- ベストアンサー
生野の変とは?逃走の真相とは?
- 生野の変は文久3年に起こった事件で、破れた澤宜嘉卿とその一行が逃走しました。
- 逃走した一行は瀬戸内海を渡って小松藩領に逃げ込みました。
- 質問文章では、澤卿の一行が通行手形を持っていたか、また倉敷から渡ったかどうかの疑問が出ています。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>2. 明治政府編纂の江戸時代末期時における全国村名目録「旧高旧領取調帳」 の国立歴史民俗博物館(れきはく)データベースWEB版 (1)・「旧高旧領取調帳」 https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param <フリーワード:「倉敷」>検索の場合、507件ヒット中 56・57・209番目 056 美作国 英田郡 下倉敷村(しもぐらしき) 沼田藩領分 沼田県 057 美作国 英田郡 倉敷村(くらしき) 津山藩領分 津山県 209 備中国 窪屋郡 倉敷村(くらしき) 倉敷支配処 倉敷県 (<旧村名>:「倉敷」>検索の場合は、3件ヒット) 当時の村単位で3箇所の「倉敷」が存在したことが確認出来ます。 次に、下記(2)で確認しましたところ、明治22年(1889年)6月1日時点では、 #165「窪屋郡倉敷村」、#414「英田郡倉敷村」は変わらず、 「下倉敷村」のみが#420「英田郡巨勢村」に変更されました。 (※ #XXXは、下記URL内の#1~#455の中の番号) (2)・都道府県市区町村>市区町村変遷情報> 市区町村変遷履歴情報 市制町村制施行時の情報 岡山県 明治22年(1889年)6月1日 岡山県 市制町村制施行 1市3町451村設置 http://uub.jp/upd/s_okayama.html#18890601 続いて、現在市町村名までは不要ではありますが、 一応、下記(3)でその後の変遷を確認しましたところ、 「窪屋郡倉敷村(※倉敷支配処)」→#004→#044→#138→#141「倉敷市」、 「英田郡倉敷村(※津山藩領分)」→#019→#119→#219→#253→#255→ #299→#346「美作市」、 あと「英田郡下倉敷村(※沼田藩領分)」→「英田郡巨勢村」は、 経緯が異なりますが、→#252→#270→#298→#346「美作市」。 (※ #XXXは、下記URL内の#1~#353の中の番号) (3)・都道府県市区町村>市区町村変遷情報> 市区町村変遷履歴情報 都道府県別一覧 岡山県 http://uub.jp/upd/okayama.html さて、冒頭の3候補 「美作国英田郡下倉敷村(沼田藩領分)<現:美作市>」 「美作国英田郡倉敷村(津山藩領分)<現:美作市>」 「備中国窪屋郡倉敷村(倉敷支配処)<現:倉敷市>」のうち、 何れの「倉敷」が経路に含まれるのでしょうか。 WEB限定ではありますが、幾つかの「生野の変」関連書籍から 経路確認を試みましたところ、「吉井川を船で下った」ことは 概ね共通するようですが、途中に「倉敷」地名が登場するのは 今回見た中では下記書籍だけで、全体的に他よりも具体的な印象を受けま すが、現地検証による強味なのかもしれません。 先ず、下記(4)『生野義挙と其同志』「生野義擧一覽略年表」から 大雑把ではありますが経路を抽出しますと、 「白口の部落→志引峠→倉敷→吉井川(乗船)→西大寺→丸龜港外」で 途中に地名「倉敷」が登場します。 (4)・Googlebooks 『生野義挙と其同志/澤宣一・望月茂/春川會・東京堂/昭和7.12.5』 https://books.google.co.jp/books?id=eVWrt-hhSDkC&pg=PA698&dq=%E6%BE%A4%E5%8D%BF&hl=ja&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=%E6%BE%A4%E5%8D%BF&f=false 「生野義擧一覽略年表」 [695頁] 同(※十月)十三日─<中略>─午後十時、澤卿以下本陣を脱出す。 [696頁] 同十五日澤卿一列、山中に迷ひ、朝、白口の部落に辿りつく。─<後略>─ 同十六日朝、澤一列、志引峠を越え、作州に入り、倉敷に一泊。 同十七日午前四時澤卿一列、舟を艤して、吉井川を下り、中夜、西大寺に つく。─<後略>─ 同十八日澤卿一列、丸龜港外に舟をつなぐ。此夜、姓名不詳の農家に一泊。 同十九日澤卿主従、和田濱平山方にかくる。 上記の問題点は「志引峠→倉敷→吉井川(乗船)→西大寺」の位置関係、 (「志引峠、吉井川、西大寺」等は現在の地図からも確認出来ますので 一度御覧いただければ一目瞭然です) 吉井川は現在の岡山市の東側、倉敷市は岡山市の西側に位置、 文久三年当時、徒歩での逃走中であることを考慮しますと遠回りとなる 「備中国窪屋郡倉敷村(倉敷支配処)<現:倉敷市>」は候補から脱落。 残った2候補のうち、 「美作国英田郡下倉敷村(沼田藩領分)<現:美作市>」 「美作国英田郡倉敷村(津山藩領分)<現:美作市>」 何れの「倉敷」なのでしょうか? 当該『生野義挙と其同志』本文と 既出(3)の変遷から #019「1896(M29).2.26/町制/英田郡倉敷町←英田郡倉敷村」 #119「1918(T7).4.1/改称/英田郡林野町←英田郡倉敷町」 #219「1953(S28).4.1/新設/英田郡美作町←勝田郡湯郷町・豊国村、 英田郡林野町・豊田村・楢原村」 #345「2005(H17).3.31/新設市制/美作市←勝田郡勝田町、英田郡大原町・ 東粟倉村・美作町・作東町・英田町」 「美作国英田郡倉敷村(津山藩領分)<現:美作市>」が残りました。 [374頁13-14行目] 又、倉敷は備中の倉敷ではなく、現在の林野町で、 こゝは以前矢張倉敷と呼ばれて居た。 [379頁9-12行目] 水主庄吉呼ビニ遣シ候處、早速罷越申述候、當港之船ハ、皆荷物運送之船 ノミニ而、人斗リヲ乘セ候事ハ御座ナク候ヘ共、達而買切御賴ニ付、隋分 心配仕リ、貳朱十本ニテ都合仕、當所ヨリ西大寺迄御乘セ申、西大寺ニテ 猶又御賴ニ付、丸龜船ヲ金貳歩ニテ買切、舟ヨリ舟ニ御移、翌朝直様四國 ニ御渡ニ相成申候。─<後略>─(探索日記) [380頁2-5行目] 飴屋は、現在林野町四辻から左方三四軒目の位置にあつた旅籠で、裏手に は吉井川が流れて居て、すぐ舟着場に出られるやうになつて居たと聞いて 居る。從つて、われらは卿の一行が宿泊した場所も、つひに突止める事が 出來た。一行の船は倉敷に立寄つた。その後も、途中處々で舟を改められ たが、幸に無事に通過して、十七日の中夜、西大寺に着いた。 なお、現在の美作市林野エリアの地図で確認しますと 下流で「吉井川」と合流するとは言え、 林野エリアの河川名は「吉野川」のようです。 以上
お礼
ご回答真にありがとうございます。 よく分かりました。十分納得できました。脱帽です! まさか、そんなところに“倉敷”があるとは思っていませんでした。 海に面した地だと思っていました。 それなら今の倉敷市あたりだと。 再度、件の小説を読み返してみますと、 澤卿一行を道案内した地元民(大店の使用人)が、一行を美作まで無事送ることができたと、大店の主人に報告している場面のセリフで、聞くともなく聞こえてきた話と前置きがあって、「何でも、倉敷から船で小松へ渡られる算段の御様子」とあります。 私は、この箇所を早とちりして「倉敷から船で小松へ渡った」と断定してしまいました。 今、考え直してみますと、文久3年10月のこの日の時点では、澤卿一行の行き先を誰も知らないわけです。 そして、澤宣嘉卿も、本当の逃走ルートを親切に道案内してくれたとは言え、大店の主人に行き先を知られたくないが、しかし、安全に逃げられそうだという思いを大店の主人に伝えたいと、適当なルートを聞こえるように話したのかも知れません。 作者の筋書きになるほどと感心しました。 小説も面白い! 吉井川を下っているのですね。 今となっては納得できます。 北からは出石藩兵が、南からは姫路藩兵が押し寄せてきているので、生野から西へ、美作国へ逃げる以外に術はなかったので、美作からどんな経路で(海辺の)倉敷へ出たのだろうという疑問でした。 吉井川を下って、そこから倉敷へ出るには陸路なら岡山城下を通らねばなりませんので、番所をうまく通過できるのか、疑問でした。 『生野義挙と其同志/澤宣一・望月茂/春川會・東京堂/昭和7.12.5』は、大変参考になりました。 こんな本をネットで読むことができるとは、思いもよりませんでした。 >飴屋は、現在林野町四辻から左方三四軒目の位置にあつた旅籠で、裏手には吉井川が流れて居て、すぐ舟着場に出られるやうになつて居たと聞いて居る。 >從つて、われらは卿の一行が宿泊した場所も、つひに突止める事が出來た。 >一行の船は倉敷に立寄つた。 >その後も、途中處々で舟を改められたが、幸に無事に通過して、十七日の中夜、西大寺に着いた。 臨場感があります。 舟改めをうまく乗り切れたことが幸いです。 いつもながらのご教示に感謝申し上げます。