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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いである。)

ゴータマは悪魔の使い?苦の真実と目覚めの方法とは?

このQ&Aのポイント
  • ゴータマが生は苦だと言ったのは悪魔の使いであるとする見方もある。
  • 生が苦だと言ったことについて、根本的な生存欲が無明や煩悩になって目覚めを妨げているという見方もある。
  • ゴータマが唯一の目覚めの方法を明らかにしなかったため、苦を説く彼は悪魔の権化であると考えられる。

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  • a_hona
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回答No.8

六波羅蜜などは中身たり得ないですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▲(ヰキぺ:波羅蜜) ~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C  § 2 意義の変遷  大乗仏教においては・・・極端な言い方をすれば、   人智を超えた境地、二項対立的判断を超越した彼岸に到達すること  である。  此岸・彼岸という言葉自体も二項対立的概念であるが、そういう概念自体を超克することをいうのである。    言葉(ロゴス)は二項対立的にできているわけだから、波羅蜜を言葉で説明することは不可能である。しかし『般若経』における仏陀は、言葉で伝える以外ないのだとして繰り返し繰り返し、饒舌と言ってよいくらいこれを説いている。  また宋代に施護によって訳された『仏説五十頌聖般若波羅蜜経』においては、般若波羅蜜と八正道等の実践がひとつだと説かれ、簡潔に仏教の実践項目や倫理が説かれている。  § 3 諸説  § 3.1 六波羅蜜  6.智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、prajñā プラジュニャー)は、   諸法に通達する智 と 断惑証理する慧。   前五波羅蜜(布施・持戒など)は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここから取り敢えず 次のふたつの説明を取り上げます。  (あ) 人智を超えた境地、二項対立的判断を超越した彼岸に到達すること  (い) 諸法に通達する智 と 断惑証理する慧  ☆ (い)は 堂々巡りの定義であって無理でしょうね。  (あ)は どうか?   (あ‐a) 人智を超えた境地  これは いわゆる非思考の庭ですね。思考に非ずとして成る庭。つまりまた可知ではなく不可知でもなく 《非知》の場。  つまりは ただしそのような非経験の場に相対しているワタシはすでに 考えるではないけれども しかも――かかわりを持つとするのならば―― それとして経験的な意志行為もともなわれている。と言わねばならない。  これを信じるという言葉で表わす。つまりは 受け容れるという意志行為である。受領証を発行するのは 意志行為である。  そしてその庭にあって人はヒラメキを持つ。ヒラメキが こんどは 《人智》となって得られる。  こういった《信仰(つまり 非思考の庭)》についての理論を 表わしていたなら わたしも降参します。   (あ‐b) 二項対立的判断を超越した彼岸に到達すること    ☆ これは どうでしょう? 善悪の彼岸ということですね。聖俗を超えるところ。  これは けっきょく《無明即法性・煩悩即菩提・娑婆即浄土(寂光土)》といった思想に受け継がれているのでしょうか。《本覚思想》としても 起こりましたね。つまりは ブッダターの宿りのことだと思いますが。  つまりは ゴータマは 仏性を説いていませんから。どう見ればよいでしょうか。  この彼岸を 《アン‐アートマン(無我・非我)》として表わし得たと言うべきでしょうか。どうでしょうか?  つまりは 色即是空かつ空即是色というかんたんな命題にまとめたかたちの思想を持ち得たでしょうか。  でもいづれにせよ この場合の《彼岸》というのは けっきょく(あ‐a)の《信仰》の庭の問題になるかと考えます。  ゴータマは 六波羅蜜をさとりの中身として知っていたか。どうでしょう?

その他の回答 (27)

回答No.7

私は生が苦で無く、世が苦だと言ったと解釈しているがね。 無を悟りなさい。 これで判るでしょ。 死を理解しなさい。 そう言ったのだよ。 それこそが悟りであるとね。 西洋のキリスト教だって同じ傾向があるじゃないか。 いい悪いと言うよりも昔の人は苦労していたんだよ。 むしろこれを肯定して、幸福になるための信仰宗教群を批判する理屈でも考える方が暇つぶしになるよ。 彼らにまともに喧嘩を売っていないじゃないか。 多数派の乱脈を見る限り、幸福のために、あなたか私に教祖様になってもらいたいと言わんばかりじゃないか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 私は生が苦で無く、世が苦だと言ったと解釈しているがね。  ☆ これは 微妙ですね。なぜなら 《苦である世》の中に暮らすのが 《生》ですから。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  無を悟りなさい。  これで判るでしょ。  死を理解しなさい。  そう言ったのだよ。  それこそが悟りであるとね。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ だとしたら それは 専売特許ではあり得ないですね。いちいちわざわざ《目覚めました》などというほどのことではないでしょう。  その昔 古墳をつくる時代になって その石室に故人をほうむっておいた。そこで その者は どうしているか。どのように眠っているのか。これを知りたくて 尋ねて行ったようです。したところ すでに蛆虫がたかっていただけだった。  どうもこれは われわれ人間はただ眠りに入るのではない。そうではなく草がしおれ木がしなだれるように 死ぬらしいとさとった。そのときより人は 世界にヨリ(依り)憑くのではなく その内へ・そして時間の中へイリ(入り)するのだと知った。という出来事を経験した。これによって おのれが時間的存在であることを知る。  じっさいこのとき 人びとは 《いりひこ(入り・日・子) / いりひめ(入り・日・女)》と名乗っている。  ですから 目覚めた(ブッダ)ことにさほどの特許性はありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  西洋のキリスト教だって同じ傾向があるじゃないか。  いい悪いと言うよりも昔の人は苦労していたんだよ。  むしろこれを肯定して、幸福になるための信仰宗教群を批判する理屈でも考える方が暇つぶしになるよ。  彼らにまともに喧嘩を売っていないじゃないか。  多数派の乱脈を見る限り、幸福のために、あなたか私に教祖様になってもらいたいと言わんばかりじゃないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ええっと。  ☆☆(趣旨説明欄) 苦を説くゴータマは 悪魔の権化である。なぜなら その《唯一の目覚めの方法》は ついに明らかにならなかった。そのアタマの中は空っぽであった。ゆえに。  ☆ ということですから 《苦》から始めるオシエは 何らよき結論にはみちびかない。こういうことでしょう。  ★ 昔の人は苦労していたんだよ。  ☆ という場合が ほとんどだった。かも知れない。けれども そのように苦労する場合というのは 初めにおけるボタンの掛け違いから来ている。ということを言わねばならないし その前にしっかりと見てみなければならない。  したがって 《苦》を初めに措定することによって――つまりそのような悪巧みの罠にそのまま嵌って行って―― 世の中で《苦労》するのではなく そうではなく 初めの苦の想定が間違っている。とはっきりと言って行かなくちゃいけない。  そういう問題ではないだろうか。という問いです。  そういう隠れた視角を見えないように議論をすすめたその話の持って行き方・つまりは肝心の隠れた視角を見せないようにしたその手腕は 並大抵のものではない。大ペテン師の面目躍如たるものがある。かも知れない。・・・

回答No.6

たいしたことぢゃないんだけど、 悪ってのは存在するのかい? おいらにとってのワルモノはときどき現れるけど、 誰がどう見ても悪、絶対悪という悪はあるのか? やれやれ、蚊に刺されちまったよ、ワルモノめ。 うん?蚊は悪なのか? 以下、あほなさんから拝借。 >各々の人に道が備わっており、 運命ってのはあるのかしらん。 それなら過去も否定しない未来も否定しない 生まれたこともいずれ死ぬことも否定しない 受け入れて わたしの生を つねに生活し ひととマジワリを持つ中で 他でもなく わたしがわたしをしていることを知る、 それでよろしくないか? 正しい道ってのはあるのかしらん。 間違った道ってのはあるのかしらん。 40年前までおいらはいなかった、 40年前にはじめておいらは存在した、 これから先、そのうちおいらは消えて、 その後おいらは生まれない。 死を放棄して(=生を放棄して)まで 安寧というものを手にいれなければならぬのか? うわ、こんなことしゃべっちゃって 明日おいら死ぬかもしれないのに、 おいらいっぱい生きていたいのに変。 生=苦 というのは分からんけど しょっちゅう「苦しいなあ」といいながら生きている 変なひとのつぶやきでした。 どうもお邪魔しました、ではでは。                                             

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 悪ってのは存在するのかい? / 誰がどう見ても悪、絶対悪という悪はあるのか?  ☆ まぁ 現象としてはある。のでしょうね。  ここでは やはり理論ないし実際の境地についての議論(説明)が 成っていないということ。これを 悪として見ています。  あ_ほなさんとのやり取りで かなり述べて明らかにし得たかに思っていますが ゴータマ氏は 自分がそこに到達したというさとりについてその中身を明らかにしていません。  さとりとは 苦を消滅させた状態である。苦とは さとりに到るのを妨げるものである。・・・といった説明に終始しているのではないか。という批判です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   >各々の人に道が備わっており、  運命ってのはあるのかしらん。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この議論はむつかしいですね。これでひとまづおしまいという地点になかなか辿り着かないのではないでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  それなら過去も否定しない未来も否定しない  生まれたこともいずれ死ぬことも否定しない  受け入れて  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分についてです。そういったことがらを否定する・肯定するということは なかなか結着がつかないように思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  わたしの生を つねに生活し  ひととマジワリを持つ中で 他でもなく  わたしがわたしをしていることを知る、  それでよろしくないか?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ よろしいのではないでしょうか ここのくだりについては。みなさんにも問うてみておきましょうか。どうでしょうかと。  ★ ~~~~~~~~~~~~  正しい道ってのはあるのかしらん。  間違った道ってのはあるのかしらん。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから たとえばこうです。:  ▲ (ヰキぺ:八正道) ~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93  八正道(はっしょうどう、巴 ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, 梵 āryāṣṭāṅgamārga)は、  釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。  § 1 正見  (しょうけん、巴 sammā‑diṭṭhi, 梵 samyag-dṛṣṭi)とは、  仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ることである。  § 2 正思惟  (しょうしゆい、samyak-saṃkalpa, sammā saṅkappa)とは、  正しく考え判断することであり、出離(離欲)を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この野郎 《ただしい》とは何かを説明したまえ。と突っ込まずにはいられない。  《四諦》とは 《苦》の問題ですし。  《正しく知る》と言ったって いったいどういう物差しで測ればただしいのか?  ゴータマさんって よほど人気が出るという自信があって アイドル性に富んでいたとしか思えません。こんな論理で 何十年かのあいだ説法をしたというのですから。――とえらそうなことを言っちゃってますが。  あと 引用はしませんが けっきょく初めに《苦》をかかげたところから おかしな論理の交通渋滞が現われたのではないか。こう思います。  みなさんも どうでしょうか。  

回答No.5

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。やっとかめです。 ゴータマの言っていることに通じていないので、 とんちんかんな回答になると思いますが、 とりあえず思ったことしゃべります。 >たとえば人間には《根本的な生存欲》があって :あ、はい、他でもなく「おいらの命」が もっともっと続きますようにと思うね、 だから おいらの命を続けさせるために 牛や豚や鶏や魚を何匹も殺して食ってるね、 殺すのにあまり体を動かさなくてよい時代だから 「ゴメンナサイ」「おかげさま」「いただきます」 というのも忘れちゃってるわ、 別に人間の命だけが大事ってわけぢゃないのに 蚊取り線香とか焚いちゃってゴメンナサイ、 それにあれこれチカラを欲しがるし あれこれ身に付けてみたくもなる。 札束でできた服とか着てみたい、 世界中の知識で織った服とか着てみたい、 おいらが有利に生きるために役立ちそうだからね、 実際のところおいらの欲のために 誰かを蹴落としてるかもしれない、 おいらが蹴落とされてるかもしれないけど。 一方で本当に役立つチカラがあるとしたら、 「受け入れるチカラ」なんぢゃないかしらん、 とも思う。 「>難病が俟っている」?「>治す」? 治さなくてはいけないのか? >生が苦 :これ、やっぱり分からんのですわ、 いずれ死ぬことが分かっているから 「生が苦」になるのか? 生の一部(?)である死を放棄して 生も放棄しようってのか?うん?逆さまか? それとも宇宙のみなしごであることが苦なのか? 時間とか光とかがあるよりずっと前からある○○に おいらはポイっと ポツッとひとり放り出してもらって、 「生きている」という状態を知っているということとか 「いずれ死ぬ」ということを知っているということとか その後も○○はずっと昔からと同じように続くことを 知っているということは、人間の特典で、 わりかしステキなことなんぢゃないかしらん。 ああそうだ、だから人と人はマジワリを持ち、 先に生まれた人のことばを聞いたり 人の意見や欲を聞いて自分の意見や欲を話したり、 ケンカをしたり戦争をしたり与えたり奪ったり 時間とか空間とか感情を共有したりして、 命は受け継がれていくんぢゃないかしらん。 もうひとつの質問に投稿しようと思って あれやこれやとぐちゃぐちゃな回答になっちゃった、 読んでくれてありがとう、お邪魔しました。                                                               

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  何だか春めいた雰囲気の絵でもって 何だかおっかないようなご回答が来たみたい。かな。  ★ 蚊取り線香とか焚いちゃってゴメンナサイ  ☆ 何とか大使という人によれば 蠅叩きや手で叩き殺したり握りつぶしたりはしないでね ということのようであって 線香や低刺激・無香料の殺虫剤なら 《かわいそうではない》らしくて だいじょうぶなんだそうですよ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  一方で本当に役立つチカラがあるとしたら、  「受け入れるチカラ」なんぢゃないかしらん、  とも思う。  「>難病が俟っている」?「>治す」?  治さなくてはいけないのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 譲歩して話をすすめておられますね。  質問者は気が――短くはないのですが――早いので 《あとで 治せるのなら いちいち難病だなどと言うな。さとりを根本的にさまたげる苦≒無明などという規定を初めにするな》と言って怒ります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  >生が苦  :これ、やっぱり分からんのですわ、  いずれ死ぬことが分かっているから  「生が苦」になるのか?  生の一部(?)である死を放棄して  生も放棄しようってのか?うん?逆さまか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 質問者にも分かりません。ただひとつ そうなのかなと思ったのは 最初に触れた《根本的な生存欲》という説明です。これは 一生なくなりませんから。  ★ 戦争をしたり  ☆ については かんたんに それは困ると言ったりすると それは短絡だと言われるでしょうけれど ひとの意志をないがしろにすることは やはりいただけません。といちおう受け答えしておきます。  触れずじまいとしたところもありますが 初めにおっかないと感じたほどでもなかったですかね。次にも来ていますね。

  • a_hona
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回答No.4

釈尊の幻影を追いかけても詮無いことかと思いました。確かにそう言った多くの人々が居るのも事実ですが、それは釈尊の責任になるのでしょうか。彼は覚り、その境地を自ら示しただけであり、別に人を救済しようとしたわけではありませんから。ただ、覚りは虚妄ならざるものであり、一切の苦の消滅である安穏だというシンプルな事がいい残されているのみです。また、誰もが覚り得るが、誰もが覚るとは言って居ません。覚ったものが釈尊以降数人しかいないとしても、それが仏教の現実であると言わねばならないでしょう。それを聴いて、仏教を捨てるのも、各々の人の自由であり、仏教自体が人々を縛っているわけではないのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 釈尊の幻影を追いかけても詮無いことかと思いました。  ☆ と言おうとする問いですよ この質問は。  しばらく下火になっていましたが この哲学カテで近頃またゴータマ・ブッダの礼賛が始まりました。それに対抗するねらいがあります。  ★ 確かにそう言った多くの人々が居るのも事実ですが、それは釈尊の責任になるのでしょうか。  ☆ そうですね。責任は イカレポンチになる側にもあるでしょうね。  ということは ゴータマの側にもあります。  ですから さとりとは何かに 死ぬまでけっきょく答えなかった。ここにあります。なにせ この上なき知恵を得たという目覚めを宣言したのですから。  ですから ゴータマの神格化をおこなっている人びとに向けて このようにゴータマにも責任があると言って行くことは 哲学の徒のふつうのつとめではないでしょうか。  ★ 彼は覚り、その境地を自ら示しただけであり、別に人を救済しようとしたわけではありませんから。  ☆ だとすれば 《救済しようとした》と言って喧伝して来ているブディストに責任はあり その責任について問うておくことを 目的とします。  そしてその問題点は ひとえに《その境地を自ら示した》というとき 境地の外形については説明していますが その中身については いっさい触れていません。ということを重ねて言っておきたいと考えます。  目覚めないしさとりの境地を その中身そのものとして示すということは たとえばこうです。  すなわち 《真理(すなわち 変わらざる真実)がすべてにおいてすべてである状態》を言います。  すなわち 特に具体的には おのれについても相手の人についても・果てはあらゆる人について その心・その意志を知るということ。そうすれば このときあのときに 誰々さんはこれこれの事情においてあれそれの発言や行動を採ったということが 容易に分かることになります。そうすれば 互いの理解はすすみ そこに食い違いの生じることは少なく 意志疎通がなめらかに行きます。  そうすれば 社会はすこやかになります。――これが さとりの境地の具体的な事例としての説明です。  こういう説明が ゴータマにはない。ということ。これについて糾弾しています。だから ブディストは 浮かれちゃダメだし ましてかれを神格化していては 何にもならない。シンキロウをいつまでも追いかけていてはダメだ。と言いたいし そこまでのことは 共通の了解として持つべきではないだろうか。  ★ ただ、覚りは虚妄ならざるものであり、一切の苦の消滅である安穏だというシンプルな事がいい残されているのみです。  ☆ これが 足場としての説明です。それにしかなりません。  《さとりとは 苦の消滅した状態である》。《苦とは さとりを妨げるものである》。《さとりは・・・》という堂々巡りです。  ★ また、誰もが覚り得るが、誰もが覚るとは言って居ません。覚ったものが釈尊以降数人しかいないとしても、それが仏教の現実であると言わねばならないでしょう。  ☆ ちょっと待った。《さとりの内容》が分からないのに 《さとった者が何人である》とか よくもそんなことが言えますね。それが ペテンだと言って来ています。そうぢゃないでしょうか?  ★ それを聴いて、仏教を捨てるのも、各々の人の自由であり、仏教自体が人々を縛っているわけではないのです。  ☆ これは どうでもよいでしょう。    なお《犀の角》については  次のようでしたよ。  ▲ (スッタニパータ <3、犀(さい)の角>) ~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  37  朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 笑っちゃいます。《おのが利を失う》だって。《親友を持つと 何か落とし穴がある》などというようなこと言っているみたいですよ。こんな低劣なことは ごく一部分だと言うでしょうね。それは 例外であると。まぁ いいですけれど。例外として くだらないことを言っている場合もあるのですね。で終えておきます。

  • a_hona
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回答No.3

すいません、何処が詐称になるのかを理解出来ないでいます。もうしばらくお礼を読んでみます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。《さとりなる境地そのものについての説明》――家本体――と《さとりにいたる方法についての説明》――足場――は違うはずです。    ゴータマには その足場としての説明があるのみだというところ ここが 詐称です。  以下のくだりは みな足場としての説明だと考えます。  (あ)★★(回答No.2) 各々の人に道が備わっており、自灯明で歩くことが、正しい道を歩くことになるのではないか、それがダルマなのではないか    ▲(ヰキぺ:悟り) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E9%81%93  (い) 宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得を言う。    *(ぶらじゅろんぬ評註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~      《迷妄・真理》とは何ぞや? の説明が必要。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (う) 〔* 漢語の《開悟・覚悟》にあたる二語〕いずれのサンスクリットも「仏地を熱望する」もしくはその婉曲表現を組合せた原意を持つ複合語(熟語)である。当該サンスクリット語が婉曲表現を採用したのは警鐘を含意したためと思われる。      * そういう単語があることは構わないが 《仏地》と     いう語で ブッダのさとりを説明しようとしている。     これでは ダメ。  (え) 「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、原語Anuttara samyaksaMbodhi)」「無上正等菩提(むじょうしょうとうぼだい)」・・・いずれも、・・・《真理(法)に目覚めること、迷いの反対》の意で用いられる傾向があるという   * 《真理(法)》とは何か? が説明不足。  (お) 降魔成道:その禅定がしだいに深化し、三昧の中で「三明」(* 縁起説などか)が顕れ、真理を悟ることができた。これによって釈迦は悟った者(覚者)、すなわち「ブッダ(仏陀)」になったのである。   * 足場を複雑にすればよいというものではない。  (か) 部派仏教の旧訳(くやく)ではサンスクリット語「vitarka」を「覚り」と訳した。vitarkaは「尋」とも訳し、対象を推しはかって分別する麁(あら)い心の働きをいう。一方、細かい心の働きを「vicaara」(旧訳では観(かん)、新訳では伺(し))といい、両者は対になって用いられる。この両者はともに定心(じようしん)を妨げるが、禅定の深まりによって消滅する。   * ここは 矛盾したことを言っているように思われる。    仮りに つまり《定心を妨げるものが 禅定の深まりに    よって消滅すること》がさとりだとすると どうなるか?     かえってややこしい。  (き) 仏教の悟りは智慧を体としており、凡夫(ぼんぶ)が煩悩(ぼんのう)に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻(りんね)を続けているのは、それは何事にも分別(ふんべつ)の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱(げだつ)しなければならない、その方法は事物を如実(にょじつ)に観察(かんざつ)することで実現する。これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もない。   * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    《迷いが吹っ切れて われがわれに立ち帰ること》だと    も受け取れるようだけれど それなら 一方で ふつうに    人びとが使うさとりと何ら変わらないし 他方で それな    ら 《苦≒無明》をことさら大きく取り上げることもない。     大げさな看板をかかげている野郎だということになる。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (く) この悟りの境地を「涅槃(ねはん)」といい、それは「寂静(じゃくじょう)」であるとされる。煩悩が制御されているので、とらわれのない心の静けさがあるということである。   * 《わたしがわたしである》と言えば済むことである。    いかにも仰々しい。ペテン師の常習なり。  (け) 悟りは固定した状態ではなく、悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続けることであり、自らの悟りに安住することなく、悟りを求める人々に実践を指導するために活動し続けた釈迦の姿が想定されており、活動していくことに悟りの意味を求めているのが、大乗以降の仏教における菩薩の特徴である。   * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    そういうまじめで勤勉で職場や周りの人びとのこと    を考え 経営をおこなったり共同自治をしたりする    ひとは いるのであって その人らに ゴータマの    説くさとりは 不要だと言えるところがある。     ゴータマのさとりを掲げる謂われを説明しなければ    ならない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  このように 《さとりなる境地そのものについての説明》は 自家中毒を起こすようなものしかないと考えられます。  ブディズム独自のさとりについて説明するか。それとも 広くどの信仰に根差すオシエとも通底しており共通の要素があるのだと その独自性の否定をみとめるか。どちらかによってしか われわれを納得させ得ないと考えます。

  • a_hona
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回答No.2

知識、聴いた所の話ばかりで申し訳ないのですが。 覚りは頓悟であり段階的に覚るのではないと言われています。諸法は一挙に修められる故に、苦集滅道も一挙に起こると考えられます。 また、余計なものを脱落せしめる道故に、誰でも覚り得ると説かれます。 ここからは私見ですが、各々の人に道が備わっており、自灯明で歩くことが、正しい道を歩くことになるのではないか、それがダルマなのではないか、ということです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 覚りは頓悟であり段階的に覚るのではないと言われています。  ☆ そのとおりだと考えています。即身成仏。あるいは 即得往生。  ★ 諸法は一挙に修められる故に、苦集滅道も一挙に起こると考えられます。  ☆ でありましょう たぶん。そしてそれが 自性清浄心ないしブッダターのハタラキなのだとも考えられます。  ところが これは ゴータマの説ではないのではありませんか? 後世のブディストが考え出した(ひらめいた)ものなのでは?  なぜなら もし即身成仏という方程式であるとすれば いちいち目覚めへの修行――四諦八正道などなど――は 説明としてあったとしても なくてもよいわけです。   一切衆生 悉有仏性  これで済みます。   言いかえると 《苦》は むろんのこと相対的なものであって たとえ現実にそれを克服した状態に到った人が少ないとしても 人間には克服することが出来るのだと はっきりと言っていなければいけない。となるはずです。    その上で この目覚めという言葉で表わすさとりの内容を――つまり 家本体の中身を 自分こそは成道したと言い その境地に到ったというからには―― 説明していなければなりません。つまりは この家本体の説明は 皆無なのです。ここを問題にしています。  駅から十分のところの土地ですよと言っておいて じっさいに連れて行ってもらうと 一時間もかかる遠隔地だったという詐欺にとどまるものではないのです。土地じたいが どこを探しても無いというペテンなのです。さとりとは何か? 何ら説明はありません。  その足場については・また筏に乗って向こう岸にまでたどり着くのだという説明はあります。そういう効能書きとしての説明のみがあります。こういうペテンです。  ★ また、余計なものを脱落せしめる道故に、誰でも覚り得ると説かれます。  ☆ いいですよ。  ★ ここからは私見ですが、各々の人に道が備わっており、自灯明で歩くことが、正しい道を歩くことになるのではないか、それがダルマなのではないか、ということです。  ☆ という取り扱い説明書だけは わんさかとあります。それは 知っています。いやというほど聞かされています。  いったい何人のひとが  ★ 正しい道を歩くことにな  ☆ ったでしょう? 正しい道とは いったいどういう境地なのでしょう? 二千年ものあいだ これが シンキロウなのだといやというほど知らされても なおまだ見つけようとしています。いったい われわれは どれだけ巻き上げられたら 気が済むのでしょう? どれだけ煮え湯を飲まされたら 目が覚めるのでしょう?  ゴータマは 大悪人です。この男の言っていることは 悪魔の声です。 

  • a_hona
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回答No.1

真実に苦を観れば、同時に苦の滅を観ると言われています。だから、一切皆苦を観ることになるのは覚った時であり、覚る前にはわからないこととなるのでしょう。全ては後付けで解ること、というのが、仏教の難しいところでしょう。 また、仏教では、家屋の建造者を見破ったとか、家屋を破壊したとかいう表現が出てまいります。余計なものの脱落を勧める仏教では、そう言う表現も見られるということです。 仏教から見れば、唯一神を奉るのは悪魔的となるのであり、お互いを悪魔呼ばわりしていても、詮無い話だと私は思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 真実に苦を観れば、同時に苦の滅を観ると言われています。  ☆ ほんとうですか?  まづは ご回答ありがとうございます。    《同時に苦の滅を観る》というのは おそらく――わたしの推理では―― 例のブッダターの宿り・つまりは《自性清浄心》を観ることによってなのでしょう。もしくは その清浄心なるブッダターのハタラキによるということなのでしょう。  だったら そうであるなら 《思うようにならない無明≒煩悩》も 決して克服し得ない《苦》なのではないと初めに言っていなければウソである。となりませんか?  修行によってか・もしくは要するに四諦八正道をおこなうことをとおして《目覚め》に到るのだと やはり言っているのではないですか?   つまり 《同時に苦の滅を観る》とは 言っていない。もしくは言っていたとしても それは 別のところに置かれていて やはり《苦》と《苦の消滅》とのあいだには それによってしか成し得ぬゴータマの説く方法こそがある。こう言っていませんか?   もし言っていたとしたら この世の阿呆です。仮りに効用があるとしても それは 専売特許の商法です。愚かだとしか言いようがありません。  ★ だから、一切皆苦を観ることになるのは覚った時であり、覚る前にはわからないこととなるのでしょう。全ては後付けで解ること、というのが、仏教の難しいところでしょう。  ☆ ん? もういちど ん? えっ? もういちど えっ?  ▲ (ヰキぺ:四諦) ~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6  § 3 四つの真理  § 3.1 苦諦  (くたい、duḥkha āryasatya)  とは人生の厳かな真相、現実を示す。  「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。  § 3.2 集諦  (じったい、duḥkhasamudaya āryasatya)  とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものである。という真理、またはこの真理を悟ることを言う。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という順序で 説明はなされていますが どうでしょう?  というよりも 問題は きわめてシンプルです。  ▲ (同上) ~~~~~~~~~~  § 3.4 道諦  (どうたい、mārga āryasatya)  とは、「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というように説明がなされていますし じつはどこまで行っても こういう説明の仕方がつづきます。  どういうことか?  つまりは 足場だけが組まれて 肝心の本体の家は建てられていないし 建てられる気遣いはない。と来ています。そういう問題ではないですか?   《道諦》という足場は組まれたが そこから家を建てる気遣いは聞こえて来ない。《解脱への道》だという説明があったのみである。二千年経っても おそらく一万年過ぎても 同じ説き方なのでしょう。  ★ 全ては後付けで解ること、というのが、仏教の難しいところでしょう。  ☆ というふうに順序を入れ替えても それは 弥縫策にしかなりません。答えが ゴータマにはないのです。それを承知でニルワーナに到るまで・ストゥーパに入るまで突っ走り その秘密を秘密として守り通した。    ★ また、仏教では、家屋の建造者を見破ったとか、家屋を破壊したとかいう表現が出てまいります。余計なものの脱落を勧める仏教では、そう言う表現も見られるということです。  ☆ あ_ほなさんであっても このペテンはゆるされません。《足場》を・あるいは《筏》をもう要らないと言って 壊したり捨てたりしても構わないでしょうが 《家》本体を どうして捨てるということになりましょうや?  ★ 仏教から見れば、唯一神を奉るのは悪魔的となるのであり、お互いを悪魔呼ばわりしていても、詮無い話だと私は思います。  ☆ 《悪魔》という言葉を使ったのは 分かりやすいからです。  《こたえが無い》 これが いちばんのワルです。ワルのワルたる所以です。  それには やはり門を入ったときには どうしようもない《苦》というものが 人生の全般にわたって影を落としていて人はその苦から・また無明から逃れられないのだと 聞かされる。あとは ブッダの目覚めという特効薬がありますよと言って 誘い続ける。この勧誘の仕方を会得したのが さとりだというわけです。それが 二千年つづいています。  唯一神の問題は ここで関係しません。ゴータマの手口が 大悪人のそれであるという問いです。

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