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過去と現在が混在する講演会の矛盾について
- 過去形と現在形が混在している文章について疑問を投げかけます。
- 『上海の長い夜』の作者チエン・ニエンさんの講演を通じて、古い歴史から新しい文化国家への変化を見守りたいという思いが語られています。
- 講演会の言葉としては矛盾しているようにも思えますが、その中には感動のエピソードが詰まっていました。
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1. 過去の出来事に対して現在形を使うことは良くあります。 『その時点での視点』で表現したい場合に使う手法で、その目的は読者に迫力を実感してもらうためです。 (ex1) そのとき、「危ない!」と花子が叫んだ。 はっとして上を見上げると、崖の上から大きな岩が転がり落ちてくる。 太郎は、咄嗟に横に飛んだ。 ⇒2行目だけ現在形ですが、これは、過去のその時点にワープして、今、目の前で転がり落ちてくる岩を見ているかのような迫力を読者に感じてもらうためです。 時制を一致させて、「はっとして上を見上げると、崖の上から大きな岩が転がり落ちてきた」「はっとして上を見上げると、崖の上から大きな岩が転がり落ちてくるのが見えた」などという文にすることもできますが、現在形に比べると迫力が弱くなるでしょう。 2. 「今日はあの『上海の長い夜』の作者チエン・ニエンさんの講演があるのだ」の場合も1と同じで、木村氏は、その時点での自分の気持ちや考えを読者に迫力をもって伝えたかった、と解釈することもできます。 ただ、それ以外に、理由を述べている文なので過去形にする必要性が無かった、という解釈も可能だと思います。 あくまで推測ですが、ここは、 「今日はあの『上海の長い夜』の作者チエン・ニエンさんの講演があるからだ」と置き換えが可能な流れになっているのではないだろうか、ということです。 この文の前の箇所が重要になります。 ・わたしは朝から気持ちが弾んでいた。今日はあの『上海の長い夜』の作者チエン・ニエンさんの講演があるのだ(あるからだ)。 ・飲みに行こうという親友の誘いを断って、大急ぎでわたしは家に帰った。今日はあの『上海の長い夜』の作者チエン・ニエンさんの講演があるのだ(あるからだ)。 など。 このように理由を述べる場合には、単に因果関係を示せばよいだけなので、過去形にする必要はありません。 (ex2) 二人は同時に動いた。 しかし、生き残ったのはビリーのほうだった。 彼の投げるナイフは、相手が拳銃を抜くより早く相手の胸を突き刺す。 カークは、一瞬微笑んだように見えたが、踵を基点にくるりと反転したあと、どうと地面に崩折れた。 ⇒3行目は現在形ですが、ここは「常にそうである」という理由を述べている文なので時制は不要になります。
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- masa2211
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>>「講演会で聞いた話を伝えようという趣旨のエッセイ」であるなら、著者自身の書いたエッセイでも何も問題ないはずです。 過去形云々より気になる箇所です。 >問題は何もありません。 >「エッセイを書くたしなみ」(木村治美・著)は、他の人のエッセイを引用してエッセイについて論じていましたので、あくまでも参考として補足しました。 あなたにとって問題なくても、私にとっては問題があるからそう書いているのです。 で、質問文のエッセイは、木村さんが書いたのか、別人が書いたのか、どちら? (>問題は何もありません。 の解釈次第で、とちらの意味にもとれる。) 何を問題にしているか? マナーの問題。 木村さん自身が書いた場合:読者は、どこにツッコミかけてもよい。 別人が書いた場合:木村さん自身がどう評価しているかによる。 良文としている場合:読者は、書き方のテーマに関することならツッコミかけてもよい。 悪文としている場合:悪文のうち、最も変な部分だけを指摘しているはずだから、 それ以外の変な場所はスルー。 (最も変はのはソコでない、というのはok。) (別人に対し、感情を害さない範囲でのツッコミは、最大限に考えても、そんなもの。) で、自ら禁を破るようですが、エッセイの最も変は箇所はココであると私は思っています。 (省略部分) >>元国民党政府の外交官であり、シェル石油の上海支店の総支配人であった夫君を病で失い、... (未省略部分) .....と悟ったという。それは本のなかにも書かれてあったし講演のなかでも語られた 省略部分を読んでみた結果、単に、経歴を紹介しているだけかと思っていたら、 それ全体が講演内容だったのか。講演内容は...といった、枕は書いてなかったのか。 はい、理解するためにプレイバックしてもう1度。そりゃないよ。 ※省略部分の全部が講演内容たっだというのも意外。ほかにいろいろ書いてあるのだとばかり。 理解度のプレイバックについて、もっと小規模ながら >元国民党政府の外交官であり、シェル石油の上海支店の総支配人であった夫君を.... チエン・ニエンさんが何者であるか知らない人(要するに、私)が読むと、 チエン・ニエンさん=外交官かつ大会社の総支配人 と、まず理解し、直後に 夫君を....とあるので、小規模ながら理解のプレイバック。 モノの本によれば、「逆茂木文」という、典型的な悪文扱いです。(日本語文法上、これは問題ないが、印欧語系では、こういう文は文法上書くこと自体が難しい。) http://www.comm.tcu.ac.jp/~minamasa/japanese-ppt9.pdf ※モノの本とは 木下さんの「理科系の作文分技術」。中公新書。 一方、時勢のことですが、 >「今日、講演がある」 は、本日の夜半0時0分から公演が終わる直前までは、時勢として正しいわけだから、 視点がその間のどこかであれば、時勢として間違っていないわけです。 (現在進行形の場合も、日本語の場合は現在形で問題ないと考える。) だから、「気にならない」と書いたのだけど。 で、時勢について質問しているということは、 逆茂木文は気にならない、という意味にとります。 (最も変な部分からツッコミ、という、基本ルールからの推測。) 文章にウルサイかたでこういうところにうるさくない、というのはなんだかなあ、だし、 既に木村さんが指摘したあとなら、重箱の隅をほじったことになります。 ※※こういう文章(マクロで逆茂木文になっている文章)が、文学として悪文と言っているわけではありません。 悪文と言ってしまうと、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が最悪文となるから。 あくまで、自分の意見を相手に伝える類の文章の場合には悪文だ、ということです。
お礼
回答ありがとうございました。
補足
>で、質問文のエッセイは、木村さんが書いたのか、別人が書いたのか、どちら? 別人が書いたものです。 木村治美氏は、この文章(別人の書いたエッセイ)を“間接話法による[聞覚]”という項目の中で紹介しています。二つのエッセイを紹介していて、その二例目としてこの文章を次のように紹介しています。 >もう一つの例は、ある講演会で聞いた話を伝えようとするエッセイの一部である。(140ページ) 木村氏はこれを次のように評価しています。(142ページ) >要所要所に「彼女が」を入れる心配りもあって、違和感なく講演や本の内容が伝わってくる。これをいちいちばかていねいに、「……だったそうだ」「……と彼女は語り」という書き方をしたら興ざめである。 >長い長いおばあさんの昔話も、まるで自分が語っているように書いてゆき、ところどころに、思い出したように、「……だったそうだ」とか「……とおばあちゃんは語った」をいれて、読者にそれが聞き書きであることを思い出してもらうのがよいだろう。 >締めくくりはもちろん、「……ということである」「……とおばあちゃんの話は終わった」と終わる必要はあろう。
- toast5
- ベストアンサー率37% (239/638)
http://www.cjbaseball.com/japaneseblog/kanjiweek2.htm これ↑は C.J.Nitkowski(ニコースキー)という野球選手が 2007年に英語で書き、KE という人が日本語に訳した日記です。 現在形と過去形の混在を考える、よい例です。
お礼
回答ありがとうございました。
補足
実に参考になる資料だと思います。
- toast5
- ベストアンサー率37% (239/638)
坂を昇りきると光る海が見えた。 うわあ、これが海か。広いなあ。大きいなあ。 浜辺でお父さんとフリスビーをした。 この↑文章で、1行目と3行目の叙述の主体は「これを書いてる時点の筆者」です。 現在から、海に行った日のことを振り返っている。だから過去形。 が、2行目の叙述の主体は「その日その時点の筆者」です。 つまり、ていねいに書くと 僕は「うわあ、これが海か。広いなあ。大きいなあ」とそのとき思った。 ですが、それじゃバカっぽいのでカギカッコの中だけ書いてるわけです。 こういうふうに叙述の主体を現在から過去に飛ばすことを何と呼ぶのか知りませんが、 今日はあのチエン・ニエンさんの講演があるのだ。 というのもそれだと思います。 何故そこで叙述の主体をその日の朝に飛ばすのか。 さあ、今日は講演があるぞっ、というワクワク感と臨場感を表現するためです。 これは別に日本語に固有のものではなく、例えば 「OK、イッツ・ア・ショータイム」と現在形で書き始めて 「こうしてオレの最後の舞台が終わった」で終わる、とか、 何語であろうとよくあることです。
お礼
回答ありがとうございました。
補足
>さあ、今日は講演があるぞっ、というワクワク感と臨場感を表現するためです。 なるほどと思います。 翻訳家の松野町夫氏も「過去の話に過去形と現在形が混在してもまったく違和感はない」と言っていました。 ⇒ http://langsquare.exblog.jp/17540640/
- OKAT
- ベストアンサー率38% (247/639)
日本語の特徴の一つに「時制(tense)の曖昧さ」があります。世界の言語がどうなのかを知るはずもありませんが、英語と比べただけでも そのことは言えましょう。 金田一春彦氏は「しかし、決して日本語にテンスのきまりがないわけではない。 彼はいつも七時に起きる に対して、 彼はきのう六時に起きた というのは立派な過去の言い方で、筆者は、日本語のテンスはかなりしっかりしたもので、過去の形も完了の形もきっちりきまっていると思う。」(以下略)と擁護していられる(「日本語・新版 下」 岩波新書)が、決して満足な答えは出ていないように思います。 さて、問題の「講演会は終った」に対する「講演会は始まった」は書かれていないようですが、書かれていないだけで、どこかに「始まった」を匂わす表現があるはずです。例えば当の講演者が登場する場面の印象など。そこでも「チエン・ニエンさんが登場する」と現在形であるなら、確かに不一致感があるでしょう。 「今日はあの『上海の長い夜』の作者チエン・ニエンさんの講演があるのだ。」に対しては、これも引用の中にはありませんが、私は「夢中で読んだものであった。」(から)「聴きにに来たのである」旨の表現があるのではないでしょうか。 もしそうなら、これはこれで完結しているように思えます。 しかし、部分部分で完結していても、過去形と現在形の混在という問題は残ります。 これに、ついても金田一氏は上掲の書の中で、森鴎外の作品をあげてつぎのように、述べられています。 <以下引用> ちょうど岩のおもてに朝日が一面にさしている。安寿は、畳なりあった岩の、風化した間に根をおろして、小さいすみれの咲いているのを見つけた。そして、それを指さして、厨子王に見せて言った。「ごらん。もう春になるのね」 『山椒大夫』 翌朝、知県に送られて出た。きょうもきのうに変わらぬ天気である。……道はなかなかきのようにははかどらない。途中でで昼飯を食って日が西に傾きかかったころ、国清寺の三門に着いた。 『寒山拾得』 金田一春彦氏は上記の例を挙げて、次のように書かれています。 「そもそも動詞には、意味から考えて、二種類のものがある。何か、ある現象が生起することを表すものと、ある状態にあることを表すものと。右のような文章で<非過去>を使ったのは、ある状態にあることを表すものだ。「ある」「いる」という動詞はそれだ。 このように考えると、過去と非過去の混在もあり得るのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございました。
補足
>このように考えると、過去と非過去の混在もあり得るのではないでしょうか。 そうですね。あっていいと思います。私の勉強不足でした。 翻訳家の松野町夫氏も「過去の話に過去形と現在形が混在してもまったく違和感はない」と言っていました。 ⇒ http://langsquare.exblog.jp/17540640/
- masa2211
- ベストアンサー率43% (178/411)
文章の構成が、以下の3とおりのいずれかであるなら、別に変ではないと思うが.... その1 ○○に行った。今日はCさんの公演があるのだ。 ←この1行があるのに引用から外した。 (省略) <講演内容を時系列順に説明> 講演会は終わった。 その2 今日はCさんの公演があるのだ。 よって、講演会に行った。 ←この1行があるのに、引用から外した。 講演会では.......(省略) <講演内容を時系列順に説明> 講演会は終わった。 その3 今日はCさんの公演があるのだ。 (よって、講演会に行った。) ←必然のことなので記述を省略した。 (省略) <講演内容を時系列順に説明> 講演会は終わった。 その3は、元文を何もいじってない場合に該当するから、元文はおかしくない、ということに。 で、どれ? その1、その2なら、「わざと誤解を与えるような引用をした」と決め付けたいのですが.... >著者のエッセイではなく、他の人のエッセイを紹介しています。 ん?ん?ん? 何か変です。 今日は.....講演会は終った。 の部分は木村治美 さんが書いたわけではなくて、別人が書いた文章を木村治美 さんが引用した、という意味ですか? 「講演会で聞いた話を伝えようという趣旨のエッセイ」であるなら、著者自身の書いたエッセイでも何も問題ないはずです。 過去形云々より気になる箇所です。
お礼
>「講演会で聞いた話を伝えようという趣旨のエッセイ」であるなら、著者自身の書いたエッセイでも何も問題ないはずです。 過去形云々より気になる箇所です。 問題は何もありません。 「エッセイを書くたしなみ」(木村治美・著)は、他の人のエッセイを引用してエッセイについて論じていましたので、あくまでも参考として補足しました。 回答ありがとうございました。
補足
省略した部分は以下の通りです。 (最初の省略部分) >元国民党政府の外交官であり、シェル石油の上海支店の総支配人であった夫君を病で失い、その後九年間、彼女が顧問としてこの職にあったさなか、文化革命の嵐に巻きこまれた。一人のお嬢さんと使用人たちとの豊かで、静かで洗練された日々。それが田舎からまるで蝗(イナゴ)の大軍のように湧き出して来た紅衛兵のため、古い美術品の陶器や仏像は床に投げつけて割られ、本箱の本や毛皮のドレスはズタズタに切り裂かれ、無残な破壊と略奪にあったのである。 >その後階級敵として逮捕され、実に六年もの間独房で幽閉生活を強いられ、迫害と屈辱に耐えねばならなかった。拷問や自己批判の強要にも強い意志と不屈の精神でたち向い、耐えてこられたのも、一人娘のメイピンさんのためだけであった。しかし、上海映画の若手女優であったメイピンさんはその間に紅衛兵のために殺されてしまっていたのである (2番目のの省略部分) >天安門事件も派閥争い権力争いの絶えない現実では起こるべくして起こったものだと思う。
- vivace152
- ベストアンサー率55% (91/165)
質問内容に記載された文章だけ読むと特に違和感は感じません。 単に時間の流れに沿って書かれているように読めます。 省略されている部分に何が書かれているのかわかりませんが、 1回目の省略の中で講演が始まり、 最後の文章で講演が終わっているのではないでしょうか。 流れとしては下記のようになっていると読めます。 最初の文:これから講演が始まる 1回めの省略の中:(おそらく)講演が始まった 省略間の文章:講演はすでに始まっている 最後の文:講演が終わった
お礼
回答ありがとうございました。
補足
>省略されている部分に何が書かれているのかわかりませんが、 以下の部分を省略しました。 (最初の省略) >元国民党政府の外交官であり、シェル石油の上海支店の総支配人であった夫君を病で失い、その後九年間、彼女が顧問としてこの職にあったさなか、文化革命の嵐に巻きこまれた。一人のお嬢さんと使用人たちとの豊かで、静かで洗練された日々。それが田舎からまるで蝗(イナゴ)の大軍のように湧き出して来た紅衛兵のため、古い美術品の陶器や仏像は床に投げつけて割られ、本箱の本や毛皮のドレスはズタズタに切り裂かれ、無残な破壊と略奪にあったのである。 >その後階級敵として逮捕され、実に六年もの間独房で幽閉生活を強いられ、迫害と屈辱に耐えねばならなかった。拷問や自己批判の強要にも強い意志と不屈の精神でたち向い、耐えてこられたのも、一人娘のメイピンさんのためだけであった。しかし、上海映画の若手女優であったメイピンさんはその間に紅衛兵のために殺されてしまっていたのである (2番目の省略) >天安門事件も派閥争い権力争いの絶えない現実では起こるべくして起こったものだと思う。
- chibisuki
- ベストアンサー率33% (1/3)
dan9は馬鹿だから相手にしないほうがいいよ
お礼
了解しました。 回答ありがとうございました。
- dan9
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これだけの文章から察すると 現在形 過去形とかで無く 時間の流れを表してるだけで 講演会の内容も必要性が無いので そう言った書き方になったとしか 解釈出来ない
お礼
回答ありがとうございました。
補足
>講演会の内容も必要性が無いので この文章は、講演会で聞いた話を伝えようという趣旨のエッセイです。著者のエッセイではなく、他の人のエッセイを紹介しています。
お礼
回答ありがとうございました。
補足
>・わたしは朝から気持ちが弾んでいた。今日はあの『上海の長い夜』の作者チエン・ニエンさんの講演があるのだ(あるからだ)。 なるほどと思います。 著者の木村治美氏は、この文章(他の人の書いたエッセイ)を“間接話法による[聞覚]”という項目の中で紹介しています。二つのエッセイを紹介していて、その二例目としてこの文章を次のように紹介しています。 >もう一つの例は、ある講演会で聞いた話を伝えようとするエッセイの一部である。(140ページ)