて言います(^^;))。  行ったとしてもそれは、「人間が妥当と思う方角へ」、研究し努力し(偏見を積み重ね)、意志(と恣意性)を持って、方向転換したしたからだと思う。  これもひどい偏見だとは思いますけど・・・(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 なかなかラリーが続きますね。こんばんは でーでーてーさん。ご回答をありがとうございます。  ★ それは宇宙は(世界は)、数学的言葉だけで無限に正確に記述できるだろう、という一種の信念です。  ☆ 野崎何とかという人の本で ヒルベルトというひとが 提唱しこの数学的世界認識が始まった。ゲーデルが 必ずしもそののぞみどおりには行かないと証明してしまったとか。  その範囲内で  ★ 今もほとんど有効に人々に働きかけ、現実にもほとんど有効に機能しています。  ☆ ということだと理解していいでしょうか。  ★ 趣旨を外れますけれど、説明したいと思います。  ☆ Vielen Dank !    ★ しかし「波という概念」「粒子という概念」は、あくまで古典力学的存在に対して仮定されたものであり、本当の実在が古典的な波や粒子である保証なんてどこにもない。じっさい古典力学的存在においては、波と粒子の性質は相容れない。  ☆ ということなんですね。  なるほど。  ということは 量子の気持ちになって その正体がどういうことであるのかを問い求め それにふさわしい名前を考えなくてはいけないのですね。  ★ 我々が行っているのは、「量子と名付けただけの」存在に対して、古典的概念がなんとか通用し観測可能な、波とか粒子とかいう側面の性質だけを切り取って、そこだけを語っているだけではないのか?。  ☆ うわあああああ。そうすると その背後にまだお化けがいるかも知れないということでしょうか?  すなわち  ★  その結果、(じつはそれしか知らないし、それしか使えない)古典的言葉では、観測した時に実在と「呼ぶもの」が発生すると、言わざる得ないような事態も発生する。  ☆ 分かりやすいですね。  しかも・しかも 《量子》にとっての《実在》と 古典世界における《実在》とは 別であるかも知れない。別ではないかも知れない。・・・  かくして  ★ しかしそれでも多くの物理学者は素直なんです。宇宙は(世界は)数学的言葉だけで無限に正確に記述できるだろう。量子の世界の彼方には、無限に正確に記述できる実在の世界があるに違いない・・・(^^;)。  ☆ パチパチパチ。  《ヰトゲンシュタイン》 了解しました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~   これは微妙ですね。確かに古典力学と古典物理は、この立場なんですよ。そして「学の欲求」として「まさに自然を模写したい」のですよ。それは現在も変わっていません。  ここは自然史的過程の意味を尋ねるべきかな?、と思いました。  人間が自然に妥当な方向へ行くなんて事は、絶対にあり得ない!(あえて言います(^^;))。  行ったとしてもそれは、「人間が妥当と思う方角へ」、研究し努力し(偏見を積み重ね)、意志(と恣意性)を持って、方向転換したしたからだと思う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ きびしいですね。なるほど。禁欲志向でつつましやかな態度とお見受けしました。

noname#204018
noname#204018
回答No.6

 (あ)  ★ 認識される客体と主体は同時に「はじめから」存在していたと考えます。  ☆ だったら なぜそのあと わざわざ《派生する》ことが必要なのでしょう。 そんなこと私言いました?高次元宇宙、超ひも理論とか読まれると、私の言っていることがお分かりになるのではないでしょうか。 > もし《認識》としての派生だとしたら すでに《存在しているもの》の認識を行なったというだけのことなのでは? そうです。現代人の認識においてはそうです。ちなみに私は「派生」という言葉の意味がよくわかりません。哲学用語ですか?わからないから「」付で使ってみました。  >(う)  ★ 確率論的に存在しています。認識の作用でその主観の中で部分部分が断片的に「派生」するということです。  ☆ それは 量子の相互作用というのでしょうか そういうミクロの世界だけの話なのでは? シュレーディンガーの猫という思考実験があります。多次元宇宙、平行宇宙という考え方もあります。    >(え)  ★ 無ということは無限大の存在に等しく、  ☆ どうしてでしょう? 真空に無限のエネルギーがあるという話はお聞きになったことは? > ★ 存在していないということは、確率論的に表現すればあらゆるものが存在しうるということになります。  ☆ ぢゃあ存在していないなどと言わなければよいのでは? 存在していないと言う言葉をおっしゃったのは、あなたなので・・・ > ☆ というのは 人間が認識をおこなったというだけのことですね。初めから確率としてでも存在していたのですから。 時空をどうとらえると現象を矛盾なく説明できるかというのが理論物理学ですから > ☆ わたしも《社会》です。そのわたしと どうして《協調》しないのですか? おもいきり協調をもとめてお話ししたつもりですが、何かお気に障りました? だとしたら謝りましょう。 語っているスケールは時空の認識なのですから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ちなみに私は「派生」という言葉の意味がよくわかりません。  ☆ これは 具体的には No.2の方の表現です。  ★ 真空に無限のエネルギーがあるという話はお聞きになったことは?  ☆ もしそうだとしたら 《無》ではないのだと思いますが。  ★ 存在していないと言う言葉をおっしゃったのは、あなたなので・・・  ☆ No.2の人の理論によると 《認識とは独立した存在》は否定されるのだそうです。  ★ おもいきり協調をもとめてお話ししたつもりですが、何かお気に障りました?  ☆ そうですか。それは わたしの感覚が間違ったのかも知れません。その点 あやまります。  ★ 時空をどうとらえると現象を矛盾なく説明できるかというのが理論物理学ですから  ☆ その理論物理学の成果が そのまま哲学としての世界観になるかどうか。このあたりについて問うています。

noname#204018
noname#204018
回答No.5

 >(あ) そうだとしたら その認識する主体はどのように派生したのか? 認識される客体と主体は同時に「はじめから」存在していたと考えます。      >(い) いちばん初めに認識する主体は どのように存在したのでしょう? 時間は意識の産物で宇宙には可能性という意味で、あらゆるものが「最初から」存在しています。  >(う) 認識する前には 世界は 派生していないことになるはずですが この《派生していない》とは いったいどういうことなのでしょうか? 確率論的に存在しています。認識の作用でその主観の中で部分部分が断片的に「派生」するということです。 > (え) 《存在していなかった》ものが 誰かの認識によって存在するようになるということなのでしょうか? 無ということは無限大の存在に等しく、存在していないということは、確率論的に表現すればあらゆるものが存在しうるということになります。もともと、原因も結果も「最初から」そこにあったのです。原因をみつけて結果を認識すれば、未来志向の発想になる。 結果を先に認識してあとから原因を認識すれば過去を振り返ったような気分になるのです。 正法眼蔵で道元禅師が同事ということを説いていますが、これは周囲と協調することの重要性を言っています。社会と協調しないと一人の意識だけでは世界は変わらないということです。 唯識論とはいっても認識の主体の広がりがないと変化はひろからないのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (あ)  ★ 認識される客体と主体は同時に「はじめから」存在していたと考えます。  ☆ だったら なぜそのあと わざわざ《派生する》ことが必要なのでしょう。  もし《認識》としての派生だとしたら すでに《存在しているもの》の認識を行なったというだけのことなのでは?  (う)  ★ 確率論的に存在しています。認識の作用でその主観の中で部分部分が断片的に「派生」するということです。  ☆ それは 量子の相互作用というのでしょうか そういうミクロの世界だけの話なのでは?    (え)  ★ 無ということは無限大の存在に等しく、  ☆ どうしてでしょう?  ★ 存在していないということは、確率論的に表現すればあらゆるものが存在しうるということになります。  ☆ ぢゃあ存在していないなどと言わなければよいのでは?  要するに  ○ この世界は 認識によって派生する  ☆ というのは 人間が認識をおこなったというだけのことですね。初めから確率としてでも存在していたのですから。  ★ 社会と協調しないと一人の意識だけでは世界は変わらないということです。  ☆ わたしも《社会》です。そのわたしと どうして《協調》しないのですか?

noname#221368
noname#221368
回答No.4

 #3です。やっぱり怒られましたか(^^;)。 >☆☆ > ・・・自己認識とともに世界認識も始まる。そのとき世界は派生し始める。  ☆ とこちらが あちらの世界観を捉えてみた。 >☆☆ >けれども この認識能力は どこから来たのですか?  ☆ とこちらは問わねばならない。 >つまりこの《この認識能力》こそが   ★ 「我思う故に我あり」な発想だと思う。  ☆ と見なさなければならないはず。ではないの?  ・・・そう考えてるんだと思うんですよ、自分は。 >・・・前略・・・ >6. われわれ人間にとっての《現実》とは この経験世界プラス謎から成る。 >7. 《我思う故に我あり》にはとどまっていない。 >8. せいぜい(最低でも)《われ われを思う ゆえにわれあり》になる。このワレには ナゾが含まれている。 >9. ナゾがわれを 覆っている。または 突き抜けている。または わが身と心との内にも外にもあまねくあたかも存在している。 >・・・後略・・・  これらにも、賛成なんです。  デカルトはある意味で、 >1. ふつう一般に言う世界認識とは 理性および感性によるものである。   という事を、とりあえず全部疑ってみた。  その結果残ったのは、「我思う・・・」だった。その「我あり」の「我」とは、どんなものか?。それは自己の客体化だと思う。これだけは人間の精神作用の専売特許だと思うんですけど、しかし何故デカルトは、そこまで現実を否定しながら、どうして観念論にならなかったのか?。   ※デカルトの宇宙論は現在基準からすると、十分な観念論ではありますが(^^;)。  それは「このワレには ナゾが含まれている」、つまりワレという外在的対象物(客体化)は、私とはどこか無関係に存在しているという感覚を持てたからではないか?、と思う。 >9. ナゾがわれを 覆っている。または 突き抜けている。または わが身と心との内にも外にもあまねくあたかも存在している。  自己さえも客体化し対象化し、究極的には外在的存在だと感じられる感性の持ち主、もしくは精神構造にとって、上記は実は容易く納得できるものだと思えます(実証実験なんか出来ないが)。外界は自然は、「我思う」の「我」とは無関係に「存在する」、自然とは「自ずと然りなもの」だと。  これは「自分は究極的には、素朴実在論を信じてたのだ」と気づく契機になると思う。  我々は少なくとも現人神がいなくなった戦後、このような発想を繰り返し教え込まれてきた。それはそれで悪い事ではないと思いますが、そのような人種(?)は、 >11. まぁ 自然史的過程 というようなものだけれど。・・・ という発想を、幻想や妄想として片づける傾向にある。  一方このような発想の弊害は、疑似科学,カルトやセクト,霊感商法などで実現されている。それらはとりあえず科学的に検証でき(出来ないが)、とにかく実在するものだと言われる。精神としての神秘主義(観念論)と素朴実在論の最悪な混合、それが旧オウムだった気はする。 >10. このナゾのもとに 量子論的世界〔像〕もが したがっていると思っている。  それはたぶん・・・そうなんですよ。他にやりようがない。  ただし量子論的世界〔像〕は、まだ未成立な気がする。では現在は何か?というと、ニュートン的な力学的自然観だし、(デカルトは大間違いをしでかしたから)ガリレイの数学的自然観であり、機械論的自然観(要素論的自然観)です。その 根底にあるのは、アインシュタインの意味での素朴実在論のように見える。  もちろんベル-アスペの実験が公表されたとき、量子論的世界〔像〕(実在は本質的に自然法則として確率的である)が成立しても良かったのだが、そうはならなかった。  日常生活はすべからく、ニュートン的な力学的自然観,ガリレイの数学的自然観・機械論的自然観で、切って捨てられるからです。  しかも「実在は本質的に自然法則として確率的である」は、「人間の認識が、この世界の存在理由である」と言ってる訳ではない。ここにも、アインシュタインの意味での素朴実在論の信念が横たわるように見える。とにかく自然は、我とは無関係に、眼前に存在し拡がっているのだと(訳もなく、確率的であっても)。  また怒られちゃうかな?(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   >つまりこの《この認識能力》こそが    ★ 「我思う故に我あり」な発想だと思う。   ☆ と見なさなければならないはず。ではないの?  ・・・そう考えてるんだと思うんですよ、自分は。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ そうだとしたら 失礼しましたですが そうは聞こえなかったなぁ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~   6.   ・・・   9.  これらにも、賛成なんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あっ。そう言えば ナゾを知らない科学者は おかしいとか 言ってましたね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  デカルトはある意味で、    >1. ふつう一般に言う世界認識とは 理性および感性によるものである。    という事を、とりあえず全部疑ってみた。  その結果残ったのは、「我思う・・・」だった。その「我あり」の「我」とは、どんなものか?。それは自己の客体化だと思う。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かりました。分かりましたが・つまり 《現実= 事実〔の認識〕+ナゾ》だという出発点を共有することは分かりましたが 《われは われである》という自己到来についてのデカルトの議論は 必ずしも独創性はないと思いますよ。  【Q:"cogito"(コギト・エルゴ・スム)は真か?】その回答No.5   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7902812.html  ここにアウグスティヌスの焼き直しであるという議論をしています。興味がありましたら どうぞ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~    9.・・・  これは「自分は究極的には、素朴実在論を信じてたのだ」と気づく契機になると思う。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あっ。どうも《素朴実在論》の意味で 食い違っているようですね。  わたしの解釈では 《ワタシの世界認識は 世界を模写しているものである》が 素朴実在論だと思っていましたが。  何だか 無為自然にまでは行かないけれども(なぜなら ふつうに社会的行動はおこなう) 世界の自然史過程の中に身を置いているというような・そこで世界認識を獲得するというようなかたちのようですね。  と思って書き込んだら 次で違っていた!  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  我々は少なくとも現人神がいなくなった戦後、このような発想を繰り返し教え込まれてきた。それはそれで悪い事ではないと思いますが、そのような人種(?)は、   >11. まぁ 自然史的過程 というようなものだけれど。・・・  という発想を、幻想や妄想として片づける傾向にある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ むむ。《素朴実在論》とは 何ぢゃいな? 分かりません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   一方このような発想の弊害は、疑似科学,カルトやセクト,霊感商法などで実現されている。それらはとりあえず科学的に検証でき(出来ないが)、とにかく実在するものだと言われる。精神としての神秘主義(観念論)と素朴実在論の最悪な混合、それが旧オウムだった気はする。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これも 正直言って 分からん。こういう場合は ぷらぽた氏にご登場ねがって解釈をほぐして欲しいほどですが 旧オウムは 確かに《観念論と素朴な実証主義(空中浮遊など)との混合》であるように思えますが。  ★  日常生活はすべからく、ニュートン的な力学的自然観,ガリレイの数学的自然観・機械論的自然観で、切って捨てられるからです。  ☆ これが いまのところ 基礎を成すということのようですね。と受け取りました。  ★  もちろんベル-アスペの実験が公表されたとき、量子論的世界〔像〕(実在は本質的に自然法則として確率的である)が成立しても良かったのだが、そうはならなかった。  ☆ このあたりが 分からんちんになりますが。  量子力学は 主流ではないのですか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   しかも「実在は本質的に自然法則として確率的である」は、「人間の認識が、この世界の存在理由である」と言ってる訳ではない。ここにも、アインシュタインの意味での素朴実在論の信念が横たわるように見える。とにかく自然は、我とは無関係に、眼前に存在し拡がっているのだと(訳もなく、確率的であっても)。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは その議論や理論などに裏付けられてはいませんが 《ナゾ》も人間にとって世界現実を構成するというのは けっきょく――文学的になって――《おそれをいだく》ということだと思います。  自然に対しても世界についてもあるいは人間という存在を思うにつけても 《きよらかなおそれを持つ》という感覚ではないかと。    ▼ (ヰキぺ:素朴実在論)~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96  (そぼくじつざいろん、英:Naïve realism)とは、      実在論の一形態で「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」とする考え方のことである  ▲ (kotobank > 素朴実在論とは) ~~~~~~~    http://kotobank.jp/word/%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96   大辞林 第三版の解説   そぼくじつざいろん【素朴実在論】   〘哲〙 事物はただ端的に実在しており,主観の意識や表象はそれを模写するものにすぎないとする考え。 → 模写説  ▽ (kotobank >模写説 ) ~~~~~~~~~~~   大辞林 第三版の解説   もしゃせつ【模写説】   〘哲〙 主観の意識や感覚は客観的実在の模像・反映であるとする認識論。   認識をイデアの映像とするプラトンに始まり,素朴実在論・唯物論など諸種の実在論で主張される。反映論。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしが誤解しているかも知れないのですが。

noname#221368
noname#221368
回答No.3

>☆ そうだとしても 《存在性の否定された》その認識事項が派生するというとき 認識行為をおこなうのは 誰れですか?   >その誰れは 人間でありワタシなのであると推し測られますが そのワタシは そうするとその《認識行為》とともに派生したとみづからが認識するということですか? >つまり 自己認識とともに世界認識も始まる。そのとき世界は派生し始める。   >けれども この認識能力は どこから来たのですか?  そう来ますか。そのように反論しますか。  怒られるかも知れないが、これは「我思う故に我あり」な発想だと思う。しかしだからといって、それで世界が(自己も含めて)認識のみによって派生するとは限らない、と思う。  というか、「我思う故に我あり」を実感した時に、じつは概ね二つの立場があり得るように思えます。  一つは、どうしようもない理系人間として。どうしようもない理系人間はどうしようもなく、「我思う故に我あり」から、結局は自分は、究極的には素朴実在論を信じていたのだと気づく。気づく契機になる。  もう一つは、そうでない人達・・・。この人達はどうするか?。  手前には、わかりませんな・・・(^^;)。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 怒られるかも知れないが、これは「我思う故に我あり」な発想だと思う。  ☆ これは ぎゃくだと思う。    つまり  ☆☆ > ・・・自己認識とともに世界認識も始まる。そのとき世界は派生し始める。  ☆ とこちらが あちらの世界観を捉えてみた。  だから:   ☆☆ >けれども この認識能力は どこから来たのですか?  ☆ とこちらは問わねばならない。  つまりこの《この認識能力》こそが   ★ 「我思う故に我あり」な発想だと思う。  ☆ と見なさなければならないはず。ではないの?    ○ わたしなるヒトの存在構造 ~~~~~    ナゾ:非思考の庭:信仰    -----------------------    理性:思考の緑野:宗教・科学    感性:知覚の原野:直感かつ直観   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  すなわち  1. ふつう一般に言う世界認識とは 理性および感性によるものである。  2. それを 素朴実在論と言おうと言うまいと。  3. 問題は 《実在》という規定にある。  4. うつろいゆかざるを得ないものごとは 現象という。《実在》と見るのは 現象に飾りをつけたようなもの。  5. そして 存在ないし世界〔観〕には ナゾがある。あるかどうかが分からないナゾがある。と想定される。  6. われわれ人間にとっての《現実》とは この経験世界プラス謎から成る。  7. 《我思う故に我あり》にはとどまっていない。  8. せいぜい(最低でも)《われ われを思う ゆえにわれあり》になる。このワレには ナゾが含まれている。  9. ナゾがわれを 覆っている。または 突き抜けている。または わが身と心との内にも外にもあまねくあたかも存在している。  10. このナゾのもとに 量子論的世界〔像〕もが したがっていると思っている。  11. まぁ 自然史的過程 というようなものだけれど。・・・

回答No.2

量子論的な世界像において、その根本にある不確定性原理に おいて、認識とは独立した存在性は否定される(それ以前に 相対性理論において、時間や空間の計量において観察者との 相対運動によって決まる、とされている)。 通常存在とは、位置や時点などの時空的な定位と、運動量や 質量などのそこに何があるかの、両方が具備して成立するもので あり、物事を精密にに測定すれば、それらが同時に正確になって いくものだと考えられている。 しかし不確定性原理において、「位置と運動量」、「時点と質量」 の2対が相補的不確定性を成している事が明らかとなっている (時(T)空(S)軸の相補分化に起因)。 位置(S)を確定すると(その変化である)運動量(St)が無限不確定 化し、「時点(T)を確定すると(時間的な相対運動だと言える)質量 (Ts)が無限不確定化するのだ。 それを本質的に確定化せずに、階層現象性を表面的に捉える (仮説性=「コップ」という存在は本質的でない)ところに、有限的な 性質を具備した存在は生じる(本質的には無=無限に還元される)。 そうした存在性の起源が本質的である事は、そうした階層表面的 定性化において、相補的不確定性が有限化するだけでなく、 原理的(超弦=量子定常波)光速性が、現象表面的な非光速性 (超光速=過去=記憶=時間軸、光速下=未来=予測=空間軸)の 相補分化として、仮説的時空構造の基底を成す事において、 先入的である。 全ての存在は量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込 むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなる。 その「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に認識体 の仮定断面(認識可能性)の運動を想定すれば、相対的に無の風 は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのだ。 これが時間軸としての認識可能性の時系列化の実態であり、先に 述べた自我仮説(時間的流れ=記憶=過去=超光速)と、時空仮説 (空間的広がり=予測=未来=光速下)の相補分化につながる。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 量子論的な世界像において、その根本にある不確定性原理において  ☆ この《量子論的世界像・不確定性原理》が ただしい世界認識なのですか?  それが ただしく ほかにただしい理論はないということを どのように知り得ますか?  ★ 認識とは独立した存在性は否定される  ☆ そうだとしても 《存在性の否定された》その認識事項が派生するというとき 認識行為をおこなうのは 誰れですか?    その誰れは 人間でありワタシなのであると推し測られますが そのワタシは そうするとその《認識行為》とともに派生したとみづからが認識するということですか?  つまり 自己認識とともに世界認識も始まる。そのとき世界は派生し始める。    けれども この認識能力は どこから来たのですか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~  認識とは独立した存在性は否定される(それ以前に  相対性理論において、時間や空間の計量において観察者との  相対運動によって決まる、とされている)。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《時空間の計量や観察》という行為・つまり認識という行為そしてその能力ないし行為主体は どこから来ますか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし不確定性原理において、「位置と運動量」、「時点と質量」  の2対が相補的不確定性を成している事が明らかとなっている  (時(T)空(S)軸の相補分化に起因)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ と認識しているのは 誰れですか? それぞれワタシと自称する人間だと思われますが この認識能力ないしそれを持ち実践する主体は いつどこで派生したのですか?  自己認識と同時に 派生するのですか?  このように自己認識とともに派生するワタシは 不確定性原理の示す内容の派生より先に派生したのですか? それとも 同時でしょうか?  不確定性原理を認識するには 時間がかかります。《同時派生》ということはないと考えられます。  ということは 不確定性原理にもとづくとは知らなかった世界事実を 最初はともかく認識したということでしょうか?   けれども その《ともかくの認識》であっても そのときすでに不確定性原理に一致する世界事実は派生していたのではないのですか?   《ともかくの認識》から精確な認識を得るようになるとき その不確定性原理としての世界内容はやっと派生するのですか?  不確定性原理そのものとしての世界事実を認識しえていない人間は まだほんとうには 派生していないのですか?  だったら 初めにおける《ともかくの認識》だけでは ほんとうには世界は始まっていない。ことになる。このとき 認識の広がりや深まりを促すものは 何ですか?  人間のうちの先駆者ですか? ならばその先駆者は いったいどのようにただしい認識を得るに到ったのですか?  人間という存在があり そこに知性としての自然本性が潜在しており この潜在力を顕現させて認識を深めるのではないのですか?  量子論的世界像は 人間が得るに到った認識物であって この認識の以前にもすでに世界はあったし その世界の中に人間もいたのではないのですか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  位置(S)を確定すると(その変化である)運動量(St)が無限不確定  化し、「時点(T)を確定すると(時間的な相対運動だと言える)質量  (Ts)が無限不確定化するのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ という世界事実を観察しているときにも われわれ人間はそれぞれ存在しているのではないのですか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  それを本質的に確定化せずに、階層現象性を表面的に捉える  (仮説性=「コップ」という存在は本質的でない)ところに、有限的な  性質を具備した存在は生じる(本質的には無=無限に還元される)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ と事後的に 存在を確認するのではないのですか?    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  そうした存在性の起源が本質的である事は、そうした階層表面的  定性化において、相補的不確定性が有限化するだけでなく、  原理的(超弦=量子定常波)光速性が、現象表面的な非光速性  (超光速=過去=記憶=時間軸、光速下=未来=予測=空間軸)の  相補分化として、仮説的時空構造の基底を成す事において、  先入的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ だとしても この階層表面的な存在も 仮りの世界現象としてでも認識能力を持って行動する存在である。のではないですか?  なぜなら  ★ 本質的には無=無限に還元される  ☆ というとき この《本質≒ 無=無限》を認識するわれは そうして派生した主体がすでに仮りの存在ではなく《本質》的な存在である。と言うべきではないのですか?  すなわち  ★ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのだ。  ☆ というより 《世界事実のほうが――認識をとおしてと言っておきますが ほんとうは 認識より以前にも意識せざる世界内存在というかたちにおいて―― 表面的・仮象的存在たるわれに相い向かい合って 世界認識をかえって提示しつつ その認識事実はわれの中におさまる》のではないですか?  世界は われに親和的なのでは? つまり 《本質》は このうつろいゆく仮象的表面的な世界でありその中に生きるわれなのでは?  時間も空間も この死すべき存在たるわれに おさまって来るのでは?  量子論は 人間論へとコペルニクス的転換をはかるべきでは?

回答No.1

こんにちは 到達者(無学)です。 世界とは個人個人に存在するものなのでAさんの世界(A世界)とBさんの世界(B世界)は同じではありません。 >(あ) 違う論議になってしまいそうです。個人が世界をつくるのでここでは存在するものとする。 >(い) (あ)に同じ。主体が無い場合世界は存在しない。 >(う) 派生するとは広がりを表します。それ以前に存在していないので派生もしません。この場合の派生は認識の広がりだと思います。最近は情報がありふれているので実感しにくいですが、太古の昔と現在では個人が認識できる世界は大きく異なると思います。太古の人間の世界には宇宙や土星は存在していなかったと思います。 >(え) 信頼に値する情報は認識されて、世界が広がります。(う)に同様。 土星の存在は信用に値する。(行ったことは無いけどあると思える) お化けの存在はグレーゾーン(あるかもしれないし無いかもしれない) M88星雲は存在しない。(あれはウルトラマンの世界のお話だから) どうも主体の部分で引っかかっているようですが、、この世の中は全て光の集合体です。主体(あなた)が死ねば世界そのものは存在しなくなります。回答者である私も存在しなくなります。 以上、持論でした

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。何も分からん。  まづは をるを240ぐれ1622さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  けっきょくは  ★ ~~~~~~~~~~~~~   >(あ) そうだとしたら その認識する主体は――これ    も 世界の一部ですが―― どのように派生したのか?   〔* という疑問を持ち問い求めて行くと〕違う論議になってしまいそうです。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここに帰着するのでしょうか。    すなわち  ★ 個人が世界をつくるのでここでは存在するものとする。  ☆ すなわち:      初めに 認識行為の主体は存在する。  という想定そしてその前提で話を始める。ということでしょうか?  そうであれば そりゃあ そうでしょう。すなわち:    《認識する能力のある存在》がいて     その認識によって認識したものごとが    世界として存在するようになる。     または すでに存在していたものが    おそらくワタシによる認識によって    その認識としての存在が広がる。  こりゃあ 当たり前だ。  というふうに解釈しては マチガイなのですか?  ★ 世界とは個人個人に存在するものなのでAさんの世界(A世界)とBさんの世界(B世界)は同じではありません。  ☆ だけではないでしょう? そのそれぞれの世界を互いにどこまで共通の認識とするかをも模索するでしょう。  あるいは 互いにその世界認識がどう同じでどう違うかについて 自由に情報交換するはずです。いまそれをおこなっています。  いまのところ 《前提》の問題であり 前提における《想定》のもんだいであるという回答内容であると受け取っています。

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