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般若心経の意味とは?すべてが空であるという教えについて
- 般若心経は、仏教の経典の一つであり、私たちの考え方や捉え方について深い教えを持っています。
- 般若心経の中には、「色は空であり、空は色であり」という言葉があります。これは、実体のあるものは本当は存在せず、すべてが空であるということを表しています。
- また、般若心経は苦しみをなくす修行法ではないとも言われています。つまり、苦しみをなくすためには何か特別な修行が必要ではなく、考えて悩むことをやめることが大切であるという教えなのです。
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私は、仏教、日蓮宗系の宗派、日蓮正宗の者です。 経は、法華経、日蓮大聖人様の書文、帰依を三大秘法の久遠元初の仏。 根を三大秘法とし、それなくして、僧侶(お坊)も経も書文も無意味とされる宗派です。 私なりの「回答させて」いただきますが、絶対に正しいということ自信は持てません。 私が少ない期間ですが、修行して感じた「空」というのは、かなり深いものと感じます。感じることは、容易ではなく、体験を通し、感じるものだと思います。だから、感じることなくして、「空」という説明を聞いても決して悟ることは不可能ではないかと思います。 傲慢になっていますね。あくまで私が感じた空というものです。 空の説明に入る前に、余計と思われることを書かせてください。 仏教とは、成仏、つまり、仏様に成るということです。 法華経を初め、諸経では、釈尊が、普通の人からすぐに仏に成ったという訳ではなく、数多くの修行やその生まれた人物や人生において修行をし、数々の悟りや、上級の教えや修行に巡り成仏されたとされています。 成仏するということは、私が解釈する限りと実感を通す限りでは、内在する仏性を開花、強めるということだと感じています。 知識や技術等を身につけ、成仏に至るのではなく、自分に秘められた仏性を開き成仏する。 しかし、その開きも徐々にしか開かないものとだと感じています。 ここから、空についての説明です。 人は、感覚を持っています。その感覚には、3つがあると私は感じています。 1つが攻、2つ目が恐怖、3つ目が、禅定なる幸です。 人は、傷つけら時、怒ったり、、憎むことがあります。これが、攻撃なる感覚です。 また、傷つけたれた時に、絶望や、深い悲しみ、苦しみ、恐怖となることがあります。これが恐怖です。 この攻と恐怖では、決しては、救われることはないと私は感じます。 攻の行動をすれば、誰かが傷つき、攻か恐怖を感じます。 恐怖では、自分がどんどん生気を失い、苦しみ喘ぎます。 この攻と恐怖というのは、要は、傷つけたれたこと(感じたこと)に対する反応です。 この感じたことに反応するということは、簡単に変えることは無理かと思います。ただ、それに基づいて行動はしないという「制御・我慢」という行動はできると思いますが。 この傷つけらたこと、上記で()で感じたこと、いろいろな感覚器官を通して感じて、攻・恐怖は発する訳です。 冷静に考えると、感じて、自分の感性が通し、攻・恐怖、哀れみ、哀しみ、救いの念が生じるものです。 空の第一として、攻・恐怖といういった決して救われることの無い感覚を消滅させ、哀れみ、哀しみ、救いといった仏の感性を生じることです。 ここで言う、空とは中道です。つまり、攻でも、恐怖でもない。冷静であり落ち着きがあること「禅定」です。クールとかそういったものではありません。感情はあっても、激情ではない感覚といいましょうか。 感じたことが無い人には理解認識し難いものかと思います。 そうやって物事を禅定になり、見ていくと、なんとなく、色と空というのが分けられてきます。 色とは、目に見えることです。私は、色よりも、「仮(け)」と言う方がしっくりします。 色、つまり、目に見えるものは、因縁によって生じます。 仏性を開いていけば、仏性が徐々が現れるように、 愚行をすれば、どんどん心が荒れ果てていくように 行動(因縁)によって、色が生じきます。 とは、言え、人間が条件に応じて結果生じることを、絶対的な法則として捉えるには限界があります。すべてが法則として存在し、その法則を把握し、その法則に基づいて何でもこうなると言える人はいないでしょう。 なんで、日本に生まれ、貧しい国に生まれる人が存在するのか、それは「運」というしか答えを出せないのが人間です。「運」と答えを出す以外にできないのが人間で、それが上記に書いたすべてのことにおいて法則に基づいてこうなると言えないと書いたことの説明です。 物事を禅定を持って追求し、攻・恐怖、快・不快というものに囚われず、終わることの感情・感覚を逸脱し、捨て、生きる活気に生ずる捉え方をしていくと、この肉体さえも、色であると感じてきます。たぶん、私は、死んでも、空としての存在は残り続けると。 >実体のあるものは本当はないのであり、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません と言われるのは、かなりの功徳があり、禅定を持って悟る境地対して言われたことと存じます。 高い功徳を持った人は、仏教の話を聞いて、実感悟り得ることができると思います。私は、対して功徳を持っていなかったので、苦労を重ね、実感悟り得たことが多々あります。 このことについて日蓮正宗の宗派の解釈によりますと、釈尊時代は、正法と言い、今の時代は末法といいます。何が違えば言えば、仏教を聞く者の功徳の高さ・低さです。正法は、功徳が高く、末法は、功徳が低いとされています。功徳が高い=仏様に近いということを意味します。また、機根も同様にして、機根が低い=仏様に遠いということを意味します。 正法の者たちは、その前世及び過去世において功徳を得た者です。ですのえ、仏教にめぐり合えばこそ、その教えが知識ではなく、実感や道理として存在するという実感の元に悟り得ることができるものと思われす。 末法の者は、修行をせずに、功徳が低いく、禅定なる心がなく、攻・恐怖、快・不快、自尊心、卑下、得が好であって、嫌が排除となる感覚が強く、禅定なる心を持って、静かに考え、道理上に実感することは不可能とされています。 さらに、正法の時代に生まれ、(華厳)阿含、方等、般若というように、衆生の功徳に応じて得を積むように説かれています。 般若の教えを悟り得る衆生に対しては、 「実体のあるものは本当はないのであり、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません」のが解ったのだと思います。 以後、蛇足です。 私の読んだ宗派の教書では、 小乗の空を、肉体は色、魂は空というもの。これによって輪廻を解脱できるとされるという考え 大乗の空、般若の空は、物事の攻・恐怖ということの拘り、執着を捨て、禅定を持って、落ち着きを持って、真実・実相を悟るというもの 法華経の空?というか、法華経では、三諦円融(さんたいえんゆう)と考えがあります。「一念三千」、「十界互具」という考えとかなり関係があります。 簡単に言うと、一人の人間(あるいは存在)の中に、仏性、菩薩、縁覚、声聞、天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄という10の世界があるとあれています。世界という言い方が適切とは思いませんが、界では、伝わりにくいと思うのでそういった表現にしました。 上記に書いたように、仏性を開く修行をしていけば、仏様に近づき、餓鬼、畜生、地獄に落ちるようなことをしていけば、そうのようになるということです。 法華経では、提婆達多という者が出ており、過去において、釈尊(お釈迦様)に法華経を教えた者とされています。それが、釈尊が成仏して、長い時を得て、「事実であれば」今から3000年前に釈尊が仏教を説いた時でも、まだ、成仏しておらず、釈尊の邪魔をしたとされる者です。 話が逸れました。 空を悟り、因縁・徳と業によって色(仮)という目に見える世界、感じる世界が生じる。これは大乗の空と同じです。 法華経では、空も色(仮)としています。 法華経の三諦円融(さんたいえんゆう)とは、空、仮、中という3つ別れ、 中を成仏、 空は成仏によって悟り得る故に色(仮)として感じる者、 仮とは、空であり、中です。 つまり、 成仏することに、 空を感じ、 空を感じることは仮であり、 仮というのは、成仏の境地 それが、法華経の三諦円融(さんたいえんゆう)という私なりの解釈です。ここは実感してないところなので、解釈に過ぎません。 最後にもう2つ 人生は、悩み考えるものだと思います。悩み考え、それの本当の苦悩から救われる悟りを得た時に、1つ、人間性(仏性)が高まると感じます。 いくら、修行をしても、悩み考え、苦の因を見つけ、それを解消、救われたいと思わない人に、智慧というものは得られないものだと感じます。 仏性を開花、仏様に近づくことよって、 物事の実相、真理を悟り得る智慧 物事を正しく捉え、考える精神的落ち着きの禅定 物事の苦・救の繋がることを踏まえ、苦に繋がることをしない戒 が身につくとされています。 そして、最後の1つ。 私の宗派の教え上に書いているので、もしかしたら、私の宗派や法華経に興味を持たれるかもしれません。 私は、質問者さんの人生に肩代わりは決してできません。あくまで参考意見として述べただけであって、その正誤、幸・不幸、価値、無価値は質問さんが判断することです。誰かを信じることは裏切られる、騙される可能性があるからこそ、「信じる」という言葉を使うものだと私は思います。 自分の人生の責任を持って人の参考にしてください。 私は仏様ではなく、質問者さんを救える人間かも解りませんから。 長い回答で、誤字、脱字もあるかもしれませんが、 質問者の人生やそれ以上の広域において、何か参考や、ためになれば幸いです。 もし、最後までお読み頂いたのなら、ありがとうございます
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- ga111
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般若心経は大乗仏教の経典であり、その根本思想は唯識思想です。よって唯識思想を理解する必要があります。 個人、個人にとってのあらゆる諸存在(色)が脳内のイメージ(表象、識)にすぎないというところまでは簡単だと思います。 個人のイメージにすぎないがゆえに、それは短時間で消滅する空虚なもの、夢のようなものである。(=色即是空) 「苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。」はイメージとして、構想された形としてそういうこと(=「苦しみが、、、、」)もない(空)と私なら解釈します。 最初から、色=空 といわれても はあ???ですよね(笑い)。大昔の呪文みたいな性格もあるのでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。 また、唯識は色即是空などに代表される大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。
お礼
ありがとうございます。 そうなんです。色=空て、よくわからないのです。ですが、あまり考えないようにしました。空なのだから、考えなさんな。ということかもしれません。唯識についても勉強したいと思います。ありがとうございました。
- 来生 自然(@k_jinen)
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現実問題として、自分自身が見・聞き・考えること等々によって、(般若心経を含む)様々な思想について「知ったり、理解したり」することができるわけです。 で、般若心経の隅々まで読んでおられることと思いますが、どこかに「いつ・どこで」といった「固定された」時空概念にかかわる言葉がでてくるでしょうか? たとえば、「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」ですが、文字通り、【今・ここ】を離れずにそういった心境に達することは不可能に思えてしまいます。でも、(般若心経のどこにも書いていないので)「時空概念にしばられずに」(【今・ここ】に縛られずに)考えるならば、「人は、いつかは死んでしまうので、仮の存在だ。でも、仮の存在だとしても、現実問題として【今・ここ】を離れては存在し得ない」とかいった概念で捕らえることは非常に簡単です。 逆説的にいえば、私のような凡人には、「その程度の理解」で「(十分に)割り切って、積極的に人生を生きていくことができる」ので、深くは考えないことにしています。 ※「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」の前には、「色性是空・空性是色」が入るバージョンがあるそうです。
お礼
こんにちは。 >私のような凡人には、「その程度の理解」で「(十分に)割り切って、積極的に人生を生きていくことができる」ので、深くは考えないことにしています。> そうなんですね、、、意味を理解しようしようと考えていました。やはり、積極的な生き方が、一番大事ですよね?。ある程度の理解で割り切るのも、私の課題だと思います。 勉強になりました。ありがとうございました。
色即是空に、ついて説明します。仏教では、この地球を仮の世界と言います。仮の世界だから、本当の世界では無く、影絵の様な虚像の世界です。だから色が見えても、実体は空です。諸行無常で、すべてが相対的で、絶対的なもの永遠なものがありません。しかし宇宙の大元は、完全調和の実像の世界があります。この地球は、不調和を調和に変換するために、仮の場所として作られました。脳の自我と、自然の無我が、出会うためのシュミレーションの世界です。これが仏教で説明している事です。お経の唱え方は、意味がわからない方が、効能があります。目的は、頭を空にする事、脳の思考を休む事ですから、意味がわかると、脳が活動します。わからないから脳が休み、脳波がアルファ波になり、座禅や瞑想の効果があります。
お礼
こんにちは。目から鱗でした。 >目的は、頭を空にする事、脳の思考を休む事> こういうこともあるのですか~、知りませんでした。勉強になります。座禅や瞑想はやはり、意味があるのですね。奥が深いですね。あまり考えて異様にします笑。 ありがとうございました。
- yuhkoh
- ベストアンサー率48% (350/723)
般若心経の「心」、これはインド語で心臓を意味する「フリダヤ」を漢訳したものです。 この場合のフリダヤは同時に「フリダヤマントラ(心真言)」の意味でもあり、般若心経は“般若波羅蜜多の心真言を説く経”“心真言の念誦による瞑想の功徳をたたえる経”です。 その修行の結果として「一切は空」というビジョン(視点)に解放されたのです。 つまり「五蘊は皆空」はまず始めに「一切は皆五蘊である」という視点に立った人が、さらにその上に「その五蘊も空である」という視点へとステップアップしています。 この段階を経ずしていきなり「五蘊は皆空」を机上の理論で理解しようとするのが、質問者さんの混乱の一因でしょう。 般若心経は、般若の心真言(神咒)念誦による瞑想によって段階的に、世界への視点がステップアップし、その結果が「五蘊皆空」です(色即是空は、五蘊皆空の一要素です) その偉大なる心真言こそが「ギャテイ・ギャテイ・ハラギャテイ・ハラソウギャテイ・ボウジソワカ」であり、心経本文はこの真言の功徳をたたえ、その念誦修行の素晴らしさを賞賛しているのです。 ですから、経典を頭だけで理解しようとしてもある意味どうしようもありません。なぜなら心経は唱えること自体が修行であり、真言念誦による瞑想が重要だからです。 これは般若心経の成立からみても明らかです。 といいますのが、漢訳最古のもの『般若波等蜜神咒』であり、「神咒」とは真言と同意です。また現存最古のサンスクリット語で書かれたものも、末尾に「ギャテイ…」の後に「以上が般若波等蜜多のフリダヤである」と締めくくられています。 つまり「ギャテイ…」の真言への信仰が先です。 詳しくは下記サイトをご参照下さい。執筆者の宮坂宥洪師はサンスクリットやインド哲学の碩学ですので、インドにおける信仰、世界観、歴史に基づいて解説されています。 「般若心経は真言を説いたお経」 http://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/cat48/
お礼
こんにちは。 >なぜなら心経は唱えること自体が修行であり、真言念誦による瞑想が重要だからです> なるほど、修行と捕らえてよいのですね。そっか、深く考えることも大事ですが、修行と捕らえるとより、分かりやすいですね。 HPも読ませていただきます。 ありがとうございました。
- sisocho
- ベストアンサー率25% (2/8)
仏教哲学には詳しくはないのですが…参考になればさいわいです。 般若心経とは「空」について説いたお経ですよね? 「色即是空 空即是色」とは「存在するものは実体がなく、実体がないものこそが存在するものなのだ」 という意味…であっていると思います。 つまり「空」とは「実体がない」ということです。 「実体がない」とはどういうことかと言うと… わたしもさっぱりわからなかったのですが、 「ミリンダ王の問い」というお経にある説明がわかりやすかったです。 以下のサイトを参照してください。
お礼
ありがおうございます。 HP拝見しました。確かに理解が進みました。こういう説明の仕方もあるのですね。 ミリンダ王の問い、も面白かったです。 ありがとうございます。
- yayuh
- ベストアンサー率16% (7/42)
実体への理解が広がれば少し進展するのではないかと思い、書いてみます。 雪や雨、雲、ヒョウ。これらは名前が違い、形も違いますが、実体は同じモノです。H2Oですね。 この例えの中で、名前が違うのは見えているモノが異なるように見えるから名前が異なります。でも、実体から見れば全く同じものであって、違いはないという観点を理解することが重要かと思います。 『色即是空』でいう色というのが、雪や雨に当たり、空がH2Oにあたります。 つまり、この世の中で、形の違うもの(形の無いものも含む)、名前のついているもの(無名も含む)、さらには、あらゆる考えやイメージ、感情、精神といった、とにかくあらゆる全てのものの実体が一つしかないよと、それが空だよと言っている世界です。 補足のイメージとして、H2Oの代わりに空気をイメージしてみます。 空気に形やいろがない為、部屋の中にある空気も地球をおおっている空気も同じ言葉で表現していますよね。 ここで、空気という言葉や概念を知らなかったとしたら、どうなるでしょう。そもそも、空気という概念すら知らないわけですから、空気が有るとか無いとかすら、考えることができなくなってしまいます。 つまり、考えることができなくなってしまうという世界を現しているのが『色即是空』の世界といえます。 修行として、無心やthink stop、瞑想を行うのは、空の境地を得るためです。 逆に言えば、人は相対比較や自分の存在感の大小、対象との関係性に苦しんでいますね。これは、空と全く逆の世界です。
お礼
そうですね、 >逆に言えば、人は相対比較や自分の存在感の大小、対象との関係性に苦しんでいますね。これは、空と全く逆の世界です。> よく分かります。人間は、比較などで苦しむ、僕もその一人ですが、必要ないということになるのでしょうか?「空」ではないということですね? そこが難しいところだと思っております、、、。 でも、まい進します。 ありがとうございました。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
般若心経を本当に理解している人が、いるのでしょうか。 『色即是空』 悟りを開いた釈尊だからこそ、色(物質)は空(無いに等しい)である。空(無いといっても)は色(実体が無いのではない)である。 と言えたのでしょう。 物事を認識する能力を持っている人の心「精神」の不確かさを言い表したものと、我々凡人は受け止めるべきだと思いますが。 ycqxs765さん。この回答への感想を聞かせてください。
お礼
ありがとうございます。 そうですね、すべては空、ということだと思います。自分の心のありようで、いかようにも変わってしまう、、、ということかと、、、。 たしかに心の不確かさということも当てはまるかと思います。 ありがとうございました。
- QES
- ベストアンサー率29% (758/2561)
いろいろの解釈がありますが、「色即是空」を簡単に例をあげて説明します。 これは人が在ると思い込んでいるモノは人間社会の価値判断に振り回されているに過ぎず、実体はないという意味です。 例えば「コップ一杯の水」でも大衆食堂で出されるコップ一杯の水と砂漠の真ん中でのでコップ一杯の水では雲泥の差です。 例えば「テストの70点」でも平均点が50点の時の70点は素晴らしく、平均点が90点の時の70点はバカです。 例えば「課長のポスト」、新入社員はとりあえずの目標が課長でしょう、しかし同期の多くが部長になっているとしたら課長のポストは軽蔑のポストです。 例えば「100万円」、この大金が調達できずに自殺する人もいますが、一方でそんな端金など一晩で使う人もいます。 例えば「早稲田大学での学生生活」、早稲田が憧れの人にとっては楽しく、東大に落ちて滑り止めが早稲田の人は毎日が後悔の日々です。 実は「水」も「70点」も「課長」も「100万円」も「早稲田」も変わりないはずなのに、人によってその価値が異なるのは、実体でなく人間社会の価値判断に振り回されているからです。 つまり俗世間の価値判断に惑わされなければ苦などないと言えます。 釣りバカ日誌という映画がありますが、佐々木課長は役員を目指してあくせくしています。 多分係長の時代もヒラの時代もあくせくしていたと思います。 一方浜ちゃんは万年平社員を恥ずかしいとも思わず毎日釣り三昧です。 係長に昇格しても、生活が変わることはないでしょう。 彼にとっては役職など実体はなく色即是空を理解した生き方と言えます。
お礼
ありがとうございます。 なるほど、よく分かります。具体例が、とても分かりやすかったです。回りと比べてしまうと、考えないことも考えてしまいますね。 もっと自分のものにして、生きて生きたいと思います。 勉強になりました、ありがとうございました。
- 123admin
- ベストアンサー率52% (1165/2221)
空 (仏教) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99) 稚拙な個人的な解釈では どこにもいない どこにでもいる って事かなと思っています。 般若心経をどう捉えるかは個々の有り様。 破邪の経典として使うのも間違いではないと思います。
お礼
ありがとうございます。 HP拝見しました。自分しだいなのですね。 勉強になりました、ありがとうございました。
お礼
詳しく書いてくださいまして、ありがとうございました。 とても勉強になりました。 私はまだ若く、深く入っているわけではなく、いろいろなきっかけで、お経を読んだり、お釈迦様の本を読んだり、することになりいろいろと調べました。ただ、今一度心に入っていくものが簡単にはいきません。 >空とは中道です。つまり、攻でも、恐怖でもない。冷静であり落ち着きがあること「禅定」> よく分かりやすいでした。 どんなことがあったとしても、恐怖感を感じでない、かといって逃げているわけでもない、きちっと自己分析して冷静でいられる、、、。本当に凄い事ですね。 人間は、釈尊様のようになれるのか日々考えますが、、、一つ一つの積み重ねが精神、仏性の成長に繋がるのでしょうね? では、人間はやはり苦しみぬくことこそが大事だという子になるのでしょうか?難しいところですね。 仕事で大変であると、遠回り、逃げてしまいたいこともあります。 でも、そこが成長の分かれ目なのですね。 ありがとうございました。成長できるよう、がんばりたいと思います。 とても参考になりました。また、人生においての何が大事かも、少し見えることもできました。苦しむことですね。 最後まで読ませていただきました。 失礼いたします。