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本気で出家しようと考えています。生は苦であるという意味がわかってきまし
本気で出家しようと考えています。生は苦であるという意味がわかってきました。どんなに幸せそうな人でも娑婆で生きている限り、実際には苦界に埋もれているものです。トルストイの「光あるうち光の中を歩め」に影響されて、本当に幸せになりたいのなら現生との縁を切ることだと信じるようになりました。パソコンに夢中になっても、車を乗り回しても、高収入になっても、出家して道を求めている人に比べれば決して幸福ではないと思うようになりました。出家を受け入れてくれるところがあればどんな困難なことがあっても決心は変わりません。どうかよきアドバイスを与えてください。
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そういう意味で仏の道を求めるなら、禅宗のお寺 キリストの道を求めるなら、カトリックの教会 の門を叩いてみてください。
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- Wendy02
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プロテスタントとカトリックの教会はどう違うのですか? カトリックというのは、基本的には、ローマ法王の元に統一された階層的な組織です。まず、女性の方だとは思いますが、修道院に入るなら、まず、カトリックの洗礼を受けていなければなりません。そして数年を経過していなければなりません。また当然独身が条件だと思います。 プロテスタントは、『聖書』中心主義ですから、牧師になるのはともかく、本来、権威的なものを認めません。明治以降の日本の伝統的なクリスチャンは、プロテスタントが多いと思います。また、米国からのものは、プロテスタント系が多いようですが、その分、その解釈の仕方には、際立ったものもあります。 私個人は、縁があって何人かのプロテスタント系の方に出会いましたが、基本的な教えは変わらないものの、一般的なキリスト教とはまったく違う教えだと思います。 >現代でも強い共感を得る人が多いのではないでしょうか。 聖書が出来上がった時代というのは、もう既に高度な文明を持っていた時代で、基本的な科学知識も、今の人たちと、そう違わないレベルにあったと思ったほうがよいです。ローマ帝国のパックスロマーナとして、パレスチナの地にも、一応の民主主義としての、法は施行されていたわけです。そういう所で、神との新しい契約書である新約聖書が生まれたわけですが、その内容の理解は、なかなか難しいと思います。信仰するのは、単に神父さんや牧師さんのお話を聞いていればよいのですが、自分で理解していくというのは、本当に大変なことだと思います。 例えば、「原罪」というものを、どういうように受け入れていかなくてはならないか、私たちと神との関係をどのように考えるのか、イエスの復活をどう受け止めるのか、「聖霊」というものは何かなど、キリスト教を通して考える部分があるのではないでしょうか。 還暦近くになって出家したいと本気で考えるというけれども、内容からすると、キリスト教にはあまりお詳しくないようですが、まず、キリスト教とのかかわり合いから始めるべきではありませんか。 それと、別の問題にもなるのですが、日本人にとって、「エホバの証人」というのは、アメリカ人などよりも、その受け止め方が大きく違うはずです。私は、エホバの証人を否定していますが、それは、社会的な評判や社会的評価とはまったく別のものです。輸血の問題は、それは、その教えの解釈の結果的なものに過ぎません。日本人は、日本人の考え方そのものに、エホバの証人の教えを受け入れやすい態勢が既にあるのではないでしょうか。特に、理屈をあれこれという人には、エホバの証人は、論理的で、平和思想であり、聖書の荒唐無稽な奇蹟の話などはしません。それだけに、正統派キリスト教自身の持つ不合理というものを、一体、どうやって解釈するか、そういう問題を解決しなければ、本当の意味でクリスチャンとは言えないのではないか、と思っています。
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回答ありがとうございます。
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DVDで「ナザレのイエス」を観て三位一体、精霊の受胎、死者の復活の奇跡などをそのまま信じるようになりました。「主なる汝の神を愛せ」が第一の戒めだと同感します。もともと哲学でも、この世とは何か?人は死んだらどうなるのか?神は本当に存在するのか?わかっていません。この世はわからないことがいっぱいあります。神を信じるのはその結果だと思います。こう考えると、イエスが神の子であることも無理なく信じられます。キリスト教も大乗仏教も神(仏)の存在を信じるようにと説きます。私はそれを受け入れ、信じています。だから現世の苦も信仰によって救われると思います。キリスト教には仏教のように在家・出家の在り方の違いが無く、牧師と信者に分けられるようです。牧師は神学校を出ても世に出て普通の暮らしをするようです。男の私にはそれが理想のありかたのように思われます。この世が苦に満ちていると感じる者は信仰の道に入るのが自然のなりゆきなのでしょう。
- Wendy02
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私たちは、いろんな宗教の教養として、若いうちに広く浅く学ぶことは良いことだと思います。しかし、その特定化は、つとめて気をつけないと、思わぬ問題をもたらすことになりかねないと思います。仏教の各宗派以外にも、キリスト教、ユダヤ教、上座(部)仏教、イスラーム、日本の神道や新宗教、また、神秘主義など、私たちは、キリスト教中心のメディアや社会体制によって大きく誤解している部分があるし、安易にそのどれが良いということは言えないように思います。 ところで、大乗仏教と、上座仏教との違いですが、大きくどこが違うかという点で、その教えそのものよりも、社会体制の違いから生まれたものであるのではないか、と考えています。なぜ、大乗仏教が生まれたかというと、私は、キリスト教の旧教に対する新教のようなものだと思うことがあります。大乗仏教は、教え自体に、経済活動を認めているところに、多くの東北アジア地域で、経済発展をしたことと、大乗仏教は関連があるのだと思うのです。もちろん、上座仏教と大乗仏教の違いは、キリスト教の新旧の差以上に違います。ユダヤ教とキリスト教の差に匹敵するかと思います。私たちの社会では、上座仏教を直接求めることは、現実的には非常にむつかしく、単なる教養程度になってしまうかと思います。 上座仏教は、国がその存在をみとめ、僧侶をひとつの社会階級として活かしているから維持できるわけで、ミャンマーなども分かる通り、特殊な政権下であっても、仏教団体や僧侶の特権が認められているわけです。それだけに、上座仏教は、専門宗教家としては、非常に細かな戒律が存在するし、経済活動が認められているわけではありません。それゆえ、この自由主義経済社会では、檀家での理解が得られればともかく、大乗仏教に対立的な宗教団体は、維持しにくいところだと思います。 日本では、東京大学の故中村元教授などは、東洋哲学の立場であって、日本国内にパーリー語仏典などを多く紹介はしたけれども、それは、どちらかというと、江戸末期の昌平坂学問所時代からの大乗仏教に対する劣等感のようなものが、そうさせたと感じています。しかし、その仏教経典の成立において、東南アジア地域に広がる上座仏教経典との研究は、どちらの優位性を取ることもなく学術的な比較は続けられているものだと思います。我々としては、そのどちらかの優位性を説くべきではないけれども、もし片方に優位性があると採られるとしたら、その学術的な意義とは別に、社会一般に発表したことは失敗したと考えています。そういう点で、京都大学や他の仏教大学とは、かなりスタンスが違うようです。それだけに、今、Wikipediaなどで、一部の仏教団体が、仏教の教えの内容を、自分たちの教えに合わせ、微妙に書き換えている人たちがいるようですが、どこかで彼らに歯止めを掛けないと、文化的破壊につながるものだと思います。 私は、昔、オウム真理教が事件を起こす前に、彼らの持つローカライゼーション(局在性)の一般化に問題を感じました。オウム真理教の信者以外で、その教えを知る人たちは意外にも少ないし、その解釈によって、あのようなテロ行為にさせてはしまったものの、では、本質的にどこがいけなかったか、という結論的なものは出ていなかったと思うのです。「坊主憎けりゃ」式で封印させてしまって、結果的には、第二のオウムを許してしまいかねないし、現在も危険な宗教団体はいくつかあります。それは、また、現在の上座仏教やチベット仏教にも同様の危険性を感じています。また、米国や西ヨーロッパにおける、反共産主義の名の元に、西側の社会では容認されている地方性の強い宗教団体がいくつかありますが、そこに、カルト性が見えてくるのは、彼らが、自由主義経済の社会で、その教えのローカライゼーションを普遍化しようとする、その教えの特異性に問題があるのだと思うのです。 既存の仏教団体や伝統的宗教を否定したり、対立するようなものは、日本の仏教界や宗教界では、本来は容認する立場であってはならないはずです。それを容認している日本が、世界的なカルト宗教団体を生んだ原因かとも思います。東北アジア地域は、大乗仏教が中心で、社会慣習によって大きく変貌してきたことには違いないが、大乗仏教は、本来、すべからく人間の持つ仏性(仏になる可能性)に焦点が当てられてきたわけで、ブッダ・釈迦牟尼を単に人間として解脱したということではなく、久遠の救いとしての信仰の対象にしたものが大乗仏教なのです。
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回答ありがとうございます。
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キリスト教と大乗仏教と似ているところがあると思うのですが、もちろん違っているところも多くどちらを選ぶべきかわかりませんが、キリスト教を選ぶように気持ちが揺れています。聖書の言葉には、強い共感を得るところが多く、東洋人なのに仏教より優っていると正直思います。汝の敵を愛せ、などの言葉は現代でも強い共感を得る人が多いのではないでしょうか。
- magga
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大乗仏教のほかに 上座(テーラワーダ)仏教と言うのもありますよ。 ここは最古の仏典と定評のあるパーリ語の三蔵からなる仏典を大事に変えないように守っています。 強い決心がおありのようなので、 まずスマナサーラ長老の大量のポッドキャストを聞いたり、書籍を読んだりするか (パユットー師の「仏法」などもお勧めです) 講演会や、初心者冥想会などで納得がいくまで疑問質問をするのはいかがでしょう。 出家するならどこでも言い訳では無いでしょうから、よくよく調べて 一番信頼の置ける場所を精査していくことをお勧めします。 ~あなたに悟りの光が現れますように~
お礼
回答ありがとうございます。
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多くの人の投稿を読んで、キリストの道が私に一番合っているように思いました。
- Wendy02
- ベストアンサー率57% (3570/6232)
私は、ある有名な禅僧の方に仏教について教わりましたが、あちこち講演するのはともかく、経済人に近づきすぎるので、それは、僧侶も金の匂いに釣られるのか、とも思いました。なお、私は、仏教徒ではありません。 本来、出家というのは、托鉢だけで生活することです。もともと、乞食(こつじき)の道です。しかし、日本では、専門の僧侶では食べさせてくれません。某仏教系の宗教団体のように、国の宗教にしようとするのは、仏教本来の考え方ではありません。瀬戸内寂聴さんが、優秀なお坊さんだという話ですが、それにしては、お金儲けが目立ちます。高田好胤さんみたいに、お寺の修復をテレビに出て稼いだという人もいれば、仏教界のドンの円覚寺の朝比奈宗源さんは、いつも、寄付を募って「無心」をしていたというのだから、お寺の世界も金は必要なのだから仕方がないのでしょうか。 まだ、もう手に入らないかもしれませんが、 松野宗純という方が会社を辞め、出家しました。最初に出したのが、 『人生は雨の日の托鉢―定年からの静かなる挑戦』 という本です、こういう書籍は参考になるかもしれません。もし手にはいらなければ、この方の他の書籍でも良いかもしれません。 また、出家とは少し違いますが、「一燈園」の西田天香さんの書籍を読むと、トルストイとも関連もありますから、ご興味が沸くと思います。「一燈園」の生活を読めば、出家の意味が分かるはずです。それでも、飛び込めるなら出家ができるかと思います。西田天香さんは、大正から昭和の時代に生きた宗教人の一人で、現代でも、生きた教えを続けている人たちがいます。禅仏教の「本来無一物」の考え方が、良く分かります。 禅の世界では、才能がモノを言う世界だというのを痛感させられるのです。私は、白隠禅師も良寛も一休宗純も、彼らの書いたものを読むと、ずっと張り詰めた氷の世界のような気がしてくるのです。一見は、破天荒であっても、最期の最期まで、全力で走っているような気がします。なお、私たちが知っている一休さん像というのは、江戸時代に作られた「とんち噺」で、禅の教えを一休になぞらえて、書かれたものです。 また、同じ禅僧でも、種田山頭火はほっとさせられます。私は、山頭火が感じているほど人生の重さを背負っているわけではありません。彼は、熊本で電車に飛び込もうとして、禅の澤木興道さんに救われ、そこのお寺でしばらく修行のようなことをするのですが、山頭火は、そこを逃げ出してしまうのです。私は、同じ俳人の尾崎放哉と比べ、山頭火も、ずっと孤独と行脚だけに終わった人だと思っていたのですが、彼の苦から開放されたことを知り、本当に驚きました。 昨今、在家のままで出家させてくれるという密教系の新興宗教団体がありますが、まったくデタラメですから、そのようなものには近づかないことです。だいたい、在家のままに出家などということはありえません。また、カルト教団の他のいくつかの団体がなぜいけないか、というと、社会から隔離してしまうからいけないのです。 私は、何もしないで、ダメだとか辞めなさいとかいうつもりは毛頭ありません。禅寺に通ってみのも良いと思います。多くは、予約制だと聞きますから、予約が必要のようですから、事前に良く調べてみてください。また、カルチャーセンターでも、有名な先生が教えてくださっていることがあります。まずは、そういう所から段階的に進めていくのも良いかと思います。 ただ、くれぐれも宗教のはしごはしないようにしてください。
お礼
回答ありがとうございます。
補足
本当に詳しい回答を下さりありがとうございます。他にもたくさんの回答がありましたがあなたの回答をもとに、どうしたらよいかかなり具体的にわかりました。
- obasan-des
- ベストアンサー率32% (212/651)
お近くに禅寺があれば、まずご相談を。 貴方の決心が固ければ、門戸はいつでも開かれている筈です。
お礼
回答ありがとうございます。
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出家希望の人は禅寺に、というのが通例なのだということがこの質問をしてわかりました。他にカトリックの教会を勧めてくださる方もいて、私はそちらのほうに惹かれます。キリストの言葉は現代に生きる人にも、強く訴えかけます。出家とキリスト教の信者になる、のどちらかを選びたいと思います。
- dondoko4
- ベストアンサー率12% (1161/9671)
出家なんて一種の逃避にすぎません。 出家しても幸福にはなりません。幸福感は外に求めるものではない。 幸福とは、日常生活にあると思う。禁欲社会では現実的ではない。ナンセンス。 そんなこと考えているあなたも充分幸せだと思うよ。 人の幸福は尽きることはない。幸福イコール欲の追求なんだから。 体験出家(トライアル)をやっていると聞いたことがある。
お礼
回答ありがとうございます。
補足
多分あなたは年齢が若い方名のではないでしょうか?私はもうすぐ還暦を迎えるものです。私も若いころだったらあなたと同じ意見を持ったでしょう。精神的な幸福感というものもあるものですが、若い人には失礼ながら実感されないのだと思いました。
出家などしても、苦からは逃げられません。 出家でもすれば苦界から抜け出られる・・などと考えているのなら、それは幻想だけです。 >>出家して道を求めている人に比べれば決して幸福ではないと思うようになりました 道って何でしょう? それが分からずに言葉に酔っているだけでは、それこそ道など開けません。 >>出家を受け入れてくれるところがあればどんな困難なことがあっても決心は変わりません。 まあ、およしなさい。 それほどの決心がある人なら、先ずはお寺に行きます。
お礼
回答ありがとうございます。
補足
私は争いが嫌いでどんなことがあっても腹を立てないような人間になりたいのですが、今のままの生活で努力してもよい結果は全く出ません。好きなことをしていても、幸せを感じることがありません。人間として何をすれば本当の幸福を得られるのかを尋ねた結果わかったことは、何事にも感謝できる心を持つこと、利他の行を実践すること、信仰を持つこと、がその答えでした。人は皆幸せになりたいと願っているはずなのに、誤った道を歩いている結果、幸せから遠い生活を送っているのです。お寺に行っても、お金を寄進するのが義務ずけられているところがほとんどです。現実には身内の者に迷惑をかけないように、身辺整理してからお寺に行かなければと思い、そのために無駄に時間を費やしてしまいます。質問に答えてくださった中には具体的に望みが叶う道を示してくださった方もあります。確かに強い決心があればすでに実行しているはずでしょうが、世間知らずで、間違いない選択をするために投稿しました。OKweveは力強い味方です。
お礼
回答ありがとうございます。
補足
どちらかといえば、カトリックの教会を選びたいのですが、プロテスタントとカトリックの教会はどう違うのですか?カトリックの教会では修道院に入れるのでしょうか?