• ベストアンサー

サイパン、テニアン、グアムのB29用飛行場建設

太平洋戦争中に米軍がこの3島を奪取してから日本本土への空襲を開始するまでの時間は相当に早いので驚いております。各島にB29を100機くらいは駐機できたと聞いたのですが、そんな大空港をB29に搭載する爆弾、燃料、メンテ部品と搭乗員、整備員などの宿泊ができる施設を含めて半年くらいの工期で完成したのですか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8859)
回答No.1

アメリカは、占領する前から、テニアン島を長距離爆撃機(B29)の発進基地にすると決めていました。 そのため、テニアン攻撃を始める前から、海軍の建設部隊である「海蜂部隊」がテニアン基地の建設準備を始めていました。 テニアンが占領されると同時に、海蜂部隊が製糖工場付近に仮桟橋を造りました。 無尽蔵な珊瑚が道路や滑走路の材料として使用されました。 ”月月火水木金金”は日本だけでなく、海蜂部隊も週7日の昼夜兼行で基地建設を行ないました。 港から飛行場に通じる道路も、ブロードウェイと名付けられて開通しました。 港の桟橋も完成し、大きな船が直接テニアン島に、接岸できるようになりました。 占領前のように、沖の本船から、ランチで荷物を運ぶことは要らなくなったので、基地の建設は急ピッチで進められました。 島の北部には、占領後35日で一番滑走路(長さ2600m幅60m)が建設され、12月には最初のB29が降り立ちました。 その後11ヶ月でノースフィールド4本・ウエストフィールド3本合計7本のB29発進滑走路が建設されました。 舗装に使われたアスファルトやコンクリートの量は、ワシントンからボストン(東京から姫路駅)のハイウェー建設に相当するものであったそうです。  当時                                  ノース・フィールド基地は、世界で最大・最多忙な飛行場でした。 最盛期には日本への爆撃命令が出た日には、45秒毎にB29が2機ずつ翼を連ねて飛び立っていました。

agekoba
質問者

お礼

ありがとうございます。このロジスティクスには大変興味がありました。特にこの物流を具現化するための企画書などはどのような内容だったのか非常に興味があります。書類作成にはローマ字圏ではタイプ打ちが出来たので日本語よりも随分効率的だったと思いますが、その作表などはどうして行ったのか米軍は相当進んでいたように思います。

その他の回答 (2)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11082/34531)
回答No.3

一気に工事をして、一気に大爆撃をしたわけじゃないですから。最初は先行部隊が進駐して来て、徐々に規模を大きくしていったのです。管制官など、運用する側にも慣れは必要ですからね。 東京大空襲であれほどの被害が出たのも、当初は米軍の戦略爆撃は小規模で効果も薄く、日本側も「なんだこんなもんか」と米軍を甘く見ていたからです。 また、それはそれとしても短期間にそれだけの拡張工事と部隊の進駐を滞りなく進めたのがすごいと思ってらっしゃるなら、カタログスペック命のミリタリーマニアには気づかない慧眼でございます。それこそが米軍のすごさであるともいえます。 「史上最大の作戦」と呼ばれるノルマンディー上陸作戦はご存じでしょうが、ノルマンディーに上陸した連合軍は15万もの大軍となります。これだけの部隊が戦いながら前進するわけですから、弾薬、燃料から食料、果てはトイレットペーパーに至るまで数も種類も膨大な補給品を送らなければなりませんでした。それを可能にしたのが、第二次大戦で米軍が作り出した「ロジスティクス」というシステムです。まず大規模な補給基地を置き、そこから中小の補給基地を中継して前線に送られる、というようなシステム。どこかで見かけたことがありますよね。そうです、物流システムです。現代のヤマト運輸を始めとした運送会社やアマゾンなどの物流システムの基礎はこのときの米軍のロジスティクスシステムをベースにしているのです。 今日出した荷物が明日に届くのも、米軍が大元になっているってのはちょっとびっくりですよね。

agekoba
質問者

お礼

ありがとうございます。アメリカは昔からシステムを創造するのがすばらしいですね。現在のインターネットしかりですね。日本にもトヨタのカンバンやカイゼンなどがありますが、これは日本人の超生真面目さと重箱の隅をつつく性格だからこそ成り立つものでアメリカのような誰でも使えるシステムとは違うような気がします。

  • kuma8ro
  • ベストアンサー率40% (212/523)
回答No.2

以下4点を考えれば、さほど不思議なことでは無いと思いますが、いかがでしょうか。 ・供用開始時点では小規模だった。→さらに半年くらい掛けて、規模を拡大したものと思われる。  (空港が小規模だったということが書かれた文献は見ていませんが、東京等への空襲が最初は小規模だったことを記している文献は多い。) ・日本軍の作ったものの残骸が残っており、特に土木工事では、ゼロから始めるより簡単に小規模な空軍基地を作ることは出来た。 ・ここに日本への空襲の基地を作ることこそが、大戦後半の米軍戦略のカナメであり、極めて優先順位が高く、人員物資が大量に投入されたものと考えられる。 ・米本土からの航路の制海権は完全に確保されており、輸送船にはさして護衛を付ける必要は無かった。

agekoba
質問者

お礼

ありがとうございました。物量は圧倒的でしたが、それを動かすソフト面もすばらしかったのですね。日本はハード、ソフト面で米軍に思い切り凌駕されていましたね。今更ながらソフト面の充実ぶりに驚かされます。

関連するQ&A