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般若心経と末法思想

  色即是空空即是式、この世の全ては無であり空であると説く般若心経の教えは後の末法思想への基礎となったと考えて良いか。  

みんなの回答

回答No.9

お礼、ありがとうございます。 あっちで、空は○○がないの意味だ、と言ったんですけれども。 どうやら、この○○に入るものがお分かりになっていないご様子です。 仏教は俗に無△説と呼ばれるだろうか? 諸法無△。 そして、△とは如何なるものであろうか? 般若心経の般若って、な~んだ? 般若の知恵って、な~んだ? よもやこれすら知らずに、般若心経について語ろうというのではないですよね。 般若心経が泣いちゃいますよ。

回答No.8

まず「空」と「無」は異なります。 「無」は文字通り何にもないことですが、「空」は19世紀の科学でいう「エーテル」のようなもので、 実際に存在します。 例えばクォークは真空から急に飛び出して、真空に消えます。これは「空」から「有」が生じた例です。 量子論の入門書を読んでみてはいかがでしょうか。 般若心経の一字一句には、現代科学にも通じる時空を超えた広大無辺の真実が織り込まれており、 あなたのいうような形で末法思想と直接結びつけるのは抵抗があります。

utayomi_2011
質問者

お礼

>般若心経の一字一句には、現代科学にも通じる時空を超えた広大無辺の真実が織り込まれており、・・・ 般若心経を現代科学と結びつけてその正しさを示そうとするのは止めたほうが良い。 般若心経はあくまでも宗教だからである。 そして宗教の正しさを科学によって裏付けようとする宗教は真の宗教ではなく邪教であり、およそカルトの類と決まっているからである。  

回答No.7

☆>般若心経の教え、般若心経そのものも、般若心経は否定している。 これはどういうことか説明してもらえないか。 ◇すべては空なのだから、般若心経やその教えも空。 当然の帰結です。 般若心経を超えたところに、阿耨多羅三藐三菩提があるんですよ。 般若の知恵というのは、無分別智。 思弁を超えたところにある知恵です。 ☆>ここにおいて《空の論理》は完結する!! 般若心経が般若心経を否定することで《空の論理》(つまり般若心経)は完結するとはどういうことか分かるように説明してもらえないか。 ◇般若心経も空であるということで、 すべては空であるとなる。 そうでなければ、例外が生じることになる。 自身すら否定することによって、《空の論理》は完結するんです。

utayomi_2011
質問者

お礼

つまり般若心経は中身が空っぽって言ってるわけである。 だから仏教も中身の無い空っぽであり、世は末である(末法の世)と結論したことになる。 よく分かりましたね。    

回答No.6

こんにちは。 ☆色即是空空即是式、この世の全ては無であり空であると説く般若心経の教えは後の末法思想への基礎となったと考えて良いか。 ◇無理でしょう。 般若心経の論理にしたがえば、 末法思想も空であり、その存在性の根拠が否定されてしまいますので。 そして、 般若心経の教え、般若心経そのものも、般若心経は否定している。 ここにおいて《空の論理》は完結する!!

utayomi_2011
質問者

お礼

>般若心経の教え、般若心経そのものも、般若心経は否定している。 これはどういうことか説明してもらえないか。 >ここにおいて《空の論理》は完結する!! 般若心経が般若心経を否定することで《空の論理》(つまり般若心経)は完結するとはどういうことか分かるように説明してもらえないか。  

回答No.5

般若心経が伝えているのは、世の中の物は宇宙のチリから生じているという事なのではないでしょうか。人間として生かされている時は世のため人のため頑張りなさいと聞こえます。いずれ地球が爆発したら全ての物が宇宙のチリになってしまうのです。物質も心も元々は無いのです、アメーバから発生した生物は進化の過程で利権争いをするようになりました。生物には存在する限り寿命が有ります、亡くなった時に迷わないように教えているのだと思っています。決して末法思想では有りません、物事の真実を説いていると私には思われます。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.3

無関係です。 末法思想は時代時代の節目になると、声高に叫ばれます。 其の時に利用する材料を見つけ出して使う人間と踊る人間がいるだけです。 この間の「マヤの予言」の与太話と同列です。

utayomi_2011
質問者

お礼

  >この間の「マヤの予言」の与太話と同列です。 やはり末法思想はカルトなのか。  

  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.1

どんな思想であっても、曲解することは可能です。 仏陀の教えの場合、「この世に執着を持ちすぎるな」「目のまえに在る、と思うものも無い」などの諸行無常などの教えを、「心は無い」→「魂・霊はなぞは存在しないというのが仏陀の教えである」と解釈している坊さんたちがわりといるようです。 だから、教えを曲げて考える人が、「末法思想への基礎」を創ることも容易だったと思います。 まあ、現実的には、乱れた「この世」を見ることで「もうこの世は終わりだ・・・」と感じる人が増えることが、「末法思想への基礎」になっていると思いますけどね。

utayomi_2011
質問者

お礼

  >だから、教えを曲げて考える人が、「末法思想への基礎」を創ることも容易だったと思います。 末法といえば日蓮、日蓮といえば法華経、法華経と言えば末法思想へとつながります。 一つはっきりさせようではないか。 そもそも仏陀の教えに末法なるものはあったのか。 もし仏陀が末法を説いていないとするなら末法を説くことは仏教になるのか。 果たして末法を説く日蓮や法華経は仏教と言えるのか。  

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