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「です・ます体」と「である体」の誤解について
- 「です・ます体」と「である体」の説明に誤りがあるという疑問が浮かびました。
- 「いますぐ本を書こう!」(ハイブロー武蔵・著)には疑問を感じる記述がありました。
- 「です・ます体」では名文エッセイを書くことができるとされる一方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマに書く場合は「である体」が無難とされています。
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#31です。 >正 解 (←「エッセイを書きたいあなたに」) ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されかねないからです。 : ありがとうございます。 なるほどですね。 興味深く拝見いたしました。 結局、木村氏は、 エッセイを書く際の手法として、「である体」が無難であることの直接的な理由を述べたかったのではなく、「です・ます体」を使うことによる危険性のほうを強調したかったのでしょうね。 >「ただでさえ」という文章においては、その後に続く言い回しは限定されます。 「ただでさえ・・・である(肯定)」とくれば、その後は「・・・である(肯定)」と続きます。 「ただでさえ・・・でない(否定)」とくれば、その後は「・・・でない(否定)」と続きます。 : この点に関しては異論があります。 たとえば、 『他方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイと書くときには、「である体」が無難ではないかという。 なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが増幅されることがないからだ』 であれば、特に違和感は生じないでしょう。 または、前回も述べましたが、(「です・ます体」によって)のように()を付けるだけで十分自然な文になると思います。 仮に木村氏が、「である体」が無難であることの理由を直接的に述べたかったとすれば、このような文になったことでしょう。 いずれにせよ、一段落を迎えたようで喜ばしいことです。 muimusakuさんの粘りが功を奏したのでしょう。 こちらは却って勉強させていただきました。 ありがとうございます。
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- hakobulu
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#33です。 >ハイブロー武蔵氏も推敲の大切さを本の中で書いています。しかし、表記のミスに気付かなかったというのは推敲が十分でなかったということです。これでは作家としての資質が疑われます。その言っていることに説得力はありません。 私がこの問題にことさらこだわるのはそういう事情があるからです。 : なるほど、そうすると、『表記のミスに気づかなかった』『推敲が不十分である』ということで文句を言いたいわけですね。 ただですね、これが逆の場合だったらどうですか? つまり、「増幅されないから」という原文ではわかりづらい、と考えて「増幅されかねないから」と書いた場合です。 やはり、表記ミスで苦情を言われるでしょうか。 他者の見解を紹介する場合、必ずしも正確な引用ということが必須になるわけではないでしょう。 かいつまんで説明する、という手法も当然あるわけです。 筆者の理解に基づいて紹介することは、正当な手法だろう、ということ。 特に厳密な判断を求められる箇所であれば、正確に引用する必要はあるでしょうけど。 むろん、今回の場合は、引用しようとして「かね」を見落とした可能性が高そうですね。 見落とした!と言って責めるのは(誰にでもあることですから)どうかと思いますが、まあ、それは個人の自由なのかもしれません。 この構文は誤りである、つまり、逆の意味にとられてしまう危険性がある、という解釈をしてはいけない、ということです。 文章は各人各様ですから、わかりづらい文章というものはたくさん存在しています。 それでも、構文上、文法的な間違いさえなければ、それを正確に読み解かなければならない場面というのは数多くあるわけです。 わたしとしては、『「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。』という文は、わかりづらい悪文ではあるが、決して間違いではない、ということさえご理解いただければ、それで十分です。 後は、muimusakuさんの気の済むようになされば良いでしょう。 ただ、見落とすといったことは、わたしなどしょっちゅうなので、いくら相手がブロとはいえ、それを責める気にはなれませんけどね。 いずれにせよ、「わかりづらかった→それはお前が引用ミスをしたからだ」こういう論理で責めることだけはなさらないほうがよろしいでしょう、と老婆心ながら申し上げておきます。
お礼
一読して理解できない文章は「悪文」と言っていいと、私は思います。 ハイブロー武蔵氏は、引用を間違っただけでなく、「から」という表現を重複して使っています。まさにそれは「悪文」としか言いようがありません。「悪文」の見本と言ってもいいぐらいです。 「いますぐ本を書こう!」 ⇒ 「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。 「新・いますぐ本を書こう!」 ⇒ 「です・ます体」によって増幅されないからという理由からというのです。 ハイブロー武蔵氏は、「本についての感想や著者に伝えたいことなど、お手紙をお待ちしています。どんどんお寄せください」と、自著の奥付に書いています。そこで私は、読んで疑問に思った点を著者に問い合わせました。しかし、ハイブロー武蔵氏からは何の回答もありません。 いったいどういうことかと思います。出版社によると、ハイブロー武蔵氏は現在活動を休止しているということです。様々な事情があるかと思いますが、何とかしてその見解を表明して貰いたいと私は思います。 回答ありがとうございました。
補足
ビジネス書の9割は怪しいと指摘する人がいます。私もそれはかなりの部分で真実ではないかと思います。読んでいて「何、これっ?」と思うことは少なくありません。 ですので、そういう本が氾濫していることに怒りを覚えます。私が今回の件のように深くこだわるのは、そういう背景があるからです。 ビジネス本の9割は怪しい!もう読むな http://media.yucasee.jp/posts/index/4448/1
- hakobulu
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#17のお礼欄にもご返信いただきましたので、応答いたします。 >ここはやはり、『「です・ます体」によって増幅されるから』と表現すべきでした。 : 『「です・ます体」によって増幅されかねないから』が有効なのは、『「です・ます体」によって増幅される危険性があるから』という意味になるからです。 「増幅されかねない」を使わないで肯定するとすれば、 『他方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときには、「である体」が無難ではないかという。 なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」では増幅されてしまうからという理由からだ。』 といったところでしょうか。
お礼
度重なる回答ありがとうございました。 この辺りでこの質問を閉め切ろうと思います。 本当に多くの皆様から回答を頂きました。 重ねて御礼申し上げます。
補足
「増幅されないから」の表記については、hanzo2000 さん(No.1)が、 >増幅に対する肯定の言葉が入るはずだったのではないでしょうか。 と指摘していました。まさにその通りでした。 OKAT さん(No.16)も、 >否定形でなくすればいいのかと思います。 と指摘していました。 私も、この「増幅されないから」というのは「増幅されるから」の間違いではないかと途中(No.3)から思うようになりました。 しかし、私はとんでもない勘違いをしていました。それは、 >エッセイに「である体」を推奨するのは、「感傷的に自分本位になりがちなトーン」が、増幅された方がいいからではないか。 と思っていました。「です・ます体」では増幅されないということは、「である体」では増幅されることになります。ですのでそういうふうに解釈してしまいました。 しかし、「ただでさえ」という言い方に注目すれば、その解釈にはスッキリしないものがありました。 こういうふうに解釈を巡って混乱したのは、まさにハイブロー武蔵氏の引用ミスに原因があります。その責任は大きいと思います。
- OKAT
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質問者がこれだけの数の回答にお礼を書かれるのは、大変だったと思います。終わってみれば、やはり武蔵氏の責任だったわけですね。引用文を誤るなどとは、ものを書く人が絶対してはならないことです。自己の責任だけで無く引用した、文章の書き手まで迷惑をかけることになりますから。(とはいうけれど、わたしもやりかねません。自戒!) わたしがNo.16で書いた次の部分が偶然当たっていました。御慰労の言葉なので、お礼は不要です。 >「です・ます体」によって増幅されないから の部分を、 >「です・ます体」によって増幅され<兼ね>ないから とするか、あるいはもっと単純に >「です・ます体」によって増幅されるおそれが<ある>から
お礼
No.16の回答に気付くのが遅れました。 もう少しよく読んでおけばよかったと悔やまれます。 お礼を申し上げるのが遅れまして申し訳ありません。 回答ありがとうございました。
補足
>引用文を誤るなどとは、ものを書く人が絶対してはならないことです。 その通りですね!!
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#32です。 #13のお礼欄にご返信をいただきましたので、その内容に関する返信です。 >なにはともあれ、解釈を巡って混乱したのは著者(ハイブロー武蔵氏)の記述にミス があったためでした。著者の釈明を求めたいと思います。 : たしかに、「増幅されかねない」を「増幅されない」と書いたのは、わかりづらくしてしまった、という意味では好ましくないと思います。 しかし、木村氏の言っていることと逆のことを言っているわけではありません。 というか、結果的には全く同じことを言っているわけです。 この点を良くご理解のうえ、「釈明を求める」と大上段に振りかぶるのではなく、「かね」の省略についての感想を述べるに留めるのが妥当かと思います。 仮に、木村氏の主張と逆の意味を記述したのであれば釈明を求めても良いでしょうが、 『なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが(「です・ます体」によって)増幅されないからという理由からだ。』 のように解釈すれば済むことですから、あくまで誤りではないので。 文句を付けるとすれば、「故意なのか不作為なのかはわからないが、[かね]を省略したために、理解に手間取ってしまった。木村氏の表現を、もっと尊重して、そのまま引用してくれれば理解に苦労することもなかった」といったところでしょう。 つまり、何が言いたいのかというと、木村氏の文をそのまま引用しなかったために論理的不整合が生じている、という形での抗議はなさらないほうが無難です、ということです。 老婆心ながら申し添えさせていただきました。
お礼
樋口裕一氏は、「わかりやすい文章を書く技術」の中で次のように言っています(105ページ)。 >思わず首をひねってしまう文章は、読み直しを強制しているに等しい。読者としては、ひどく迷惑な話である。 まったくその通りです。しかし、樋口氏の文章にも「あれっ?」と首を傾げざるを得ないところがところどころにあります。 これは、時間との闘いという制約があるために推敲に十分な時間が掛けられないという事情によるものだと、私は思います。また、自分が書きたいものを必ずしも書ける訳ではないために、いい加減な記述になる場合もあるのではないかとさえ思います。 ですので、「書く」ことを職業とする人にとって、いつも満足する作品を書ける訳ではないと思います。もっと時間を掛ければいい作品ができるのにというケースはかなりあると思います。 しかし、時間がないということを満足できる作品に仕上げることができなかった理由にすることは恥ずべきことです。プロである限りはどんな場合でも最善を尽くすべきです。 本から得られるものは大きなものがあります。ですので、多くの人の共感を得られるような本が一冊でも多く出版されることを私は願っています。 回答ありがとうございました。
補足
>しかし、木村氏の言っていることと逆のことを言っているわけではありません。 確かに、ハイブロー武蔵氏は木村氏の言っていることを理解してそのことを書いたのだと思います。ハイブロー武蔵氏がそのことを書いたために、私は木村氏について知ることができました。その点ではハイブロー武蔵氏に感謝したいと思っています。 しかし、ちょっとした記述のミスでそれを理解するのに余計な時間が掛かったということが私は残念でなりません。 ハイブロー武蔵氏も推敲の大切さを本の中で書いています。しかし、表記のミスに気付かなかったというのは推敲が十分でなかったということです。これでは作家としての資質が疑われます。その言っていることに説得力はありません。 私がこの問題にことさらこだわるのはそういう事情があるからです。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#30です。 >ここは、 (寒色系によって)増幅されかねないから、という理由からだ。 ではないでしょうか。 「増幅されかねない」というのは、「増幅される」の控えめな表現です。必ずしも「増幅される」訳ではないが、「増幅される」場合もあるという意味になります。 : いや、全くおっしゃるとおりです。 「~するかもしれない」「~しそうだ」という意味ですね。 全面的に同意いたします。 原文のほうも、 『なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されかねないから、という理由からだ。』 のようにすると、ほぼ完璧な表現になるじゃないですか。 パチパチパチ・・・(拍手音)。 すばらしいご指摘だと思います。
お礼
>原文のほうも、 『なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されかねないから、という理由からだ。』 のようにすると、ほぼ完璧な表現になるじゃないですか。 その通りです。 (間違い)なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。 (正 解)なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されかねないから、という理由からだ。 回答ありがとうございました。
補足
>パチパチパチ・・・(拍手音)。 >すばらしいご指摘だと思います。 ありがとうございます。 素直に喜びたいところですが、これは、私の思索の結果ではありません。 実は、木村治美氏の「エッセイを書きたいあなたに」)を読んでそのことが判明しました。 木村氏が実際にどういうふうに書いているのかを図書館で調べてみたところ、ハイブロー武蔵氏は木村氏の文章を間違って引用していました。 間違い (←「いますぐ本を書こう!」) ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。 正 解 (←「エッセイを書きたいあなたに」) ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されかねないからです。 読んでいて「おやっ?」と思うのは、そこにそれまでの文章の流れからして不自然なものがあるからです。 ハイブロー武蔵氏の文章の問題点は、「ただでさえ・・・増幅されない」にありました。 「ただでさえ」という文章においては、その後に続く言い回しは限定されます。 「ただでさえ・・・である(肯定)」とくれば、その後は「・・・である(肯定)」と続きます。 「ただでさえ・・・でない(否定)」とくれば、その後は「・・・でない(否定)」と続きます。 しかるに、ハイブロー武蔵氏の文章は、 ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されない とあります。つまり、 前段が「肯定」であるのに対して、後段では「否定」になっています。 このことをもっと早く気付くべきでした。 そうすれば、ハイブロー武蔵氏が言いたかったこと(つまり、木村治美氏の主張)も難なく理解できたはずです。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#29です。 >(正)なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」ではさらに増幅されるからだ。 とすべきではないでしょうかね。つまり「です・ます体」によって「増幅されない」のではなく「増幅される」のです。 : 木村氏の言っていることを順を追って確認しながら、つまり、文脈を読み取りながら解釈していくことが大事だと思います。要点は3つあります。 まず最初に、 『「です・ます体」を使えば、読者がカチンとこなくて、やわらかく自己表現できる。』 と言っています。 この見解を木村氏と(賛成する必要は無いが)共有しながら、次を読み進めていかなかれば文意の把握が曖昧になりますので、ご注意ください。 「です・ます体=やわらかい表現ができる」←これが第1の要点です。 次に、 『他方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイと書くときには、「である体」が無難』と続きます。 そして、 『なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからだ』と言っています。 「なぜなら」は、『なぜ「である体」が無難であるかと言えば』に置き換えが可能であることにご留意ください。これが第2の要点です。 この場合、 『3.なぜ「である体」が無難であるかと言えば、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからだ』という文になります。 『なぜ「である体」が無難であるかと言えば』というのは、「である体」が無難である理由について述べようとする出だしです。 ですので、「である体」が無難である直接的な理由である「増幅されないからだ」という結語にするほうが自然なわけです。 これを、 『3.なぜ「である体」が無難であるかと言えば、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されるからだ』と書き換えてみましょう。 違和感を覚えられることと思います。 文頭では、「である体」が無難である理由を述べようとしていたのに、文末では、「です・ます体」について述べているからです。 むろん、『「です・ます体」によって増幅されるから』というのは、「である体」が無難である理由にはなるので、意味が通らないわけではありません。 しかし、「である体」自体が持っている「増幅されないから」という直接的な理由をわざわざ外しているため不自然に感じるのです。 添削例に挙げておられるように、 『なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」ではさらに増幅されるからだ。』のようにすれば、「では」によって主題の転換がなされているので、たしかに違和感は解消されています。全く自然な文です。 ただ、この場合も、『「である体」自体が持っている「増幅されないから」という理由を直接的に述べたい』という木村氏の意図には合致することができません。 つまり、木村氏が言いたいのは、 『3.なぜなら(なぜ「である体」が無難であるかと言えば)、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが増幅されないからだ』ということなのです。 『「です・ます体」によって』というフレーズは、あくまで補足的に挿入されているにすぎません。 これが3つ目の要点です。 『なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが(「です・ます体」によって)増幅されないからという理由からだ。』 のように()を付けると原文のままでも意味が通じやすくなりそうですね。 「から」の重複を避けるために「というのが理由だ」のようにすることもできるでしょう。 ◆ ここで、また、他のシチュエーションで考えてみたいと思います。 ご面倒でしょうが、以下の文をご覧になってみてください。 瞑想ルームなどが壁紙を選ぶ場合、主に暖色系よりも静かなイメージを感じられる寒色系が好まれる。 一方、病院などでは、寒色系よりも暖色系を選ぶほうが無難だ、と言われている。 なぜなら、だだでさえ沈みがちな来院者の心のトーンが寒色系によって増幅されないから、という理由からだ。(←あくまで仮定の話であり、事実かどうかは別です) この場合、(寒色系によって)というフレーズは、あくまで補足的に挿入されたものだ、ということがすぐに感じられると思います。 『なぜなら(なぜ暖色系が無難であるかと言えば)、だだでさえ沈みがちな来院者の心のトーンが(寒色系によって)増幅されないから、という理由からだ。』という意味に自然に解釈できるように思うのですが、いかがでしょうか。 これは、 「暖色系=気分が明るくなる(悪い意味では落ち着かない)」 「寒色系=気分が暗くなる(良い意味では落ち着く)」 というイメージがわたしたちに十分に浸透しているからではないか、と思います。 その点、先に述べた第1の要点である、 「です・ます体=やわらかい表現ができる」や、 「である体=硬い表現に適している」というイメージは、それほど浸透しているとは言えない。 こうしたことも理解を妨げる要因のひとつになっているような気がします。 この点について、もう少し前振りが記述されていれば、文意も通じやすくなっていたかもしれません。 いずれにせよ、筆者の記述がわかりづらい構文であるという点ではたしかにそうですが、誤りでないことだけは確かです。
お礼
>つまり、木村氏が言いたいのは、 『3.なぜなら(なぜ「である体」が無難であるかと言えば)、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが増幅されないからだ』ということなのです。 確かにその通りです。しかし、ハイブロー武蔵氏は木村氏の言いたいことを間違った言い方で伝えてしまいました。「増幅されないから」というのと「増幅されかねないから」というのとでは、まったく反対の意味になってしまいます。 hakobulu さんは、表記がどうであったとしても木村氏の言いたいことをその文脈から理解されていました。それは素晴らしいことだと、私は思います。しかし、私はどうにも理解できませんでした。ですので私は、細かい表現にこだわってしまいます。 要するに、ハイブロー武蔵氏に物書きとしての配慮が足りなかったことが読者を混乱させることになってしまいました。その責任は決して小さくありません。 ハイブロー武蔵氏の弁明を聞きたいと思います。 回答ありがとうございました。
補足
>『なぜなら(なぜ暖色系が無難であるかと言えば)、だだでさえ沈みがちな来院者の心のトーンが(寒色系によって)増幅されないから、という理由からだ。』という意味に自然に解釈できるように思うのですが、いかがでしょうか。 仮定ながらもシチュエーションを設定した説明は非常にわかりやすいと思います。 しかし、ひとつおかしいところがあるように思います。それは、 (寒色系によって)増幅されないから、という理由からだ。 です。ここは、 (寒色系によって)増幅されかねないから、という理由からだ。 ではないでしょうか。 「増幅されかねない」というのは、「増幅される」の控えめな表現です。必ずしも「増幅される」訳ではないが、「増幅される」場合もあるという意味になります。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#27にお礼をいただきました。 >「です・ます体」を使えば増幅されない。増幅するためには「である体」を使うべき。 : ということですね。 結論から申し上げると、これは違います。 ただし、 「なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。」という文だけであれば、たしかに、muimusakuさんのような解釈も成立するのです。 ですから、muimusakuさんが、文そのものに対して誤った解釈をしているわけではありません。 ただ、こうしたことは、前後の文脈を良く把握した上で解釈する必要があります。 以下、「木村氏は何を言いたいのか」ということに絞って、要約しながら順に見ていきます。 何かのご参考になれば幸いです。 1. 「です・ます体」で名文エッセイを書かれる木村治美氏は、評論や論説に「です・ます体」を使えば、読者がカチンとこなくて、やわらかく自己表現できるのではないかと述べておられる。 <要約> 評論や論説に「です・ます体」を使えば、やわらかく自己表現できる。 <意味> 「です・ます体」は、やわらかい表現方法である。ゆえに、評論や論説のような硬い内容の文を書くときに使えば、読者がカチンとこないという効果が期待できるという点で有効な手法である。 2. 他方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイと書くときには、「である体」が無難ではないかという。 ⇒ <要約> 逆に、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイと書くときには、「である体」が無難。 <意味> 逆に、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイと書くときには、「である体」のような硬い文体を使うほうが無難。 3. なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。 ⇒ <要約> なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないから。 <意味> なぜなら、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイを書くときは、つい甘く感傷的になりがちなものだ。 そのやわらかいトーンが、「です・ます体」というやわらかい表現方法を使うことによって、さらに増幅されることがないから、つまり、必要以上にやわらかくなりすぎることがないからだ。(増幅される=やわらかさの要素が増やされる) ◆<おまけ> 1.「です・ます体」は、やわらかい表現方法なので、評論や論説のような硬い内容の文に使えばちょうどバランスが取れて良い印象を与えることができる。 2.逆に、女性がエッセイを書くときには、「である体」のような硬い文体を使うほうが無難だ。 3.なぜなら、女性のエッセイが元々持っているやわらかい内容が、「です・ます体」のようなやわらかい文体を使うことによってさらに増幅されてしまうという危険を防ぐことができるからだ。
お礼
度重なる回答ありがとうございました。 ようやく理解できたような気がします。つまり、hakobulu さんは、著者の間違いをご自身の明晰な頭脳で自動的に修正されていたわけです。 しかし、頭脳明晰でない私は著者の言葉どおりにしか理解できませんでした。ですので、著者の単なるうっかりミスであってもそれに気付くことができなかったわけです。 様々な知的レベルの読者がいるわけです。著者はそのことを考えて、わかりやすく説明する努力を心掛けて貰いたいと思います。
補足
>女性のエッセイが元々持っているやわらかい内容が、「です・ます体」のようなやわらかい文体を使うことによってさらに増幅されてしまうという危険を防ぐことができるからだ。 そういうふうに言いたいのであるならば、 (誤)なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。 (正)なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」ではさらに増幅されるからだ。 とすべきではないでしょうかね。つまり「です・ます体」によって「増幅されない」のではなく「増幅される」のです。著者はとんでもない誤記をしているということになります。 例文 (誤)ただでさえ収入が少なくて生活が苦しいのに、税率が上がれば生活は苦しくならない。 例文 (正)ただでさえ収入が少なくて生活が苦しいのに、税率が上がれば生活は余計に苦しくなる。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#27です。 >ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからということを理由として述べているのですが、 この「ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」というのが、まったくつかみどころのない抽象的なものであるということです。 : ありがとうございます。よくわかりました。 「です・ます体」というのは丁寧体(敬体)とも呼ばれています。 「です・ます」が敬語のひとつに区分される丁寧語であることはご存知だろうと思います。 「である体」は普通体(常体)と呼ばれます。 ここで、お手数ですが、下記の2つの駄文を比較しつつお読みになってみてください。 わたしは北海道在住です。 (A)ー丁寧体(敬体) もう3月も半ばですが、北海道ではまだ雪が頻繁に降ります。 量こそ少なくなったものの、ちょっと油断していますと、すぐにドカ雪が降りますし、一時間以上かけて雪かきをしなければならない日もまだあるのです。 しかし、ウォーキングの途中で、葉の落ちた梢の間を軽快に飛び交う鳥たちの様子が、日ごとに活気づいてきていることに気づいたり、待ち遠しく春を呼ぶかのような騒がしいほどの囀りを耳にするとき、やはり春は間近いのだと実感することができます。 気温も若干、上昇傾向にあるのですが、水分を含んで雪が重くなるので、雪かき必須のこの時期にとっては、ありがたさ半分といったところでしょう。 (B)ー普通体(常体) もう3月も半ばだが、北海道ではまだ雪が頻繁に降る。 量こそ少なくなったものの、ちょっと油断していると、すぐにドカ雪が降るし、一時間以上かけて雪かきをしなければならない日もまだあるのだ。 しかし、ウォーキングの途中で、葉の落ちた梢の間を軽快に飛び交う鳥たちの様子が、日ごとに活気づいてきていることに気づいたり、待ち遠しく春を呼ぶかのような騒がしいほどの囀りを耳にするとき、やはり春は間近いのだと実感することができる。 気温も若干、上昇傾向にあるのだが、水分を含んで雪が重くなるので、雪かき必須のこの時期にとっては、ありがたさ半分といったところだろう。 この二つをご覧になって、『甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン』を必ず選ばなければならないとした場合、(A)と(B)のどちらを選びますか? わたしとしては(A)だと思います。 丁寧語というのは、話す相手に対して丁寧に表現するためのものなので、必然的に【柔らかい表現】にならざるを得ません。 その柔らかさが、甘さであったり、感傷的な雰囲気を表現するのには適しているわけです。 言ってみれば自己陶酔型の表現に適している、ということです。 「おお!なんと美しい花だ」と言うより、「おお!なんと美しい花でしょう」のほうが自己陶酔を感じられることと思います。 丁寧体は、(普通体に比較した場合)感情や感覚を表わすのに適している、と言うこともできるでしょう。 「むかしむかし、大変美しいお姫様が森に住んでいた」よりも、 「むかしむかし、大変美しいお姫様が森に住んでいました」のほうが、『甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン』を出すことができますよね。 「自分本位」というより「自己陶酔」と表現するほうが適切かな、という気はしますが。 いずれにせよ、『甘く感傷的なトーン』を出すには適した文体である、と言ってよいのではないでしょうか。 たしかに抽象的ですし、漠然としていますが、ご自分の感覚の奥を探っていただくと、納得いただけるような気がします。 エッセイというのは自分の身辺のことや、自分の感想・考えなどを自分の感覚を基調としながら書くものだと思います。 学術論文は論理性が重要ですが、それとは趣が異なります。 つまり、一般的なエッセイというのは、本質的に感情的・感覚的、そして自己主張的な文にならざるを得ません。 「【ただでさえ】甘く感傷的に自分本位になりがち」と筆者が言うのは、このことを指しています。 元々そういう性質の文なのだから、それに加えて、文体までも丁寧体という柔らかい表現を使うと、ますます「甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」が増幅されてしまい、鼻持ちなら無い文になってしまう。 「増幅されるのは好ましくない」ということ。 だから、「である体」をエッセイに使うことでバランスの取れた、つまり、必要以上に感情に押し流されることのない、冷静な文にすることができる。 と筆者は言っているわけです。 「もうすぐ春です」よりも、「もうすぐ春だ」のほうが、若干、固いですが、すっきりしてますよね。 エッセイというものの本質は、元々やわらかいので、文体としては、このように多少、固いもののほうが必要以上に柔らかくなりすぎなくて好ましい。 という主張なんです。 それが正しいかどうかは、むろん、別の話です。
お礼
非常に懇切丁寧な回答を頂き恐縮しています。 回答ありがとうございました。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#25です。 >この文章は極めて理解しづらいと、私は読者として思います。読者によって正反対の解釈が生まれるということはあってはならないはずです。そういう解釈が生まれるのは、著者の表現力のまずさに起因すると思います。読者の責任ではないと思います。 : まあ、おっしゃりたいことわかりますし、たしかに一理あるでしょう。 ただ、「表現力が下手」だからといって、「論理的な文章ではない」と言うことはできない、ということを私は申し上げています。 「表現力が下手」ということは私も同感ですし、そのように述べたはずです。 たしかに、それは、解釈を間違いやすくする要因になるでしょう。 しかし、作者に対してクレームを付けるのであれば、「もっと上手に表現しろ!」と言うしかありません。 「あなたの文章は、論理的におかしい」と言うのは論点が違う、と言っているわけです。 論理的には合っているわけですから、それを読み解けないとすれば、それは読者の責任です。 ということを、#25では述べたまでです。 この文章が理解しづらいのを解消するためには、 「増幅されない→増幅されることがない」 「という理由からだ→という理由によってだ」 のように部分修正すれば良いだけなのです。 『「です・ます体」で名文エッセイを書かれる木村治美氏は、評論や論説に「です・ます体」を使えば、読者がカチンとこなくて、やわらかく自己表現できるのではないかと述べておられる。 他方、女性が日常生活や花鳥風月をテーマにエッセイと書くときには、「である体」が無難ではないかという。 なぜなら、ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが、「です・ます体」によって増幅されることがないから、という理由によってだ。』 という文であれば、正確に解釈できると思いますが、いかがですか。 つまり、「論理的な文章ではあるが、表現が下手なために真意が伝わりづらいから、もっと表現に気を配ってほしい」というご意見であれば、誰からも反論は出ないと思います。 ある文章の理解が難しい場合、それは、書いた人の表現力が不足しているか、または、読んだ人の読解力が不足しているかのどちらかです。 その判定基準は様々でしょう。 誰にとってもわかりやすい文を書くのは文筆家の義務だという点では、まったくおっしゃるとおりだと思います。 しかし、その「誰」というのがどういった基準の人を指すのか、それは人によって異なります。 一律な線引きは難しいでしょうし、誰かが「わかりづらい」といったことに対して、「いや、わかりやすい」と論争するつもりは全くありません。 ただ、『視点を変えて、このように解釈すれば、わかりづらくなくなるのではないか?』という気持ちで回答させていただいたわけです。 理解していただけるように何回か回答してきたつもりですが、前までのわたしの回答の中で理解しづらい点がございましたら、ご指摘くだされば、説明させていただきます。
お礼
回答ありがとうございました。 以下、補足です。 >「です・ます体」によって増幅されないからという理由からだ。 この「…によって増幅されない」という表現が実にわかりづらいと思います。 私はこれを次のように解釈します(これ以外の解釈は考えられません)。 「です・ます体」を使えば増幅されない。増幅するためには「である体」を使うべき。 しかし、hakobulu さんは正反対の解釈をされています。 私はそれがどうにも理解できません。もう少し考えてみようと思います。 また、木村治美氏の本にどう書いてあるかを読んで確かめたいと思います。
補足
>作者に対してクレームを付けるのであれば、「もっと上手に表現しろ!」と言うしかありません。 >ある文章の理解が難しい場合、それは、書いた人の表現力が不足しているか、または、読んだ人の読解力が不足しているかのどちらかです。 まったく仰せのとおりです。 私はかつて、ある作家の文章がとても理解しがたいものでしたので問い合わせました。そうしたところ、「文章がヘタですみません。こんなわけがわからんことを書いていてはいけませんね」という回答を貰いました。そういう回答を貰うとは思ってもいませんでしたので驚きました。同時に、その作家の潔さには敬意を表したくなりました。 この文章が理解しづらいのは、 エッセイを書くときに「である体」を使った方がいいという理由の説明に最大の問題があります。すなわち著者は、 ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」によって増幅されないからということを理由として述べているのですが、 この「ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」というのが、まったくつかみどころのない抽象的なものであるということです。 hakobuluさんは、この「ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーン」というのが理解できますか。私はさっぱり理解できません。理解できないというよりも、最初は何の疑問も抱かずに誤った解釈をしていました。 著者が理由として挙げたそれは、「である体」をエッセイに使った方がいいということの説明にはなっていません。すなわち、著者の説明は論理的でないということです。 著者が言いたいのは、エッセイを書くには感情表現を増幅できる「である体」が適しているということではないでしょうか。つまり、エッセイは感情を増幅して表現した方がいいので、「である体」を用いるべきだということです。違うでしょうか。
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回答というのではなく、質問者と回答者の皆さんへの報告です。(すでにご存じかも知れませんが)木村治美氏は共立女子大教授などを勤められた女性でした。詳しくは「Wikipedia」でどうぞ。 発言の中で、女性に対するこだわりが見られたのは、そのためだったのですね。
お礼
確認させて貰いました。写真も初めて見ました。 ありがとうございました。
お礼
hakobulu さんには全回答数36のうち、15件の回答を頂きました。 お手数をおかけして申し訳ありませんでした。 おかげさまで何とか解決しました。 ありがとうございました。
補足
>ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが増幅されることがないからだ 違和感を感じるのですが、どうしてでしょうか。 A. 「ただでさえ…になりがち」である ⇒「です・ます体」を用いればさらにそれが強調される(増幅される) と言いたいのであれば、 >ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「です・ます体」により増幅される(されかねない)からだ。(例文A) となるかと思います。また、 B. 「ただでさえ…になりがち」である ⇒「である体」を用いればそれは抑制される(増幅されない) と言いたいのであれば、 >ただでさえ甘く感傷的に自分本位になりがちなトーンが「である体」により増幅されないからだ。 となるかと思います。(例文B) しかし、「ただでさえ」を用いた文章としては例文Aの方が私にはしっくりきます。 かつて、「まったく」とか「全然」とかの言葉は、その後に否定形を伴うと言われていました。しかし、現在はそういう約束事はないようです。これと同じように、「ただでさえ」についても決まった用法はないということなのかもしれません。 >いずれにせよ、一段落を迎えたようで喜ばしいことです。 確かに、大きな関門は突破できたかと思います。皆さんのご協力のおかげです。